日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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「細雪」のお春どんとは

2006-09-01 17:23:11 | 

私が当時勤めていた大学の敷地の北門を出ると細い道路が斜め上に走っていて、右手に歩むと東大路通に出る。そこは東大路通と直交する東一条通との交差点でもあって、三角地の東大路通と東一条通に面した突端に春琴堂書店があった。私が京都に赴任した1970年代の終わりから80年代のはじめにかけて、その書店は日本家屋風の建物でたばこ屋を兼業しており、その窓口の後ろが書店の勘定台にもなっていた。

お昼は外食が常だったので、帰り道にはよく立ち寄り、お店の人たちとも顔なじみになった。中年の夫婦が店を切り回していたが、その主人の母親である上品な老婦人もよく店を手伝っていた。「春琴書店 潤一郎書」の額が天井近くに掲げられていたので、その謂われを尋ねたことから、この老婦人がかって谷崎潤一郎家のお手伝いさんであったことが分かった。しかし谷崎家には大勢のお手伝いさんが出入りしたので、いつ頃の人で、また谷崎とどう関わってきたのか、それなりの好奇心はあったものの殊更確かめはしなかった。言葉は交わすことはあっても、そういう私的なことを老婦人に聞くにはためらいがあったからである。

書店は建て替えられて三階建てになり、二階にはマンガ本なども置くようになって、店の雰囲気が変わってしまった。大学生協の書店が東大路通の体育館脇に移転し品揃えがとても豊富になり、足がそちらに向くようになったこともあって、春琴堂書店に立ち寄る機会は大幅に減った。80年代の終わりには老婦人の姿は消え、主人と顔立ちのよく似た青年が立ち働くようになっていた。

昨日取り上げた小谷野敦著「谷崎潤一郎伝」に老婦人のことが当然出てくるだろうと思い、注意を払っていたら、なんと彼女は『大物』だったのである。

《同月(昭和十六年十二月 私注)、お春どんこと車一枝が、久保義治と結婚して谷崎家を辞したが、以後夫婦とも谷崎と助手的な関わりを持つことになる。》(316ページ)

《同じ日(昭和十九年七月二十九日 私注)、久保一枝宛書簡でも、『細雪』を送る、これからあなた(お春どん)が活躍する、とある。》(326ページ)

《この頃、(昭和二十二年 三月? 私注)久保一枝が夫と共に京大裏の吉田牛ノ宮に、古書店「春琴書店」を始めた。後に春琴堂書店として新刊書店となり、谷崎は死ぬまで、新刊書をこの書店に注文していた。今もなお、谷崎ゆかりの書店として観光客を集めている。》(340ページ)

《昭和十年春、十七歳の車一枝が、女学校を卒業してやってきた。(書簡11『久保義治・一枝宛書簡』)。実家は尼崎で、これが「お春どん」である。》(397ページ)

これで明々白々、あの老婦人こそ谷崎家、そして「細雪」の「お春どん」その人だったのである。ついでに分かったことは、始めてお目にかかった頃この「お春どん」はまだ60歳前後、今の私の年齢を思うと老婦人とは失礼千万、ご婦人とお呼びすべきであったのだ。

「細雪」で次女幸子が『B足らん』で注射するから注射器消毒しといてや、と呼びかけるのに応えて注射器などをもってくるのが女中のお春、ここで登場する。さらこのように人物紹介がなされている。

《お春と云ふのはまだやっと十八になる娘であったが、十五の時から奉公に来、今では上女中を勤めてゐるので、殆ど家族の一員のやうに親しまれてゐて、そのせゐと云う訳でもないけれども、此の女だけ初めからの呼び癖で特別に「どん」附けにされてゐた。》

あのご婦人がなんと「細雪」に登場する人物だったのである。言葉を交わしあっていた頃に、このことを知っていたら私の眼差しも「佐助」になっていたことは疑いがない。彼女を挟んで谷崎と私は手の届く距離まで近づいていたのだ。
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