古希を過ぎてどうしたことか庭仕事を始めた。庭木の植え替えこそ庭師さんにお願いしたが、花壇にテラスなどすべて私の手作りである。ようやく全体の形が見えてきたが本格的な完成は年を越えそうである。試行錯誤の繰り返しが多いせいである。そして草花に野菜も育て始めたが、そこで思い知らされたのは私が卒業した理学部生物学科で習ったことがわずかな例外を除いて何一つ役に立たないと言うことであった。
肥料の三要素が窒素、リン、カリであると言われてはじめてそれと認識したし、ましてや窒素が茎や葉を育て、花にはリンが根にはカリが大切だなんて頭の片隅にすらなかった。見覚えのあるのは窒素、リン、カリをそれぞれ表す元素記号のN、P、Kぐらいだった。
草花を育てるのに土が大切だと言われても、現実に瓦礫混ざりの粘土質の土壌をどのようにすればいいのか、これもさっぱり分からない。庭師さんに本格的に植物栽培に適した土にするには土をトラックで運んできて入れ替えないといけない、なんて言われてもそこまでする気は起こらなかった。そこで花壇の土だけは赤玉土や腐葉土に牛糞などをホームセンターで買ってきて適当に混ぜ合わせてそれらしきものにしたが、それ以外のところではその場その場で部分的な改良に止めている。
夏前に花一輪つけたヒマワリの苗を買ってきて地植えにしたが大きくならずに失敗、ブルーベリーも接ぎ木で丈夫だからと言われて買ってきたが、これもいつの間にか枯れてしまった。来年の結実を期待してジューンベリーに最近植え替えたところである。♪サルビヤは赤いぞ、と歌の文句に誘われて植えた苗は大きく育ち、何種類かのコリウスは美しい葉色で楽しませてくれた。しかしパンジーとかビオラがどうも大きくならない。手引き書を見ても花壇で育てるのなら最初水やりをしっかりしたら後はほっとけ、と言うのもあるし、液体肥料を一週間に一度はやりましょうと言うのもあるので、何を信じて良いのか分からない。そうこうしているうちに地元のCOOPが園芸の三回講座を催すことを知って参加を申し込み、一回二時間、計六時間のレッスンを受けることになった。
講師の話は昨今の園芸事情から始まり、用土、肥料、害虫退治に病気の予防などに及んだ。私の知りたいことを次から次へと話してくれるので、全てが頭の中にすーっと入っていく感じだった。疑問には的確な答えが返ってくる。自分でも園芸店を経営している人の話だから、何事も具体的でなかなか説得力に富んでいた。ホームセンターなどえ溢れかえっている肥料や農薬などについてもどのように選ぶのが良いのか、業界の裏話を交えた説明はきわめて実用性が高い。たとえばバラの肥料とか、ブルーベリーの肥料とか特化したものがいかに割高であるか、それを避けるためには特化肥料に似たN:P:K比の一般肥料を買えばよいとか、そういう実用的な知識を授けていただく。
世間にはたとえば液体肥料を1000倍に希釈すると言われてもどうすればよいのか分からないから、希釈済みですぐに使えるボトルを原液と同じ値段で買う人も結構多いなんて話を聞くと、この時はメスシリンダーを使って試薬作りをした化学の実験室実習が生きていることを実感した。希釈さえ出来れば原液を買うことで、単純計算であるが、1000分の1の費用で済むからである。
最後の30分は実習と言うことで寄せ植えをした。
この材料の一つがパンジーである。講師によると花を咲かせたパンジーの苗を買った時点で、すでにパンジーは瀕死の状態にあると言うのである。花は花を咲かせたらあとは種を作りそれで終わりだからだそうである。従って苗を地植えにする場合に、最初の1ヶ月は花が開けばそれを摘んで花を咲かせないようにする。そして花を咲かせようと思う時まで株を大きく育てるのだ大切だという。花咲じいさんでもあるまいし、自分でどうして花を咲かせる時を決められるんだろうと不思議に思ったが、話を聞いているうちに疑問が氷解した。その時期が来るまではとにかく花を摘む。そうすると株が大きく成長しつぼみがだんだんと増えていく。だから3月始めに咲かせようと思えばそれまではとにかく花を摘む。いよいよ咲かせる時が来たらそこで花を摘むのを止めればいいのである。ただそれだけ、なんとも分かりやすい話でまさに目から鱗であった。上手にすると一株がシーズンの間に400個以上もの花を咲かせるそうである。こういう調子なので全ての話に熱中したのである。
ここで私が園芸をするのに大学で習ったことはNPKと希釈のことを除いては何も役に立っていないということに話を戻す。この園芸セミナーで必要なことは、講師の喋る言葉そのものとその意味が理解できることなのである。配られた教材を読む能力も必要であるしまた簡単な計算が出来た方がよい。いわば古くから言われている「読み書きそろばん」の能力が備わっておれば講師の話にはちゃんとついていけるのである。「読み書きそろばん」の能力は小・中学校の義務教育で最低限必要なことは身につくであろう。もう少し高度な基本知識を身につけたいと思うものだけが高校に進むか、生計を立てる上で必要な実用的知識を授けてくれる専門学校などで学んでいけばよい。大学なんて無くて済む。そう考えると大学に進むのはよほどの変わり者で、学者になりたいと考えるのはその最たるものであろう。
一方、大学で教えなければならないものて何だろう。医者、農・工技術者のような実学者や教師を目指す学生に対しては最低限教えなければならないことが自ずと定まってくるだろうが、これはそれぞれの専門学校、師範・高等師範学校で十分教えられることである。弁護士や裁判官などももちろん実学系になる。戦前は医学専門学校、工業専門学校、農業・農林専門学校などからは有能な技術者が輩出していた。こういう実学系学校が戦後大学に統合されていったからここに大学教育制度の混乱が生じたのである。
実学系で何を学ぶべきか、目標がはっきりしている場合には教えなければならないことも焦点を絞りやすい。しかし理学部や文学部のようなアカデミックな分野では発展の可能性が無限にあるものだから、教える目標を定めること自体本来は無意味なのである。結局教師一人ひとりが自分が教えられることを喋っているだけのことであって、もともと実生活にすぐに役立つような知識を授けるわけではない。というより実用的なことを講義しておれば同僚・学生にバカにされるので、ことさら高踏的な話をしては自分で酔ったりする。戦後の大学乱立時代にその存在理由を深く考えること無しに(と私は思っている)各種専門学校を大学に統合・昇格させたばっかりに、実学教授の面が見せかけのアカデミズムに『毒されて』弱体化してアカデミックでもなければ実学教育でもない中途半端な名ばかり大学が蔓延ることになったのである。専門学校を形だけの大学にすべきではなかったのである。
大学は元来アカデミックなものでなければならない。その大学のなかに実学を目指すべき専門学校が取り込まれ、両者の境界が曖昧になるばかりではなく実学の影が薄くなるとともにアカデミック大学そのものの全般的な弱体化されてしまったと私は思う。大学が改めて実学とアカデミズムとに分かれるべき時期がすでに来ているのであり、昨今取り沙汰されている「大学の質の保証」はアカデミズムへの回帰を強調したものと受け取ればよい。そのためにはまず実学系を分離すべきなのである。以前にも私が教員にも通信簿というご時世? 自己評価制度を作る阿呆に乗る阿呆で《私は国立大学の大規模な統廃合が避けられない時期が必ずやってくると見ている。最終的には旧帝大を核としてその倍ぐらいは残るかも知れない。道州制の先行きとも密接に関連してくるだろう。》と述べたが、これはアカデミック大学を指しているのである。このアカデミック大学から脱落した大学は、名称はともかく、実体がかっての『専門学校』に戻るべきなのである。この問題はまたあらためて取り上げることにする。
園芸セミナーで実学とアカデミズムとの乖離を実感したことが、私の持論をさらに展開させることになった。
肥料の三要素が窒素、リン、カリであると言われてはじめてそれと認識したし、ましてや窒素が茎や葉を育て、花にはリンが根にはカリが大切だなんて頭の片隅にすらなかった。見覚えのあるのは窒素、リン、カリをそれぞれ表す元素記号のN、P、Kぐらいだった。
草花を育てるのに土が大切だと言われても、現実に瓦礫混ざりの粘土質の土壌をどのようにすればいいのか、これもさっぱり分からない。庭師さんに本格的に植物栽培に適した土にするには土をトラックで運んできて入れ替えないといけない、なんて言われてもそこまでする気は起こらなかった。そこで花壇の土だけは赤玉土や腐葉土に牛糞などをホームセンターで買ってきて適当に混ぜ合わせてそれらしきものにしたが、それ以外のところではその場その場で部分的な改良に止めている。
夏前に花一輪つけたヒマワリの苗を買ってきて地植えにしたが大きくならずに失敗、ブルーベリーも接ぎ木で丈夫だからと言われて買ってきたが、これもいつの間にか枯れてしまった。来年の結実を期待してジューンベリーに最近植え替えたところである。♪サルビヤは赤いぞ、と歌の文句に誘われて植えた苗は大きく育ち、何種類かのコリウスは美しい葉色で楽しませてくれた。しかしパンジーとかビオラがどうも大きくならない。手引き書を見ても花壇で育てるのなら最初水やりをしっかりしたら後はほっとけ、と言うのもあるし、液体肥料を一週間に一度はやりましょうと言うのもあるので、何を信じて良いのか分からない。そうこうしているうちに地元のCOOPが園芸の三回講座を催すことを知って参加を申し込み、一回二時間、計六時間のレッスンを受けることになった。
講師の話は昨今の園芸事情から始まり、用土、肥料、害虫退治に病気の予防などに及んだ。私の知りたいことを次から次へと話してくれるので、全てが頭の中にすーっと入っていく感じだった。疑問には的確な答えが返ってくる。自分でも園芸店を経営している人の話だから、何事も具体的でなかなか説得力に富んでいた。ホームセンターなどえ溢れかえっている肥料や農薬などについてもどのように選ぶのが良いのか、業界の裏話を交えた説明はきわめて実用性が高い。たとえばバラの肥料とか、ブルーベリーの肥料とか特化したものがいかに割高であるか、それを避けるためには特化肥料に似たN:P:K比の一般肥料を買えばよいとか、そういう実用的な知識を授けていただく。
世間にはたとえば液体肥料を1000倍に希釈すると言われてもどうすればよいのか分からないから、希釈済みですぐに使えるボトルを原液と同じ値段で買う人も結構多いなんて話を聞くと、この時はメスシリンダーを使って試薬作りをした化学の実験室実習が生きていることを実感した。希釈さえ出来れば原液を買うことで、単純計算であるが、1000分の1の費用で済むからである。
最後の30分は実習と言うことで寄せ植えをした。
この材料の一つがパンジーである。講師によると花を咲かせたパンジーの苗を買った時点で、すでにパンジーは瀕死の状態にあると言うのである。花は花を咲かせたらあとは種を作りそれで終わりだからだそうである。従って苗を地植えにする場合に、最初の1ヶ月は花が開けばそれを摘んで花を咲かせないようにする。そして花を咲かせようと思う時まで株を大きく育てるのだ大切だという。花咲じいさんでもあるまいし、自分でどうして花を咲かせる時を決められるんだろうと不思議に思ったが、話を聞いているうちに疑問が氷解した。その時期が来るまではとにかく花を摘む。そうすると株が大きく成長しつぼみがだんだんと増えていく。だから3月始めに咲かせようと思えばそれまではとにかく花を摘む。いよいよ咲かせる時が来たらそこで花を摘むのを止めればいいのである。ただそれだけ、なんとも分かりやすい話でまさに目から鱗であった。上手にすると一株がシーズンの間に400個以上もの花を咲かせるそうである。こういう調子なので全ての話に熱中したのである。
ここで私が園芸をするのに大学で習ったことはNPKと希釈のことを除いては何も役に立っていないということに話を戻す。この園芸セミナーで必要なことは、講師の喋る言葉そのものとその意味が理解できることなのである。配られた教材を読む能力も必要であるしまた簡単な計算が出来た方がよい。いわば古くから言われている「読み書きそろばん」の能力が備わっておれば講師の話にはちゃんとついていけるのである。「読み書きそろばん」の能力は小・中学校の義務教育で最低限必要なことは身につくであろう。もう少し高度な基本知識を身につけたいと思うものだけが高校に進むか、生計を立てる上で必要な実用的知識を授けてくれる専門学校などで学んでいけばよい。大学なんて無くて済む。そう考えると大学に進むのはよほどの変わり者で、学者になりたいと考えるのはその最たるものであろう。
一方、大学で教えなければならないものて何だろう。医者、農・工技術者のような実学者や教師を目指す学生に対しては最低限教えなければならないことが自ずと定まってくるだろうが、これはそれぞれの専門学校、師範・高等師範学校で十分教えられることである。弁護士や裁判官などももちろん実学系になる。戦前は医学専門学校、工業専門学校、農業・農林専門学校などからは有能な技術者が輩出していた。こういう実学系学校が戦後大学に統合されていったからここに大学教育制度の混乱が生じたのである。
実学系で何を学ぶべきか、目標がはっきりしている場合には教えなければならないことも焦点を絞りやすい。しかし理学部や文学部のようなアカデミックな分野では発展の可能性が無限にあるものだから、教える目標を定めること自体本来は無意味なのである。結局教師一人ひとりが自分が教えられることを喋っているだけのことであって、もともと実生活にすぐに役立つような知識を授けるわけではない。というより実用的なことを講義しておれば同僚・学生にバカにされるので、ことさら高踏的な話をしては自分で酔ったりする。戦後の大学乱立時代にその存在理由を深く考えること無しに(と私は思っている)各種専門学校を大学に統合・昇格させたばっかりに、実学教授の面が見せかけのアカデミズムに『毒されて』弱体化してアカデミックでもなければ実学教育でもない中途半端な名ばかり大学が蔓延ることになったのである。専門学校を形だけの大学にすべきではなかったのである。
大学は元来アカデミックなものでなければならない。その大学のなかに実学を目指すべき専門学校が取り込まれ、両者の境界が曖昧になるばかりではなく実学の影が薄くなるとともにアカデミック大学そのものの全般的な弱体化されてしまったと私は思う。大学が改めて実学とアカデミズムとに分かれるべき時期がすでに来ているのであり、昨今取り沙汰されている「大学の質の保証」はアカデミズムへの回帰を強調したものと受け取ればよい。そのためにはまず実学系を分離すべきなのである。以前にも私が教員にも通信簿というご時世? 自己評価制度を作る阿呆に乗る阿呆で《私は国立大学の大規模な統廃合が避けられない時期が必ずやってくると見ている。最終的には旧帝大を核としてその倍ぐらいは残るかも知れない。道州制の先行きとも密接に関連してくるだろう。》と述べたが、これはアカデミック大学を指しているのである。このアカデミック大学から脱落した大学は、名称はともかく、実体がかっての『専門学校』に戻るべきなのである。この問題はまたあらためて取り上げることにする。
園芸セミナーで実学とアカデミズムとの乖離を実感したことが、私の持論をさらに展開させることになった。