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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

復刊「アテネ文庫」のこと 宇田道隆著「寺田寅彦との対話」

2011-01-09 17:19:51 | 学問・教育・研究
歳末の12月22日に開店したMARUZEN & ジュンク堂書店 梅田店へお出かけした際に、思いがけない本に遭遇した。私が高校生時代に弘文堂から発刊された「アテネ文庫」が、真新しい姿で展示されているのである。半世紀を経ての復刊である。


今、手元にある宇田道隆著「寺田寅彦との対話」(アテネ文庫 139)の奥付に次のような「刊行のことば」がある。《たとい小さく且つ貧しくとも、高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめねばならぬ。「暮らしは低く思いは高く」のワーヅワースの詩句のごとく、最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ》時代のまっただ中に私はいたのである。


この当時一冊が30円、一方、25円出せば老祥記の豚まん一皿三個を口にすることが出来たが、それをぐっとこらえて「アテネ文庫」を買ったのである。当然のことながら「積ん読」の余裕があり得るはずがなく、熱心にページを追ったはずである。実は「研究助成受けたら小中で授業義務付け 文科省」とはなんとまあ・・・で触れた寺田寅彦にまつわる挿話は、この「アテネ文庫」の上記の著者による「寺田寅彦」に依拠したもので、次のような本も一緒に出てきたのでお目にかける。


平均して60ページ強なので読むのに時間はかからなかっただろう。そして思いのまま本を買える状況でもなかったので、読み返すことも多かったように思う。だからこそ何らかの折りに書名なり著者名を思い出せたのであろう。そのうちの一冊、宇田道隆著「寺田寅彦との対話」は、私のまだ生まれる前になるが、大学の先生と学生、弟子との間にどのような交流があったのかを弟子の側から描いたもので、まさに古き良き時代を彷彿とさせる。しかし振り返ると、私が大学で恩師を含め諸先生方に接したそのモデルがここにあったように思う。昔を懐かしみ、幾つかを抜粋してみる。この本の成り立ちは次の序文から知られよう。

 この本は、私が物理の学生だった時分、同学同郷の御縁で寺田先生の門に出入りを許されて以来先生のお亡くなりになるまで十数年の間親しく御教導を受けているうちに、自分の勉強のためにと思ってその都度耳に残った先生の御言葉を思い出してはノートしておいたもので、『寺彦先生閑話』として出したものが今度は一部俳諧の手引きの章など削ってアテネ文庫に再録されることになった。


今風で言えば学問を熱愛する覚悟があってこそ大学院を目指す資格があるというものだ。





これは昭和2年6月のこと。後年私もかかわることになった生物物理学なる言葉が的確な意味合いで使われているのだから驚く。


科学史教育の重要性を繰り返して説いている。まったく同感。また《勉強出来ない境遇で勉強しなければ偉い人間になれない》とも。不遇を託つ若者たち、頑張れ!である。方向転換もよい。《物理学者が工業方面へ飛び込んで暴れ廻ったら幾らでも仕事がある。工学者はエンヂニヤーの眼鏡を掛けて物を見るから、実用にならぬことはどんな面白いことも顧みない。新しい領域開拓者の注意すべきはAとBの相関だけを調べて直ぐそれを直接の相関と思い込まぬように色々突っついて見ることです。》なんて、応用志向を意識する基礎科学研究者は大いに勇気づけられることだろう。


なんて率直な人生教師だろう。


現役の科学者には耳痛い言葉であろう。初心に戻るべし。



まったく同感。風流を解さない科学者なんて・・・。


科学と言わず学問大好きな若い方々にぜひこの本を手にして頂きたいと思う。自分の進むべき大道に必ず思い当たることだろう。840円也、食事を一、二回抜く値打ちはある。


研究者がブロガーの標的になったときは・・・

2010-12-25 21:06:15 | 学問・教育・研究
昨日の朝日新聞朝刊に今年の科学10大ニュースが出ていた。科学関係の報道に携わる朝日新聞記者が投票で選んだとのことで、第1位が「はやぶさの帰還」で第2位が「日本人2人のノーベル化学賞受賞」であったが、私の目を引いたのは第8位「ヒ素食べる細菌、常識を覆す」であった。というのも「異論も相次ぐ」と但し書きにもあるように、この「発見」に対して多くの疑義が湧き起こっているのが現状だからである。ことの起こりは次のニュースであった。

ヒ素食べる細菌、NASAなど発見 生物の「常識」覆す

 猛毒のヒ素を「食べる」細菌を、米航空宇宙局(NASA)などの研究グループが見つけた。生物が生命を維持して増えるために、炭素や水素、窒素、酸素、リン、硫黄の「6元素」が欠かせないが、この細菌はリンの代わりにヒ素をDNAの中に取り込んでいた。これまでの「生物学の常識」を覆す発見といえそうだ。

 今回の発見では、NASAが記者会見「宇宙生物学上の発見」を設定したため、「地球外生命体発見か」と、CNNなど国内外の主要メディアがニュースやワイドショーで取り上げるなど「宇宙人騒動」が起きていた。(後略)
(asahio.com 2010年12月3日5時1分)

私のこのニュースに対する反応はどちらかといえば醒めたもので「ほんまかな?」であった。確かにDNAの骨格にあるリンにヒ素が入れ替わって、それが代々複製を繰り返して細胞が増殖していくのが本当であればこれは大ごとである。それだけにどれだけの実験的根拠があるのかがまず気になったのである。

Felisa Wolfe-Simonらによる件の論文は「F. Wolfe-Simon, J. Switzer Blum, T.R. Kulp, G.W. Gordon, S.E. Hoeft, J. Pett-Ridge, J.F. Stolz, S.M. Webb, P.K. Weber, P.C.W. Davies, A.D. Anbar and R.S. Oremland (2010). A bacterium that can grow by using arsenic instead of phosphorus. Science. in press.」としてダウンロードすれば今のところ誰でも見ることが出来る。またこの論文の要点はScience誌のニュース、「What Poison? Bacterium Uses Arsenic To Build DNA and Other Molecules」に見ることが出来る。私が要点を一つに絞るとすれば「DNA骨格のリン(P)がヒ素(As)に入れ換わった」ということに尽きる。ところが「置換」について誰もが納得する実験的証拠が欠けていたこともあって多くの論議を呼ぶことになった。では何が実験的証拠となるかと言えば、私はこの方面には疎いので意見を引用するだけであるが、Nature Newsには次のようなコメントがある。

The big problem, however, is that the authors have shown that the organism takes up arsenic, but they "haven't unambiguously identified any arsenic-containing organic compounds", says Roger Summons, a biogeochemist at the Massachusetts Institute of Technology in Cambridge. "And it's not difficult to do," he adds, noting that the team could have directly confirmed or disproved the presence of arsenic in the DNA or RNA using targeted mass spectrometry.

ところが著者らのとった方法は私にとって昔懐かしいExtended X-ray absorption fine structure (EXAFS) spectroscopyで、私の実験材料でもあった金属酵素の金属イオンと配位子との距離を決めるのに使われた手段である。Arsenic Bacteria Breed Backlashの記述である。

To learn more about arsenic's chemical environment, the team performed X-ray studies. Extended X-ray absorption fine structure (EXAFS) spectroscopy, one technique the team used, can reveal arsenic's oxidation state and average distances of any bonds it's making, explains Keith O. Hodgson at Stanford University, an expert on X-ray techniques. In its report, the team "looks at the average distances, they make comparisons, and they conclude that it's a reasonable assumption that arsenic could be part of a DNA backbone," Hodgson says. However, "there's no direct proof in the X-ray absorption data that the arsenic is a part of the DNA backbone."

そしてこのように続く。

The team "has not conclusively proven, in my view, that arsenic has been incorporated into DNA," Hodgson says. It'll take studies on isolated molecules with techniques such as X-ray crystallography or NMR to unambiguously prove that, he says.

いろんな論議が交わされているとしても、ここに示されているように構造決定を行えば答えは自然と出てくる。問題の科学論文の筆頭著者Wolfe-Simonがそのイニシアチブを取れば良いだけのことである。

科学そのものの問題はこれで解決と思うが、多くの科学者にとって意外だったのがこのScience論文に対しての批判的な意見がブログを通じて燎原の火の如く広がったことであろう。問題の広がりの時間的経緯はArsenic bacteria - a post-mortem, a review, and some navel-gazingに要領よくまとめられているが、Arsenic-eating microbe may redefine chemistry of lifeでは多の研究者の指摘する問題点も含めてScience論文を紹介したNatureが、一週間後にMicrobe gets toxic response Researchers question the science behind last week's revelation of arsenic-based life.で、その批判的な意見を紹介している。

ブログによる批判の口火を切ったのがUniversity of British Columbia in Vancouverの微生物学者Rosie Redfieldで、彼女によるとほんの限られた研究者の目にとまればと書いたブログ記事が、公表して一週間もしない間に3万回以上のヒットがあったというから、科学的論議にしてはなかなか面白い展開である。ブログという気安さからであろうか、感情の吐露が素直であり、また直截的な表現が目立つのでジャーナル記事とは違った味わいがある。

Wolfe-Simonは疑問を提出したブロガーに対して、当初は査読制度をとるジャーナルの上で論争することを望んだが、いくつかの疑問に対してはResponse to Questions Concerning the Science Articleで論文に記載されていない情報をも使って答えると、それに対してさらにComments on Dr. Wolfe-Simon's Responseでコメントが寄せられるなど応酬が続いている。Science誌は寄せられたコメントとそれへの返答を査読のうえ今後の号に載せるそうである。そしてこのような応酬がThe Washington Postのような新聞でもAuthors of arsenic-based life study respond to Web critiquesと紹介されるまでになった。この新聞記事ではFelisa Wolfe-SimonがScience論文の要点を講演しているビデオを見ることが出来るが、なんだか口説かれているような気分になるところが妙である。Los Angeles Timesもつい最近のSomething's amiss with aliens and arsenicで今回のNASAの発表とScience論文にまつわる数々の問題点を要領よく紹介している。ここまで出来る新聞が日本にあるようには思えないのが残念である。

今回の問題はこの論文が公表されるのに先立ってNASAが記者会見を開き一般に公開したことが、査読制度をとるジャーナルによらないブログなどを介しての活発な議論を引き起こしたように感じる。日本の研究者にもいずれ押し寄せてくる潮流ではなかろうか。もし自分の論文が槍玉に挙げられたときに、もちろん一切の批判を無視するのも手である。しかし神ならぬ身ゆえ自分の気付かなかったミスを指摘される可能性が皆無でないと思えば、頭をかっかとさせながらもこれらのコメントに目を通さざるをえない気持ちになることだろう。無視出来るものは無視し、明らかに問題点を指摘されたと自分で判断出来れば、その批判には実験をもって応えるのが最善の選択であろう。それにしても忙しない世の中になってきたものである。ブログで叩かれTwitterで囁かれっぱなしではたまったものでない。それを切り抜ける強靱な精神を宿すために、若者よ、身体を鍛えておけ!




NHK語学講座の有難いストリーミング・サービス

2010-12-16 22:28:27 | 学問・教育・研究
寒い朝、暖かい布団からなかなか抜け出せない。6時ごろ、いったん目が覚めて本を読んだり、iPhoneで無料の産経新聞などに目を通したりしながら、もう少し時間がありそうだと目を瞑ると、また気持ちよく寝入ってしまう。ぱっと目が覚めて時計を見るともう7時半をまわっている。NHK語学講座「まいにちハングル講座」はもう終わってしまった。夏の間は必ず7時には起き、ラジオ講座を聞いてから庭の植物へ水やりをする日課が苦にならなかった。それが寒くなると狂ってくるのである。

ラジオサーバーポケット Olympus PJ-10で語学講座の録音を 追記有りで記したように、語学講座は自動的に録音しているので放送時間を気にすることはないのであるが、問題が無いわけではない。私は録音ファイルを一旦パソコンに移した上で聴くことにしているが、毎日転送するのは面倒なので何回分かまとめて転送しているが、それが毎日聴かないことへの言い訳になっているのである。ところがNHKが実に有難いサービスをネット上でしていることに最近気がついた。

「まいにちハングル講座」に「番組を聴く」という欄がある。

先週放送した番組を聴くことができます。本放送の翌週月曜午前10:00から1週間掲載します。

放送日を選択すると音声が再生されます。再生が始まるまでしばらくお待ちください。

というわけで、今週だと12月6日(月)放送分から10日(金)放送分まで五つのボタンがあって、その一つを選択すると音声が再生される。生放送と違って何回でも同じところを繰り返して聴くことの出来るのが便利である。一週間遅れさえ気にしなければ(別に気にすることは無いと思うが)一度に一週間分をまとめて聴けるし、興に乗ればそれを毎日繰り返すこともできる。実に便利で有難い。おかげでよりハングルに接する機会が増えたし、ドイツ語の復習も楽しんでいる。

「日本分子生物学会若手研究助成 富澤純一・桂子基金」のニュースを見て

2010-12-05 19:20:45 | 学問・教育・研究
今朝のasahi.comに次の記事があった。

生命科学担う若手に計1.5億円支援 大先輩の富澤さん

 日本の分子生物学の草分けであり、DNA複製の研究で数々の業績をあげた元国立遺伝学研究所所長の富澤純一さん(86)が、若い研究者の支援に役立ててほしいと、私財の1億5千万円を日本分子生物学会に寄贈した。同学会は基金を設立し、今後10年間、毎年5人に300万円ずつ贈る。

 名称は「日本分子生物学会若手研究助成 富澤純一・桂子基金」。今年1月に亡くなった妻桂子さんの名前も加えた。桂子さんは生前に「社会貢献ができたら」と口にしていた。「若い人が楽しんで研究して、新しいものを生み出してくれたら」と富澤さん。使い道は研究費に限らず、生活費にあててもいいという
(2010年12月5日0時54分)

私が1968年の秋、米国留学を終えて阪大理学部生物学科に帰任したときには富澤先生が遺伝学教室の教授として着任される前後であったように思う。当時私たち若手の仲間内で生物学教室の将来を担っていただける輝ける星としての期待を口にするものの多かったことが記憶にあるから、着任直前であったのかも知れない。

その頃の生物学教室では何かあるとワーキング・グループが作られて、教室運営にかかわる数々のことが論議されるのが常であった。その何かのワーキング・グループに着任間もない富澤先生と私も委員の一員として加わったことから、次第に忌憚なく意見を交わすようになった。しかし根っからの実験屋である富澤先生には、このような委員会での論議に時間を潰されることはきわめて苦痛であられたようで、そう言うことに私たち若手が巻き込まれることをも大いに危惧しておられた。その基本的姿勢に理念として私はまったく同感であったが、一方、戦後民主主義教育を受けた第一期生としては、教室の民主的運営に積極的に参加するすることが責務であるとの認識も持っていた。私の目には先生が直情的な方と映っていただけに、本音で話しができる手応えのある先生であった。上の記事の使い道は研究費に限らず、生活費にあててもいいというとのくだりりに、今、先生が目の前におられるように感じた。昔と変わらない若手に対する心遣いがひしひしと伝わって来たからである。

1960年代の終わりから70年代にかけて、大学は最悪の時期を迎えた。大学紛争の勃発と広がりである。理学部の建物が学生により封鎖され、もちろん研究はストップしてしまった。そして富澤先生が阪大、というより日本の大学、に見切りをつけて米国のNIHに移られたのを私は至極当然のことと受け止めた。その先生の消息にこのように接してなんだか嬉しい一日であった。


グローバルCOEプログラムなんていらないのに・・・

2010-11-22 11:04:55 | 学問・教育・研究
ここ何日間か私が以前に投稿したやはり目をつけられたか グローバルCOEプログラムへのアクセスが増加している。11月18日に行われた事業仕分け第3弾で、「A-25: 大学関係事業(その1) 文部科学省 (1)グローバルCOEプログラム (2)博士課程教育リーディングプログラム」がその対象となったことを反映してであろう。

私の上記の記事は2008年8月6日のものですでに2年以上前のものである。しかしここで私が指摘したグローバルCOEプログラムの問題点は、事業仕分けの論議の中にも繰り返し指摘されていることでもあるので、あらためて要点を強調しつつ再掲する。

世界水準の研究教育拠点作りという一見壮大なプロジェクトも、一皮剥けば既存の研究室の寄り合い所帯で、『研究教育拠点』も作文の上でのみの存在である。しかしCOEに採択されれば潤沢な活動資金が与えられるし、また所属する大学のステータス向上に役立つなどのメリットがある。しかしCOEは継続性が保証されてはいるものではない。「金の切れ目が縁の切れ目」になりかねない惰弱性がある。だからこそこのような『競争的資金』獲得を向けての競争が熾烈になる。いわば企業が『公共事業』の受注に熱中するようなものであろう。その裏には『天下り』もあれば『談合』もある。そういえばCOEプランはかっての『列島改造論』の文部科学省版、その産物だとすると、見えてくるものもある。(後略)》

かっては私もそのうちの一人であった学者、研究者とは悲しいものである。『研究馬鹿』であればあるほど目の前に研究費という餌をぶら下げられると、なりふり構わずかぶりつこうとする。業なのである。研究者一人ひとりはそれでよいのかも知れない。しかし『グローバルCOEプログラム』を作り上げる側に参画した学者・研究者もしくは学者・研究者上がりが『研究馬鹿』と同じ姿勢であって良いはずがない。これまでの実践を通して自己の学問理念を築き上げた学者・研究者もしくは学者・研究者上がりなら、研究を支えるのが人であり、自由に大きく羽ばたく優れた人材の育成こそ新しい学問、研究の創造に向けての第一歩であることを骨身にしみて実感していることであろう。この人材の育成は国家百年の大計として定められる恒常的な制度によって推し進められるべきで、この根幹的な制度こそ継続的な予算措置により堅持されるべきものなのである。これらの方々は五年、十年単位の『グローバルCOEプログラム』のようなものが、私の述べた意味での『虚構』に過ぎないことをいち早く見抜くべきであったのではなかろうか。

税金の無駄遣いとの指摘を重く受け止め、これを契機にわが国における教育・科学行政のあるべき姿に思いを馳せ、学者・研究者といえどもお金の使い方を他人事とせずに真剣に考えていただきたいものである。私の考えはきわめて簡単、『グローバルCOEプログラム』は止めてしまって、せっかく一度はつけて頂いた予算だからその分、全額とはいかないまでも、本来拡充すべき大学運営経費と科学研究費に入れてしまえばよいのである。甘い考えとは重々承知の上ではある。

今回の事業仕分けでグローバルCOEプログラムに対する評価者のコメントは次のように整理されている。

● 仕分け違反であり、より卓越した拠点に絞るべき。まず、予算措置以外の手法で大学の競争力
を高め、人材育成する仕組みを考えるべき。
● 仕分け違反は許されない。拠点数の集中(案件数の絞り込み)は、前回の仕分け直後に行われるべきであり、それを担当部局がさぼったために大学に無用な混乱を生じさせたのは残念である。
移行措置を考慮する必要はあるが、基本的に廃止をお願いしたい。
来年度までは事業を拡大せずに、最低限で維持(雇用の問題があるので)。本質的な大学改革プログラムを戦略的に進める中で、事業を再構築すべき。
● 「拠点」化の徹底。現行のスキームであるなら、むしろ廃止すべき。当該事業の目的を達成するため、まずは拠点化を徹底すべき。このため、一旦予算を半減。将来、拠点化による成果が高まった時点で、さらなる予算措置をすることは妨げるものではない。
博士課程学生の奨学金として給付する部分は残す。グローバルCOEプログラムは、学生に報酬として配分している予算が15%しかない。この制度の恩恵を受ける学生は、国立大学博士課程学生51,490人のうち、14%に過ぎない。グローバルCOEとしては一旦廃止して、全国国立大学の博士課程学生の奨学金として給付する事業に平成23年度に変えたほうがよい。
博士課程にためらわずに優秀な学生が来る仕組みを創るべき。
● メリハリをつける。目的と手段を一致させる。
拠点の絞り込みができていないということで、そこそこ、それなり、現状維持ということであれば、経常収入で対処すべきことと思われる。
23年度を最終として廃止。交付金に一元化すべき。世界トップレベル国際研究拠点形成促進など、局間タテワリを排して、合理化を進めるべき。
● グローバルCOEに相当する資金を学術研究分野に投入することに異論はないが、関連性の薄い分野をまとめて拠点にする方法は、再考する必要がある。人件費に投入するのであれば、学振のPD・DCへ投入するほうが有効である(PDの年齢要件等の緩和を同時に検討する必要がある)。
● もともと妥当性を欠いたプログラムであるが、一旦スタートした以上、ある時期をもって廃止するのは適当ではない。

さらに今回の事業仕分けでグローバルCOEプログラムと抱き合わせの博士課程教育リーディングプログラムについても評価者のコメントは厳しい。私の注目する指摘のみを抜粋する。

内容が、従来のグローバルCOEプログラムの一部を外出ししたものに過ぎない。ポスドクの生活支援、就業支援の側面が強く、「リーディングプログラム」にふさわしい事業内容と思われない。目的に即した内容でなければむしろ予算計上を見送るべき。
不要である。この種の制度設計は、もっときちんと議論すべき。あまりに安易な計画である。
まず、グローバルCOEの事業で、現実に日本のトップ大学の競争力はついていない。このことを無視して、単に後継事業を認めることはできない。そして、説明によれば、本事業が、前事業と異なり、成果が上がるという点について、説得力のある説明はなされなかった。“専攻”や“大学”に金を出すという手法はやめるべき。優秀な研究者をしっかり評価して、個人に金を出す方法にすべき。
制度的改革が先行、せめて同時でなければならない。
大学院教育を構造的に改革しない限り、大学院において当事業が求めるような人材は育たないのではないか。
研究者志望者への援助制度は、長期間安定している必要がある。既存の学振研究員等の拡充で対応すべし。

本来の見出しは●であるが、私の提言と趣旨において一致する項目はで示した。国民的感覚からもグローバルCOEプログラムの虚構性が捉えられているように私は思う。

予算担当部局用として作成された論点等説明シートにも、これらの指摘と関連した次のようなメモがある。

実質的に経常費の補填(バラマキ)になっていないか。
・ 世界をリードする拠点形成を目的とする事業であるが、採択数140拠点は適正か。

○経費の使途・内容が目的にふさわしいものとなっているか。
実態はポストドクターの雇用対策等の人件費が6割以上を占めているが、本当に多くの研究支援要員が必要なのか。そもそも、国際的に卓越した教育研究拠点を形成するために、何が欠け、何が必要なのか整理できていないのではないか。

○他の事業と重複があるのではないか。
真によい研究内容ならば、既存の科学研究費補助金(23年度2,100億円)の中で対応すべきものではないか。
・ 科学技術予算の中にも「国際的に卓越した拠点づくり」を支援するメニュー(世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)(23年度82億円))などがあるが、重複しているのではないか。
・ 特別枠で要望している博士課程教育リーディングプログラム(52億円)は、事業目的等が類似しており、グローバルCOEプログラムの新規要求分と考えられるのではないか。

そしてとりまとめのコメントは以下の通りである。

(グローバルCOEプログラム)
グローバルCOEプログラムについては、残念ながら仕分けの結果は反映されていないという判断。そしてどうするのかということだが、その他と書かれた方の意見を見ても、そもそもこのグローバルCOEプログラム自体が良くなかったということについてはほぼ評価者の意見は共有している。その中で、現に継続事業でこのシステムが動いているところをどれくらい削れるのか。本来であればもっとメリハリをつけて絞り込みをして効果が上がるという形にしていただくというのが反映すべき結果だが、そうなっていない中で、平成22年度の予算要求に対して1/3程度とするという仕分け結果の着実な実施という方が4名、半額程度縮減という方が1名、1割程度縮減という方も1名いらっしゃる中で、縮減額の比率を出すのは非常に難しいが、少なくとも重点化、拠点化、メリハリを付ける中で、本来の趣旨である国際的に卓越した拠点を形成するという趣旨に照らし、継続事業であっても拠点化、重点化を行い、23年度要求から少なくとも1割以上の縮減はしていただき、事業仕分け第1弾の評価結果の確実な実施をしてもらいたい。

私が指摘したグローバルCOEプログラムの問題点は、少なくともこの事業仕分け評価者にもあまねく認識されているようだ。そこで私の考えはきわめて簡単、『グローバルCOEプログラム』は止めてしまって、せっかく一度はつけて頂いた予算だからその分、全額とはいかないまでも、本来拡充すべき大学運営経費と科学研究費に入れてしまえばよいのであるのだが、そこまで踏ん切れないところにこの事業仕分けの限界がある。それは単に予算の付け替えではなく、この人材の育成は国家百年の大計として定められる恒常的な制度によって推し進められるべきで、この根幹的な制度こそ継続的な予算措置により堅持されるべきものなのであることにまだ国民的コンセンサスが確立していないからとも言える。

私はかって文科省での日本学術振興会と科学技術振興機構の共存が基礎科学の発展を邪魔するで次のように述べたことがある。

私の結論としては競争的資金制度に24もいらない。科学研究費補助金だけでよい。これが一元化である。「グローバルCOEプログラム」も「世界トップレベル研究拠点(WPI)プログラム」など、トップダウンのプロジェクトは要らない。科学技術振興機構の498億円は科学研究費補助金に入れてしまえばよい。もちろん科学技術振興機構なんて独立行政法人も不要になってしまう。必要とあれば最小限の職員を日本学術振興会に移してもよいが理事長など役員は不要、行政改革のさきがけとすればよい。では技術の創出はどうなるのかと聞かれそうであるが、技術創出に活かせそうな情報を外に向かってどんどん発信すればよい。お金の流れを情報の流れに切り替えるのである。それを必要とする現場でこそ真に役立つ技術が生まれてくることであろう。

この考えは今でも変わらない。極論すれば国家百年の大計である人材の育成に必要なのは、国立大学にあっては運営費交付金、私立大学にあっては私立大学経常費補助金、それに加うるに科学研究費補助金に尽きる。今わが国に求められるのは贅肉を一切切り削いだ骨太の大学制度を抜本的改革を通じて確立することであろう。

鈴木さんの「特許発言」がなぜぶれたのだろう

2010-10-12 17:24:21 | 学問・教育・研究
根岸、鈴木両博士の2010年度ノーベル化学賞受賞のニュースが流れたその夜、鈴木さんのテレビでのインタビューを見た時の印象を、鈴木章博士の嬉しい言葉  「特許は一切取っていない」で次のように述べた。

2010年度ノーベル化学賞受賞者鈴木章博士のインタビューをテレビで見ていた。その中での博士の一言に私は感動し、わが意を得た思いをした。医薬品や電子関連素材の合成に博士の発見した合成法が全世界で広く使われているのに、「特許は一切取っていない」と言われたのである。何故取らなかったのかその思いを語られたが、特許を一切取っていないから使うのはまったく自由、とにかく広く使われて役にたっているのが嬉しいと言われたのである。キュリー夫人の再来、とまで思った。

ところがその後、毎日新聞の《特集:ノーベル化学賞・受賞者に聞く 鈴木章さん/根岸英一さん》で、鈴木さんの次のような言葉が報じられた。

 最初から社会に役立つことを考えたんじゃなくて、たまたま結果としてそういうことになりました。特許を取らなかったのは、僕自身の怠慢です。あのころは大学で特許を取ることはほとんどなかったし、申請するにも権利を維持するにもお金がかかる。でも、特許を取らなかったから広く使われるようになったのはその通り。社会に貢献できたのは、たまたまなんです。
(毎日新聞 2010年10月8日 東京朝刊)

特許を取らなかったのは、僕自身の怠慢ですのところで一瞬わが目を疑った。私がテレビインタビューから受けた印象と大きく違ったからである。テレビインタビューでは(元来特許ととるべきであろうに、そうしなかったのは)僕自身の怠慢です、のようなニュアンスではなかったからである。私の勘違いと言うこともあり得るので、幸いYouTubeにアップロードされた映像でその発言内容を確認してみた。



まず1:25に「私はこのクロスカプリング反応に対してはですね、特許というものはまったく取っておりません」との発言がある。そして6:27-7:31の次の発言に続く。

「私たちの場合には、私はさきほど特許を取っていないと言ったが、その理由の一つは、われわれの時には大学での研究で特許を取るという例はそれほど多くなかったということもありますけど、私はその時、この研究費は文部省の研究費、その他企業からのサポートもありましたけども、ある程度の経済的なサポートもありましたし、実際に仕事をやってくれるのは学生ですね。これはレーバーコストがかからない。そういうことでですね、先生の名前で特許を取るというのは、私のその当時の気持ちとしてはあまり釈然としなかった、ということもありまして、まあそれだけではないんですけれども、特許を取るということは、なかなか取る時に(?)金が掛かるとか、その特許を長く続けるためにはお金が掛かるという、そういう点もありますけれど、それだけではなくて、私自身は先ほど言ったようなことで、実際には特許を取っておりません。」

さらに8:37には「とにかく私は一つも特許を取っておりませんから、この反応は世界中の人が自由に思う通り使うことが現在でも出来るわけです。」と述べている。特許に関するこのような発言を聞く限り、私が最初に抱いた印象は間違っていなかったと思う。ではどういう行きがかりで2日後の特許を取らなかったのは、僕自身の怠慢です発言になったのだろう。鈴木さんご自身に説明していただければよいが、大学の研究者に特許を取らせようという愚行に躍起となっている文部科学省側から、何かバイヤスでもかかったのかとつい余計な気を回してしまった。げすの勘ぐりだろうか。



「2位じゃだめか、は愚問」と言わされた鈴木さん?

2010-10-09 20:10:24 | 学問・教育・研究
次の産経ニュースが目に止まった。

「2位じゃだめか、は愚問」ノーベル賞・鈴木さん、蓮舫氏発言をバッサリ

 ノーベル化学賞に輝いた鈴木章・北海道大名誉教授(80)は8日、産経新聞の取材に応じ、「日本の科学技術力は非常にレベルが高く、今後も維持していかねばならない」と強調した。昨年11月に政府の事業仕分けで注目された蓮舫行政刷新担当相の「2位じゃだめなんでしょうか」との発言については、「科学や技術を全く知らない人の言葉だ」とばっさり切り捨てた。

(中略)

 特に、蓮舫発言については「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問。このようなことを言う人は科学や技術を全く知らない人だ」と厳しく批判。「科学や技術を阻害するような要因を政治家が作るのは絶対にだめで、日本の首を絞めることになる。1番になろうとしてもなかなかなれないということを、政治家の人たちも理解してほしい」と話した。(後略)
(産経ニュース 2010.10.8 23:50 )

政府の積極的な投資を促す意図があっての記事であろうが、一方では違和感を抱いた。何故このような場で「蓮舫発言」が飛び出したのだろう。産経記者の誘い水なのだろうが、その意図は何だったのだろう。そして「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問。このようなことを言う人は科学や技術を全く知らない人だ」との鈴木発言をどう受け取るべきなのだろうか。

蓮舫さんは次世代スーパーコンピュータの性能について「2番じゃダメなんですか?」と質問したと記憶している。それが鈴木発言では「研究は1番でないといけない」とスパコンが研究に化けた上に、「このようなことを言う人は科学や技術を全く知らない人だ」と高飛車な発言につながっている。取材状況、それに産経記者の質問の趣旨が分からないからこれ以上鈴木発言については触れないが、この発言で昨日紹介した村上陽一郎著「人間にとって科学とは何か」の中の一文をまた思いだしたのである。

 私などは法律には素人なので、最近発見して驚いたことがあります。それは、裁判の法廷は「必ずしも真実をみつける場ではない」ということ。では法廷とはどういう場かというと、当たり前といってしまえばそれまでですが、訴えた方と訴えられた方が、お互いに人智を尽くして勝ち負けを争う戦場なのです。(70-71ページ)

村上さんが専門家として法廷に立った経験に基づいて述べているのであるが、科学者として戸惑いを感じられたようである。裁判がいろいろと取り沙汰されている昨今、私も裁判の本質について目の洗われる思いがした。そして科学、技術の本質的な違いに連想が働いたのである。ふつう科学技術と一括りにして取り上げられることが多いが、元来科学と技術は本質的に異なるもので、それを一緒にしてしまうと話がややこしくなる。ここで「必ずしも真実をみつける場ではない」裁判を技術に当てはめてみる。

法廷で訴えた方と訴えられた方が勝ち負けを争うのは、いわばスパコンのような技術製品の性能(価格も?)が一番とか二番とか争うようなもので、技術だからこそ順位を競うことが出来る。しかし真理を追い求める科学研究はもともと順位を争うようなものではない。順位を決めようにも誰もが納得出来るような基準がないのである。研究はあくまでも真理の探究である。発見の一番乗りはその後についてくるもので、最初から何を発見すべきかが分かっているようでは、それはあまりたいした研究ではない。その意味で「研究は1番でないといけない」との鈴木発言は、記者とのやり取りのどこかでボタンが掛け違ったような気がする。

村上さんの著書に科学的合理性と社会的合理性の対比と連携の話が出てくる。科学者が白黒の判断が下せないことに社会的合理性のようなもので判断を下さざるをえない場面があり、その主役は社会の成員すべてである、というのである。蓮舫さんはその代表だと思えばよい。鈴木発言に怯むことなく「科学や技術を全く知らない?人」の強みをこれからもますます発揮して、「専門家」をどんどん質問攻めにして欲しいものである。


ノーベル化学賞の人名反応で思うこと

2010-10-08 11:40:33 | 学問・教育・研究
ノーベル賞公式サイトで2010年度のノーベル化学賞の授賞理由が分かりやすく述べられているが、そのなかに次のような文章がある。

Many organic reactions are, however, rather prone to the formation of unwanted side-products owing to the fierce conditions or highly activated molecules required. The 2010 Nobel Prize in Chemistry rewards three chemists who have developed new methods for making carbon-carbon bonds, highly selectively, under relatively gentle conditions. All three have their reactions named after them. The Heck, Negishi and Suzuki reactions all depend on using palladium, a silvery metal, to unite two molecules, resulting in the formation of a new single bond between them. Over the last 30 years or so, these reactions have become staple and much-valued additions to the organic chemists' toolkit.

そしてそれぞれの人名反応の特徴を次のように説明している。

In the Heck reaction, the first molecule always contains carbon bonded to a halogen atom, such as chlorine, and the second always contains a carbon-carbon double bond. Remarkably, the reaction works at room temperature.

Ei-ichi Negishi and Akira Suzuki, who incidentally had both worked with Herbert Brown, the 1979 Nobel Laureate in Chemistry, extended the range of applicability of the Heck reaction, principally by developing ways of varying the second component molecule. The double-bond-containing molecule is replaced by an organozinc molecule in the Negishi reaction, and by an organoboron molecule in the Suzuki reaction.

発見した反応が自分の名前で呼ばれるようになる。それも自分から名乗るのではなくて、その価値を認めた仕事仲間が命名してくれるのである。研究者冥利に尽きると言えよう。生命科学の領域でも、Michaelis-Menten constantとかLineweaver-Burk plotなどは生化学の教科書には必ず出てくるし、Okazaki fragmentsに触れない分子生物学の教科書はまずないだろう。そして研究者の名前で呼ばれる反応や現象、ある重要な成分などが教科書に登場することで、分野外の科学者にも広く知れ渡るようになる。鈴木章博士は留学先のブラウン教授から「教科書に載るような研究をしなさい」と言われたことを肝に銘じた、と報じられたが、まさに人名反応はその最たるものであろう。

それで思い出したのがつい最近読んだ村上陽一郎著「人間にとって科学とは何か」(新潮選書)の次ぎの一文である。「科学者たちを動かしたものは」の中に出てくる。

 ノーベル賞が稼働するのは一九0一年のことですが、それ以前も以後も、優れた研究活動(知識生産)に対して与えられる最も大事な褒賞は、「エポニム」でした。大事な法則や定理、方程式であると評価される知識に発見者の名前を冠して呼ぶという習慣がそれです。「ハイゼンベルグの不確定性」「ボーアの相補性原理」「プランクの定数」「シュレーディンガーの波動方程式」などがその例ですが、この褒賞制度も科学者共同体の内部だけで完結していたことを如実に物語っています。(23ページ)

これを私流に解釈すると、褒賞制度としてはノーベル賞が「エポニム」の延長線上にあることになるが、今やノーベル賞受賞の影響が科学者共同体の内部だけで終わらずに、広く社会的評価・賞賛を掻きたてる波及効果を及ぼすようになってきた。その意味では村上さんがノーベル賞について、

分野によって多少の違いはありますが、あるのはただ、個人的な好奇心の発露であり、真理への探求心に駆り立てられて科学に取り組む人間に対し、利得を得ようなどとは発想もせずにフィランスロビーの原理にのっとって財を投げ出してきた、ノーベルの生きていた時代そのままの精神です。ノーベル賞は、その結果としての贈り物なのです。(30-31ページ)

と述べていることが素直に心に染みいると同時に、極めてナイーヴにも響いてくる。この乖離をどう受け止めるべきか、それが実は村上さんの論説の主題であり、またフィランスロビーの原理とは一体どういうことなのか、それを説明しようとすると、これまた村上さんの著書にまともに向かい合わざるを得なくなる。

ということで、この先は次の機会に譲りたいと思う。


鈴木章博士の嬉しい言葉  「特許は一切取っていない」

2010-10-06 23:36:29 | 学問・教育・研究
2010年度ノーベル化学賞受賞者鈴木章博士のインタビューをテレビで見ていた。その中での博士の一言に私は感動し、わが意を得た思いをした。医薬品や電子関連素材の合成に博士の発見した合成法が全世界で広く使われているのに、「特許は一切取っていない」と言われたのである。何故取らなかったのかその思いを語られたが、特許を一切取っていないから使うのはまったく自由、とにかく広く使われて役にたっているのが嬉しいと言われたのである。キュリー夫人の再来、とまで思った。

大学人が特許取りに駆り立てられることになって、私は大学人、とくに生命科学研究者は特許申請に超然たれ次のように述べている。

私は大学人が特許、特許と駆り立てられるのには元々大反対なのである。大学人にとって百害あって一利なしとまで思っている。「学問の自由」が破壊されてしまうからである。その思いを以下の過去ログに書き連ねている。

万能細胞(iPS細胞)研究 マンハッタン計画 キュリー夫人
iPS細胞の特許問題に思うこと
大学は特許料収入でいくら稼ぐのか 知的財産管理・活用ビジネスのまやかし
角田房子著「碧素・日本ペニシリン物語」 そして大学での特許問題へ
学問の自由は今や死語?
マイケル・クライトン(Michael Crichton)の死去を悼む

(中略)

大学人一人ひとりが自分の研究成果を特許申請に心動かされることなく直ちに論文として世界に公開すればよいのである。論文の結語にそのような趣旨で発表したと書き添えれば世界にその動きが拡大することも考えられる。私はそのような大学人の叡智を信じたいのである。

特許申請なんて雑用の最たるものである。研究者の奮起を望みたい。


日本人のノーベル化学賞受賞はやっぱり嬉しいが  研究は「政治主導」から「科学者主導」へ

2010-10-06 20:46:45 | 学問・教育・研究
ノーベル化学賞に日本人受賞の嬉しい知らせ食事をしている最中に飛び込んできた。Nobelprize.orgは次のように発表した。

Press Release

6 October 2010

The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award the Nobel Prize in Chemistry for 2010 to

Richard F. Heck
University of Delaware, Newark, DE, USA,

Ei-ichi Negishi
Purdue University, West Lafayette, IN, USA

and

Akira Suzuki
Hokkaido University, Sapporo, Japan

"for palladium-catalyzed cross couplings in organic synthesis"

三人の受賞者は、Heck reaction、Negishi reaction、Suzuki reactionとそれぞれの名前で呼ばれるいわゆる「人名反応」で斯界に広く知られている。Heck博士が1931年生まれ、根岸英一博士が1935年生まれ、鈴木章博士が1930年生まれとのことなので、ちょうど私とほぼ同世代の方々となる。その方々の業績がこのたび評価されたという意味で喜びも一入である。

ニュースで日本人が二人と強調されていたが、根岸博士は国籍こそ日本であるが、研究生活のほとんどは米国である。1958年に東大を卒業して帝人に入社したが、1960年には米国に渡り、1963年に博士号をペンシルバニア大学で取得した。そしていったん帝人に戻ったが1966年にパーデュー大学のH. C. Brown教授のもとで研究生活に入り、その後米国で研究生活を送った。一昨年ノーベル化学賞を受賞した下村脩博士と共通するところがある。この点、鈴木博士は生粋の?北海道大学人で、根岸博士と同じく1963年からパーデュー大学のH. C. Brown教授のもとで博士研究員を送っている。

とくに鈴木博士の場合は、その研究生活の時代背景が私と共通するところがあって、まさに戦後の0から始まった不自由な時代に研究生活のスタートを切られたのである。昨今のように、何かあると金を大げさにばらまくような風潮とはおよそ無縁な、ストイックな研究環境であった。その中から生まれた成果であることを思うと、近頃の金で尻を叩くような(と私の目に映る)「政治主導」の科学振興策の薄っぺらさを実に嘆かわしく思う。

さらに、またもや医学生理学賞は素通りであった。利根川進博士が日本人として唯一の受賞者ではあるが、その業績は日本の研究環境から生まれたものではない。このことに関してはすでにノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?で私の考えを述べているので、興味をお持ちの方はぜひご覧いただきたい。それにつけても思うのは、研究者を出来る限り雑用から解放して、とくに若い時から自立して研究に専念させることこそ、科学研究の王道であるのに、「政治主導」の科学振興策がその逆を推し進めているといえよう。科学に関しては「政治主導」から「科学者主導」へ、その革命的転換を旗振りする高杉晋作は現れないものだろうか。