日々是好日

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鳥賀陽弘道著「Jポップとは何か―巨大化する音楽産業―」を読んで

2005-05-22 10:34:30 | 音楽・美術
私は音楽好きを自認しているが、巷に溢れている音楽にはほとんど無関心、自分で歌ってみたいと思う歌がないのである。でも現在の音楽状況に関心が無いわけではない。今からでも遅くない、人の心を打つ歌を作り、一曲でも大当たりしたら、年金も気にせずに一生安楽に暮らしていけそうだから。そういう私に格好の本が目についた。鳥賀陽弘道著「Jポップとは何か―巨大化する音楽産業―」(岩波新書945)である。

手引き書のつもりで読み始めた。読み終わって『Jポップ』なる言葉が生まれた経緯が一応分かったものの、音楽としての『Jポップ』が何なのかは、結局私には分からずじまいだった。分かったのはせいぜい誰それが歌うような歌という程度である。

しかしそれも当然、著者は『音楽』そのものを記述の対象としたのではない。重点は『Jポップ産業複合体』、すなわちレコード会社、広告代理店、スポンサーなどの合議で音楽の作られていく過程の分析に置かれていたのである。そして『Jポップ産業』の興隆につづく退潮、『着メロ』の台頭と話が展開する。巨大化した『Jポップ産業』と政府・政界との接近にまでメスが加えられている。いわば『業界盛衰史』のようなもので、週刊誌記者である著者の長年にわたる豊富な取材に支えられて、随所に説得力のある分析をみる

いくつか私にとっての新知見を恣意的に拾い上げてみよう。

第2章「デジタル化は何をもたらしたか」では、『CDの発明とその普及』『プレーヤーの大衆化、低価格化』など音楽を聴く側の環境変化を取り上げる。作る側でも『シーケンサー+MIDI+サンプラー』一式を駆使して、楽器が弾けなくても音色を簡単に作りうる状況の生まれたことを説く。私たちも、そのようにして作った伴奏でコーラスを歌っているので、この技術革命の中身が素直に理解できる。「スタジオミュージシャンを使う必要がない」「小さなスタジオで済む」「スタジオを使わなくても、自宅での打ち込みで大半がつくれる」ようになり、録音にかける費用が大幅に節約される。まさにそうだから音楽作りが『隠居』の格好のお遊びになってくれるのである。

しかし、デジタル技術がもたらした機械化・」省力化・効率化によって音楽が大量生産されることになり、ひいては音楽の消耗品化の時代が始まった、と聞かされると淋しくなる。

第3章「テレビとヒット曲」では『CMタイアップ』『ドラマ・タイアップ』により大ヒットが生まれた事情が述べられている。これは日本に特有の現象であるらしく、「アメリカでは、歌手やバンドがテレビCMに出演したり、楽曲を書き下ろしたりすることは「アーティストの品格を落とす」としてむしろ敬遠されるからである。まず間違いなく批評家から下酷く批判される」とのことである。そうなのか、コマーシャリズムの毒されているのはアメリカではなく実は日本だったのである。

この『タイアップ』がポピュラー音楽に『規制のプロセス』を持ち込み『自己規制』を日常のものとする。その結果無難な作品のみが生み出される。またCMのような時節ものとタイアップするから楽曲が送り出されるサイクルが短くなった、と云う話も素直に分かる。長年歌い込まれることで生まれてくる『愛唱歌』誕生の素地なんて、とっくの昔に消え去っているのである。

第4章「ココロの時代の音楽受容」。カラオケとバンドブームを「音楽による自己表現の大衆化」と捉えているが、これが一つのキーワードとなっている。2003年現在、日本におけるカラオケの参加人口が4970万人もいて、「音楽鑑賞」人口4540万人より430万人も多いとの統計がこのことを裏付けている。日本人は「音楽を聴くより歌う国民」なのであるとの指摘は面白い。

しかしこのカラオケも『通信カラオケ』が主流になるにつけて、新曲がシングルの発売日と同時に端末に配信されるという。まずはカラオケで曲を聴いてから買う買わないを決めることが出来る。『自己表現ブーム』はいわば『(モノではない)心の豊かさ』を志向するものだったのである。

この自己表現においてはセルフアイデンティティーの確立が一つのキーポイントになる。音楽に傾倒するするにしても「自分にふさわしい音楽や歌手かどうか」が選択の重要な要素になる。文化消費者の自己愛を満たす歌手の到来につながる。

たとえば宇多田ヒカル、「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーを満たすがゆえに選ばれる。そして『ファンタジー』そのものであることを示すのが、日本国内でのアルバムの瞠目すべき売り上げに反して、アメリカでのデビュー版の無惨な販売数であったと著者は冷静に指摘する。その指摘の流れで、『疑似英語』で歌う日本人歌手を8組取り上げてその英語歌詞を検証し、宇多田ヒカルを唯一の例外として「英語と呼べるかどうかさえ怪しいものがほとんどだ」との喝破は小気味よい。インターナショナルに見えさえすればよしとする聴取者の姿勢、底が浅かろうがなんであろうが問題ではない。それで『商品』が売れればそれで万事オーライなのである。

「日本は世界二位の巨大な音楽消費地でありながら、そのポピュラー音楽の日本国外での売り上げやオンエアはゼロに等しい」と第5章「日本という音楽市場」で述べられている。「日本人がつくる音楽の99.5パーセントは日本国内で消費され、日本国外で消費されるのは僅か0.5パーセント」。海外進出は0に等しいが、日本人が買うCDや、ラジオやテレビで流れる音楽の四分の一は洋楽という圧倒的に輸入超過国になっているのが現状なのである。

このローカルな日本市場でCDは再販制で価格が守られていて、相変わらず値段が下がらない。それにアメリカのように無数のFM放送局が絶えず音楽を流しているような状況ではない。著者によるととにかく「日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない」のである。我が国では文化消費者が極めて不当に取り扱われているとの思いが深まる。

Jポップ産業は急成長の10年が終わったようなのである。それに取って代わったのが着メロとDVD、とくに着メロである。既に通信カラオケを上まわる大きさに成長しているそうである。15秒、場合によっては5秒になるかならないかの演奏は私にとっては既に音楽ではない。まさに『着メロ』なのである。

音楽を真に愛し愉しみ、そして創造しようとする人はこれからどの方向に進むべきなのか、それがこの本の問いかける課題であるように思う。一曲を当てるなんてなかなか簡単にできそうにもない。