日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日本は独立国といえますか

2005-05-13 17:53:29 | 社会・政治
昨日今日と朝日新聞夕刊に「戦後60年を生きる 白川 静の心」と題した白川静氏の人物紹介が掲載された。漢字研究の第一人者で昨年文化勲章を受章された方である。何かの折りにお生まれが私の亡母と同じく明治43年と知ってそれだけでも親しみを覚えていた。氏の本領は漢字研究にあり、漢字に興味を持つものなら『字統』『字訓』『字通』の三部作の存在を知らないでは済まされないであろう。

最後の『字通』はいわば漢和辞典のようなもので、出版時に即購入して以来何かあれば必ず繙くようにしている。氏はこの『字通』において知的教養の世界を回復するために《語彙の文例に、表現として完全な、文意を把握しうる文章や詩句を用意》することに重点を置かれた。

例えば「憲法」は《国家の規定。[国語、晋語九]善を賞し姦を罰するは国の憲法なり》とあり、その雰囲気が素直に伝わってくる。

『字通』について、「回思九十年」(平凡社)のなかで、氏はこのように述べておられる。《徹底的に字の素性を洗って、文字は孤立しておるのでなしに、縦の系統とか横のつながりとか、いろんな広がりをもっていると考えて、そういう流儀で『字通』を書いた。だから、あれは必要なときに必要なとこだけ見て、パタンと閉じてしまうんでなしに、遊んでほしいと思ったのです》(366ページ)まさに連想の赴くままに次々と語句を追っていくとひとりでに時間が過ぎてしまうのである。

ところで実はこの稿で私が取り上げたかったのは、本日夕刊記事の中の氏の発言である。「首都圏にアメリカの飛行場も軍港もある。それで独立国といえますか。事実上、今も占領下といっしょ。同盟国なんてのは同等の条件で付きあっての話です。自衛隊のイラク派遣もアメリカの命令に従っているだけ

今年の2月28日に私は「今もアメリカの『占領下』にあるわが祖国日本」と題する一文を草した。今この碩学が同じ見解をお持ちであることを知り、私がただ狷介ならざるを喜ぶと同時に、あらためて憂いを共にするのである。

もう一つの教科書問題 『国民学校の教科書』

2005-05-10 11:37:01 | 在朝日本人
書棚を見わたしていると,、入江曜子著「日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書を読む-」が目に留まった。取り出してみると、第一章の途中まで目を通した形跡がある。出版が2001年12月20日であるから購入して直ちに読み始めたのであろうが、はやばやとギブアップしたようである。改めて読み返しだしたがやはり読みづらい。この教科書が出来上がるまでの歴史的経緯を述べる過程で、いろいろな文書からの『引用文』が出てくるが、それが読みづらい(これは著者の責任ではないのであるが)。

私は純粋培養された『軍国少年』のなれの果てであることを自認している。そして奇しくも著者の入江曜子氏も早生まれであるが私とまったく同学年、すなわち《小学校とは無縁だった唯一の年度》に属していることを、今回初めて認識した。その入江氏がわれわれが使ってきた国民学校教科書がどのようなものであったかを解説してくださるのであるから、なにはともあれ再挑戦を試みた。

ところが今回はなんと、「はじめに―今なぜ戦時中の教科書か」で引っかかってしまった。

2ページにこのような記述がある。
《それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20)年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう》

これは1999年に小淵元首相(1937年生まれ)の主導のもとに強行採決により制定された「国民国家法」、2000年の森元首相(1937年生まれ)の「日本は天皇を中心とした神の国」発言、さらには2001年の「新しい歴史教科書をつくる会」による高校歴史教科書の文部科学省による検定合格、の記述を受けたものである。

著者が何を云いたいのか、お分かりいただけるであろう。

とにかくこの本を通読した。教科書からの引用文に思い当たるものも少しはあったが、
教科書の中身は私の頭からはほとんど脱落していると思う。そして私は随所に出てくる著者のコメント一切なしの完全復刻版教科書を見たくなった。著者のコメントがけっこう煩わしいのである。

その一例、96ページにこのようなくだりがある。
《国来い、国来い、えんやらや。神さま つな引き、お国引き。
 しま来い、しま来い、えんやらや。はっぽう のこらず よって来い。(『うたのほん下』)
 第五期独自に書き下ろされたこの「国引き」とセットになった国民学校唱歌は、上級生までも珍しがって口ずさんだものである。
 神話の世界への入り口となった「国引き」はイザナギ・イザナミの「国生み」とともに、高学年における日本の領土拡大政策-侵略戦争賛美の比喩としての伏線であった。》

『職業作家』ならではのこのような深読みが、私には押しつけがましくて煩わしいのである。それでも私は最後の第八章、「大日本青少年団と隣組」まで読み進み、この章の最後のパラグラフ(220ページ)に至った。

《 この時代、このような教育と訓練の名による超国家主義思想を刷り込まれた子供たちの不運は、一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感-判断停止のラク(付点付き)さを知ってしまったことである。そしてもう一つの不幸は、全体主義の前に、個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。》

そして「おわりに―アジアへの視点」と続く。

著者の論旨では、その超国家主義思想を刷り込まれた子供たちのなれの果てである小渕元総理や森元総理が、と私が冒頭に述べた引用に戻るのである。

しかしこの最後のパラグラフはいわば私自身のことを云っていることにもなる。と思った瞬間、この著書に馴染めなかった理由がはっきりと浮かび上がった。刷り込みなのかどうか、この著者は自分の『思い込み』への執着が強すぎて、客観的な検証を等閑にしたままの主観的主張に陥っているからである。

たとえば著者の一つのキーワード、『刷り込み』を取り上げる。

私の理解するところでは、『刷り込み』はもともと動物行動学における用語で、「岩波生物学事典第四版」731ページにもその説明がある。関わりのあるところを取り出すと、《(前略)動物の生後ごく早い時期に起こる特殊なかたちの学習。(中略)刷り込みは、限られた、しかもごく短い期間(この期間を感受期sensitive periodあるいは臨界期critical periodといい、object imprintingでは数日から数時間)のみに起こり、かつ学習されたものはふつう一生のあいだ忘れられることがない点で、一般の学習と異なるとされる。(後略) 》

多分著者は私が強調した部分を『刷り込み』という言葉で言いたかったのであろう。しかしもともとこのように定義づけられる用語を、教科書を介する学習に適用して、一生のあいだ忘れられることがないなる部分だけを強調するのは牽強付会の論と云わざるをえない。この強調の裏に、「何かことがあると、この『刷り込み』が作動する」という著者の思い込みが見え隠れする。

私のこの批判を具体的な形で示そう。たとえば以下の文を著者の220ページのパラグラフに続ければ良い。私たちかっての『少国民』がそこで成長を止めてしまったわけではないから。

しかしこの子供たちは『敗戦』により、絶対の『権威』が一挙に崩壊するという劇的な瞬間に遭遇した。絶対と思われた『価値観』がその社会の、そして時代の産物であることを身を以て学んだのである。その対比として何事であれ自分で判断できる自我の確立に目覚めた。そしてたとえ生活は貧しくても、命を守るために逃げ回らずにすむ『平和』の有り難さに、その尊さをしみじみと味わったのである。

『同期の桜』はそれぞれの思いをこれに付け加えてくれるであろう。

元在朝日本人の『自分探し』

2005-05-07 13:16:47 | 在朝日本人
以下は「会報 三坂会だより」(2003年)に掲載した一文である。人名などをイニシャルにするなど少々手を加えた。

昨年(2002年)六月に岩波新書で高崎宗司著「植民地朝鮮の日本人」が刊行された。「朝鮮」という文字が題名にある本は見逃すわけにはいかない。早速購入し読み始めて52ページにさしかかったとき、「京城三坂小学校記念文集編集委員会」の文字に視線が釘付けになった。まさか、と思いながらも巻末の参考文献に目を走らせると、間違いもなくそこには「京城三坂小学校記念文集編集委員改編「鉄石と千草」三坂会事務局、1983年」と記されていた。

インターネットで直ちに国会図書館のホームページにアクセスして検索すると、確かに所蔵されている。そこで地元の神戸市立大倉山図書館に駆けつけ、借出し手続きを済ませた。到着の知らせが届くまでの待ち遠しかったこと、毎日そわそわしていた。

私が三坂国民学校へ永登浦国民学校から転校したのは昭和十六年の夏、一年生の2学期で担任はSY先生だった。二年生はAH先生、三年生はTS先生、四年生がSS先生と受持って頂いたが、昭和二十年四月に鉄原に疎開することになり、三坂を離れた。

1998年の夏、定年退職後の身辺整理も一段落したので一週間の予定で彼の地を訪れた。三坂通り三十六番地の旧居あと、そして三坂国民学校あとの再訪が目的である。それまでにも何回か飛行機の乗り継ぎとか会議への出席の機会を利用して探索を試みたが、記憶のみで探り当てることが出来なかった。通訳の助けを借りて腰を据えての再挑戦、その意気に天が感じてくれたのか、あっけないほど容易にかっての龍山中学校の前に出た。となると足が勝手に動いて三坂国民学校の正門に通じる小道に入ると、藤棚の光景が目に飛び込んできた。右手にプールが見え、その底を一人の作業員がホースの水で洗い流していた。

かっては後ろに校舎があったはずの藤棚下のベンチに座った。脱腸を抱えていた私は体育の時間も具合の悪いときはここに座り、級友の動き回るのを見学していた馴染みの場所である。運動場の方を見やると時の流れが止るとともに、運動場を駆けめぐっている自分の姿が彷彿と浮かび上がってきた。

何年生の頃か、休み時間になると飛行機遊びをしていた。両手をひろげて急降下しては翼を翻し急上昇する。その瞬間に縄跳びなどしている女の子のスカートを翼先を引っかける。僚機も思い思いにターゲットを絞り、戦果を競い合っていた。女の子も「キャー」とは云うものの先生への告げ口などはなかった。

四年生に進級してからか、登校の際はグループを組んだ。裏門の手前で班長が「歩調取れっ」、「頭、右!」と号令をかけて校門に立つ歩哨の兵隊さんに敬礼して通り過ぎた。脚にゲートルを巻いていた。

授業に教練めいたものが取り入れられたのもその頃で、木柱に藁を巻き付けたのを敵兵に見立てて木銃で刺突する訓練があった。避難訓練では警戒警報が出ると防空頭巾をかぶり机の下に潜り込んだ。本物の警戒警報で帰宅したこともある。いつものように通りかかった馬車の荷車に御者の目を盗んで飛び乗り、肩下げカバンから非常食の乾パンを取り出し、後で母に叱られることを少しは気にしながらポリポリと囓った。空の要塞B29の飛行機雲を始めて目にしたのも避難の帰り道だった。

五年生になると疎開先の鉄原国民学校に通学、そこで敗戦を迎えた。ソ連軍侵攻のニュースに怯えながらも幸い汽車で京城に舞い戻り、十一月末の引揚げの日まで明治町に仮住まいをしていた。

日本への引揚げと共に三坂との繋がりは絶たれてしまった。というより疎開した時点で既に過去へ遡る手がかりの一切が失われたといって良い。戦後「朝鮮」という言葉自体もおずおずと雰囲気を窺いながら口にするようなご時世になり、三坂での想い出も「近づきがたいもの」として封じ込められて、それだけに三坂に対する思いは心に深く潜行していた。

大倉山図書館から連絡があり、届いたばかりの「鉄石と千草」を手にした瞬間に幻であった過去にしっかりと結びつけられたことを実感した。奥付にある最初の番号に電話をしたところ不通、もう一つの番号は持ち主が変わっていた。しかし三坂会事務局(KT)の記事を頼りにインターネットで検索すると、東京の財団法人の理事長として同氏の名前があった。東京の事務所に電話をするとK氏は外出されていたけれど、電話の女性に事情を話したところ「京城中学」とか耳にしたことがあるとの由、その言葉を聞いた瞬間目頭が熱くなり言葉がしばらく途切れてしまった。

後刻K氏よりお電話とファックスを頂き、三坂会の現状がつまびらかになった。事務局のOSさんとも連絡がつき、お力添えを頂いて三年生担任のT先生にご夫君のKJ氏ともどもお目にかかることが出来た。ご自宅でお昼をご馳走になりながら話が弾み私はいつしかかっての生徒に変身していた。両親が大切に持ち帰ってくれた三年生の通知表を先生にお目にかけ、通信欄に書かれていた二十歳前後の先生の美しい筆跡そのままで「お会い出来てたいへんうれしく思っております。お元気で」の言葉を五十九年の間を置いて書き加えて頂いたのは望外の喜びであった。



その後三坂会近畿支部の集会にも参加させて頂き、また遊び仲間でもあったAK氏とも再会を果たし、長年のわだかまりが少しずつほぐれけ始めている。

『国史教科書』が反日感情を煽っている?

2005-05-05 11:41:33 | 在朝日本人
「入門韓国の歴史―国定韓国中学校国史教科書」と「入門中国の歴史―中国中学校歴史教科書」(共に明石書店刊)の『精査』の結果をまとめるつもりであったが、両書を入手してまずそのページ数の多いのに驚かされた。『韓国』の方は430ページ、『中国』にいたっては1260ページを超える。そこで『精査』は早々と諦めてとにかく読み通すことにした。先ずは短い方の『韓国』を、である。

正直、読みづらかった。隣国とはいえこれまでほとんど知ることのなかった他所の国の歴史となれば、私にとって新しい事柄ばかりが出てくる。

高句麗、百済、新羅の三国時代はまだなじみがある。

すでに国民学校で習った神功皇后の三漢征伐で、新羅、高句麗、百済という名前は知っていた。しかし戦後は神功皇后の実在性自体が疑問になり、さらには百済を助けて日本軍が唐・新羅の連合軍と対戦した663年の白村江の戦いで大敗北したなんて、戦後の教科書ではじめて知って驚いたものだった。

この時代の前後に新羅にせよ百済にせよ、唐とか日本とか、結べる勢力と組んではまた離れ、結果的には新羅の三国統一につながっていく。版画家関野潤一郎の「慶州仏国寺」の屋根瓦に魅せられてぜひ訪れたいと思っている仏国寺が、この統一新羅の時代に建立されたものであることを知る。

そのあと、次から次へと『国』の生滅が相次ぐ。渤海が起こり高麗が後三国を再統一して親宋政策を取る反面、契丹、女真との抗争しそして蒙古との戦争につながっていく。40年間の戦争を経て最後に高麗は蒙古と和議を結ぶが、これを蒙古(元)に対する降伏とする『愛国的』「三別抄」を高麗・蒙古連合軍が平定するような『逆現象』も起きている。

われわれが「元寇」として知る戦役はこのように手軽に記述されている。
《元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。》

私はかって韓国からの留学生数名にこの「元寇」のことを尋ねたが、誰も知らなかった。文永の役では28000人の軍兵が、弘安の役では総計140000人の軍兵と4400隻の軍艦による大がかりな攻撃であった。しかし激しい暴風雨(『天佑の神風』)により二度ともこの侵攻が失敗したので、華々しく戦果を宣伝するには至らなかった。

中国で明が元に取って代わり、高麗が滅亡して朝鮮王朝が成立した。1392年のことである。朝鮮王朝は都を漢陽(現在のソウル)に移しその後500年余り、日本に屈服するまで存続した。

この間、朝鮮にとっての大きな国難は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、朝鮮側の云う壬辰倭乱である。《7年間の戦乱で朝鮮が受けた被害は大きかった。人口が大幅に減少し、国土がひどく荒れてしまった。耕地面積が以前の三分の一以下に減り、食糧問題が深刻になり、これに凶作と疫病まで重なり、農民の惨状をとうてい言葉には言い表せないものであった。》

このような『戦争の惨禍』を経たのではあるが、両国間に再び国交が回復した。
《壬辰倭乱の後、日本の徳川幕府は朝鮮の先進文化を受け入れようと、対馬島主を通じて交渉を認めるように朝鮮に求めてきた。朝鮮は、これを受け入れ、制限された範囲内で再び通交することを許したので、両国間の国交が再開された(1609)。》これが江戸時代に合計12回に亘る朝鮮国王の使節来日、すなわち朝鮮通信使につながる。

以上は教科書に現れた朝鮮と日本との接触の大まかな経緯である。折に触れての倭寇とか倭寇征伐がそれに加わる。

通信使について、《通信使は、外交使節としてだけではなく、私たちの先進文化と技術を伝えてあげる文化使節の役割もあわせてもち、日本の文化発展に大きく役立った。》という誇らしげな記述が続く。しかし日本人としては素直に受け取ってあげればそれまでのこと、テニオハに目くじらを立てることもない。

興宣大院君が政治の実権を握る頃(1863)から、朝鮮が騒然とした空気に包まれるようになった。とくに外国からの『侵略』への恐怖が大きな問題になる。

ロシア勢力の侵入とフランスの力を借りてこの侵入の排除、アメリカの江華島への侵入と追っ払い、日本の通商要求の拒否などが相次ぐ。これを認めると西洋の侵入が後続することを警戒したのである。しかし時代の流れに逆らうことが出来ずに、日本との江華島条約締結(1876年)を皮切りに、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの国々と条約を結んだが、これらはすべて不平等条約であった。

この辺りから朝鮮の政情は、開化に対する反動があるかと思えばさらに開化党による巻き返しなどで乱れ、それに外国勢力が割り込んできて次第に独立国としての実体を失っていくことになる。その間、農民の間にも外勢に対する反感、腐敗した政治にたいする不満が広まり、内憂外患が波状的に高まっていく。農民たちはついには東学農民軍を編成し政府軍に対峙する。農民軍を鎮圧出来ない政府の要請に応えては清国が軍隊を派遣すると、それに呼応して日本軍が日本人保護のためにまた軍隊を派遣する。

その上、日本の脅威を避けるためとの理由で高宗がロシア公使館にその居所を移す。

この状況を明治維新を経験してきた日本人として眺めると、『哀れ』としか云いようがない。独立国の体面はどこにもない。教科書にも《高宗は1年ぶりに慶運宮(今の徳寿宮)にもどり国号を大韓帝国に、年号を光武と定め、皇帝即位式を行い自主国家の体面を整えた(1897)。》と書かざるを得ないのである。

そして日清戦争、日露戦争を経て日本が覇権を握ると共に朝鮮にたいする支配力を強化し、ついには大韓帝国を併合するに至る。

《1919年日本帝国主義の侵略により、わが民族は国権を侵奪され、植民地支配を受けるようになった。朝鮮総督府は過酷な武断統治でわが民族の自由を抑圧し、土地と資源を略奪した。》

云うまでもなく、一つの独立国が他国に併合されて植民地となることほど、屈辱的なことはない。そのような経緯を歴史として『正史』に記録をとどめるとして、一体どのような書き方があるのだろう。それを次世代の教育の指針となる『歴史教科書』に記す立場に立てば、どのような書き方が望まれるだろう。

とどのつまり自らの価値観に基づいた『民族の歴史』を書くしか他に手はないだろうと私は思う。

その意味ではこの『国史教科書』はまさにその条件を満たしている。

第二次日韓協約により1905年に韓国統監府がおかれて、日本が大韓帝国の外交権を剥奪した。さらに1907年の第三次日韓協約で、立法・行政・人事のすべてを統監の承認事項として韓国内政の実権を掌握したころ、『国史教科書』では「義兵戦争」の章で次のような見出しが続く。「露日戦争と日帝の侵略」「乙巳条約(第二次日韓協約のこと)と民族の抵抗」「抗日義兵 闘争の再開」「ハーグ特使と軍隊解散」「義兵戦争の拡大」「義挙活動」「独島と間島」。

日本側の資料によっても、旧韓国軍の解散が強行されると、それに反対する兵士たちが積極的に参加した「義兵戦争」では、義兵の戦死者17779名、負傷者3706名、捕虜2139名となっており、『愛国者』の存在は疑いのない事実である。

さらに「民族の受難」の章では、《日帝は李完用を中心にした親日内閣に対して大韓帝国を日帝に合併する条約を強要し、ついにわが民族の国権を強奪した(1919)。》と「国権の侵害」で述べ、そして「憲兵警察統治」「土地の侵奪」「産業の侵奪」と苦難の歴史を列記する。

もちろん1919年の民族独立の達成を目指す3・1運動には一章を当てている。この3・1運動においても朝鮮側の犠牲者は死者が7645名、負傷者45562名を出している。

それのみか「大韓民国臨時政府」の章では「大韓民国臨時政府の樹立と活動」「独立運動基地の建設」「独立軍の抗戦」「韓国光復軍の対日闘争」「愛国志士の独立闘争」と果敢な抗日闘争が続いている。

1905年から1945年の40年間に限定しても、日本との関係で述べられている内容は日本人として気持ちよいものではない。そこでその気になって記述の個々に目を向けると、???の部分が目につき出す。

たとえば鉄道の敷設についての《我が国最初の鉄道としてソウルと仁川の間に京仁線が開通し、露日戦争を前後した時期に日本の侵略と関連して京釜線と京義線が開通した。》の部分。これを「近代文物の受容」の章で述べているが、主体が日清戦争の際に鉄道敷設権を獲得した日本であることが意図的にぼかされている。

《女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした。》の記述も、『挺身隊員』=『慰安婦』でないことだけははっきりしている。

時代は下るが朝鮮戦争の休戦に引き続き、このような記述がある。
《北韓共産軍が引き起こした625戦争は自由と平和に対する挑戦であり、同族相残の犯罪だった。数多くの人々が生命と財産を失い、工場や発電所、橋梁や鉄道などが破壊された。》これらのほとんどが日本の植民地経営の産物であることはどこにも触れられていない。

しかし、私はこのような個々の事柄の齟齬を問題にするよりは、全体の記述の流れに注目したい。そして思うのであるが、これ以外の書きようが果たしてあるのだろうか、と。

『屈辱の歴史』を克服するには、どのような小さいことであれ『愛国心の発揚』につながる事柄を取り上げることでもって対抗するしか仕方がないであろう。だから私はこの『国史教科書』からは、これが『反日感情』を掻き立てることを狙ったものとは受け取れなかった。

ただ同じく侵略した相手でも、中国に対する態度とは明らかに異なっているのも一方の事実である。

朝鮮戦争においては1950年6月25日午前4時の開戦から休戦協定に基づき砲声が止んだ1953年7月27日午後10時過ぎまでの間に、韓国軍の損害は戦死が約415000人、負傷及び行方不明約429000人。これだけの人的被害が北朝鮮軍と中国軍によってもたらされたのであるが、『国史教科書』では《国軍が鴨緑江と豆満江付近まで進撃し、統一が目の前に近づいたように見えたが、予期しない中国軍の介入によって再び退かざるをえなかった。中国軍は数多くの軍隊を動員し、人海戦術でおし進んできた。》と淡々と述べるだけで終わっている。

しかしこれにしてもこれは韓国の価値観であることを知ればそれで十分、われわれがとやかく言うことではあるまい。いずれにせよ、この時代の歴史は実はまだ『歴史』に至っていないのであるから。

韓国女性を妻とし、シカゴ大学で歴史の教鞭をとるBruce Cumingsの著書、"Korea's Place In The Sun A Modern History" に以下のような記述がある。Chapter Three, Eclipse, 1905-1945の冒頭である。

"For very different reasons, Japanese and Korean historians have shied away from writing about the period after 1910, using the basic stuff of doing history: primary sources, archival documents, intereviews. Pick up any of the major histories of Korea, and you will see that nearly all treat the twentieth century as an afterthought. Why?"

すなわち20世紀の朝鮮の歴史は書かれていないに等しい、と云っているのである。

確かにまだまだ多くの文書が秘密扱いされている、特に北朝鮮と韓国に於いては。そしてこう続いている。

"closed archieves are themselves symptomatic of deeper problems. For Korean historians the colonial period is both too painful and too saturated with resistance mythologies that cannot find verification in any arichive. (中略)In the South one particular decade - that between 1935 and 1945 - is an empty cupboard: millions of people used and abused by the Japanese cannnot get records on what they know to have happened to them, and thousands of Koreans who worked with the Japanese have simply erased that history as if it had never happened. Even lists of officials in local genealogical repositories (county histories, for example) go blank on this period."

《日帝は大韓帝国を植民地化するとすぐ、土地調査事業を実施し土地略奪に力を尽くす一方、各種資源を略奪した。》と『国史教科書』に述べられている。しかしこの『朝鮮土地調査事業』に朝鮮総督府が2400万円の巨費をかけ職員7020人を投入したが、この職員の内5666人が朝鮮人だった事実一つを取り上げても、この朝鮮人を韓国側が『裏切り者』と一刀両断してよいものやらどうやら、クリアすべき難問は山積している。

この歴史家の一つの見方に私は与するが故に、今の時点で両国が己の価値観で纏める歴史があっても致し方がないことだと思う。そういう不完全なものを前にして、『歴史』を教訓とするのはともかく、これを『争いの具』とする愚をわれわれは悟るべきではなかろうか。

(お断り 資料の出所は「国史大辞典」吉川弘文館、児島襄著「朝鮮戦争」です。)