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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

元在朝日本人が読んだ「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」

2005-04-02 19:18:06 | 在朝日本人
《昭和11年、京城帝国大学卒業後、有資格者となって朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記である。(中略)本書では、戦前・戦中にわたって繰り広げられたこの「見えざる戦い」の実態が生々しく語られるとともに、敗戦によって終焉した日本の朝鮮統治の実相が冷静な視点を持って描きだされている。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言というべき1冊!、》と表紙折り込みに紹介がある。

戦時中に私が京城三坂国民学校に通学していた頃、両親は私を竜山中学校か京城中学校に進学させ、ゆくゆくは京城帝国大学に通わせたいと思っていたそうであるから、この著者は或る意味では幻の大先輩ということになる。

敗戦時、私は疎開先の江原道鉄原国民学校の5年生で、ソ連軍がそこまで迫っているとの噂にせき立てられる形で鉄原を這々の体で逃げ出して京城に舞い戻った。11月の末に日本に引き揚げるまでいわゆる『難民生活』を送り、その間朝鮮の激動的な動きをそれなりに体験したのである。

疎開先の鐘紡鉄原工場の周辺を軍隊が警備していたが、戦争に負けたかと思うと早々と姿を消してしまい、取り残された民間人だけが列車に乗り込むべく早暁の田舎道を急いだのである。今の感覚で云えば、こういう非常事態においてこそ『皇国臣民』を保護すべき任にあたる朝鮮総督府に軍隊が、なんとなんと民間人より先に逃げ出したという芳しからざる噂がその後根強く流布した。

この著者は総督府のそれもかなり高位のお役人であったので、敗戦時の行政側の人間がどう動いたのか、もっとも知る立場にあるといえよう。その当時一般には知られなかった実情がどう語られるのか、私はそれを期待した。

著者は京城の南東に位置する忠清北道の清州邑に道警察部長として赴任し、その二ヶ月後に敗戦を迎えている。アメリカ軍が清州に進駐してきたのが9月18日、そして忠清北道内の日本人が9月27日清州駅発最後の引き揚げ列車でほぼ全員が姿を消し、著者は残務整理などを行い11月3日に後を追っている。

ところがその3ヶ月間の行動がもうひとつはっきりと見えてこないのである。私の目に具体的な行動として映ったのは以下のようなことである。 

①15日夜、(軍隊の)地区司令部が発動しようとした防衛招集の阻止。
②15日から16日にかけて警察署に拘束されていた思想犯、経済犯などを釈放。
③17日夜、群管理の清州放送局に交渉し、ラジオを通じて道民特に朝鮮人に向かって自重を促す趣旨の演説放送をした。
④日本人警察官十数人の武装パトロールを出動、巡回させた。

考えてみれば当然かも知れない。大日本帝国が戦争に敗れて日本人が朝鮮から全員が追われるという想定の下に、行政官誰一人として訓練を受けていなかったであろうから。著者はこう述べている。

《役所の機構は壊滅し、日本人には行政権はなくなっていた。いまは個々の日本人が協力して自衛、自助するほかに対処手段はなかった。》

そして軍隊の状況についてこう述べているのである。

《地区司令官はいよいよ頑迷の度を増して、この期にいたってもなお警察の努力にいくどか掣肘を加えてきた。しかし、幸いなことに、いつの間にかなんお挨拶もないまま、部員全員とともにいなくなっていた。同時に、憲兵隊も少佐の隊長以下全員いなくなった。軍は一挙に南の方に移動したのであった。》

進駐するアメリカ群との摩擦を回避するために軍隊の武装解除が急がれたのでは、と推測しているが、何はともあれ国民学校児童の目が高級官僚の目と一致していたのである。このように『皇国臣民』が国家から打ち棄てられたさまを、記述の端々から元在朝日本人は読み取るのである。

この本を苦学生の山あり谷あり立身出世物語、と読む分には何の抵抗もない。また私が朝鮮に住んでいた頃の『大人の世界』を垣間見ることで好奇心も満足させられる。しかし裏付ける資料を欠いているので、どちらかといえば個人的回想に傾いている。

戦前、同年代の日本男子で百人に一人が高等学校、すなわち引き続き大学に進学したといわれる。大学卒は大変なエリートなのである。ところが京城帝大予科(高等学校に相当する)の文科で、昭和六年の日本人と朝鮮人の合格者の比率がほぼ半々だった、という記述は注目に値する。その朝鮮人の同級生の一人が、私の在学した三坂国民学校の大先輩であったというのも不思議な機縁である。この超エリート朝鮮人たち(もちろん日本人から見ても)のその後の社会的活動の評価を、今の韓国政府が改めて問題にしようとする動きがあると聞くが、その成りゆきを私は見守っていきたい。

私の個人的な好奇心に応える記述は処々にでてくるが、『高級警察官僚』の『内幕もの』を期待するにはやや的はずれであった。なぜなら、著者はこう述べているからである。

《戦時下の朝鮮は、一部のものの想像に反してきわめて平穏であり、共産主義者その他の不穏分子の表立った策動はほとんど皆無の状態であった。特高係も高等係も事件らしい特別の事件はなかった。一部反戦的言動を弄する者はいたが、社会一般の銃後奉公の大勢に圧倒されて、問題にならなかった。》と。

確かに児童に目にも平穏な大陸的朝鮮であった。著者はこう述べている。

《朝鮮の全土は戦禍をまぬがれ、日本人が長年かけて建設したインフラはすべて無傷のままであった。》

そうして引き揚げ者もほとんど全ての財産をそのまま残してきたのである。


在朝日本人の回想 母の姫鏡台

2005-03-18 10:12:43 | 在朝日本人
朝鮮から引き揚げてきてから60年たった。全財産を朝鮮に残し、国民学校5年生を頭に3年生に幼稚園児、そして満2歳の4人の子供をなんとか日本に引き連れて逃げ帰った父と母は既にこの世にいない。

生前、父は朝鮮でのことを自分から口にすることは一切なかった。

母は嫁入り道具に着物、その全てを失った悔しさを、それを持たせてくれた両親に対する想いととともに語ることがままあったが、「朝鮮のことは話したくない。もう嫌なことは忘れる」と締めくくるのであった。そして、晩年、語ることは絶えてなかった。

母が息を引き取るまでベッドの傍らにあったのが、嫁入り道具唯一の生き残りの鏡であった。姫鏡台から鏡だけを外して背負い袋にいれ、朝鮮から持ち帰ったものである。朱塗りはすべてはげ落ちて金具は外れ、銀メッキも傷みが激しい。その鏡をか細くなった両腕で支えながらも自分の顔色を点検していたものであった。

入院して間もない頃は院長回診ともなると、その鏡に向かっていそいそと化粧にいそしみ宛然と一行を迎えるのであった。何回目かに「○○さん、お化粧をすると顔色がわからないのでしないでくださいね」と云われて、大いに落胆していた。しかし袋に入れたその鏡を決して手放しはしなかった。

私にとっては第二の故郷である朝鮮も、両親にとっては全財産と共に未来への希望も夢も奪い去った『恨み』の土地であったのではなかろうか。両親はただそれを忘れることを救いとしたのであろう。私としては朝鮮の生活の思い出で欠如しているところが多い。両親に問いただしてその欠けているところを埋めたいとの思いはあったが、結局聞かずじまいで終わってしまった。

「もう嫌なことはわすれる」との母の言葉が甦ったのは、3月1日の韓国盧武鉉大統領の演説に引き続き、昨日、韓国政府が、竹島や歴史教科書検定問題などで日本に「断固対処する」姿勢を対日政策の新原則として発表したからである。

「お互いに忘れましょう」と個人の世界では有効な『世間智』が、政治の世界で働きにくいことは重々承知の上で、しかし云ってみたいのである。「もういい加減忘れませんか」と。

続きは稿を改めて述べることにする。


在朝日本人の回想 盧武鉉大統領閣下

2005-03-08 12:50:16 | 在朝日本人
《わたしはこれまでの両国関係の進展を尊重するので、過去の歴史問題を外交的な争点にしない、と公言したことがあります。そして今もその考えは変わってい ません。過去の歴史問題が提起されるたびに交流と協力の関係がまた止まって両国間の葛藤(かっとう)が高まることは、未来のために助けにならないと考え たからです。しかし、われわれの一方的な努力だけで解決されることではありません。2つの国の関係発展には、日本政府と国民の真摯(しんし)な努力が必要です。過去 の真実を究明して心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければなりません。それが全世界が行っている、過去の歴史清算の普遍的なや り方です》

これは韓国の盧武鉉大統領が3月1日に行った演説のなかの文言である。

正直なところ、私は戸惑いを感じた。とくに《2つの国の関係発展には、日本政府と国民の真摯(しんし)な努力が必要です。過去 の真実を究明して心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければなりません》の部分が、具体的に何を意味するのかが判らないからである。メッセージは正確に相手に伝える内容を表現しないことにはメッセージとして機能しない。残念ながらその『内容』が私に伝わってこないのである。とすると、これはメッセージの形を取ってはいるがメッセージではない、では何か。

《過去 の真実を究明して心から謝罪し》?
ここからが既に判らない。『過去の真実』?、どの『過去』を指すのであろう。それが判らない限り『真実』にすら進めない。これはメッセージを受け取る側があれやこれや憶測を逞しくすることではないので、これからは私が述べたいことを述べる。

『過去の真実』、『謝罪』、『賠償』なる言葉が戦後60年に至るまで、折に触れて韓国側から飛び出す状況に出くわすと、在朝日本人として朝鮮半島で育まれたことのある私はつい愚痴を云いたくなる。「その昔、なぜ日本の言いなりになって植民地なんぞになったんや!」と。その時の朝鮮半島の住民が全員一丸となって踏ん張り、日本に屈服せずに独立を貫いておれば、今みたいに『恨み節』をことあるたびに持ち出さずに済んだだろうにと思うからである。そう、メッセージが『恨み節』に聞こえてしまうのである。

なぜ『恨み節』なのか。演説にある以下の一文にもヒントがある。

《旧韓末、開化をめぐる意見の違いが論争を越えて分裂にまで走り、指導者たち自身が国と国民を裏切った歴史を見ながら、今日我々が何をするべきかを、深く考えました。そして、我々の地をめぐって日本と清、日本とロシアが戦争を起こした状況で、無力だった我々がどちらの側に立ったとしても、何が違っただろ うかと思い、国力の意味を改めて考えさせられました。そして今日の大韓民国が本当に誇らしくなりました》

大統領自ら朝鮮が日本の植民地になってしまったのも《指導者たち自身が国と国民を裏切った歴史》であると明言されている。『恨』なのである。

ひるがえって元在朝日本人として日本人を観ると、これまた『骨』がない、フニャフニャなのである。間もなく3月10日の東京大空襲の日がやってくる。60年前に米軍の無差別爆撃によって民間人10万人が命を失った。広島・長崎の原爆による20万人近い民間人の死者もそれに加わる。

この虐殺は明らかに戦争犯罪であろう。最後の最後に神風が吹いて日本が逆転勝利をおさめた時のことを思い浮かべれば、答えは自ずと出てくる。日本人はアメリカに対して『謝罪』と『賠償』を求めるのが筋である。それがこともあろうに敗者となったとたん、『謝罪』と『賠償』どころか、原爆記念碑に「過ちは 繰り返しませんから」と記して得々としているのが『日本人』なのである。「原爆を落とされたのも、私たちが悪かったからです」?冗談じゃない!

このように敗者はひたすら屈服し、自らを責めるべきであると『日本人』が自らを律している限り、過去、日本に屈服させられた朝鮮の民が何を日本に問いかけても通じるはずがない。

盧武鉉大統領閣下、『謝罪』と『賠償』を求められる前に、どうぞ日本国民をまず覚醒させてくださいませ。

おことわり:韓国盧武鉉大統領の演説全文の翻訳文は以下のブログからの引用です。
milou

在朝日本人の回想 私は変な日本人?

2005-03-07 11:22:48 | 在朝日本人
朝鮮から引き揚げてきた翌年の昭和21年春、神戸に引っ越して漁師町にある国民学校に通うことになった。ところが5年の3学期だけを過ごした高砂国民学校でも今度の学校でも、私はどうも溶け込みにくかった。まわりがダサイのである。

私が教室の机に座っていると突然男子が一人机の上に腰をかけた。『どす』を机の上にガンと突き刺して「おい、チョーセン」と語尾上がりに云うのである。朝鮮からの引き揚げ者というのが何らかの形で伝わったのであろうが、私は自分が『朝鮮人』と云われたのだと受け取った。もちろん自分は紛れもなく日本人であるので、そんな見分けがつかないこいつは馬鹿か、と思った。

『どす』なんて少しも怖いとは思わなかった。「宮本武蔵」の読後感も生々しいし、それよりなにより、戦のためとはいえ、『人を殺す』公教育を国民学校で受けてきている筋金入りである。咄嗟に相手がこうでたらああでよう、と心に決めた。その後のやりとりはもう記憶に残っていないが、二度と同じ仕打ちに会うことはなかった。

振り返ってみるとその頃の子供は今の大人以上の分別を備えていたと思う。『どす』はあくまでも脅し、それを実際に使って人を傷つけることの愚をちゃんと悟っていたのである。私にもそれが暗黙の認識としてあったから冷静に対応できたのだろう。

それはともかく、『朝鮮人』を蔑視する日本人の存在をこのことで始めて実感した。その後歴史を学ぶことから、例えば関東大震災時の社会主義者、朝鮮人、中国人の殺害に示されるように、『朝鮮人蔑視』が日本社会の底部に定着していることを知っていくのである。

私は朝鮮に暮らしていた全期間を通じて、子供の目に触れさせなかったと云われればそれまでだが、日本人が朝鮮人をひどく扱う場面に遭遇したことは幸か不幸か一度もない。私自身においても『蔑視』はほんの一欠片もなかった。学校での教育でも家での躾でも、日本人と朝鮮人は一視同仁が徹底していた。敢えて両者の『違い』を取り上げると、日本人は朝鮮人に対しては『兄』であり『姉』として振る舞うことを躾けられた。

戦後の朝鮮半島における凄まじい『反日感情』の高まりは、私の『朝鮮』への『屈折した思い』を凍結してしまった。清水の舞台から飛び降りる思いで大韓航空に搭乗したのは戦後30年も過ぎてからのことである。海外出張に格安のチケットが魅力だったのである。伊丹空港から一旦ソウルの金浦空港に飛び、アメリカ行きに乗り換える待ち合わせの時間が落ち着かなかった。一歩外に出たらあの『京城』に行けるのにと、でも昔の記憶が大きく塗り替えられるのが怖かった。

大韓航空を利用するようになって何回目か、アメリカからの帰途、遂に決心してソウルにストップオーバーすることにした。金浦空港から乗り合いバスで市内に向かい、ロッテホテルに到着した。アメリカでの滞在が長く、髪の毛の伸びが気になっていたので、地下の理容室で散髪をして貰うことにした。戦後始めての『朝鮮人』との接触である。いやこの時点では『韓国人』と云わないといけない。私は英語で話しかけた。最初は英語で戻ってきたが、そのうちに日本語に変わっていった。しかし私は何故か英語で押し通し、韓国人が使う日本語と私の英語で意を交わしたのである。

調髪の最中、何としたことか日本でも目を引くであろうこの高級ホテルで電気が消えて真っ暗になった。停電なのである。懐かしさがこみ上げてきた。戦時中京城の家で当たり前だった灯火管制を連想したからである。それと同時に『いじらしさ』を覚えた。かっての支配国日本に追いつけ追い越せを合い言葉に頑張っている(であろう)、韓国のこの代表的なホテルでのまさかの停電、元に戻るまでの長い時間に、「まだまだ頑張らなくちゃね」と言葉をかけたくなったのである。

翌日、地下鉄でかって住んでいた永登浦に行こうと思った。ソウルオリンピックを目前に控えて、ソウルの中心部の改造が大がかりに進められていた頃で、地下鉄駅に向かう通路もまだ完全に整備はされていなかった。しかし東京や大阪の地下鉄に決して見劣りのしない立派な近代的な建造物である。そう思った瞬間、鼻の奥がつんときた。と涙が滂沱の流れとなり歩けなくなった。全身が感動で充ち満ちたのである。理由づけるとしたら、あの『弟』がここまで大きく逞しく成長したんだ、という私だけの思いが心を大きく揺すったとでも言えるのだろうか。

かっての『一視同仁』の頃に私が舞い戻っていたのである。


在朝日本人の回想 わたしの故郷

2005-03-02 18:36:21 | 在朝日本人
「ふるさとの四季」に出てくる唱歌を歌って、私が思い浮かべる風景はみな朝鮮の風景である。幼稚園から国民学校5年生までを朝鮮で過ごし、それより幼かった頃は風景の記憶なんてないから、当然のことといえる。

「春の小川」で浮かんでくる光景には学校からの遠足で出会った。遙かかなたまで広がる草原一面にレンゲが咲いている。そして岸辺のスミレ。水の流れに水草が揺れ動き光がキラキラ動く。よく目をこらすと小さな魚が流れに逆らうかのように動かずに立ち止まっている。静寂の中、チャラチャラと音が拡がる。

夢かうつつか、しかしこれが私の心象風景なのである。

京城を流れる大きな河は漢江。その支流であろうか船に分乗して川遊びをした記憶がある。父の勤務する会社の催すいろいろな行事に、私はよく連れて行って貰った。大きな鍋で豚汁を作って鱈腹食べたこと。砂糖代わりに蜂蜜を使ったおぜんざいの美味しかったこと。今も思い出すと父の温もりを感じる。。

その時だったかどうか、記念写真がある。父が趣味のカメラで三脚を使ってで撮ったのであろう。向かって一番右端の立っている国民服姿が父でその反対側、左端の制帽姿が私である。国民学校2年か3年ではなかっただろうか。女性は最前列に、朝鮮服姿も一緒に並んでいる。朝鮮人に和服までを押し付けたのではないことが分かって嬉しい。

「春の小川」で連想するのが飛行場。遙か彼方まで広がる草原が飛行場の延長であったのかもしれない。その飛行場で催された戦闘機の献納式に父に連れられて行ったことがある。父の勤務する会社が戦闘機「鍾馗」を献納したのであった。天幕の下の椅子にちょこんと座っていた記憶がある。

戦前・戦中の日本では、企業や国民の国防献金により製造され、軍隊に献納された軍用機を献納機と呼んでいた。戦後生まれの方であるが、奇特にも献納機の実体を調査されて、ウエブサイトに「陸軍愛国号献納機調査報告」を掲載されている。奇しくもその中に番号が1704、機体名「鐘紡朝鮮」なる一式戦が献納された記録がある。日時の記載はないが、その前後の記録から推測するに昭和18年秋頃のようである。私は国民学校3年生。一式戦といえばかの有名な戦闘機「隼」で、「鍾馗」だと思いこんでいた私の記憶とは異なる。献納式では何機か飛行機が並んでいたが、この記録には収録されていないので、「鍾馗」はその中に含まれるのかもしれない。

ついでながらこの記録によると、昔も愛国心鼓舞の権化であった「朝日新聞」が率先して献納機への献金を呼びかけて、多大なる実績を残したことがよく分かる。それにしても、このように地道な資料を収集されている方へ心からの敬意を捧げたい。

話が逸れてしまったが、ことほどさように、私の子供の頃の思いではすべて『朝鮮』にある。その意味では『朝鮮』が私の「故郷」なのである。私にとってこれが歴史的事実であるので、この思いは私の心の中で微動だにしない。

だからこそ、私には長年にわたり心に葛藤があった。



在朝日本人の回想 内地の引き揚げ列車

2005-02-21 17:07:05 | 在朝日本人
引き揚げ船『こがね丸』で からのつづき

「こがね丸」で一夜を明かし翌朝上陸が始まった。炊き出しのおにぎりかなにか貰ったような気がするが、記憶はおぼろげである。しかし記憶に鮮明に残っている光景がある。

埠頭でいわゆる人夫仕事をしている人達が全部日本人なのである。朝鮮では考えられなかった光景で、大きな衝撃を受けた。今ならカルチャー・ショックと云えただろう。一体どうしたことだろう、と私の頭では整理がつかなかった。

貨車に乗り込んだ。この貨車が子供の国の貨車のように小さいのである。これもまたショック、朝鮮の貨車に比べると本物の貨車のようには思えない。「エッ、コレ、ナニ?」なのである。急に狭いところに閉じこめられる恐怖感に襲われて、少しでも広く荷物で陣取りをしたけれど、段々と押し狭まれてしまった。

昭和15年、朝鮮に渡った時はまだ就学前だったので、内地の生活でおぼろげに記憶に残っていたのが昭和13年の阪神大水害、それに昭和15年の紀元2600年祭ぐらいである。私のすべては朝鮮で形作られたものと云ってよく、博多港に上陸した私にとっての日本は『異国』であったのだと思う。懐かしさというような感情とはおよそ無縁であった。

関門トンネルを通り抜ける時は興奮した。朝鮮に住んでいる間に完成したことを知っていたからで、引き揚げ船の着く港が山口県の仙崎ではなく、博多であることを聞いた時から期待していたのだ。その関門トンネルを通り抜ける前の門司だったか、後の下関だったか覚えていないが、そのいずれかで貨車から客車に乗り換えたと思う。

広島が原爆の被害にあったことを知らなかったと思う。引き揚げ列車は当然広島を通過したはずであるが、その状況についての記憶は皆無である。最後に記憶しているのは汽車が姫路駅に到着して家族全員が下車した時のことである。

プラットフォームに荷物と一緒に佇んでいる間に、父が駅長室を尋ねて行った。母の姉の連れ合いがかってはお召し列車を運転したことのある運転士で、まずはその家を頼るべく消息を聞きに行ったのだ。しかし駅長室から戻った父は、その伯父が空襲で爆死したことを伝えたのである。

それからどのようにたどり着いたのか、気がつけば加古川にある母の実家に一家が転がり込んでいた。やがて父が鐘紡に復職して、私の生誕の地である播州高砂の鐘紡社宅に舞い戻ったところから一家の再生が始まった。

在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」で

2005-02-19 17:58:06 | 在朝日本人
朝鮮からの引き揚げの挿話を書いたのがきっかけで、この機会に私の『在朝日本人』としての回想をまとめようと云う気になった。思い浮かぶままのまとまりのない小文である。

船の舳先に頭を向けて甲板に寝転がっていると、船のローリングに合わせて身体がゴロゴロと右側に、左側に転がっていく。日差しがとても快い。海が蒼い。ゴミゴミした下の船倉にくらべると、まるで極楽である。

舳先近くには機関銃なのか機関砲なのかが据え付けられている。日本軍は武装解除されたはずなのに、その脇に兵隊さんが匍匐姿勢で構えている。双眼鏡で監視している兵隊さんに聞いた。「兵隊さん、何をしているんですか」「浮遊機雷を見張っているんだ」と返事が返ってくる。私も東郷元帥になったような気分で玄界灘を睥睨する。

釜山での『収容所』生活にもそろそろ飽いてきた頃、ようやく引き揚げ船の順番が回ってきた。それこそ触雷の危険があるので航行は明るい内に限られる。早朝船に乗り込んだのであろう。どこでどう知ったのか、船の名前は「こがね丸」であった。昭和15年朝鮮に渡る時に下関から乗り込んだ関釜連絡船「崑崙丸」は、とっくに敵潜水艦からの魚雷に沈められてしまっていたのである。どのような船に乗せられるのか気がかりであったが、大きな日本の船であることが嬉しかった。

どのような船室に入れられたのだろう。大きなテーブルの上に荷物を載せたような気がする。身動きもままにならない、というほどの混み具合でもなかったと思う。好奇心に溢れた少年の私が船中を探検して廻ることができたのだから。飯盒で炊いたご飯の美味しかったことははっきりと覚えている。飯盒に紐を付けて下にたらし、海水を汲み上げてはそれでお米を洗い、その塩水で炊いたご飯の塩加減がよかったのだ。炊事場で順番に炊いたのだと思うが、飯盒がかなり沢山並んで湯気を出していた光景が思い浮かぶ。

太陽も落ち、辺りは暗くなった。エンジンの音が軽く聞こえだした。いよいよ日本が間近、博多港に近づいたのだ。なんだか人が騒いでいる。満艦飾の軍艦が何隻か港に停泊していて、色とりどりのイルミネーションで一帯が燃え上がっているかのように明るい。生まれて初めて目にする絢爛豪華な光の饗宴に心を奪われてしまった。

どうした因縁か、それから7年後、高等学校の修学旅行で神戸港から別府港までこの「こがね丸」に再び乗船したのである。船首に記された「こがね丸」のエンブレムを見て、あっ、あの引き揚げ船だ、と異様に興奮した。早速船内を歩き回ったが、引き揚げ時の記憶を呼び起こすものは何も見あたらなかった。友人にはこの船に乗って朝鮮から引き揚げてきたんだ、と話をしたものの、これがあの引き揚げ船の「こがね丸」なのかどうか、もう一つ確信が持てなかった。

この思い出を記すにあたって、インターネットで資料を探してみた。

こがね丸

《こがね丸KoganeMaru 竣工昭和11年8月29日 三菱神戸造船所 大阪商船
1,905Gt 317Dt 74,512,05,8 デイーゼル2基2軸2,807HP 17,4Kt/14Kt 一等28,二等132,三等550名

昭和10年7月に沈没した緑丸の代船として竣工した阪神~別府航路用旅客船。船体を10の水密区画に分け連続した2区画が破壊されても沈まない設計とされ安全性が向上している。昭和17年5月の関西汽船設立に伴い移籍し、昭和18年8月に海軍の特設運送船となり、蘭印方面で活動。昭和21年9月から復員船として引き揚げ輸送に従事した後の昭和24年別府航路に復帰。となるが、昭和55年4月に解体された。》

これで見ると修学旅行で乗ったのはまさしくこの「こがね丸」であるが、一方復員船として活躍したのは昭和21年9月からなので、私が引き揚げた昭和20年11月にどうであったのか、この記述でははっきりしない。しかし昭和18年に海軍に徴用されていることから考えると、海軍省が勅令で廃止されたのは昭和20年11月30日であるので、それまでは海軍省の管轄下で引き揚げ船として働いていたことは十分に推測できる。

もう一つ付け加えると、この船が建造された三菱神戸造船所の近くにある遠矢の保育園で、私は紀元2600年の式典を祝った。これもなにかの因縁である。

もしこの一文が機になり、その辺りの事情をよくご存じの方からご教示を得ることが出来れば望外の喜びである。

昔の日本人ていいなぁ(その二)

2005-02-12 17:56:16 | 在朝日本人
中谷宇吉郎随筆集の「I駅の一夜」を始めて読んだ時に、「ああ、そうなんだ」と子供の頃の経験を改めて思い出した。

昭和20年11月のある日、日本への引き揚げ者を満載した貨物列車がひたすら釜山を目指して走っていた。「ひたすら」と云うのは引き揚げ者の思いであって、その実、貨物列車は駅でもないところでよく気侭に停まった。貨車の重い引き戸を開けては『積み荷』が外に飛び降り、用便をたすのである。しかし、機関士が列車を停めるのは別の本来の目的があったのかも知れない。世話役が貨車を一台ずつ訪ねては『積み荷』から金品を徴収する、それを機関士に手渡す、すると列車は動き出す。京城を離れてから何度もそのようなことを繰り返して、ようやく貨物列車は釜山に到着したのである。

引き揚げ船にいつ乗船できるのかわからない。それまで引き揚げ者は『収容所』で待機するのである。父母に長男の私を頭として長女、次男、三男の五人家族の『収容所』となったのは「本願寺」であった。この一文のために調べたところ、これはどうも東本願寺釜山別院であったらしい。その本堂に引き揚げ者がめいめい荷物で仕切った居所を作り上げた。

引き揚げ者の全財産は身体で運べるだけのもの。私の場合は両肩から「頭陀袋」を襷がけして背中には赤ん坊の弟を背負い、両手も手ぶらではなかったと思う。大人は背中に『背負い袋』である。移動の途中に休憩となると、大人はそのまま地面にひっくり返った。背中に弟を背負った私はそんな乱暴は出来ないので、大人を羨ましく思いながらそっと腰を下ろすのだった。

身体で運ばれるだけの荷物、中身は何だったのだろう。まず衣料品。もう寒い季節だったのでかなりの厚着をしていたはずである。『袋物』の中にも着替えが納まっていただろう。愛着が残りどうしても処分できなかった着物に帯もあったかもしれない。位牌にお骨。母は姫鏡台の鏡だけを手縫いの袋に大事に入れていた。もちろん貯金通帳や国債にもろもろの「重要書類」、子供の通知簿とか卒業証書、それに思い出の写真プリントなど、人様ざまの思いで選びに選び抜いた『貴重品』であったに違いない。

一人が持ち出せる現金は1000円。5人家族なら5000円まで。内地に戻るのにいまさら鮮銀券ではあるまいから日銀券に換えていたのだろうか。着物とかの衣服、毛布の縁などに制限外の紙幣を縫い込んだとか、そのような話を耳にした。でも子供の耳に入るぐらいだから、取り締まる側にしては摘発するのは赤子の手を捻るよりも容易かったのではないか。でも秩序が無いようで有るようで、有るようで無いようで、取り締まりの主体が誰か知りようはなかった。米兵であったかもしれない。港に米兵の姿がよく目立った。DDTの粉末を吹きかけたのも米兵であったが、チョコレートを呉れたのも米兵であった。

お寺に何日滞在したのだろう。今となっては思い出せない。でも2、3日でなかったことだけははっきりしている。その間、食事をどうしたのか、これも思い出せない。でも米に缶詰をはじめとしてかなりの食料品を身につけていたのは確かである。一番の重量物であったかもしれない。朝鮮人も食べ物を売りに来た。細く刻んだ沢庵を芯に捲いた海苔巻き一本が一円だったか十円だったのか、きりのよい値段だったのは記憶に残っている。

ご飯を飯盒で炊いていたのは間違いがない。薪を探しに出かけたからである。芝刈りの山があるわけではない、燃えそうなものを探し歩くだけ。と、格好なものがあった。建物の腰板のようなものである。すでに何枚も剥がされた痕がある。そう簡単にはずれはしなかったので力を込めて揺すっていると「止めなさい」との声がかかった。日本人の小父さんである。せっかくの建物を壊すのはもってのほか、日本人がそんなことをするものではない。朝鮮の人に大切に使って貰わないといけない、とお叱りを受けたのである。嫌もおうもなく目上の人の指図に素直に従った。

引き揚げ船が出るまでの毎日、何をしていたのか。実はその間に吉川英治作の「宮本武蔵」を読み上げたのである。私は本好きの子供であった。国民学校の低学年からフリガナを手がかりに、父の書棚にあった難しい本を読んでいた。それだけでは飽きたらず、本好きのもの同士がお互いの家にある本を借り貸ししあったものである。かなりのページがXXXXで埋め尽くされていた中央公論社版の千夜一夜物語も借りて読んだ覚えがある。

本を持っている人から本を借りるのは私の特技でもあったのかも知れない。釜山の本願寺の本堂で、誰かが『宮本武蔵』を読んでいるのを目敏く見つけて頼み込んだのにちがいない。昭和20年3月に京城から鉄原に疎開して以来、本から切り離された生活を強いられていて、本に対する渇望が溜まりに溜まっていたのだろう、むさぼるように読み続けたことを覚えている。お通に朱美、沢庵和尚などの名前がその時はじめて私の脳裏に刻み込まれたのである。嬉しいことに、物語は次から次へと展開する。他に何をすることもない。一巻一巻と読み進んだ。

調べてみると『宮本武蔵』には六巻本と普及版の八巻本があった。私の読んだのがどちらなのか分からない。いずれにせよ全巻だとかさもあり重量もある。その大きな荷物を着の身着のままの引き揚げ者が日本に持って帰ろうとしていたのだ。家族から、そんなものよりももっと大事なものがあるでしょう、と云われたのを強引に持ち出したのかもしれない。宝ものだと言い張る父親に家族が気を合わせて、では分け持って帰りましょう、と云うことだったのかも知れない。いずれにせよ不要不急の「宮本武蔵」に我を忘れさせられたのが私の『朝鮮』の締めくくりであった。

「I駅の一夜」を読んで何故あのときあんなところに「宮本武蔵」があったのか、なんとなくふしぎに感じていた疑問への答えが出たのである。そこに『日本人』がいたからなのである

亡父もモロッコ革表装の「聖書」を『袋』の底に忍ばせて持ち帰った。60年後の今は私の次弟宅に落ち着いている。