
滅多にないことであるが、電車の中で若い人に席を譲られた日は、一日心が清々しい。ふと、昔の日本に思いを馳せてしまう。
中谷宇吉郎博士は『雪博士』として著名な方であった。
北海道大学で雪氷の研究を推し進め、我が国における低温科学の礎を築いたのである。東京帝国大学理学部において寺田寅彦博士に導かれて学究の道に足を踏み入れたのであるが、その一方、師の文筆活動にも啓発されて随筆家としても師の托鉢を継いだ。
数々の出版物で比較的入手しやすいのが中谷博士没後、四半世紀たって出版された「中谷宇吉郎随筆集」(岩波文庫)である。内容が「雪に関するもの」「自伝的作品」「寺田寅彦に関するもの」「科学と文化一般」の4部に分けられている。私が折に触れて再読するのがII部に収められている「I駅の一夜」なのである。
まだ戦争中早春のある日、博士は戦時研究の大事な用件で上京することになった。青森から汽車に乗り込み、座席も確保できた。後は東京を目指すのみであったのに、盛岡に着いてみると空襲の直後で駅の周辺もすっかり焼け落ちており、汽車もそこで打ち切りになった。3時間後に出る汽車は満員で乗りはずし、さらに2時間後の汽車のデッキになんとか割り込んだが、寒さと立ちづめの疲れで途中下車を決意した。下りたのがI駅である。夜も9時過ぎ、灯火管制で一面真っ暗、雪は降ってくる。駅前の交番で宿を尋ねても要領をえず仕方なく歩いているうちに、なんとなく昔の宿屋を思わせる建物が眼に入り、鍵のかかっていないガラス戸を開けて入った。もうかれこれ1時間もかかっていた。
確かに宿屋であったが、出てきた女中には満員であるからと断られた。この雪で外では眠れないので、と押し問答をしていると、「お気の毒ですから、泊めてお上げなさい。誠にすみませんが、其処で御所と御名前を云ってくださいませんか」と奥から若い女性の声が聞こえてきた。そこで博士は官職を書いた名刺を差し出した。
《大分たって奥から出てきたのは先ほどの声の持ち主であった。「どうも失礼致しました。この頃ちょっと物騒なものでとんだ失礼をいたしました。どうぞお上がり下さいませ」と丁寧な言葉付きである。》
そしてこの女性の「私は先生の随分熱心な愛読者なんで御座います」というのに驚かされる。相部屋は失礼なので、と博士はこの女性の4畳半の部屋に通される。この美しい声の主は紺絣のもんぺに同じ紺絣のちゃんちゃんこを着た三十近い知的な女性である。思いがけないところで思いがけない人に出会って驚いた博士は、その部屋にもっと驚かされた。
《四畳半の二つの壁がすっかり本棚になっていて、それに一杯本がつまっている。岩波文庫が一棚ぎっしり並んでいて、その下に「国史大系」だの「続群書類従」だのという本がすっかり揃っているのである。そして、今一方の本棚には、アンドレ・モロアの「英国史」とエヴリマンらしい英書が並んでいる。畳の上にも堆く本が積まれていて、やっと蒲団を敷くくらいいの畳があいているだけである》
話を聞くと、この女性が女子大の出身で、専攻が英文学でかって女学校に勤務していたこと、夫が国文学専攻でこの土地の中学校に勤めていることが分かった。そして、今は夫の両親のやっていた宿を、要望があるものだから止めるわけにいかずに続けている事情が分かってくる。そして本を読む時間がなかなかないこと、それにもかかわらず毎月東京まで出かける一に頼んで本を入手している経緯がわかる。
博士は続ける。
《私はなんだか日本の国力というものが、こういう人の知らない土地で、人に知られない姿で、幽かに培養されていたのではないかという気がしてきて、静かに夫人の話に聞き入っていた。》
翌朝早く宿の人がまだ寝静まっている時間に、夫人の好意の朝食の包みを持って博士は宿を後にした。
そして附記がある。
《この話は戦争が第三年に入って、我が国が最後の苦しい段階にのりかかった頃の話である。その時でも勿論この話は或る意味を持っていたと思われるが、今終戦後国民の多数が浅ましい争いと救われない虚脱状態とに陥っている際に、なるべく多くの人に知って貰うことも、また別の意味で意義があるような気がする。日本の力は軍閥や官僚が培ったものではない。だから私は今のような国の姿を眼の前に見せられても、望みは捨てない。(昭和二十一年二月)》
このような女性の存在、そしてこの挿話をより多くの人に知らせたいと願った中谷博士の心うちに、今の若い人も思いを馳せて頂きたいものである。