韓国ソウルの南大門が放火により炎上し、木造建造物部分が完全に崩壊した。私は子供の頃から南大門と呼んでいたが、崇禮門と記した額が楼閣に掲げられていた。中央日報によると朝鮮王朝が漢陽に遷都後、1395年(太祖4年)に建築を始め、1398年に完工、そして1962年12月、国宝1号に指定されたとのことである。「チャングムの誓い」の時代にはもちろんその威容を誇っていたことになる。
戦時中は当時の朝鮮京城府の三坂国民学校に通っていた。三年生か四年生になると行動半径が広まって、よく京城駅に出かけて汽車の発着を眺めては南大門に足を向け、さらには朝鮮神宮の大鳥居をくぐって長い石段を駆け上り、神宮の裏手から森のようなところを通り抜けて坂を下りわが家に辿り着くのがおきまりのコースであった。一周が4、5キロはあっただろうか、しかしこの程度の距離は当時の軍国少年にとってはへっちゃらであった。
昭和20年8月、日本が戦争に負けて当時疎開していた江原道鉄原から京城に逃げ帰り、日本に引き揚げるまでの三ヶ月ほどは明治町にある父が勤務していた会社の寮で集団生活をしていた。今の明洞で南大門はすぐ近くにあった。何もすることがないので毎日のように外をほっつき歩いていた。南大門広場には無数の食べ物屋が露天に店を広げいつも大勢の人だかりだった。この豊富な食料品がどこから出てきたのだろうと子供心にも訝しく思ったものである。当時2歳の弟の子守が私の役割であったが、おんぶしている弟にオモニができあがりのホットケーキのようなものをくれたこともあった。近所の小川医院?の私の同じ年頃の女の子に自転車を借りては乗り回し、南大門の下をよく通り抜けたりしていた。
戦後何十年も経ってからソウルに何回か出かけた。ソウル駅と南大門を見るとふるさとに戻ってきたような心地になった。その南大門が焼け落ちてしまったのである。誠に哀惜の念にたえない。もし再建計画でも立てられるようなら心ばかりのドネーションをと思う。
戦時中は当時の朝鮮京城府の三坂国民学校に通っていた。三年生か四年生になると行動半径が広まって、よく京城駅に出かけて汽車の発着を眺めては南大門に足を向け、さらには朝鮮神宮の大鳥居をくぐって長い石段を駆け上り、神宮の裏手から森のようなところを通り抜けて坂を下りわが家に辿り着くのがおきまりのコースであった。一周が4、5キロはあっただろうか、しかしこの程度の距離は当時の軍国少年にとってはへっちゃらであった。
昭和20年8月、日本が戦争に負けて当時疎開していた江原道鉄原から京城に逃げ帰り、日本に引き揚げるまでの三ヶ月ほどは明治町にある父が勤務していた会社の寮で集団生活をしていた。今の明洞で南大門はすぐ近くにあった。何もすることがないので毎日のように外をほっつき歩いていた。南大門広場には無数の食べ物屋が露天に店を広げいつも大勢の人だかりだった。この豊富な食料品がどこから出てきたのだろうと子供心にも訝しく思ったものである。当時2歳の弟の子守が私の役割であったが、おんぶしている弟にオモニができあがりのホットケーキのようなものをくれたこともあった。近所の小川医院?の私の同じ年頃の女の子に自転車を借りては乗り回し、南大門の下をよく通り抜けたりしていた。
戦後何十年も経ってからソウルに何回か出かけた。ソウル駅と南大門を見るとふるさとに戻ってきたような心地になった。その南大門が焼け落ちてしまったのである。誠に哀惜の念にたえない。もし再建計画でも立てられるようなら心ばかりのドネーションをと思う。