日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

哀惜 南大門炎上

2008-02-12 13:38:18 | 在朝日本人
韓国ソウルの南大門が放火により炎上し、木造建造物部分が完全に崩壊した。私は子供の頃から南大門と呼んでいたが、崇禮門と記した額が楼閣に掲げられていた。中央日報によると朝鮮王朝が漢陽に遷都後、1395年(太祖4年)に建築を始め、1398年に完工、そして1962年12月、国宝1号に指定されたとのことである。「チャングムの誓い」の時代にはもちろんその威容を誇っていたことになる。

戦時中は当時の朝鮮京城府の三坂国民学校に通っていた。三年生か四年生になると行動半径が広まって、よく京城駅に出かけて汽車の発着を眺めては南大門に足を向け、さらには朝鮮神宮の大鳥居をくぐって長い石段を駆け上り、神宮の裏手から森のようなところを通り抜けて坂を下りわが家に辿り着くのがおきまりのコースであった。一周が4、5キロはあっただろうか、しかしこの程度の距離は当時の軍国少年にとってはへっちゃらであった。

昭和20年8月、日本が戦争に負けて当時疎開していた江原道鉄原から京城に逃げ帰り、日本に引き揚げるまでの三ヶ月ほどは明治町にある父が勤務していた会社の寮で集団生活をしていた。今の明洞で南大門はすぐ近くにあった。何もすることがないので毎日のように外をほっつき歩いていた。南大門広場には無数の食べ物屋が露天に店を広げいつも大勢の人だかりだった。この豊富な食料品がどこから出てきたのだろうと子供心にも訝しく思ったものである。当時2歳の弟の子守が私の役割であったが、おんぶしている弟にオモニができあがりのホットケーキのようなものをくれたこともあった。近所の小川医院?の私の同じ年頃の女の子に自転車を借りては乗り回し、南大門の下をよく通り抜けたりしていた。

戦後何十年も経ってからソウルに何回か出かけた。ソウル駅と南大門を見るとふるさとに戻ってきたような心地になった。その南大門が焼け落ちてしまったのである。誠に哀惜の念にたえない。もし再建計画でも立てられるようなら心ばかりのドネーションをと思う。

朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべし

2007-09-02 17:38:02 | 在朝日本人
朝青龍がモンゴルに帰った。昨日(9月1日)のテレビでは3週間たったら日本に帰ってくるようなことをいっていたが、母国で第二の人生を歩む方が彼にとっても、日本相撲協会にとってもよいのではと思う。私の思うところ、外国人力士に『国技』とされている相撲とらせること、それも最高位の横綱をそつなく勤めさせるのはどう考えても無理がある。それは日本相撲協会のやっていることが、かって日本が朝鮮人(台湾人にも)に植民地政策の一環として押しつけ、いまだにその恨みをかっている『皇民化教育』と共通しているからである

今や『皇民化教育』のことなどご存じのない方のほうが多いと思うので、すこし説明をしたい。

私は昭和15(1940)年の夏朝鮮に渡り、翌昭和16年4月に国民学校に入学し、敗戦後の昭和20年11月に日本に引き揚げてきた。国民学校5年生であった。今のソウル、その頃の京城で私は国民学校に通っていたが、朝鮮人の生活は垣間見ることはあっても直接的な接触は皆無に近かった。日本人社会の中だけで十分生活できたからである。同じ学級に朝鮮人がいたかも知れないが、姓名では分からなかったと思う。というのも日本式の名前を名乗らない朝鮮人が、いわゆる日本人学校に入学を許されるはずがなかったからである。

朝鮮人には朝鮮人固有の姓名がある。現在はハングル文字が使われてわれわれもキム・ジョンイルのようにカタカナで表すが、その頃は金正日と漢字が使われていた。ところが昭和15年2月11日に施行された改正朝鮮民事令により、朝鮮人は朝鮮人固有の姓名をやめて日本式の名前を名乗らないといけないようになった。これが創氏改名と云われるものである。

創氏改名は法律的には強制ではなかった。しかし創氏改名をしない朝鮮人の子弟は各級学校に入学させない、各級公的機関にも採用しない、各級行政機関はそのような者の事務を取り扱わない、食糧をはじめすべての配給対象から除外する、労務徴用を最優先にするなどの圧力がかかったものだから、新しい日本式氏名の届け出期限の8月10日までに全戸数の80%(約322万戸)が届け出たという。

儒教の教えが浸透していた朝鮮では、祖先伝来の姓を変えることは「換父易祖」といって不孝の最たるものと考えられていたから、抵抗も多かった。最近復刊された梶山季之著「族譜・李朝残影」(岩波現代文庫)に収められている「族譜」は、創氏改名に最後まで抵抗して遂に自死を選んだ地方の大地主、両班(ヤンバン)を扱った小説である。当時日本人が朝鮮でどのようなことをしていたのか、その一端を知るためにもこの本をぜひ読んでいただきたいと思う。たとえ知らなかったとはいえ、圧制者であった日本人と歴史を共有している私は、学生時代にこの小説を読んだ時に脳裏に刻まれた『負い目』から一生逃れられない宿命にある。



戦後、昭和天皇が皇太子(今上天皇)の家庭教師にアメリカからクエーカー教徒のElizabeth Gray Vining女史を招いた。その意図とか経緯とかは覚えていないが、どこからか伝わってきた話で記憶に残っていることがある。Vining女史が英語のクラスで生徒をアメリカ風の名前で呼ぶことにしたそうである。ところが皇太子が確かJimmyと呼ばれたときに「私はJimmyではありません。明仁です」と仰ったとのことだった。これが本当の話なら、たとえ便法であれ一国の皇太子に対しその様な非礼(と私は受け取っている)を働いたたVining女史は即刻馘首にされるべきであったと思うが、それ以上の非礼・非道をかっての日本は朝鮮人に対し働いてきたのである。

創氏改名はその頃の朝鮮総督南次郎陸軍大将が推し進めた「内鮮一体」政策の一つであった。「内鮮一体」の「内」とは内地、すなわち日本のことで、「鮮」は朝鮮のことである。日本の植民地政策としては最初から「同化政策」がとられた。英国が印度を植民地としたように、従来は白色人種が有色人種を支配するのが常態であった。この場合は「同化政策」という発想がおこるよしもなかったが、日本人と朝鮮人と人種的にもまた歴史的にも近縁にあったことが、「同化政策」との発想を呼び起こしたのであろうか。

「同化政策」を一口に云うと朝鮮人の日本人化である。当時の日本人は天皇の知ろし召す国、皇国の臣民であったから、日本人化は皇国臣民化、約めて『皇民化』であった。この『皇民化政策』の具体的な方策が創氏改名に止まらず、朝鮮語を廃して日本語を強制し、日本の神社への参拝強要に及んだのである。結局朝鮮人を日本の戦時動員頽勢に組み込むためだったこともあって、朝鮮人の心に消えることのない『恨み』を刻みつけてしまったのである。

前置きが長くなったが、これからが本題である。

私の目から見ると日本相撲協会が外国人力士にやっていることは、まさにこの『皇民化教育』なのである。国技がどれほど実質的な意味を持つのか私は知らないが、「新明解」に国技とは《その国の伝統的な武術・技芸・スポーツなど。日本では、すもう。》と書かれているくらいだから、相撲は伝統継承の側面が強いということはわかる。しかし伝統を引き継ぐということを素直に考えると、それが出来るのはその伝統を生み出した国の国民に限られるのではなかろうか。少なくとも私はそう思っている。

日本相撲協会も多分そう思っているからこそ、外国人の日本人化を考えたのであろう。外国人そのものとして扱うのではなく、蒙古名を持っているモンゴル人に朝青龍という名を与えた。創氏改名である。プロ野球やサッカーでは外国人選手・監督とは通訳を入れて意思の疎通を図るのが当たり前なのに、大相撲では日本語がわからないとどうにも身動きができない状況が当たり前とすることで、外国人力士に日本語の使用を強要している。さらに明治神宮での奉納土俵入りが代表するように、日本の神社への尊崇を押しつけている。まさに『皇民化教育』そのものである。日本相撲協会が『皇民化教育』と認識しているのかどうかはいざ知らず、外国人力士の日本人化でもって国技の継承者とすることは、国民に対する言い訳に過ぎない。

外国人力士がどのように日本に入ってきたのか、その経緯はさまざまであろう。しかし50年も経てば、甘言に騙されて日本に連れてこられたと愚痴っている元外国人力士の姿が目に映るようだ。

考えてみれば直ぐに分かる話ではないか。年端もいかない外国の若者が、異国である日本の伝統を受け継ぎそれを護り次代に伝えていくという殊勝な考えを、自分の国にいるときからどうして持てるのだ。そんなことをいう前にもっと自分の母国のことを考えよ、といい諭すのが常識のある大人のすることではないか。若いうちから母国を逃げだそうと考える外国人を、日本人化でなんとか誤魔化しているのが日本相撲協会なのである。

彼ら外国人の真意が金儲けであり相撲はあくまでも出稼ぎの手段である、と私は断言して憚らない。それを知りながら、もしくは金儲けを餌に日本相撲協会は過去に破綻した『皇民化教育』を外国人相手に性懲りもなく続けている。いいかげんその愚かさに目覚めて『皇民化教育』をそうそうに止めるべきであろう。

大相撲が日本人力士だけでやっていけるのか。日本相撲協会が乾坤一擲の勝負にでる気構えがあるのなら、その再生の秘策を伝授するに私はやぶさかではない。

朝鮮時代の三坂小学校同窓会に出席して

2007-05-15 17:13:26 | 在朝日本人
私は戦後朝鮮からの引き揚げ者である。京城府公立三坂国民学校に1年から4年まで在学して、5年からは江原道鉄原邑に疎開して鉄原国民学校に通ったが、そこで敗戦を迎えた。いずれの国民学校も卒業することはなかったが、三坂小学校同窓会に在五(敗戦時に在学しておれば五年生)会員として数年前に加えていただいた。

2005年10月に東京で開催された全国大会が全員による集まりの最後になった。会員の高齢化による。しかし近畿、北陸、四国に点在する会員の集まりとして、幸いにも関西三坂会が結成されて、昨日その会合が京都で開かれた。会員数ほぼ270名のうち参加者は31名で、最年長は昭和9年の卒業生の方だった。

この最年長の方が出席者にプレゼントを下さった。Google Earthの三坂小学校を中心とした現在の航空写真のプリントである。またお話の実に明晰なこと、85歳になっても衰えを見せないチャレンジング精神こそ、われわれ外地で少年・少女期を過ごした者の真骨頂とわが意を強くしたのである。出席者のほとんどは当然のことながら私より年長者である。この関係が一生続くのだと思うと、上の兄弟のいない私に甘えた心というか、心のやすらぎが押し寄せてくるのである。

実は私もGoogle Earthで旧居を見付けていた。同窓の皆さんにお知らせしようという発想の浮かばなかったのが残念である。以前に記したことであるが、1998年に現地の通訳の助けを借りて三坂通30番地26にあった旧居を奇跡的に見つけ出していたからである。その場所を航空写真で示す。



航空写真で旧三坂小学校を見ると、運動場右手にあったプールが見あたらない。1998年にはまだ使われていたので、その後取り壊されたのであろう。それにしても戦後半世紀も使われていたとは、立派なものを作ったものだと感心する。

小学校の右手にある裏門から上下に走る三坂通に出て上の方に歩いていく。鋭角がはっきりしている三角の交差点に出ると、図では後戻りになるが実際は坂を上っていく。上り始めたすぐ右手に不動産屋があり、そこで通訳が昔の家の様子を店主に聞いてくれた。日本人家屋の多くが取り壊されていたが、私の旧居だけは外装などは完全に変わっているが、内部はそのままに残っているとのことであった。坂を上っていくと左手にその家が見えてきた。航空写真でピンのしるしを付けたところである。



写真で左側の家は完全に建て替えられていた。父と同じ鐘紡の社員で手塚さん一家がかって住んでいたところである。北海道の出身で昭和18年か19年に満州に転勤して行かれた。この家の塀際に桐が植わっており、私はよく塀の上から木に登っていたが、ある時掴んだ枝が折れて地面に投げ出され、そのときに右腕関節のすぐ下を切り裂いてしまった。親に知られると怒られるのは必定なので、自分でなんとか処置を済ませた。幸い膿まずに直ったが、お蔭で刀で切られたような傷跡が今も残っている。



写真の門は韓国風であるが昔は日本式の門柱に門扉だった。旗日には向かって左の門柱に日の丸の旗を掲げた。これは長男の私の仕事であった。写真に見える樹木はその後の住人が植えたものである。また右側の家はなくて、石垣のうえは空き地で草がよく生えていた。誰かに教わってあかざを集めると母はそれをおひたしにした。

門柱のすぐ後ろは板囲いになっていて、オンドルの燃料である無煙炭を蓄えた。戦争が進んでくると庭を掘って防空壕を作ったが、なにかあるとよく潜り込んで遊んだものである。

門を入り玄関に進む。この玄関前で撮った写真が残っている。



この家族全員の写真に、父が「昭和十七年十月十?日京城神社祭礼当日三坂三十番地二十六ノ玄関前」と書き記している。もう一枚は妹の写真で、玄関先の様子がややはっきりと分かる。



昨日の出席者の中で、ご両親が持ち帰られたのであろう、通知表などを持参の方がいた。私たちの世代の親は、そういうことがごく自然に出来ていたように思う。着の身着のままで逃げて帰ったのに、子供の成長の証しを大事に持ち帰ってくれたのである。親の愛情を感じる。そのおかげで私も通知表が残っており、それにまつわる話を以前に記したことがある

優等賞の賞状なども出て来たのでご覧に入れる。一年生の時の『学業優秀素行善良』の言葉がいい。それにしても漢字でゴツゴツした厳めしい文章である。低学年の私に読めたのだろうか。二年目からは優等賞が賞状に変わり、『修練』という言葉が加わった。世情を反映してだろう。ところで今どきの子供たちもこのような賞状を貰っているのだろうか。人に賞められるというのは励みになるもの、年取ってからの勲章も悪くはないが、子供を励ます方がもっともっと大切だと思う。『修練』によく励んだのであろう、四年連続で賞状を頂いて最後のが昭和二十年三月二十四日、戦争に負けるまでもう五ヶ月も残っていない。それなのにこのあとすぐ鉄原に疎開したのである。






♪万里の長城からションベンすればよー

2007-01-17 12:18:22 | 在朝日本人
朝鮮京城三坂通りのわが家は、朝鮮神宮の参道に通じる坂道に面していた。龍山師団の兵隊さんが行軍訓練でこの坂道をよく上り下りしていた。時には軍歌を歌いながら行進していく。

  ♪万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く
   大和男子と生まれなば 散兵戦の花と散れ

このような歌を、前と後ろの分隊が一小節ずつ交互に歌い継ぎ、ザッザッと足音を立てて歩いていく。いつの間にか私も耳からこの歌を覚えてしまった。

このような歌もあった。

  ♪万里の長城からションベンすればよー 
   ゴビの砂漠に虹が立つよ

で始まり、いろいろと歌の文句が変わって続いていく。そのなかで私の記憶に一つだけ残っているのがある。

  ♪巴里のエッフェル塔からションベンすればよー
   ダニエル・ダリューが傘をさすよ

というので、このような節である。

「硫黄島からの手紙」を観たことが連想に連想を生み、この歌が出てくる羽目になったのであるが、このたび歌ってみてある違和感を覚えたのである。

一番はよい。二番がしっくりこない。戦争中はもちろんフランスも敵で、だからこそ仏印などを奪ったりしている。その敵国人にションベンをかけて気勢をあげる、との見方が成り立たないわけではない。しかし文句全体があまりにも『文化的』だし、軟弱感が漂っていて、軍歌らしくない。

母が昔語りに兵隊さんが歌っていた、と一番の歌詞をちゃんと云ったことがあるので、これが歌われていたことは確かである。しかし他には覚えていなかった。

「ダニエル・ダリュー」がもし兵隊さんたちに本当に歌われていたとしたら、その中には物知りがいて、ダニエル・ダリューとシャルル・ボワイエ演じる彼女の代表作「うたかたの恋」を講釈していたかも知れない。それに耳を傾けて頷く兵隊さんを想像すると、なんと日本軍兵士の文化度の高かったことよ、と賞賛したくなる。

ところが「ウィキペディア」によると、1935年に公開されたこのフランス映画は日本では検閲で上映禁止となり、戦後になって公開されたとのことである。この映画はともかく、戦前の日本におけるダニエル・ダリューの人気度がどの程度のものであったかが分らないので、このような歌詞が世間に広がっても不思議でなかったのかどうか私には判断できないが、軍歌に登場するにはやはり場違いかな、との思いが強い。

となると「ダニエル・ダリュー」が私の記憶に定着したもう一つの可能性を考えてみないといけない。戦後、軍歌のいろんな替え歌が輩出した。ダニエル・ダリューとは全く無縁であった少年の私が、ただ面白がって口にし出したのだろうか。「万里の長城」と「ダニエル・ダリュー」がなぜ対で私の口から流れ出るのか、この疑問はちょっとやそこらで解けそうもないようだ。

朝鮮江原道鉄原で迎えた60年前の8月15日

2005-08-15 13:20:31 | 在朝日本人
♪ざわわ ざわわ ざわわ
 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ
 風が通りぬけるだけ
 今日も見渡すかぎりに
 みどりの波がうねる
 夏の陽ざしのなかで

寺島尚彦作詞作曲のこの「さとうきび畑」を聴いて私が思い出すのが自分の背よりも高いトウモロコシがぎっしりと植わった畑である。その中に友達と入っていくとジャングルを進軍する皇軍兵士のような気分になるのだった。もぎ取ったトウモロコシを湯がいてかぶりつくと黄金の粒から甘い汁が飛び出す。とても幸せだった。疎開先、鉄原での思い出である。

昭和20年の春、朝鮮京城府の三坂国民学校に在学していた私は疎開することになり、父を京城に残して母と四人の子供だけが江原道鉄原に引っ越しした。四月から五年生として通い出したのが鉄原国民学校であった。

学校では一学年に何人いたのだろう、もちろん一教室にゆったりと納まっていた。授業で飛行機雲のことを知っている人と先生に聞かれ、少年雑誌で仕入れたばかりの知識を披露したら「さすが都会の子供だ」と云われた覚えがある。面白かったのは畑仕事、草を刈って山積みにし、それに肥たごから小便をぶっかけて天日に曝しているうちに肥料に変わっていく。手で触るように云われて塊に手を突っ込むととても熱くなっているのに驚いた。

疎開してから間もなく京城に残っていた父に赤紙がやってきて竜山の連隊に入営することになった。母は幼い弟妹を三人抱えて動けないので、私が父の入営を見送り私物を受け取って来ることになった。一人での汽車の旅、初めてのことであったが京元線で鉄原から京城駅を経て以前住んでいた永登浦まで行ったことと思う。片道3時間ぐらいかかったのであろうか、途中の議政府という駅の名前を未だに記憶している。無事に大役を果たした帰ってきた。

鉄原には景勝の地金剛山を訪れる人が利用する金剛山電気鉄道の始発駅があった。『電車』が珍しく、駅にはよく出かけて電車の発着を見るのが楽しみであった。車両の屋根につけられた前照灯に精悍なイメージを感じた。でも乗ることは一度もなかった。
勉強をした記憶は殆どない。時間があれば外を飛び回っていた。探検するところが山ほどあった。工場の警備に配置された兵隊さんもよく相手になってくれた。疎開者には狭い寮の一室しか住まうところがなかったが、もともと工場に勤務している社員たちは一戸建ての社宅に住んでおり、そのうちの一軒、出征軍人の家に隊長さんが入り込んでいるのをよく目にした。

夏休みに入っていたある日、ソ連軍が朝鮮国境から攻め込んできたとのニュースが伝わってきた。羅津とか清津の地名を新聞で見たような気がするが、だからと云って日々の生活が変わったような記憶はない。そして国民学校の校庭に集合するよう連絡があった。8月15日である。お昼、玉音放送を聴いた(これを書いている今ちょうど正午になった。一分間黙祷)。校長先生が指揮台から何かを話された。私は全校生が整列した前から二列目に立っていたが、すこし離れた左側に目をやると当時2年生であった妹がしゃくり上げているのが目に入った。私は涙が出るどころか何が起こったのかすらはっきりと掴めていなかった。

今から思うと『神国日本の降伏』は『軍国少年』の私にとって理解不能の出来事であったのだろう。

もう一つの教科書問題 『国民学校の教科書』

2005-05-10 11:37:01 | 在朝日本人
書棚を見わたしていると,、入江曜子著「日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書を読む-」が目に留まった。取り出してみると、第一章の途中まで目を通した形跡がある。出版が2001年12月20日であるから購入して直ちに読み始めたのであろうが、はやばやとギブアップしたようである。改めて読み返しだしたがやはり読みづらい。この教科書が出来上がるまでの歴史的経緯を述べる過程で、いろいろな文書からの『引用文』が出てくるが、それが読みづらい(これは著者の責任ではないのであるが)。

私は純粋培養された『軍国少年』のなれの果てであることを自認している。そして奇しくも著者の入江曜子氏も早生まれであるが私とまったく同学年、すなわち《小学校とは無縁だった唯一の年度》に属していることを、今回初めて認識した。その入江氏がわれわれが使ってきた国民学校教科書がどのようなものであったかを解説してくださるのであるから、なにはともあれ再挑戦を試みた。

ところが今回はなんと、「はじめに―今なぜ戦時中の教科書か」で引っかかってしまった。

2ページにこのような記述がある。
《それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20)年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう》

これは1999年に小淵元首相(1937年生まれ)の主導のもとに強行採決により制定された「国民国家法」、2000年の森元首相(1937年生まれ)の「日本は天皇を中心とした神の国」発言、さらには2001年の「新しい歴史教科書をつくる会」による高校歴史教科書の文部科学省による検定合格、の記述を受けたものである。

著者が何を云いたいのか、お分かりいただけるであろう。

とにかくこの本を通読した。教科書からの引用文に思い当たるものも少しはあったが、
教科書の中身は私の頭からはほとんど脱落していると思う。そして私は随所に出てくる著者のコメント一切なしの完全復刻版教科書を見たくなった。著者のコメントがけっこう煩わしいのである。

その一例、96ページにこのようなくだりがある。
《国来い、国来い、えんやらや。神さま つな引き、お国引き。
 しま来い、しま来い、えんやらや。はっぽう のこらず よって来い。(『うたのほん下』)
 第五期独自に書き下ろされたこの「国引き」とセットになった国民学校唱歌は、上級生までも珍しがって口ずさんだものである。
 神話の世界への入り口となった「国引き」はイザナギ・イザナミの「国生み」とともに、高学年における日本の領土拡大政策-侵略戦争賛美の比喩としての伏線であった。》

『職業作家』ならではのこのような深読みが、私には押しつけがましくて煩わしいのである。それでも私は最後の第八章、「大日本青少年団と隣組」まで読み進み、この章の最後のパラグラフ(220ページ)に至った。

《 この時代、このような教育と訓練の名による超国家主義思想を刷り込まれた子供たちの不運は、一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感-判断停止のラク(付点付き)さを知ってしまったことである。そしてもう一つの不幸は、全体主義の前に、個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。》

そして「おわりに―アジアへの視点」と続く。

著者の論旨では、その超国家主義思想を刷り込まれた子供たちのなれの果てである小渕元総理や森元総理が、と私が冒頭に述べた引用に戻るのである。

しかしこの最後のパラグラフはいわば私自身のことを云っていることにもなる。と思った瞬間、この著書に馴染めなかった理由がはっきりと浮かび上がった。刷り込みなのかどうか、この著者は自分の『思い込み』への執着が強すぎて、客観的な検証を等閑にしたままの主観的主張に陥っているからである。

たとえば著者の一つのキーワード、『刷り込み』を取り上げる。

私の理解するところでは、『刷り込み』はもともと動物行動学における用語で、「岩波生物学事典第四版」731ページにもその説明がある。関わりのあるところを取り出すと、《(前略)動物の生後ごく早い時期に起こる特殊なかたちの学習。(中略)刷り込みは、限られた、しかもごく短い期間(この期間を感受期sensitive periodあるいは臨界期critical periodといい、object imprintingでは数日から数時間)のみに起こり、かつ学習されたものはふつう一生のあいだ忘れられることがない点で、一般の学習と異なるとされる。(後略) 》

多分著者は私が強調した部分を『刷り込み』という言葉で言いたかったのであろう。しかしもともとこのように定義づけられる用語を、教科書を介する学習に適用して、一生のあいだ忘れられることがないなる部分だけを強調するのは牽強付会の論と云わざるをえない。この強調の裏に、「何かことがあると、この『刷り込み』が作動する」という著者の思い込みが見え隠れする。

私のこの批判を具体的な形で示そう。たとえば以下の文を著者の220ページのパラグラフに続ければ良い。私たちかっての『少国民』がそこで成長を止めてしまったわけではないから。

しかしこの子供たちは『敗戦』により、絶対の『権威』が一挙に崩壊するという劇的な瞬間に遭遇した。絶対と思われた『価値観』がその社会の、そして時代の産物であることを身を以て学んだのである。その対比として何事であれ自分で判断できる自我の確立に目覚めた。そしてたとえ生活は貧しくても、命を守るために逃げ回らずにすむ『平和』の有り難さに、その尊さをしみじみと味わったのである。

『同期の桜』はそれぞれの思いをこれに付け加えてくれるであろう。

元在朝日本人の『自分探し』

2005-05-07 13:16:47 | 在朝日本人
以下は「会報 三坂会だより」(2003年)に掲載した一文である。人名などをイニシャルにするなど少々手を加えた。

昨年(2002年)六月に岩波新書で高崎宗司著「植民地朝鮮の日本人」が刊行された。「朝鮮」という文字が題名にある本は見逃すわけにはいかない。早速購入し読み始めて52ページにさしかかったとき、「京城三坂小学校記念文集編集委員会」の文字に視線が釘付けになった。まさか、と思いながらも巻末の参考文献に目を走らせると、間違いもなくそこには「京城三坂小学校記念文集編集委員改編「鉄石と千草」三坂会事務局、1983年」と記されていた。

インターネットで直ちに国会図書館のホームページにアクセスして検索すると、確かに所蔵されている。そこで地元の神戸市立大倉山図書館に駆けつけ、借出し手続きを済ませた。到着の知らせが届くまでの待ち遠しかったこと、毎日そわそわしていた。

私が三坂国民学校へ永登浦国民学校から転校したのは昭和十六年の夏、一年生の2学期で担任はSY先生だった。二年生はAH先生、三年生はTS先生、四年生がSS先生と受持って頂いたが、昭和二十年四月に鉄原に疎開することになり、三坂を離れた。

1998年の夏、定年退職後の身辺整理も一段落したので一週間の予定で彼の地を訪れた。三坂通り三十六番地の旧居あと、そして三坂国民学校あとの再訪が目的である。それまでにも何回か飛行機の乗り継ぎとか会議への出席の機会を利用して探索を試みたが、記憶のみで探り当てることが出来なかった。通訳の助けを借りて腰を据えての再挑戦、その意気に天が感じてくれたのか、あっけないほど容易にかっての龍山中学校の前に出た。となると足が勝手に動いて三坂国民学校の正門に通じる小道に入ると、藤棚の光景が目に飛び込んできた。右手にプールが見え、その底を一人の作業員がホースの水で洗い流していた。

かっては後ろに校舎があったはずの藤棚下のベンチに座った。脱腸を抱えていた私は体育の時間も具合の悪いときはここに座り、級友の動き回るのを見学していた馴染みの場所である。運動場の方を見やると時の流れが止るとともに、運動場を駆けめぐっている自分の姿が彷彿と浮かび上がってきた。

何年生の頃か、休み時間になると飛行機遊びをしていた。両手をひろげて急降下しては翼を翻し急上昇する。その瞬間に縄跳びなどしている女の子のスカートを翼先を引っかける。僚機も思い思いにターゲットを絞り、戦果を競い合っていた。女の子も「キャー」とは云うものの先生への告げ口などはなかった。

四年生に進級してからか、登校の際はグループを組んだ。裏門の手前で班長が「歩調取れっ」、「頭、右!」と号令をかけて校門に立つ歩哨の兵隊さんに敬礼して通り過ぎた。脚にゲートルを巻いていた。

授業に教練めいたものが取り入れられたのもその頃で、木柱に藁を巻き付けたのを敵兵に見立てて木銃で刺突する訓練があった。避難訓練では警戒警報が出ると防空頭巾をかぶり机の下に潜り込んだ。本物の警戒警報で帰宅したこともある。いつものように通りかかった馬車の荷車に御者の目を盗んで飛び乗り、肩下げカバンから非常食の乾パンを取り出し、後で母に叱られることを少しは気にしながらポリポリと囓った。空の要塞B29の飛行機雲を始めて目にしたのも避難の帰り道だった。

五年生になると疎開先の鉄原国民学校に通学、そこで敗戦を迎えた。ソ連軍侵攻のニュースに怯えながらも幸い汽車で京城に舞い戻り、十一月末の引揚げの日まで明治町に仮住まいをしていた。

日本への引揚げと共に三坂との繋がりは絶たれてしまった。というより疎開した時点で既に過去へ遡る手がかりの一切が失われたといって良い。戦後「朝鮮」という言葉自体もおずおずと雰囲気を窺いながら口にするようなご時世になり、三坂での想い出も「近づきがたいもの」として封じ込められて、それだけに三坂に対する思いは心に深く潜行していた。

大倉山図書館から連絡があり、届いたばかりの「鉄石と千草」を手にした瞬間に幻であった過去にしっかりと結びつけられたことを実感した。奥付にある最初の番号に電話をしたところ不通、もう一つの番号は持ち主が変わっていた。しかし三坂会事務局(KT)の記事を頼りにインターネットで検索すると、東京の財団法人の理事長として同氏の名前があった。東京の事務所に電話をするとK氏は外出されていたけれど、電話の女性に事情を話したところ「京城中学」とか耳にしたことがあるとの由、その言葉を聞いた瞬間目頭が熱くなり言葉がしばらく途切れてしまった。

後刻K氏よりお電話とファックスを頂き、三坂会の現状がつまびらかになった。事務局のOSさんとも連絡がつき、お力添えを頂いて三年生担任のT先生にご夫君のKJ氏ともどもお目にかかることが出来た。ご自宅でお昼をご馳走になりながら話が弾み私はいつしかかっての生徒に変身していた。両親が大切に持ち帰ってくれた三年生の通知表を先生にお目にかけ、通信欄に書かれていた二十歳前後の先生の美しい筆跡そのままで「お会い出来てたいへんうれしく思っております。お元気で」の言葉を五十九年の間を置いて書き加えて頂いたのは望外の喜びであった。



その後三坂会近畿支部の集会にも参加させて頂き、また遊び仲間でもあったAK氏とも再会を果たし、長年のわだかまりが少しずつほぐれけ始めている。

『国史教科書』が反日感情を煽っている?

2005-05-05 11:41:33 | 在朝日本人
「入門韓国の歴史―国定韓国中学校国史教科書」と「入門中国の歴史―中国中学校歴史教科書」(共に明石書店刊)の『精査』の結果をまとめるつもりであったが、両書を入手してまずそのページ数の多いのに驚かされた。『韓国』の方は430ページ、『中国』にいたっては1260ページを超える。そこで『精査』は早々と諦めてとにかく読み通すことにした。先ずは短い方の『韓国』を、である。

正直、読みづらかった。隣国とはいえこれまでほとんど知ることのなかった他所の国の歴史となれば、私にとって新しい事柄ばかりが出てくる。

高句麗、百済、新羅の三国時代はまだなじみがある。

すでに国民学校で習った神功皇后の三漢征伐で、新羅、高句麗、百済という名前は知っていた。しかし戦後は神功皇后の実在性自体が疑問になり、さらには百済を助けて日本軍が唐・新羅の連合軍と対戦した663年の白村江の戦いで大敗北したなんて、戦後の教科書ではじめて知って驚いたものだった。

この時代の前後に新羅にせよ百済にせよ、唐とか日本とか、結べる勢力と組んではまた離れ、結果的には新羅の三国統一につながっていく。版画家関野潤一郎の「慶州仏国寺」の屋根瓦に魅せられてぜひ訪れたいと思っている仏国寺が、この統一新羅の時代に建立されたものであることを知る。

そのあと、次から次へと『国』の生滅が相次ぐ。渤海が起こり高麗が後三国を再統一して親宋政策を取る反面、契丹、女真との抗争しそして蒙古との戦争につながっていく。40年間の戦争を経て最後に高麗は蒙古と和議を結ぶが、これを蒙古(元)に対する降伏とする『愛国的』「三別抄」を高麗・蒙古連合軍が平定するような『逆現象』も起きている。

われわれが「元寇」として知る戦役はこのように手軽に記述されている。
《元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。》

私はかって韓国からの留学生数名にこの「元寇」のことを尋ねたが、誰も知らなかった。文永の役では28000人の軍兵が、弘安の役では総計140000人の軍兵と4400隻の軍艦による大がかりな攻撃であった。しかし激しい暴風雨(『天佑の神風』)により二度ともこの侵攻が失敗したので、華々しく戦果を宣伝するには至らなかった。

中国で明が元に取って代わり、高麗が滅亡して朝鮮王朝が成立した。1392年のことである。朝鮮王朝は都を漢陽(現在のソウル)に移しその後500年余り、日本に屈服するまで存続した。

この間、朝鮮にとっての大きな国難は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、朝鮮側の云う壬辰倭乱である。《7年間の戦乱で朝鮮が受けた被害は大きかった。人口が大幅に減少し、国土がひどく荒れてしまった。耕地面積が以前の三分の一以下に減り、食糧問題が深刻になり、これに凶作と疫病まで重なり、農民の惨状をとうてい言葉には言い表せないものであった。》

このような『戦争の惨禍』を経たのではあるが、両国間に再び国交が回復した。
《壬辰倭乱の後、日本の徳川幕府は朝鮮の先進文化を受け入れようと、対馬島主を通じて交渉を認めるように朝鮮に求めてきた。朝鮮は、これを受け入れ、制限された範囲内で再び通交することを許したので、両国間の国交が再開された(1609)。》これが江戸時代に合計12回に亘る朝鮮国王の使節来日、すなわち朝鮮通信使につながる。

以上は教科書に現れた朝鮮と日本との接触の大まかな経緯である。折に触れての倭寇とか倭寇征伐がそれに加わる。

通信使について、《通信使は、外交使節としてだけではなく、私たちの先進文化と技術を伝えてあげる文化使節の役割もあわせてもち、日本の文化発展に大きく役立った。》という誇らしげな記述が続く。しかし日本人としては素直に受け取ってあげればそれまでのこと、テニオハに目くじらを立てることもない。

興宣大院君が政治の実権を握る頃(1863)から、朝鮮が騒然とした空気に包まれるようになった。とくに外国からの『侵略』への恐怖が大きな問題になる。

ロシア勢力の侵入とフランスの力を借りてこの侵入の排除、アメリカの江華島への侵入と追っ払い、日本の通商要求の拒否などが相次ぐ。これを認めると西洋の侵入が後続することを警戒したのである。しかし時代の流れに逆らうことが出来ずに、日本との江華島条約締結(1876年)を皮切りに、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの国々と条約を結んだが、これらはすべて不平等条約であった。

この辺りから朝鮮の政情は、開化に対する反動があるかと思えばさらに開化党による巻き返しなどで乱れ、それに外国勢力が割り込んできて次第に独立国としての実体を失っていくことになる。その間、農民の間にも外勢に対する反感、腐敗した政治にたいする不満が広まり、内憂外患が波状的に高まっていく。農民たちはついには東学農民軍を編成し政府軍に対峙する。農民軍を鎮圧出来ない政府の要請に応えては清国が軍隊を派遣すると、それに呼応して日本軍が日本人保護のためにまた軍隊を派遣する。

その上、日本の脅威を避けるためとの理由で高宗がロシア公使館にその居所を移す。

この状況を明治維新を経験してきた日本人として眺めると、『哀れ』としか云いようがない。独立国の体面はどこにもない。教科書にも《高宗は1年ぶりに慶運宮(今の徳寿宮)にもどり国号を大韓帝国に、年号を光武と定め、皇帝即位式を行い自主国家の体面を整えた(1897)。》と書かざるを得ないのである。

そして日清戦争、日露戦争を経て日本が覇権を握ると共に朝鮮にたいする支配力を強化し、ついには大韓帝国を併合するに至る。

《1919年日本帝国主義の侵略により、わが民族は国権を侵奪され、植民地支配を受けるようになった。朝鮮総督府は過酷な武断統治でわが民族の自由を抑圧し、土地と資源を略奪した。》

云うまでもなく、一つの独立国が他国に併合されて植民地となることほど、屈辱的なことはない。そのような経緯を歴史として『正史』に記録をとどめるとして、一体どのような書き方があるのだろう。それを次世代の教育の指針となる『歴史教科書』に記す立場に立てば、どのような書き方が望まれるだろう。

とどのつまり自らの価値観に基づいた『民族の歴史』を書くしか他に手はないだろうと私は思う。

その意味ではこの『国史教科書』はまさにその条件を満たしている。

第二次日韓協約により1905年に韓国統監府がおかれて、日本が大韓帝国の外交権を剥奪した。さらに1907年の第三次日韓協約で、立法・行政・人事のすべてを統監の承認事項として韓国内政の実権を掌握したころ、『国史教科書』では「義兵戦争」の章で次のような見出しが続く。「露日戦争と日帝の侵略」「乙巳条約(第二次日韓協約のこと)と民族の抵抗」「抗日義兵 闘争の再開」「ハーグ特使と軍隊解散」「義兵戦争の拡大」「義挙活動」「独島と間島」。

日本側の資料によっても、旧韓国軍の解散が強行されると、それに反対する兵士たちが積極的に参加した「義兵戦争」では、義兵の戦死者17779名、負傷者3706名、捕虜2139名となっており、『愛国者』の存在は疑いのない事実である。

さらに「民族の受難」の章では、《日帝は李完用を中心にした親日内閣に対して大韓帝国を日帝に合併する条約を強要し、ついにわが民族の国権を強奪した(1919)。》と「国権の侵害」で述べ、そして「憲兵警察統治」「土地の侵奪」「産業の侵奪」と苦難の歴史を列記する。

もちろん1919年の民族独立の達成を目指す3・1運動には一章を当てている。この3・1運動においても朝鮮側の犠牲者は死者が7645名、負傷者45562名を出している。

それのみか「大韓民国臨時政府」の章では「大韓民国臨時政府の樹立と活動」「独立運動基地の建設」「独立軍の抗戦」「韓国光復軍の対日闘争」「愛国志士の独立闘争」と果敢な抗日闘争が続いている。

1905年から1945年の40年間に限定しても、日本との関係で述べられている内容は日本人として気持ちよいものではない。そこでその気になって記述の個々に目を向けると、???の部分が目につき出す。

たとえば鉄道の敷設についての《我が国最初の鉄道としてソウルと仁川の間に京仁線が開通し、露日戦争を前後した時期に日本の侵略と関連して京釜線と京義線が開通した。》の部分。これを「近代文物の受容」の章で述べているが、主体が日清戦争の際に鉄道敷設権を獲得した日本であることが意図的にぼかされている。

《女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした。》の記述も、『挺身隊員』=『慰安婦』でないことだけははっきりしている。

時代は下るが朝鮮戦争の休戦に引き続き、このような記述がある。
《北韓共産軍が引き起こした625戦争は自由と平和に対する挑戦であり、同族相残の犯罪だった。数多くの人々が生命と財産を失い、工場や発電所、橋梁や鉄道などが破壊された。》これらのほとんどが日本の植民地経営の産物であることはどこにも触れられていない。

しかし、私はこのような個々の事柄の齟齬を問題にするよりは、全体の記述の流れに注目したい。そして思うのであるが、これ以外の書きようが果たしてあるのだろうか、と。

『屈辱の歴史』を克服するには、どのような小さいことであれ『愛国心の発揚』につながる事柄を取り上げることでもって対抗するしか仕方がないであろう。だから私はこの『国史教科書』からは、これが『反日感情』を掻き立てることを狙ったものとは受け取れなかった。

ただ同じく侵略した相手でも、中国に対する態度とは明らかに異なっているのも一方の事実である。

朝鮮戦争においては1950年6月25日午前4時の開戦から休戦協定に基づき砲声が止んだ1953年7月27日午後10時過ぎまでの間に、韓国軍の損害は戦死が約415000人、負傷及び行方不明約429000人。これだけの人的被害が北朝鮮軍と中国軍によってもたらされたのであるが、『国史教科書』では《国軍が鴨緑江と豆満江付近まで進撃し、統一が目の前に近づいたように見えたが、予期しない中国軍の介入によって再び退かざるをえなかった。中国軍は数多くの軍隊を動員し、人海戦術でおし進んできた。》と淡々と述べるだけで終わっている。

しかしこれにしてもこれは韓国の価値観であることを知ればそれで十分、われわれがとやかく言うことではあるまい。いずれにせよ、この時代の歴史は実はまだ『歴史』に至っていないのであるから。

韓国女性を妻とし、シカゴ大学で歴史の教鞭をとるBruce Cumingsの著書、"Korea's Place In The Sun A Modern History" に以下のような記述がある。Chapter Three, Eclipse, 1905-1945の冒頭である。

"For very different reasons, Japanese and Korean historians have shied away from writing about the period after 1910, using the basic stuff of doing history: primary sources, archival documents, intereviews. Pick up any of the major histories of Korea, and you will see that nearly all treat the twentieth century as an afterthought. Why?"

すなわち20世紀の朝鮮の歴史は書かれていないに等しい、と云っているのである。

確かにまだまだ多くの文書が秘密扱いされている、特に北朝鮮と韓国に於いては。そしてこう続いている。

"closed archieves are themselves symptomatic of deeper problems. For Korean historians the colonial period is both too painful and too saturated with resistance mythologies that cannot find verification in any arichive. (中略)In the South one particular decade - that between 1935 and 1945 - is an empty cupboard: millions of people used and abused by the Japanese cannnot get records on what they know to have happened to them, and thousands of Koreans who worked with the Japanese have simply erased that history as if it had never happened. Even lists of officials in local genealogical repositories (county histories, for example) go blank on this period."

《日帝は大韓帝国を植民地化するとすぐ、土地調査事業を実施し土地略奪に力を尽くす一方、各種資源を略奪した。》と『国史教科書』に述べられている。しかしこの『朝鮮土地調査事業』に朝鮮総督府が2400万円の巨費をかけ職員7020人を投入したが、この職員の内5666人が朝鮮人だった事実一つを取り上げても、この朝鮮人を韓国側が『裏切り者』と一刀両断してよいものやらどうやら、クリアすべき難問は山積している。

この歴史家の一つの見方に私は与するが故に、今の時点で両国が己の価値観で纏める歴史があっても致し方がないことだと思う。そういう不完全なものを前にして、『歴史』を教訓とするのはともかく、これを『争いの具』とする愚をわれわれは悟るべきではなかろうか。

(お断り 資料の出所は「国史大辞典」吉川弘文館、児島襄著「朝鮮戦争」です。)

在朝日本人の回想 敗戦後ソウルでの三ヶ月

2005-04-20 13:49:44 | 在朝日本人
私は韓国の反日デモをテレビニュースを観ても、また中国の排日デモを観ても、ヤラセのような気がついしてしまう。子供の頃の体験が効いているのかもしれない。

敗戦により江原道鉄原から京城に逃げ帰り、日本に引き揚げるまでのほぼ三ヶ月間、私たち一家6人は明治町にある『鐘紡』の寮に寝泊まりした。かっては単身赴任者が居住していたのであろうか2階建ての日本家屋で、畳部屋が何部屋か連なっており各部屋に一家族ずつ入っていた。子供の目には10畳以上もある広い部屋に映ったが、8畳かそれ以下であったかも知れない。押し入れがついていて、『全財産』が納められていた。

鉄原に疎開したのが昭和20年3月末で、8月末にはまた京城に舞い戻ったのである。主な家財は鉄原に疎開させたが、三坂通りの旧居にも父の蔵書をはじめ不要不急のものを残していた。家族は疎開しても父は依然としてその家から通勤することになっていたのだろう。しかし現実には父が4月に応召したので旧居は無人で残されていた。『寮』に居住している間に、その残された家財の整理に父と何回か旧居に通った。どうして日本に持ち帰るか当てのないままに、執着の残るものを『押し入れ』に移したのであろう。

『寮』でどのように食事を摂ったが記憶が定かではない。押し入れの中にお米を入れた布の米袋があったのは覚えている。玄米ご飯に醤油をタラッとこぼして食べたこともあるし、玄米を一升瓶に入れて口から丸棒を差し込み、搗いて精白したこともある。しかし食事を自分の部屋で摂ったのか、食堂に出向いたのか、それが分からない。

丸い薄型の缶詰の空き缶で遊んだことを覚えているから、缶詰を副食にしたことは間違いない。大和煮のようなものだったのだろうか。楕円形の鰯の缶詰もあった。ご飯やお菜の煮炊きに湯沸かしなど、母が一切を行っていたはずであるが、もしかすると共同炊事だったかも知れない。

私はどうしていたかと云うと、まさに自由を謳歌していた。学校は行かなくていいのである。そして『寮』は街を探検して廻るのに屈強の位置を占めていた。

ちょっと奥まったところにある『寮』から表通りに出ると、目の前に中央郵便局があり、すぐ左手に中華民国の領事館があった。戦後間もなくのことだから、もともと南京の『国民政府』のもでであったのだろうが、双十節を賑々しく祝った頃は中華民国が入っていたのであろう。門の脇にはアメリカのMPが立哨警備にあたっていた。

どういういきさつでそうなったのか、『押し入れ』に入っていた雛人形を一体ずつそのMP達にプレゼントしたことがある。父に口上を教え込まれたまま、ギフトとか何とか喋ったのであろう。MPがとても嬉しげに受け取ったことを覚えている。『鬼畜米英』の一文字も私の頭には浮かび上がってはこなかった。日本軍の憲兵を真似てか、『憲軍』という腕章を捲いた朝鮮人が通りかかったのを見つけて、MPには漢字が分からないだろうからと、”Korean MP"と誇らしげに教えたこともあった。

1997年にソウルを旧居探訪のために訪れた際に、自然とこの場所を見つけてしまった。南大門あたりを歩いているうちに、足が私をこの場所まで運んでくれたのである。以前と同じ場所に中国大使館があった。しかし昔の素朴な鉄格子の門構えが、写真のように変貌していた。この門を背にして立つと右前方に中国書籍を扱う書店が軒を並べている。



角の書店の向かって左隣あたりに、かっての『寮』に通じる小路が口を開いていた。『寮』に住んでいた朝鮮人の男性従業員が、この角の建物をバーのようなものに改造して開店し評判になったりした。この前で缶詰の空き缶の底に釘で穴を明けて蒸籠をつくり、蝋燭の火で湯を沸かして妹たちとままごと遊びをしていると、通りすがりの朝鮮の男の子がそれを蹴り飛ばして走り去ったことがあった。このような仕打ちを受けたのは後にも先にもこれっきりであったが、戦争に負けていなかったら追っかけていって仕返しをしたことだろう。

前の通りを領事館と反対側に少し行くと、『寮』と同じ並びに小川医院という医院があった。そこに私と同じ年頃の女の子がいていつの間にか口をきくようになり、その女の子の自転車を借りて乗り回すようになった。そのお陰で行動半径が一挙に拡大して、子守というか、昭和18年生まれの弟を負んぶして知らない遠いところまで大胆に遠征していた。京城駅には毎日のように通っていて、貨車に乗った北朝鮮からの避難民を見かけたのもその頃である。

秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」の105ページに次のような記述がある。
《鉄原(京城の北80キロ)から脱出した日本人の報告によると、進駐してきたソ連軍は略奪ののち9月1日に広島屋(遊郭街)に24人の邦人婦女を閉じこめ、連日のレイプで6人が死亡、他は10日頃にウラジオへ連行したらしい》
これは9月27日に大田の朝鮮軍司令部から東京の参謀次長宛に発信された電文の要旨とのことである。私たちが鉄原を逃げ出して間もなくソ連軍が入ってきたことがこれで分かった。また邦人が辛酸をなめながら北朝鮮から脱出しつつある状況に私が接したことも分かる。

南大門広場は巨大マーケットと化していた。ありとあらゆる食べ物が氾濫しているのである。その時はじめて、朝鮮人が何をどのように口にするのかを目の当たりにしたのである。大きな丼鉢から真鍮のスプーンで汁物を美味しそうに食べていた光景は覚えているが、具体的にどのような料理であったのかは記憶に残っていない。漬け物とか海苔巻き、そして魚の乾物などが多かったようだ。物珍しくて立ち止まって様子を眺めていると、朝鮮餅のような食べ物を時には呉れるオモニもいた。背負っている弟が可愛かったせいなのかもしれない。

ある日、その南大門広場が最大の人出で埋まった。その時も弟を背負って群衆の中にいたが立錐の余地もない、人と人が押し合いへし合いするなかに閉じこめられてしまった。朝鮮の偉い人が帰ってきたので、帰国を歓迎するために人が集まったそうである。そのようなことが漏れ聞こえてくる話から分かってきた。大極旗があちらこちらで翻っている。そのうちに歌声が聞こえてきだした。大群衆に歌が広がってきて皆が声を合わせて歌い出したのである。言葉は朝鮮語であったが、「蛍の光」の節なのである。私も嬉しくなって日本語で大きな声で歌っていた。すると「こら、日本人、歌うな」と誰かに怒鳴られて歌うのを止めてしまった。

アメリカに亡命していた李承晩氏の帰国を歓迎しての集まりだったのである。帰国が10月16日であったので、当日かその翌日であったのだろう。私は怒鳴られはしたが、朝鮮人の大群衆の中に入り込んでいて違和感とか恐怖感は一度たりとも感じたことはなかった。だからこそ毎日毎日あちらこちらを探検して廻ることが出来たのである。親の口からも出歩くなとか、そのような注意めいた言葉を聞いたことはなかった。

足かけ6年間、在朝日本人として暮らしていた間に、子供であった私が朝鮮人から『敵意』とおぼしき仕打ちを受けたのはただの二件に止まる。その頃はまだ生まれてもいなかった若い韓国人が示す反日感情が、韓国における戦後の『愛国教育』に根ざしているのではないかと思うのは、元在朝日本人の邪推なのであろうか

在朝日本人の回想 『鐘紡永登浦工場』跡

2005-04-15 15:52:07 | 在朝日本人
私は『鐘紡』のおかげで大きくなった。父が鐘紡に勤務していたからである。高砂の鐘紡社宅で生まれ、神戸の兵庫工場の社宅から幼稚園に通い、京城永登浦の社員アパートに住んでいる間に永登浦国民学校に入学した。昭和16年の4月である。

この社員アパートは煉瓦造り三階建ての堂々たる建物であった。それが工場敷地内に何棟もあり、また似たような作りの工員アパートも棟を連ねていた。冒頭の写真は前の建物が私が半年間通った幼稚園で、後ろの建物群が工員アパートであったと思う。



この写真は幼稚園の手前にある道で、奥の方に見える建物が社員アパート、女の子は幼いころの亡妹である。またアパートのベランダに座っているのは妹、そして屋上でにこやかに突っ立っているのが私である。





このアパートに入っている間に私は『はしか』に罹った。両親の気遣いを一身に浴びていることをなんだか誇らしく感じたのが、熱のある身体で水洗便所にしゃがみ込んでいた時のことである。何故かその時の状況が今も記憶に新しい。

このアパートはなかなかモダンな造りであった。水洗便所に加えて台所にはダストシュートがあり、暖房はスティーマー(と家ではカタカナ名で呼んでいた)であった。建物の地階は通路になっていて外気に曝されることなく浴場に歩いていけた。売店もあったように思う。

吉田裕著「日本の軍隊」(岩波新書816)に興味を引く記述があった。
《軍近代化の問題として、建造物の面でも、この時期にきわめて現代的な様式のものが登場していることを指摘しておこう。1928年に竣工した歩兵第三連隊の兵舎が代表的なものだが、この新兵舎は鉄筋コンクリート四階建て、「当時としては、最新式エレベーター四、リフト二を設備し、便所は全て水洗式、採暖はすべて蒸気暖房を採用し」ていた》(143-144ページ)

この兵舎の内容と比較すると、当時の『鐘紡』にどのような将来への展望があったのか、中途半端ではない本格的な建物を真面目に建てていたことがよく分かる。

幼稚園ではおやつの時間があった。大きな丸いビスケットに熱々のミルク。容器の表面に膜が張っていたのを思い出す。園長さんは工場長であったのだろうか、修了書に「片岡勉」と名前が記載されていたように思うが、記憶はもはや定かではない。

わが家に3人ほど兵隊さんが分宿したことがあった。母が張り切ってご馳走を作っていた。演習か何かの折で、民宿するようなシステムでもあったのだろうか。軍用犬係の兵隊さんで、何かの知らせで慌ただしく飛び出していったので後を追っかけて行った。すると犬同士が喧嘩をしたのであろう、一匹の頬肉がダラリと垂れ下がっているのを目にした。

敷地のはずれには広い畠があって、そこで採れたトマトを食べたことがある。鮮やかなピンク色で種がプチプチしてとても香ばしい味がした。その味を今でも時々思い出して、美味しそうなトマトを見つけては味わうが、その頃の味に優ったものにはまだ残念ながらお目にかかれないでいる。

入学した永登浦国民学校は木造の建物で、簀の子の板を踏んで下駄箱から校舎に上がったように思う。担当の先生は山田先生、丸顔の年配の男性教師でオルガンを上手に弾きこなされたのが印象に残っている。一学期間在籍しただけで一年生の夏休みに三坂国民学校に転校した。永登浦の滞在は一年未満だったことになる。

ソウルオリンピックの前年だったか、ソウル駅から地下鉄に乗って永登浦を訪れたことがある。しかし下調べをしていなかったこともあって、以前住んでいた場所を見つけることはできなかった。京城のわが家の旧跡探しに本格的に取り組んだのは、私が仕事を辞めた1997年夏のことである。通訳をお願いして永登浦では元鐘紡の工場跡ということで探して貰った。お年寄りを見つけて尋ねたのが功を奏して、あっけないほど簡単に工場跡が見つかった。それが思いがけなく昔の面影をかなり残していたのである。

門衛所で私が訪ねてきたわけを説明して、もし建物が残っていたらぜひこの目で眺めさせて欲しい旨を申し入れた。現在は軍需産業の工場になっていて、部外者が簡単に入れるところではなかったようであるが、何人もの方とあれやこれや話している間に、私の思い出話にも興味を持っていただいたようである。そして決め手になったのはアパートにあった『ダストシュート』で、私がその話をすると、確かに『ダストシュート』のある建物を知っていると一人が言い出したのである。そこだけなら見せてあげようということになって車で案内された。実はそれぐらい構内が広いのである。工場を囲む昔からある煉瓦塀をお目にかけよう。ほんの一部なのである。



何カ所か煉瓦造りの建物に連れていかれ、遂に、私が住んでいたのとまったく同じ棟なのかどうなのかは分からないが、明らかにそれとおぼしき建物に行き当たった。



建物全体の形は歩行姿の妹の背景のと同じ、また窓の下にある張り出しは間違いなく妹が腰を下ろしていたところであろう。そして屋上の柵は私の背景に写っているものに似ている。ただ上屋の位置関係からすると現形の裏側になるのであろうか。間違いなくかって住んでいたアパート群が残っていたのである。それも手入れがよく行き届いた形で。50数年ぶりの再会であった。

ほかにもはっきりと存在が確認できたのは、昔の幼稚園の写真で右端、アパートの上に抜き出た屋根の形の建造物である。煉瓦塀の遙か彼方の外れにある門から撮ったのが下の写真で、同一であることが分かる。



戦後50年を経て、そして過酷な朝鮮戦争を生き抜いて、かって『鐘紡』が築き上げた建造物が依然として使用されていたのである。後で工場の方に話を伺った。あのアパートも壊そうとする動きがあったそうである。ところが余りにも頑丈に出来ているので、壊すのに費用がかかりすぎる。それなら、と言うわけで一部の社員アパートを改装してゲストハウスとして活用することにしたそうである。

武藤山治、津田信吾といった骨太の経営者が築き上げた世界に冠たる『鐘紡王国』の覇気、使命感、そして現場の職人魂。その一つの結実としての『永登浦工場』が、時代もまた持ち主も変わっても、半世紀にわたり、韓国に人達に使われ来た現実は、政治の世界とは異なる、人々の『本音』を素直に映し出したものと私は受け取るのである。

一方、粉飾決算を繰り返していたとして最近報じられた『カネボウ』の責任あるべき経営陣のモラルの崩壊は、惨めとしかいいようがない