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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

足利事件とDNA型鑑定 鑑定とはどれほど科学的なのか?

2009-05-11 22:50:09 | Weblog
これは5月9日の朝日朝刊の記事である。このDNA型鑑定の報道に触れるまで私は足利事件については何一つ知らなかった。この事件を時事ドットコムは次のように伝えている。

足利事件

 1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場で遊んでいた女児=当時(4)=が行方不明になり、付近の草むらで翌日遺体で発見された。県警は不審者として菅家利和受刑者を捜査し、91年12月に逮捕した。証拠の柱だったDNA型鑑定は警察庁科学警察研究所で導入されたばかりで、弁護側は信頼性に疑問があるとしたが、最高裁は2000年7月にDNA型鑑定の証拠能力を認める初判断を示し、一審無期懲役判決が確定した。
(2009/05/08-17:33)

身にまったく覚えがないのに、自分の遺留物が被害者の衣服に付着していることが最新の科学的分析法で証明されたなんて聞かされたら、誰でも途方にくれてしまうことだろう。それと同時に、これは絶対におかしいと科学に対する不信感も生まれてくるに違いない。どうしてこのような間違いが起こったのか、DNA型鑑定を含めて、裁判における鑑定のあり方になにか大きな問題点があるような気がする。そこで思ったのが次のようなことである。

足利事件の最高裁判決理由でDNA型鑑定の妥当性を次のように述べている。

 (前略)記録を精査しても、被告人が犯人であるとした原判決に、事実誤認、法令違反があるとは認められない。なお、本件で証拠の一つとして採用されたいわゆるMCT118DNA型鑑定は、その科学的原理が理論的正確性を有し、具体的な実施の方法も、その技術を習得した者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる。したがって、右鑑定の証拠価値については、その後の科学技術の発展により新たに解明された事項等も加味して慎重に検討されるべきであるが、なお、これを証拠として用いることが許されるとした原判断は相当である。(後略)
最高裁判所第2小法廷平成8年(あ)第861号200(平成12)年7月17日決定

このようにいわゆるMCT118DNA型鑑定結果に証拠能力のあることを認めたのであるが、今回の再鑑定結果でその証拠能力のないことが明らかにされた。犯人と受刑者を結びつける物的証拠とされたものが否定されてしまったのである。

第一審において、DNA型鑑定の科学的原理を理解し、その技術にも精通している鑑定人が、自信を持って導いた結論であるということで裁判所がDNA型鑑定の結果を科学的証拠として採用したのであろう。ところが結果論になるが、この鑑定人の結論が科学的に間違っていたのである。と言うことはDNA型鑑定を個人識別に使うことが原理的に正しいことは間違いないとしても、その当時の実験手法に限界があったことになる。それなら鑑定人も、DNA型鑑定の科学的原理は正しいけれど、技術がまだそこまでは至っていないので、と現実への適用が時期尚早であることを主張できたのではなかろうか。これも結果論であるが、もしその限界が分かっていなかったとしたら、もともと鑑定人として適格でなかったことになる。それとも限界のあることを主張し難い何らかの状況でもあったのだろうか。

これが科学的研究一般のことであれば、研究成果を論文に発表する前にその内容を評価しうる複数の専門家の査読を受けることになる。本質的な問題点があればまずそこで浮き彫りされることになる。さらにその科学的発見が間違いのないものかどうかは、第三者による追試により確認されなければならない。査読と追試は科学的発見の客観性を確保するために科学界で広く認められた手続きである。DNA型鑑定もいわば科学的実験そのものであるから、それから導かれる結論の妥当性は元来第三者の精査を受けてしかるべきであり、また別人による追試が欠かせないものであることは言うまでもない。第三者による精査と追試を科学的立証の必須条件としておけば、鑑定法の原理や手法の妥当性に疑問が残されたまま現実に適用され、今回のような大きなミスを犯す恐れは大幅に減少するのではなかろうか。法曹界での現状を知らないまま今回感じたことを述べたが、どうもこの世界では一発勝負が大手を振ってまかり通っているような気がする。言うまでもなく一発勝負は科学とは無縁である。私の憶測が間違っていることを祈りたい。

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