高濃度放射能汚染水、海への流出止まる 福島第一2号機
東京電力は6日、東京電力福島第一原発2号機の取水口付近の作業用の穴(ピット)から海に漏れ出ていた高濃度の放射能汚染水が同日午前5時38分、止まったと発表した。
東電は5日午後、流出しているピットの下に、砕石層をガラス状に固める薬剤を入れる止水工事をした。工事後に、海への流出量はやや減っていた。
東京電力は6日、東京電力福島第一原発2号機の取水口付近の作業用の穴(ピット)から海に漏れ出ていた高濃度の放射能汚染水が同日午前5時38分、止まったと発表した。
東電は5日午後、流出しているピットの下に、砕石層をガラス状に固める薬剤を入れる止水工事をした。工事後に、海への流出量はやや減っていた。
(asahio.com 2011年4月6日7時7分)
ボストン・ローガン国際空港で交通渋滞に巻き込まれた時の「プルプル」で高濃度放射能汚染水の海への漏出を取り上げていた時点からほぼ30時間後になるが、何はともあれ海への漏出が止まってよかった。しかし一方、低濃度(と言ってもどの程度か分からないが)の汚染水約1万トンに加えて、法律で環境中への放出が認められている濃度基準の100倍の汚染水1500トンを海に流すという作業はどうなったかというと、ほぼ終了したようである。
一方、集中環境施設の汚染水は6日午前6時半までに1万トン弱を放出した。同日中に残った約600トンを放出する予定。5、6号機の地下水は約1500トンのうち300~400トンを放出した。その後、2号機タービン建屋内にたまった高濃度の汚染水を移送するための工事を進める。
これで核兵器を持たないわが国が、放射能汚染水の海への漏出と投棄国としての汚名を歴史に残すことになってしまった。漏出は詮方ないことながら、とくに投棄はそれ以外に手はなかったのだろうか。
私がテレビを見て 9日目に救出 広告 原発避難者 リビア 追記あり
で次のように述べたのは3月21日のことである。
そういえば消防車などが大量の海水を原発の内部設備に放水しているが、どこに消えていっているのだろう。蒸気になって空中か、溢れて流れ出して地下に潜るか海に戻るか。地下水、海水の放射線モニタリングデータが発表されていないのはデータが無いのか隠しているのか。肝腎な情報を公表すべきなのに誰も何も言わない。
大量の海水がどこに行くかは現場の責任者にはとっくの昔に分かっていたことであろう。その実情として、いろんな場所に放射能汚染水が溜まっていることが次第に明らかにされてきた。その汚染水を外部に出さないとの確固たる意志が東京電力側にあれば、早々と敷地内にどういう形であれ貯留タンクの設置に着手出来たはずである。現にそのような計画が4月4日になって明らかにされた。
東電、福島第1に15日から仮設タンク設置、メガフロートも来週到着へ
福島第1原子力発電所の1~3号機のタービン建屋に強い放射性物質(放射能)を含む汚染水がたまっている問題で、東京電力は4日、汚染水を移す仮設タンクの設置を15日から開始することを明らかにした。4月末までに、総容量1万5000トンの仮設タンクを敷地内に配置し、順次、汚染水を移し替える。
東電は同日、静岡市から譲渡を受けた人口浮島「メガフロート」が5日にも清水港を出港し、来週末まで福島第1原発に到着する計画を明かした。メガフロートは約1万トンの水を収納できる。また、これとは別に国内に残り2隻ある約1万トンのメガフロートの譲渡交渉を開始したという。
このほかに、水をためることができるバージ(はしけ)船も、総容量1200トン、1000トンの2隻を用意したことも明らかにした。仮設タンクやメガフロートなどを使い、タービン建屋の汚染水処理が進めば、配電盤やポンプ類の復旧作業が行えるとしている。
福島第1原子力発電所の1~3号機のタービン建屋に強い放射性物質(放射能)を含む汚染水がたまっている問題で、東京電力は4日、汚染水を移す仮設タンクの設置を15日から開始することを明らかにした。4月末までに、総容量1万5000トンの仮設タンクを敷地内に配置し、順次、汚染水を移し替える。
東電は同日、静岡市から譲渡を受けた人口浮島「メガフロート」が5日にも清水港を出港し、来週末まで福島第1原発に到着する計画を明かした。メガフロートは約1万トンの水を収納できる。また、これとは別に国内に残り2隻ある約1万トンのメガフロートの譲渡交渉を開始したという。
このほかに、水をためることができるバージ(はしけ)船も、総容量1200トン、1000トンの2隻を用意したことも明らかにした。仮設タンクやメガフロートなどを使い、タービン建屋の汚染水処理が進めば、配電盤やポンプ類の復旧作業が行えるとしている。
(産経ニュース 2011.4.4 19:19 )
あまりにも決断が遅いし作業が悠長である。ふと頭に浮かんだのが太閤記のなかでもよく知られた「墨俣の一夜城」の挿話で、国史大辞典(吉川弘文館)にもこのように出てくる。
永禄九年(一五六六)織田信長が西美濃経営の拠点として羽柴(豊臣)秀吉に命じて築かせた墨俣城は「一夜城」として著名である。秀吉は大規模な柵を設けて敵勢を弓・鉄砲で防ぎながら尾張の篠木、柏井、科野などの野武士ら千二百人を使って不審を強行し、わずかな日数のうちに堀・櫓を推した下、堀で囲むなどして完成させた。
実際は一夜ではなく数日はかかったようであるが、信長のような果断に富む大将、秀吉のような実行力のある知恵者さえおれば、とつい思ってしまった。そろそろ「指揮・命令系統」が整備されてきたのだろうか。それにしても待たれるのが米軍部隊「シーバーフ」の活動であるが、未だにニュース面には登場してこない。