日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

もう一つの教科書問題 『国民学校の教科書』

2005-05-10 11:37:01 | 在朝日本人
書棚を見わたしていると,、入江曜子著「日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書を読む-」が目に留まった。取り出してみると、第一章の途中まで目を通した形跡がある。出版が2001年12月20日であるから購入して直ちに読み始めたのであろうが、はやばやとギブアップしたようである。改めて読み返しだしたがやはり読みづらい。この教科書が出来上がるまでの歴史的経緯を述べる過程で、いろいろな文書からの『引用文』が出てくるが、それが読みづらい(これは著者の責任ではないのであるが)。

私は純粋培養された『軍国少年』のなれの果てであることを自認している。そして奇しくも著者の入江曜子氏も早生まれであるが私とまったく同学年、すなわち《小学校とは無縁だった唯一の年度》に属していることを、今回初めて認識した。その入江氏がわれわれが使ってきた国民学校教科書がどのようなものであったかを解説してくださるのであるから、なにはともあれ再挑戦を試みた。

ところが今回はなんと、「はじめに―今なぜ戦時中の教科書か」で引っかかってしまった。

2ページにこのような記述がある。
《それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20)年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう》

これは1999年に小淵元首相(1937年生まれ)の主導のもとに強行採決により制定された「国民国家法」、2000年の森元首相(1937年生まれ)の「日本は天皇を中心とした神の国」発言、さらには2001年の「新しい歴史教科書をつくる会」による高校歴史教科書の文部科学省による検定合格、の記述を受けたものである。

著者が何を云いたいのか、お分かりいただけるであろう。

とにかくこの本を通読した。教科書からの引用文に思い当たるものも少しはあったが、
教科書の中身は私の頭からはほとんど脱落していると思う。そして私は随所に出てくる著者のコメント一切なしの完全復刻版教科書を見たくなった。著者のコメントがけっこう煩わしいのである。

その一例、96ページにこのようなくだりがある。
《国来い、国来い、えんやらや。神さま つな引き、お国引き。
 しま来い、しま来い、えんやらや。はっぽう のこらず よって来い。(『うたのほん下』)
 第五期独自に書き下ろされたこの「国引き」とセットになった国民学校唱歌は、上級生までも珍しがって口ずさんだものである。
 神話の世界への入り口となった「国引き」はイザナギ・イザナミの「国生み」とともに、高学年における日本の領土拡大政策-侵略戦争賛美の比喩としての伏線であった。》

『職業作家』ならではのこのような深読みが、私には押しつけがましくて煩わしいのである。それでも私は最後の第八章、「大日本青少年団と隣組」まで読み進み、この章の最後のパラグラフ(220ページ)に至った。

《 この時代、このような教育と訓練の名による超国家主義思想を刷り込まれた子供たちの不運は、一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感-判断停止のラク(付点付き)さを知ってしまったことである。そしてもう一つの不幸は、全体主義の前に、個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。》

そして「おわりに―アジアへの視点」と続く。

著者の論旨では、その超国家主義思想を刷り込まれた子供たちのなれの果てである小渕元総理や森元総理が、と私が冒頭に述べた引用に戻るのである。

しかしこの最後のパラグラフはいわば私自身のことを云っていることにもなる。と思った瞬間、この著書に馴染めなかった理由がはっきりと浮かび上がった。刷り込みなのかどうか、この著者は自分の『思い込み』への執着が強すぎて、客観的な検証を等閑にしたままの主観的主張に陥っているからである。

たとえば著者の一つのキーワード、『刷り込み』を取り上げる。

私の理解するところでは、『刷り込み』はもともと動物行動学における用語で、「岩波生物学事典第四版」731ページにもその説明がある。関わりのあるところを取り出すと、《(前略)動物の生後ごく早い時期に起こる特殊なかたちの学習。(中略)刷り込みは、限られた、しかもごく短い期間(この期間を感受期sensitive periodあるいは臨界期critical periodといい、object imprintingでは数日から数時間)のみに起こり、かつ学習されたものはふつう一生のあいだ忘れられることがない点で、一般の学習と異なるとされる。(後略) 》

多分著者は私が強調した部分を『刷り込み』という言葉で言いたかったのであろう。しかしもともとこのように定義づけられる用語を、教科書を介する学習に適用して、一生のあいだ忘れられることがないなる部分だけを強調するのは牽強付会の論と云わざるをえない。この強調の裏に、「何かことがあると、この『刷り込み』が作動する」という著者の思い込みが見え隠れする。

私のこの批判を具体的な形で示そう。たとえば以下の文を著者の220ページのパラグラフに続ければ良い。私たちかっての『少国民』がそこで成長を止めてしまったわけではないから。

しかしこの子供たちは『敗戦』により、絶対の『権威』が一挙に崩壊するという劇的な瞬間に遭遇した。絶対と思われた『価値観』がその社会の、そして時代の産物であることを身を以て学んだのである。その対比として何事であれ自分で判断できる自我の確立に目覚めた。そしてたとえ生活は貧しくても、命を守るために逃げ回らずにすむ『平和』の有り難さに、その尊さをしみじみと味わったのである。

『同期の桜』はそれぞれの思いをこれに付け加えてくれるであろう。

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