日々是好日

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『国史教科書』が反日感情を煽っている?

2005-05-05 11:41:33 | 在朝日本人
「入門韓国の歴史―国定韓国中学校国史教科書」と「入門中国の歴史―中国中学校歴史教科書」(共に明石書店刊)の『精査』の結果をまとめるつもりであったが、両書を入手してまずそのページ数の多いのに驚かされた。『韓国』の方は430ページ、『中国』にいたっては1260ページを超える。そこで『精査』は早々と諦めてとにかく読み通すことにした。先ずは短い方の『韓国』を、である。

正直、読みづらかった。隣国とはいえこれまでほとんど知ることのなかった他所の国の歴史となれば、私にとって新しい事柄ばかりが出てくる。

高句麗、百済、新羅の三国時代はまだなじみがある。

すでに国民学校で習った神功皇后の三漢征伐で、新羅、高句麗、百済という名前は知っていた。しかし戦後は神功皇后の実在性自体が疑問になり、さらには百済を助けて日本軍が唐・新羅の連合軍と対戦した663年の白村江の戦いで大敗北したなんて、戦後の教科書ではじめて知って驚いたものだった。

この時代の前後に新羅にせよ百済にせよ、唐とか日本とか、結べる勢力と組んではまた離れ、結果的には新羅の三国統一につながっていく。版画家関野潤一郎の「慶州仏国寺」の屋根瓦に魅せられてぜひ訪れたいと思っている仏国寺が、この統一新羅の時代に建立されたものであることを知る。

そのあと、次から次へと『国』の生滅が相次ぐ。渤海が起こり高麗が後三国を再統一して親宋政策を取る反面、契丹、女真との抗争しそして蒙古との戦争につながっていく。40年間の戦争を経て最後に高麗は蒙古と和議を結ぶが、これを蒙古(元)に対する降伏とする『愛国的』「三別抄」を高麗・蒙古連合軍が平定するような『逆現象』も起きている。

われわれが「元寇」として知る戦役はこのように手軽に記述されている。
《元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。》

私はかって韓国からの留学生数名にこの「元寇」のことを尋ねたが、誰も知らなかった。文永の役では28000人の軍兵が、弘安の役では総計140000人の軍兵と4400隻の軍艦による大がかりな攻撃であった。しかし激しい暴風雨(『天佑の神風』)により二度ともこの侵攻が失敗したので、華々しく戦果を宣伝するには至らなかった。

中国で明が元に取って代わり、高麗が滅亡して朝鮮王朝が成立した。1392年のことである。朝鮮王朝は都を漢陽(現在のソウル)に移しその後500年余り、日本に屈服するまで存続した。

この間、朝鮮にとっての大きな国難は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、朝鮮側の云う壬辰倭乱である。《7年間の戦乱で朝鮮が受けた被害は大きかった。人口が大幅に減少し、国土がひどく荒れてしまった。耕地面積が以前の三分の一以下に減り、食糧問題が深刻になり、これに凶作と疫病まで重なり、農民の惨状をとうてい言葉には言い表せないものであった。》

このような『戦争の惨禍』を経たのではあるが、両国間に再び国交が回復した。
《壬辰倭乱の後、日本の徳川幕府は朝鮮の先進文化を受け入れようと、対馬島主を通じて交渉を認めるように朝鮮に求めてきた。朝鮮は、これを受け入れ、制限された範囲内で再び通交することを許したので、両国間の国交が再開された(1609)。》これが江戸時代に合計12回に亘る朝鮮国王の使節来日、すなわち朝鮮通信使につながる。

以上は教科書に現れた朝鮮と日本との接触の大まかな経緯である。折に触れての倭寇とか倭寇征伐がそれに加わる。

通信使について、《通信使は、外交使節としてだけではなく、私たちの先進文化と技術を伝えてあげる文化使節の役割もあわせてもち、日本の文化発展に大きく役立った。》という誇らしげな記述が続く。しかし日本人としては素直に受け取ってあげればそれまでのこと、テニオハに目くじらを立てることもない。

興宣大院君が政治の実権を握る頃(1863)から、朝鮮が騒然とした空気に包まれるようになった。とくに外国からの『侵略』への恐怖が大きな問題になる。

ロシア勢力の侵入とフランスの力を借りてこの侵入の排除、アメリカの江華島への侵入と追っ払い、日本の通商要求の拒否などが相次ぐ。これを認めると西洋の侵入が後続することを警戒したのである。しかし時代の流れに逆らうことが出来ずに、日本との江華島条約締結(1876年)を皮切りに、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの国々と条約を結んだが、これらはすべて不平等条約であった。

この辺りから朝鮮の政情は、開化に対する反動があるかと思えばさらに開化党による巻き返しなどで乱れ、それに外国勢力が割り込んできて次第に独立国としての実体を失っていくことになる。その間、農民の間にも外勢に対する反感、腐敗した政治にたいする不満が広まり、内憂外患が波状的に高まっていく。農民たちはついには東学農民軍を編成し政府軍に対峙する。農民軍を鎮圧出来ない政府の要請に応えては清国が軍隊を派遣すると、それに呼応して日本軍が日本人保護のためにまた軍隊を派遣する。

その上、日本の脅威を避けるためとの理由で高宗がロシア公使館にその居所を移す。

この状況を明治維新を経験してきた日本人として眺めると、『哀れ』としか云いようがない。独立国の体面はどこにもない。教科書にも《高宗は1年ぶりに慶運宮(今の徳寿宮)にもどり国号を大韓帝国に、年号を光武と定め、皇帝即位式を行い自主国家の体面を整えた(1897)。》と書かざるを得ないのである。

そして日清戦争、日露戦争を経て日本が覇権を握ると共に朝鮮にたいする支配力を強化し、ついには大韓帝国を併合するに至る。

《1919年日本帝国主義の侵略により、わが民族は国権を侵奪され、植民地支配を受けるようになった。朝鮮総督府は過酷な武断統治でわが民族の自由を抑圧し、土地と資源を略奪した。》

云うまでもなく、一つの独立国が他国に併合されて植民地となることほど、屈辱的なことはない。そのような経緯を歴史として『正史』に記録をとどめるとして、一体どのような書き方があるのだろう。それを次世代の教育の指針となる『歴史教科書』に記す立場に立てば、どのような書き方が望まれるだろう。

とどのつまり自らの価値観に基づいた『民族の歴史』を書くしか他に手はないだろうと私は思う。

その意味ではこの『国史教科書』はまさにその条件を満たしている。

第二次日韓協約により1905年に韓国統監府がおかれて、日本が大韓帝国の外交権を剥奪した。さらに1907年の第三次日韓協約で、立法・行政・人事のすべてを統監の承認事項として韓国内政の実権を掌握したころ、『国史教科書』では「義兵戦争」の章で次のような見出しが続く。「露日戦争と日帝の侵略」「乙巳条約(第二次日韓協約のこと)と民族の抵抗」「抗日義兵 闘争の再開」「ハーグ特使と軍隊解散」「義兵戦争の拡大」「義挙活動」「独島と間島」。

日本側の資料によっても、旧韓国軍の解散が強行されると、それに反対する兵士たちが積極的に参加した「義兵戦争」では、義兵の戦死者17779名、負傷者3706名、捕虜2139名となっており、『愛国者』の存在は疑いのない事実である。

さらに「民族の受難」の章では、《日帝は李完用を中心にした親日内閣に対して大韓帝国を日帝に合併する条約を強要し、ついにわが民族の国権を強奪した(1919)。》と「国権の侵害」で述べ、そして「憲兵警察統治」「土地の侵奪」「産業の侵奪」と苦難の歴史を列記する。

もちろん1919年の民族独立の達成を目指す3・1運動には一章を当てている。この3・1運動においても朝鮮側の犠牲者は死者が7645名、負傷者45562名を出している。

それのみか「大韓民国臨時政府」の章では「大韓民国臨時政府の樹立と活動」「独立運動基地の建設」「独立軍の抗戦」「韓国光復軍の対日闘争」「愛国志士の独立闘争」と果敢な抗日闘争が続いている。

1905年から1945年の40年間に限定しても、日本との関係で述べられている内容は日本人として気持ちよいものではない。そこでその気になって記述の個々に目を向けると、???の部分が目につき出す。

たとえば鉄道の敷設についての《我が国最初の鉄道としてソウルと仁川の間に京仁線が開通し、露日戦争を前後した時期に日本の侵略と関連して京釜線と京義線が開通した。》の部分。これを「近代文物の受容」の章で述べているが、主体が日清戦争の際に鉄道敷設権を獲得した日本であることが意図的にぼかされている。

《女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした。》の記述も、『挺身隊員』=『慰安婦』でないことだけははっきりしている。

時代は下るが朝鮮戦争の休戦に引き続き、このような記述がある。
《北韓共産軍が引き起こした625戦争は自由と平和に対する挑戦であり、同族相残の犯罪だった。数多くの人々が生命と財産を失い、工場や発電所、橋梁や鉄道などが破壊された。》これらのほとんどが日本の植民地経営の産物であることはどこにも触れられていない。

しかし、私はこのような個々の事柄の齟齬を問題にするよりは、全体の記述の流れに注目したい。そして思うのであるが、これ以外の書きようが果たしてあるのだろうか、と。

『屈辱の歴史』を克服するには、どのような小さいことであれ『愛国心の発揚』につながる事柄を取り上げることでもって対抗するしか仕方がないであろう。だから私はこの『国史教科書』からは、これが『反日感情』を掻き立てることを狙ったものとは受け取れなかった。

ただ同じく侵略した相手でも、中国に対する態度とは明らかに異なっているのも一方の事実である。

朝鮮戦争においては1950年6月25日午前4時の開戦から休戦協定に基づき砲声が止んだ1953年7月27日午後10時過ぎまでの間に、韓国軍の損害は戦死が約415000人、負傷及び行方不明約429000人。これだけの人的被害が北朝鮮軍と中国軍によってもたらされたのであるが、『国史教科書』では《国軍が鴨緑江と豆満江付近まで進撃し、統一が目の前に近づいたように見えたが、予期しない中国軍の介入によって再び退かざるをえなかった。中国軍は数多くの軍隊を動員し、人海戦術でおし進んできた。》と淡々と述べるだけで終わっている。

しかしこれにしてもこれは韓国の価値観であることを知ればそれで十分、われわれがとやかく言うことではあるまい。いずれにせよ、この時代の歴史は実はまだ『歴史』に至っていないのであるから。

韓国女性を妻とし、シカゴ大学で歴史の教鞭をとるBruce Cumingsの著書、"Korea's Place In The Sun A Modern History" に以下のような記述がある。Chapter Three, Eclipse, 1905-1945の冒頭である。

"For very different reasons, Japanese and Korean historians have shied away from writing about the period after 1910, using the basic stuff of doing history: primary sources, archival documents, intereviews. Pick up any of the major histories of Korea, and you will see that nearly all treat the twentieth century as an afterthought. Why?"

すなわち20世紀の朝鮮の歴史は書かれていないに等しい、と云っているのである。

確かにまだまだ多くの文書が秘密扱いされている、特に北朝鮮と韓国に於いては。そしてこう続いている。

"closed archieves are themselves symptomatic of deeper problems. For Korean historians the colonial period is both too painful and too saturated with resistance mythologies that cannot find verification in any arichive. (中略)In the South one particular decade - that between 1935 and 1945 - is an empty cupboard: millions of people used and abused by the Japanese cannnot get records on what they know to have happened to them, and thousands of Koreans who worked with the Japanese have simply erased that history as if it had never happened. Even lists of officials in local genealogical repositories (county histories, for example) go blank on this period."

《日帝は大韓帝国を植民地化するとすぐ、土地調査事業を実施し土地略奪に力を尽くす一方、各種資源を略奪した。》と『国史教科書』に述べられている。しかしこの『朝鮮土地調査事業』に朝鮮総督府が2400万円の巨費をかけ職員7020人を投入したが、この職員の内5666人が朝鮮人だった事実一つを取り上げても、この朝鮮人を韓国側が『裏切り者』と一刀両断してよいものやらどうやら、クリアすべき難問は山積している。

この歴史家の一つの見方に私は与するが故に、今の時点で両国が己の価値観で纏める歴史があっても致し方がないことだと思う。そういう不完全なものを前にして、『歴史』を教訓とするのはともかく、これを『争いの具』とする愚をわれわれは悟るべきではなかろうか。

(お断り 資料の出所は「国史大辞典」吉川弘文館、児島襄著「朝鮮戦争」です。)

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