私の隠居志向は割と早くから固まっていたと思う。現役時代を振り返ってみると、近頃流行のなにかといえばすぐに億単位のお金が話題となる世界とはおよそ無縁のつつましやかな研究生活を送ってきたが、いわば蟹が自らの甲羅にあわせて穴を掘るようなものだったと思う。その穴の中で実験材料、試薬の調製から始まり、装置を使っての測定、そしてデータ解析から論文書きにいたるまで、そのすべてを自分の手でやっていくことを楽しみにしていた。これは共同研究とはまた違った醍醐味があり、現役時代の最後までのめり込んだ。1998年3月末日に定年退職したのであるがが、最後の実験記録には同年1月15日のスタンプがある。データ解析などを済ませてから身辺整理に移ったことを覚えている。定年後も何らかの手段で研究室を維持できる見通しでもあればおそらく研究生活を続けたかもしれないが、その可能性は当時の状況では0であったので、早々と現役撤退を選択したのである。では何をするのか。気宇壮大なことは何一つ考えなかった。ただ遊び事をしたかったのでヴォイストレーニングや一弦琴を始め、それが今にいたるまでかれこれ10年は続いている。ブログ書きも始めてもう5年は過ぎ、今では生活の一部になっているが、これも当初はまだこの世に姿を現していなかったものである。朝鮮語を習い始めたのもごく最近で、成り行き任せながら私なりに充実した隠居生活を満喫している。なぜ私がすんなりと隠居生活に移ることが出来たのかといえば、どうもそれなりの理由があるようなのでそのことを少し述べようと思う。
宮本常一著「忘れられた日本人」の中に隠居についての面白い話が出てくる。宮本さんは民俗学者として知られているが、日本各地を探索して周り、民家に泊まり込んでは古老から聞いた話を書き記して記録に残すというフィールドワーク ―実地採集― に徹された方で、この岩波文庫にも興味深い話がかずかず収められている。

「村の寄り合い」に出てくる話であるが、福井県敦賀の西にある半島の西海岸を歩いている時に、宮本さんは道ばたの小さなお堂に十人ほどの老女が円座で重箱を開いて食べているところに差し掛かった。そして仲間に入れて貰って話に加わる。そこから次のような話になる。
著者の分析では年齢階梯性のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところで、同族のものが一つの地域に集まって住むのではなく、異姓のものと入り交わっているところが多いとのことである。こういう傾向が瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく、こういう社会では早くからお互いの結合をつよめるてめの地域的な集まりが発達したそうなのである。そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多く、それには戸主が参加しなければならなかった。それから逃れるためには戸主としての地位を早く去ることで、隠居すれば良かった。そうすると自分の家の農作業に専念できたからである。淡路西海岸のある村では長男はたいてい二十才過ぎて嫁を迎えており、それと同時に親は隠居して隠居家に入ったなどの例が記されている。そしてこのような話が出てくる。
実は私の両親はこの加古川東岸地方の生まれなのである。そのせいだろうか、私どもが留学先のアメリカから帰国した後は同居することになったが、母は60才になったのと機に一切の家事から手を引き、すべてを私の妻に委ねた。そのせいで朝食は長年慣れ親しんだご飯に味噌汁からトーストにコーヒに変わったが、両親はそれなりに覚悟を定めていたからであろう、一言も口を挟むことがなかった。そして母は川柳を始めだして川柳教室などにも通うようになった。そのうちに今も購読が続いている新聞の川柳欄への投稿の常連者になり、入選100回を新聞社から表彰されるまでにもなった。以前に「フーテンの風子」と一弦琴でこの川柳のことをちらっと触れたことがある。要するに隠居生活にすんなりと入っていき、私にも身近な隠居生活の実例を示してくれたことになる。このように私自身が隠居生活になんの抵抗もなく入れたのもどうもこのような地縁的ルーツがあったようで、自分が日本の風土に生かされているとの思いを実感する。そして先ほどの話のつづき。
私の見方でいうと今や政界のドンと目される岩手県出身のあのお方には、隠居なんて発想は皆無ということになる。
ところでこのような隠居の話はこの本のほんの一部で、昔から伝えられてきた日本人の今や知られなくなった数々の習俗が沢山でてくる。たとえば最初の「対馬にて」には、宮本さんが村に古くから伝えられている古文書の閲覧を頼んだところ、村の集まりが開かれて二十人ほどの人がながながと談義に加わり、となるとほかのことにも話が飛び回りまたこの問題に戻ってくるようなのどかな協議が二日も続く。一人の老人がこの人は悪い人ではなさそうだから話を決めようと口火を切ってからもさらに話が飛び交い、最後に宮本さんを案内してきた老人が、せっかくだから貸してあげては、と一同に諮ってようやく話がまとまった経緯が丹念に綴られている。この村寄りあいの姿はまさに戦後輸入された民主主義の原形そのもののように私は感じた。村落共同体の一員となると郷士も百姓も区別なく発言は互角であったとか。お互いに納得がいくまで、とことん時間をかけるというのが凄い。最近話題になった「事業仕分け」にぜひ持ち込んで欲しい良き習俗である。
このような話も出てくる。おなじ対馬で中世以前の道かと思えるような山中の細い道を土地の人たちと一緒に進むが、ついつい宮本さんは取り残されていく。村人は馬に乗って、宮本さんは徒歩だから当然であるが、心細くなりながらも歩き続けると村人が待ってくれていてようやく合流する。歩くのが容易でないと村人に感想を述べてから続く話である。
民謡の効用である。この老人が歌を歌い出すと、実によく声が通る、と宮本さんは感心する。そして声がよいのでずいぶんよいたのしみをしたもんだ、といわれる老人も登場するのである。
なんと昔の日本人のおおらかなことよ。これが歌合戦の神髄なのだと思い込まされる。まがい物をなんとか歌合戦と僭称するNHKの薄っぺらさ加減のよってくる理由がここに解き明かされたともいえよう。この深遠な文化の実相をさらにきわめんとする奇特な方は、ぜひこの文庫本を繙かれることをおすすめする。
宮本常一著「忘れられた日本人」の中に隠居についての面白い話が出てくる。宮本さんは民俗学者として知られているが、日本各地を探索して周り、民家に泊まり込んでは古老から聞いた話を書き記して記録に残すというフィールドワーク ―実地採集― に徹された方で、この岩波文庫にも興味深い話がかずかず収められている。

「村の寄り合い」に出てくる話であるが、福井県敦賀の西にある半島の西海岸を歩いている時に、宮本さんは道ばたの小さなお堂に十人ほどの老女が円座で重箱を開いて食べているところに差し掛かった。そして仲間に入れて貰って話に加わる。そこから次のような話になる。
自らおば捨て山的な世界を作っているのである。
このような傾向は全般に西日本につよい。そこでは年齢階梯性がかなりあざやかにあらわれる。そして一定年齢に達すると老人たちは隠居するのであるが、東北から北陸にかけては、老人が年をとるまで家の実権をにぎっている場合が多い。そういう場合嫁がいつまでも嫁の座にいてカカになれないのと同じように、嫁の夫も横座へはすわれないのである。
とにかく年寄りの隠居制度のはっきりしている所では、年寄りの役割もまたはっきりしていた。
このような傾向は全般に西日本につよい。そこでは年齢階梯性がかなりあざやかにあらわれる。そして一定年齢に達すると老人たちは隠居するのであるが、東北から北陸にかけては、老人が年をとるまで家の実権をにぎっている場合が多い。そういう場合嫁がいつまでも嫁の座にいてカカになれないのと同じように、嫁の夫も横座へはすわれないのである。
とにかく年寄りの隠居制度のはっきりしている所では、年寄りの役割もまたはっきりしていた。
(43-44ページ)
著者の分析では年齢階梯性のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところで、同族のものが一つの地域に集まって住むのではなく、異姓のものと入り交わっているところが多いとのことである。こういう傾向が瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく、こういう社会では早くからお互いの結合をつよめるてめの地域的な集まりが発達したそうなのである。そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多く、それには戸主が参加しなければならなかった。それから逃れるためには戸主としての地位を早く去ることで、隠居すれば良かった。そうすると自分の家の農作業に専念できたからである。淡路西海岸のある村では長男はたいてい二十才過ぎて嫁を迎えており、それと同時に親は隠居して隠居家に入ったなどの例が記されている。そしてこのような話が出てくる。
現に兵庫県加古川東岸一帯には、村落の中に講堂とよばれる建物がきわめて多い。(中略)このような建物は、中世の絵巻物にもみえるところである。加古川東岸地方では、このお堂が多くの場合ちょっとした村寄りあいの場所にあてられる。
(46ページ)
実は私の両親はこの加古川東岸地方の生まれなのである。そのせいだろうか、私どもが留学先のアメリカから帰国した後は同居することになったが、母は60才になったのと機に一切の家事から手を引き、すべてを私の妻に委ねた。そのせいで朝食は長年慣れ親しんだご飯に味噌汁からトーストにコーヒに変わったが、両親はそれなりに覚悟を定めていたからであろう、一言も口を挟むことがなかった。そして母は川柳を始めだして川柳教室などにも通うようになった。そのうちに今も購読が続いている新聞の川柳欄への投稿の常連者になり、入選100回を新聞社から表彰されるまでにもなった。以前に「フーテンの風子」と一弦琴でこの川柳のことをちらっと触れたことがある。要するに隠居生活にすんなりと入っていき、私にも身近な隠居生活の実例を示してくれたことになる。このように私自身が隠居生活になんの抵抗もなく入れたのもどうもこのような地縁的ルーツがあったようで、自分が日本の風土に生かされているとの思いを実感する。そして先ほどの話のつづき。
私の今日まであるいて来た印象からすれば、年齢階梯性は西日本に濃くあらわれ、東日本に希薄になり、岩手県地方では若者組さえ存在しなかった村が少なくないのである。
(53ページ)
私の見方でいうと今や政界のドンと目される岩手県出身のあのお方には、隠居なんて発想は皆無ということになる。
ところでこのような隠居の話はこの本のほんの一部で、昔から伝えられてきた日本人の今や知られなくなった数々の習俗が沢山でてくる。たとえば最初の「対馬にて」には、宮本さんが村に古くから伝えられている古文書の閲覧を頼んだところ、村の集まりが開かれて二十人ほどの人がながながと談義に加わり、となるとほかのことにも話が飛び回りまたこの問題に戻ってくるようなのどかな協議が二日も続く。一人の老人がこの人は悪い人ではなさそうだから話を決めようと口火を切ってからもさらに話が飛び交い、最後に宮本さんを案内してきた老人が、せっかくだから貸してあげては、と一同に諮ってようやく話がまとまった経緯が丹念に綴られている。この村寄りあいの姿はまさに戦後輸入された民主主義の原形そのもののように私は感じた。村落共同体の一員となると郷士も百姓も区別なく発言は互角であったとか。お互いに納得がいくまで、とことん時間をかけるというのが凄い。最近話題になった「事業仕分け」にぜひ持ち込んで欲しい良き習俗である。
このような話も出てくる。おなじ対馬で中世以前の道かと思えるような山中の細い道を土地の人たちと一緒に進むが、ついつい宮本さんは取り残されていく。村人は馬に乗って、宮本さんは徒歩だから当然であるが、心細くなりながらも歩き続けると村人が待ってくれていてようやく合流する。歩くのが容易でないと村人に感想を述べてから続く話である。
「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者ならあれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしにいきつつあるのかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったのかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。
民謡の効用である。この老人が歌を歌い出すと、実によく声が通る、と宮本さんは感心する。そして声がよいのでずいぶんよいたのしみをしたもんだ、といわれる老人も登場するのである。
対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終わり頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護(地名)にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をして負けたことはなかった。そして巡拝に来たこれという美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人の声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。
(31-32ページ)
なんと昔の日本人のおおらかなことよ。これが歌合戦の神髄なのだと思い込まされる。まがい物をなんとか歌合戦と僭称するNHKの薄っぺらさ加減のよってくる理由がここに解き明かされたともいえよう。この深遠な文化の実相をさらにきわめんとする奇特な方は、ぜひこの文庫本を繙かれることをおすすめする。