日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

今年も京城府立三坂小学校の同窓会

2008-05-20 23:42:26 | 在朝日本人

今年も関西三坂会が京都駅近くのホテルで昨日開かれて49名が参集した。昨年の31名にくらべると大幅増である。いつものように「運動会のうた」の斉唱で会が始まった。私が三坂会の存在を知って始めて出た集まりでこの歌が歌われた時は、半世紀以上も歌うことはもちろん思い出すこともなかった歌なのに、歌い始めると節がすらすらと出てきたのに驚いたものである。開会と閉会の時にそれぞれ二番まで歌うが、開会の一番と閉会の二番をは次のような歌詞である。

  鉄石のごと 身もかたく
  心も強き 国たみは
  とよさかのぼる 日の御旗
  かがやく国の 宝なり
  我等は 日本男児なり
  われらは御くにの おみななり
  日ごろ鍛えし このからだ
  きょうぞ試さん いざやいざ

  学ばん時も かくのごと
  遊ばん時も かくのごと
  元気はわれらの いのちなり
  心やすかれ ちちははよ
  家をも興し 身をもたて
  国をまもるは このからだ
  鉄石よりも いやかたく
  鍛え鍛えん たゆみなく

一番の「我等は 日本男児なり」は男子のみが、「われらは御(み)くにの おみななり」は女子のみが歌う。男女対等のようだが考えてみればこの時代は女性に参政権が無かったのだな、とあらためて時の経過を実感する。二番の歌詞などもどれほど実感をもって歌っていたのか今となっては思い出せないが、われわれ全員がそれを励みとする純真無垢な少国民であったことは間違いなかろう。今の子供に歌ってきかせたらどのような反応が戻ってくるのか試してみたくなる。2005年10月に東京で開かれた最後の全国大会では東フィルのブラスメンバーによる演奏でこの歌を歌ったが、その時に録音しておかなかったことが今でも悔やまれる。どなたか録音テープをお持ちではないだろうか。

ブログを書いておられるのでは、と一人の方に声をかけられた。その方の弟さんが昨年の関西三坂会のブログ記事のコピーを送ってこられたそうである。在五の出席者は私一人なのですぐに分かったとのことである。去年旧三坂小学校周辺を訪れた際の写真をいろいろと見せていただいた。その中には校舎の横に建てられた大きな体育館があった。上の記事に掲載したGoogle写真にも写っていた大きな青い屋根の正体である。ここは木造の便所があったところで、厳冬ともなると排泄物が凍りその上にまた堆くなって石筍のように便器から頭をもたげ上げるようになる。自分では使ったこともないので何故そのようなことを知っているかと言えば、その片付けにクラスが多分動員されたからだと思う。錫杖のような鉄棒でコツンコツンと山を打ち砕き、ショベルですくい上げて肥たごに移したのだろう。そんなこをとふと思い出してつい興奮気味にとくとくと話しをしたものだから、「お食事中ですのに」と同じテーブルの女性にたしなめられてやっと我に返る始末であった。私のテーブルには四年上の女性が四人に男性が一人、二年上の男性が二人で皆さんが私のかっての上級生だったのでつい羽目を外してしまった。でも頷いてくださる女性もいたので、私の記憶の肝心なところは間違っていなかったようである。

隣には昭和20年卒業の方がおられた。龍山中学に入学したものの勤労奉仕で明け暮れしている間に敗戦を迎えたとのことだった。顔の色つやのよい健康的な方で、ウイスキーの水割りを次から次へとお変わりをされる。数えた訳じゃないけれど10杯ではきかないと思う。まさに日本男児ここにありである。とても洒脱な方で、年長者ならではの記憶のはっきりとしたお話をいろいろと聞かせていただいた。引き揚船で11月21日に博多に戻ってきたと仰る。アレッと思って船名を尋ねるとこがね丸との返事が戻ってきた。在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」でにかって書いたように、私の引き揚げ船もこがね丸だったのである。11月下旬に博多に辿り着いたとの記憶はかすかにあったが日にちまでは覚えていなかった。釜山で一週間は乗船待機したので一ヶ月にこがね丸が運航された回数はそれほど多くは無かったと思うと、この先輩とは同じ船で引き揚げてきた可能性がきわめて高い。そこでこの日を私の博多港への帰還日とすることに決めた。

来年もまた新しい発見があるかも知れない。


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15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
三坂小卒業 (品川 和子)
2011-09-24 06:35:47
昭和2年生まれ、83歳になります。
戦後、山口県の須金に帰って来て、
現在は、北九州市に居住しています。
三坂小の同期には、山田勝子さんらが
いらっしゃいますが、皆さん元気にして
おられますでしょうか。
同窓会ももう解散してしまいましたね。
返信する
斉藤様 追伸 (lazybones)
2011-04-13 00:08:44
コメント欄をお使い下さっても結構です。
非公開扱いとして内容のみをコピーして石井様宛にお送り出来ますので。
返信する
メール未着 (lazybones)
2011-04-12 23:50:59
斉藤様
コメントをお寄せ頂き有難うございます。
ご連絡先のメールをお送り頂いたとのことですが、残念ながら私のメールボックスには届いておりません。お手数ですが再度
lazybones9@goo.jp
にお送り下さるようお願い申し上げます。
ただフリーメールだと「受信拒否」に設定している可能性がありますので、どうかご留意下さい。
返信する
とりあえずご返事いたします (齋藤健一郎)
2011-04-12 18:36:55
石井良枝様
 ①古い資料等を見ますと 斉藤酒造
  はかなり大規模な会社だったようで
  す。聞いたところによると祖父・久
  太郎は最盛期は食品・農場等20社
  以上の会社経営をし、
  朝鮮ではかなりの実業
  家として生きていたようです。
  当時の名刺と京城(と思われる)の
住まいの写真が我が家に残っていま
  す。祖父の出身は長崎県・壱岐で
  す。13歳くらいに単身 朝鮮に渡
  ったと父から聞いたことがあり
  ます。
 ②私の父・久哉は久太郎の長男にあた
  り、姉4人、妹1人の中で育ちまし
  た。ちなみに 3番目、4番目の姉は
  お陰さまで健在です。父は今年1月
  90歳で亡くなりました。私は久哉の
  長男です。
 ③父は生まれは大連ですが、7歳頃
  から18歳くらいまで京城に住んでい
  たと思います。その後、東京の
  大学に進みました。戦時中は
 旧ビルマで軍人生活を送り、
 戦後は結婚し 大分・別府の斉藤久太郎別荘を旅館に転換し、暫く住んでいました。ですから私は別府で生まれです。
 ④伯父・斉藤シンジとお書きになられているのは 多分、斉藤信次(ノブジ)
 と思われます。長男は信太郎(シンタロウ)と申し、現在、東京に在住です。年齢的には一致いたします。
⑤私の連絡先は 数日前に、ブログ主様に住所、電話番号・メールアドレスを
送信させて頂いておりますが、私の
パソコン技術が稚拙なため、ひょっとしてうまく届いていないのかもしれませんね。お手数ですが、石井様のほうで
 何らかの方法で ブログ主様に
 ご確認頂ければ 幸いです。
 もし 未着ならば 再度 送信させていただくのはやぶさかではございません。では よろしくお願い申し上げます。
           齋藤 健一郎
       



 


  
 
返信する
こちらこそ、嬉しいです (石井 良枝)
2011-04-12 11:03:40
齋藤健一郎 様

 このブログを発見していただいたこと、こちらこそ感謝です。
 母が少しずつ思い出しながら、勝手に二人で思いを馳せております。
 私も、斎藤酒造のことをお伺いしたいです。あのような会社が、あの時代にあったことがスゴイです。あの会社のことが日本に知られていたら、日本のその後の発展も変わっていたのではないかと、この震災の後に考えます。
 長男の息子さんでしょうか?
 お父様は、おいくつで亡くなられたのか。朝鮮の学校を出られたのでしょうか。平壌にいらっしゃたのか。
 京城でお目にかからなかったようだと母は申します。
 母が覚えているのは、長女の方の着物、振り袖を借りて結婚式を執り行ったこと。写真に写ってられるかも知れないそうです。
 伯父さんに、「斎藤シンジ」(戦後別府市在)さんはいらっしゃいませんか。その息子さんにシンちゃん(現在75才くらいのかた)という方がいらっしゃったとか。

 母は、斎藤酒造は日本一の酒造会社だった。それもすべての副産物を別の商品にし有効利用していて、今の時代のエコを先取りし、実践していた。お人柄も立派で、奥様も上品な方で、と申します。

 私は、このブログ主の方とお会いしたことがあり、両者とも、まぁまぁ問題のない、連絡しても大丈夫(?)な、信頼出来る(ホントかな?)人間だとおもいますので、ご遠慮なくご連絡ください。
 電話番号でもご教えていただければ、ご連絡いたします。
蛇足ながら、です。
返信する
ご返事感謝いたします (齋藤健一郎)
2011-04-07 12:36:32
石井 良枝様
 早速、ご返事を頂戴し
 ありがとうございます。
  石井様と何らかの形で
  ご連絡取らせていただくことは
  全く差し支えありません。
  別途 ご要望のとおりプログ主様
  経由で 小生の連絡先をお伝えい
  たしたく存じます。その節は 
  何卒よろしくお願い申し上げます。
           齋藤健一郎
返信する
驚いたままに (石井良枝(いしい よしえ))
2011-04-07 08:25:20
齋藤健一郎さま

 初めまして。
 ご連絡ありがとうございます。
「いしいよしえ様」とある投稿を拝見して、夢の中で見ているような感覚を持ちました。
「最近亡くなった 父より」とあり、残念な思いがわき上がりました。
 心を落ち着かせて、今朝母に、「斎藤さんのお孫さんからご連絡があった」旨を電話で伝えたところ、私がこのコメント欄に書いた事を知らない母は一層驚いたようです。
「そう、久太郎さん」「たしか私の結婚のときの着物は、娘さんの式服を借りた」「自宅は、大きなお屋敷で女中さんが二人いて」「娘さんと日本でも会ったことがある」と、思い出すことが多くてどんどん言葉があふれでてきて、私が戸惑うほどでした。
 聞いたことのない話しが、どんどん出てきます。

 斎藤さまのお父様のお話しされていた京城のことなど、お伺いすることができれば、母も若き日の想い出が蘇るのではないかと、嬉しく思います。
 斎藤様のお気持ちで、もしお話することが可能でしたら、このブログの主でいらっしゃいます「lazybones9」さん宛に斎藤様のメールアドレス、または連絡先をお伝えいただければ幸いです。当方にご連絡いただけるかと思います。
 小田原の町を歩いたことを思い出しながら、春の嬉しさを感じています。

          石井 良枝(京都市)

 ブログ主さまのメールアドレスは、このブログの右欄にあります。
 lazybones9@goo.jp
返信する
思いがけない投稿になります (齋藤健一郎)
2011-04-06 20:33:27
いしいよしえ様
 偶然、貴女のコメントを拝見しました。
 齋藤酒造を経営しておりました
 齋藤久太郎の孫にあたります。
 最近亡くなった 父より朝鮮時代の
 祖父・久太郎については 良く話を
 聞かされておりました。
          齋藤健一郎
         (神奈川県小田原市)
返信する
「運動会の歌」、名古屋でも歌われていました (nagoya)
2010-11-12 09:15:35
**送付が不調であったための再送です**

このサイトを拝見して、初めてお便りします。昭和17年長崎生まれで、戦後、小学校時代を名古屋で過ごした者です。名古屋でもこの「運動会の歌」を歌っていたのを思い出し、お便りすることにしました。それは、昭和27-28年頃のことです。歌詞はそちらの歌を元歌にして戦後流に多少変えたもののようです。

  鉄石のごと身もかたく
  心も強き国たみは
  民主の国を打ち立てん
  平和の国の宝なり
  我等は日本男児なり
  われらは御くにのおみななり
  日ごろ鍛えしこのからだ
  きょうぞ試さんいざやいざ

  夕陽はゆるかんばせは
  み空にそびゆる富士のごと
  清く雄々しき我が友よ
  つどえやつどえこの庭に
  今日の名残をもろともに
  声をそろえて歌わなん
  我らの意気は天をつく
  楽しきひとときこのひと日

この2番は別の方が探しておられる3番に当るのではないかと思われますが、いかがでしょうか? 外地におられた多くの方々が、終戦後、国内に帰還され、各地にこの歌が広まったのではないかと思っております。

そこで、もしご存知でしたら教えて頂きたいことが二つばかりございます。

1.皆様が歌われた「運動会の歌」の作曲者と作詞者は分かるでしょうか?

2.この歌は大正期の「運動会の歌」とちょっと似ていると思うのですが、何か関係があるか分かる方はおられるでしょうか?

  強く体を馴さんと、
  堅くこころを鍛へんと、
  日頃つとめし練習の
  出来ばへ見するは今日なるぞ。
  振へ、振へ、わが友。
http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/jinjo2/jinjo2.html
返信する
三坂小学校の関西同窓会にて (いしい よしえ)
2010-05-28 09:12:19
5月24日に、22日の清水さんのコメントとlazybonesさんの返答を拝見して、偶然にも「関西三坂会」が2日後だと分かり、是非同席したいと思ってメールをいたし、手はずをとっていただき、参加できましたこと、とても嬉しく思っています。
お手配を頂いて、本当に有り難うございました。

運動会の歌、ブログを拝見していて知っていたものの、初めて聞きますと、特に男子と女子が分かれて歌うところは、驚いたものの、そこに力強さと、皆さんの幼い頃の健気なさを感じて、涙ぐみそうでした。
皆さんのご様子を拝見し、母が同時代の三坂通りを歩き、皆さんと同じ地域で暮らしていたこと、京城で日本人の暮らしがあり、日々国のためにと思い様々なことをなさっていたこと。
知っていくと、思いを深くしながらも、これからも、皆さんがお元気で日々楽しく過ごされることを、願うばかりです。

それと共に、現在の日本の人々の暮らしや社会の出来事を思うと、いったい何がその人の人となりをつくっていくのか、生きる力をつくっていくのかと思い、頭の中が混乱しそうです。

三坂通り101番地、斎藤酒造の社長宅の隣、社宅にいた母ですが、そのことを話したところ、ある方が、知っている、その会社とその会社がしていた「金千代会館」があったと伺いました。
戻って母に伝えますと、「金千代会館」は祖父が商品仕入れの支配人をしていたようで、ネットで検索したところ、東大のアーカイブで、
京城日報 昭和14年5月15日発行「商業写真懸賞募集」広告
が、ででてきました。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/umdb/newspaper1000?s=1901&c=25&title=&place=&publisher=&gengo1=&year1=&gengo2=&year2=¬e=&image=

そこで斎藤酒造は、平壌にもあったと分かり、母に伝えると、当たり前のように、平壌のほうが大きかったかもと、言いました。私は当然京城が拠点だと思っていたので、調べ方を間違っていたようです。
 時代が違い、立場が違うと、同じ事を様々な方向で理解しているようです。

三坂通りを母が歩き、その近くを小学生の皆さんが歩いてられることを想像しながら、みなさんがどんなカバン、ランドセルなのか肩下げ袋なのかも分からないのです。

日々の雑事に過ごす中であっても、ひとときでも、母のある時代に戻れたこと、みなさんにお会い出来たことを嬉しく思います。
返信する
今年も (lazybones)
2010-05-22 22:01:23
今年も関西三坂会が5月26日(水)11時から、京都センチュリーホテルで開かれます。昭和7年生まれの方たちが主力でお世話をされていますので、よろしければお越し下さい。詳細のお問い合わせはlazybones9@goo.jp宛に返信用のメールアドレスともお送り下さい。
返信する
小学校 (清水正一)
2010-05-22 00:26:17
昭和16年8月まで京城三坂小学校に在籍同月日本に帰国開戦終戦と混乱期を過ごし小学校同期の方どうしておられるか気になりながら今日に至っています。昭和7年生まれです。
返信する
突然失礼致します。 (ポチ)
2009-03-06 09:44:29
初めまして。ポチと申します。
「京城 国民小学校」のキーワードでお邪魔致しました。

終戦まで京城の国民学校に通っておられたとのお話、感慨深いです。
私の母は今年75になるんですが、朝鮮からの引揚げ者だったので・・・。

母の親類はいわゆる「朝鮮開拓団」の一員で
全羅南道の利川で果樹園を手がけていたそうです。
その親類を頼って祖父は半島へ渡り、同じ日本人の祖母と知り合い
母が生まれたそうです。
その後、電話局に勤めていた祖父は電信兵として現地徴兵され、祖母が四人目の出産後に産後の肥立ちが悪く病死した事もあり
戦局の悪化した終戦直前には一家で京城へ移り、母も転校したのです。
残念ながら母の通っていた小学校は「南山国民学校」らしいのですが(記憶に依れば「南」の付く名前、との話で、しかし南大門国民学校ではないそうなので)。

日本人を取り巻く状況が最悪に近づく中で、幸いにも父、妹、弟と三人で終戦直前の引揚船に乗船出来た母は
先生や同級生との最後のお別れの時に皆から頂いた手紙の束を
事もあろうに船着場の待合所でなけなしの荷物ごと置き引きされてしまい
現在に至るまで事あるごとに悔やんでいます。
「京城で涙のお別れをした懐かしいお友達の名前も住所も、全てそこに書いてあったので
戦後に生活が落ち着いてから探そうにも、肝心の手がかりが何一つなかった」というのです。

せめてこちらの三坂小学校の皆さんの様に
同窓会が結成されていればよいのですが。
あの当時、戦後の混乱の最中に朝鮮に取り残された日本人遺留者の方々の中に
確実に母の同級生の皆さんもいると思うので
せめて皆さん無事に日本へ帰国されていればよいがと願うばかりです。
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驚きました (lazybones)
2008-09-20 10:58:00
戦後もこの歌が日本の小学校で歌われていたとは驚きました。貴重なコメントを有難うございました。もしお差し支えなければ(非公開でも結構ですので)その小学校をお教えいただけないでしょうか。お求めの歌詞は本日のブログ
http://blog.goo.ne.jp/lazybones9/e/004b51cc6d5cfdb17e9c99e7eb34b284
に掲載いたしました。
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三番を探しています (あわしこたろう)
2008-09-20 00:26:51
私は昭和26年生まれですが、小学校の時、昭和37、8年ごろまで、運動会でこの歌を歌っていました。といっても一番はこのままですが、二番は全く記憶がありません。そして三番に当たるのかも知れませんが、「われらの意気は天を突く」「今日の○○を諸共に」、「力をあわせて歌わなん」とかの文句があったように思います。この運動会の歌は、かねてよりネットで検索していたのですが、やっとヒットできました。三番の歌詞が完結できたらうれしい限りです。それにしても、歌詞からして戦前の歌と思っていましたが、やっと確認できました。ありがとうございました。
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