《昭和11年、京城帝国大学卒業後、有資格者となって朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記である。(中略)本書では、戦前・戦中にわたって繰り広げられたこの「見えざる戦い」の実態が生々しく語られるとともに、敗戦によって終焉した日本の朝鮮統治の実相が冷静な視点を持って描きだされている。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言というべき1冊!、》と表紙折り込みに紹介がある。
戦時中に私が京城三坂国民学校に通学していた頃、両親は私を竜山中学校か京城中学校に進学させ、ゆくゆくは京城帝国大学に通わせたいと思っていたそうであるから、この著者は或る意味では幻の大先輩ということになる。
敗戦時、私は疎開先の江原道鉄原国民学校の5年生で、ソ連軍がそこまで迫っているとの噂にせき立てられる形で鉄原を這々の体で逃げ出して京城に舞い戻った。11月の末に日本に引き揚げるまでいわゆる『難民生活』を送り、その間朝鮮の激動的な動きをそれなりに体験したのである。
疎開先の鐘紡鉄原工場の周辺を軍隊が警備していたが、戦争に負けたかと思うと早々と姿を消してしまい、取り残された民間人だけが列車に乗り込むべく早暁の田舎道を急いだのである。今の感覚で云えば、こういう非常事態においてこそ『皇国臣民』を保護すべき任にあたる朝鮮総督府に軍隊が、なんとなんと民間人より先に逃げ出したという芳しからざる噂がその後根強く流布した。
この著者は総督府のそれもかなり高位のお役人であったので、敗戦時の行政側の人間がどう動いたのか、もっとも知る立場にあるといえよう。その当時一般には知られなかった実情がどう語られるのか、私はそれを期待した。
著者は京城の南東に位置する忠清北道の清州邑に道警察部長として赴任し、その二ヶ月後に敗戦を迎えている。アメリカ軍が清州に進駐してきたのが9月18日、そして忠清北道内の日本人が9月27日清州駅発最後の引き揚げ列車でほぼ全員が姿を消し、著者は残務整理などを行い11月3日に後を追っている。
ところがその3ヶ月間の行動がもうひとつはっきりと見えてこないのである。私の目に具体的な行動として映ったのは以下のようなことである。
①15日夜、(軍隊の)地区司令部が発動しようとした防衛招集の阻止。
②15日から16日にかけて警察署に拘束されていた思想犯、経済犯などを釈放。
③17日夜、群管理の清州放送局に交渉し、ラジオを通じて道民特に朝鮮人に向かって自重を促す趣旨の演説放送をした。
④日本人警察官十数人の武装パトロールを出動、巡回させた。
考えてみれば当然かも知れない。大日本帝国が戦争に敗れて日本人が朝鮮から全員が追われるという想定の下に、行政官誰一人として訓練を受けていなかったであろうから。著者はこう述べている。
《役所の機構は壊滅し、日本人には行政権はなくなっていた。いまは個々の日本人が協力して自衛、自助するほかに対処手段はなかった。》
そして軍隊の状況についてこう述べているのである。
《地区司令官はいよいよ頑迷の度を増して、この期にいたってもなお警察の努力にいくどか掣肘を加えてきた。しかし、幸いなことに、いつの間にかなんお挨拶もないまま、部員全員とともにいなくなっていた。同時に、憲兵隊も少佐の隊長以下全員いなくなった。軍は一挙に南の方に移動したのであった。》
進駐するアメリカ群との摩擦を回避するために軍隊の武装解除が急がれたのでは、と推測しているが、何はともあれ国民学校児童の目が高級官僚の目と一致していたのである。このように『皇国臣民』が国家から打ち棄てられたさまを、記述の端々から元在朝日本人は読み取るのである。
この本を苦学生の山あり谷あり立身出世物語、と読む分には何の抵抗もない。また私が朝鮮に住んでいた頃の『大人の世界』を垣間見ることで好奇心も満足させられる。しかし裏付ける資料を欠いているので、どちらかといえば個人的回想に傾いている。
戦前、同年代の日本男子で百人に一人が高等学校、すなわち引き続き大学に進学したといわれる。大学卒は大変なエリートなのである。ところが京城帝大予科(高等学校に相当する)の文科で、昭和六年の日本人と朝鮮人の合格者の比率がほぼ半々だった、という記述は注目に値する。その朝鮮人の同級生の一人が、私の在学した三坂国民学校の大先輩であったというのも不思議な機縁である。この超エリート朝鮮人たち(もちろん日本人から見ても)のその後の社会的活動の評価を、今の韓国政府が改めて問題にしようとする動きがあると聞くが、その成りゆきを私は見守っていきたい。
私の個人的な好奇心に応える記述は処々にでてくるが、『高級警察官僚』の『内幕もの』を期待するにはやや的はずれであった。なぜなら、著者はこう述べているからである。
《戦時下の朝鮮は、一部のものの想像に反してきわめて平穏であり、共産主義者その他の不穏分子の表立った策動はほとんど皆無の状態であった。特高係も高等係も事件らしい特別の事件はなかった。一部反戦的言動を弄する者はいたが、社会一般の銃後奉公の大勢に圧倒されて、問題にならなかった。》と。
確かに児童に目にも平穏な大陸的朝鮮であった。著者はこう述べている。
《朝鮮の全土は戦禍をまぬがれ、日本人が長年かけて建設したインフラはすべて無傷のままであった。》
そうして引き揚げ者もほとんど全ての財産をそのまま残してきたのである。
戦時中に私が京城三坂国民学校に通学していた頃、両親は私を竜山中学校か京城中学校に進学させ、ゆくゆくは京城帝国大学に通わせたいと思っていたそうであるから、この著者は或る意味では幻の大先輩ということになる。
敗戦時、私は疎開先の江原道鉄原国民学校の5年生で、ソ連軍がそこまで迫っているとの噂にせき立てられる形で鉄原を這々の体で逃げ出して京城に舞い戻った。11月の末に日本に引き揚げるまでいわゆる『難民生活』を送り、その間朝鮮の激動的な動きをそれなりに体験したのである。
疎開先の鐘紡鉄原工場の周辺を軍隊が警備していたが、戦争に負けたかと思うと早々と姿を消してしまい、取り残された民間人だけが列車に乗り込むべく早暁の田舎道を急いだのである。今の感覚で云えば、こういう非常事態においてこそ『皇国臣民』を保護すべき任にあたる朝鮮総督府に軍隊が、なんとなんと民間人より先に逃げ出したという芳しからざる噂がその後根強く流布した。
この著者は総督府のそれもかなり高位のお役人であったので、敗戦時の行政側の人間がどう動いたのか、もっとも知る立場にあるといえよう。その当時一般には知られなかった実情がどう語られるのか、私はそれを期待した。
著者は京城の南東に位置する忠清北道の清州邑に道警察部長として赴任し、その二ヶ月後に敗戦を迎えている。アメリカ軍が清州に進駐してきたのが9月18日、そして忠清北道内の日本人が9月27日清州駅発最後の引き揚げ列車でほぼ全員が姿を消し、著者は残務整理などを行い11月3日に後を追っている。
ところがその3ヶ月間の行動がもうひとつはっきりと見えてこないのである。私の目に具体的な行動として映ったのは以下のようなことである。
①15日夜、(軍隊の)地区司令部が発動しようとした防衛招集の阻止。
②15日から16日にかけて警察署に拘束されていた思想犯、経済犯などを釈放。
③17日夜、群管理の清州放送局に交渉し、ラジオを通じて道民特に朝鮮人に向かって自重を促す趣旨の演説放送をした。
④日本人警察官十数人の武装パトロールを出動、巡回させた。
考えてみれば当然かも知れない。大日本帝国が戦争に敗れて日本人が朝鮮から全員が追われるという想定の下に、行政官誰一人として訓練を受けていなかったであろうから。著者はこう述べている。
《役所の機構は壊滅し、日本人には行政権はなくなっていた。いまは個々の日本人が協力して自衛、自助するほかに対処手段はなかった。》
そして軍隊の状況についてこう述べているのである。
《地区司令官はいよいよ頑迷の度を増して、この期にいたってもなお警察の努力にいくどか掣肘を加えてきた。しかし、幸いなことに、いつの間にかなんお挨拶もないまま、部員全員とともにいなくなっていた。同時に、憲兵隊も少佐の隊長以下全員いなくなった。軍は一挙に南の方に移動したのであった。》
進駐するアメリカ群との摩擦を回避するために軍隊の武装解除が急がれたのでは、と推測しているが、何はともあれ国民学校児童の目が高級官僚の目と一致していたのである。このように『皇国臣民』が国家から打ち棄てられたさまを、記述の端々から元在朝日本人は読み取るのである。
この本を苦学生の山あり谷あり立身出世物語、と読む分には何の抵抗もない。また私が朝鮮に住んでいた頃の『大人の世界』を垣間見ることで好奇心も満足させられる。しかし裏付ける資料を欠いているので、どちらかといえば個人的回想に傾いている。
戦前、同年代の日本男子で百人に一人が高等学校、すなわち引き続き大学に進学したといわれる。大学卒は大変なエリートなのである。ところが京城帝大予科(高等学校に相当する)の文科で、昭和六年の日本人と朝鮮人の合格者の比率がほぼ半々だった、という記述は注目に値する。その朝鮮人の同級生の一人が、私の在学した三坂国民学校の大先輩であったというのも不思議な機縁である。この超エリート朝鮮人たち(もちろん日本人から見ても)のその後の社会的活動の評価を、今の韓国政府が改めて問題にしようとする動きがあると聞くが、その成りゆきを私は見守っていきたい。
私の個人的な好奇心に応える記述は処々にでてくるが、『高級警察官僚』の『内幕もの』を期待するにはやや的はずれであった。なぜなら、著者はこう述べているからである。
《戦時下の朝鮮は、一部のものの想像に反してきわめて平穏であり、共産主義者その他の不穏分子の表立った策動はほとんど皆無の状態であった。特高係も高等係も事件らしい特別の事件はなかった。一部反戦的言動を弄する者はいたが、社会一般の銃後奉公の大勢に圧倒されて、問題にならなかった。》と。
確かに児童に目にも平穏な大陸的朝鮮であった。著者はこう述べている。
《朝鮮の全土は戦禍をまぬがれ、日本人が長年かけて建設したインフラはすべて無傷のままであった。》
そうして引き揚げ者もほとんど全ての財産をそのまま残してきたのである。