その逍遥が小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(通称へルン)を早稲田大学に迎えたのは、明治37(1904)年だった。
しかし、講義を始めて半年もたたない9月26日にハーンは54歳でこの世を去る。亡くなる1週間前に胸の痛みを感じ、自分の死期を察知した。妻のセツを呼び次のように別れの言葉を告げた。
「この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらいのです。私の骨入れるのために。そして田舎の寂しい小寺に埋めてください。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んでください。いかに私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はああれは先ごろなくなりました。それでよいです」
しかし、講義を始めて半年もたたない9月26日にハーンは54歳でこの世を去る。亡くなる1週間前に胸の痛みを感じ、自分の死期を察知した。妻のセツを呼び次のように別れの言葉を告げた。
「この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらいのです。私の骨入れるのために。そして田舎の寂しい小寺に埋めてください。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んでください。いかに私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はああれは先ごろなくなりました。それでよいです」
(産経ニュース 2010.8.31 02:59)
産経ニュースの【日本の面影】からの文章である。「その逍遥が」と始まるのは、ノンフィクション作家・工藤美代子さんがかねてから日本の近代演劇に大きな足跡を残した坪内逍遥の死に方について、常にある羨望の念を抱いてきたということで、その死に方がどのようなものであったかを紹介し、次のようにを閉じた段落の続きだからなのである。
自分の意思でその死に方を決めた逍遥の最期は、穏やかであり、苦しみもなかった。人間の尊厳について考えたとき、彼の美学に思わず共感してしまうところがある。
自分の死に方について覚悟を定めた先人のなんとも言えない清々しさに心が打たれる。それが出来るのはなにも「文豪」に限られたわけではない。私たち一人ひとりの心の持ち方で得られるものである。その覚悟が定まることこそ、人生最大の幸福を手にしたといえるのではなかろうか。
ぜひ一人でも多くの方々がこの工藤さんの一文に目を通されることをお勧めしたい。