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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

天晴れ「なでしこジャパン」 手術

2011-07-14 09:04:21 | Weblog
夜もトイレ通いで頻繁に目を覚ますことがここ何ヶ月続いている。でも慣れとはおそろしいものでその間はすぐに眠りに入るので、とくに寝不足を覚えない。今朝も4時過ぎに目を覚ましそして眠りかけたが、「なでしこジャパン」の試合を思い出しテレビをつけたら、すでにスエーデンが1点を入れていた。うーんと思いでは一寝入りしようとしたが、なかなか寝付かれない。そこで再びテレビをつけたところ、なんと1:1になっていたのでこうなってはもう眠れない。引き続き観戦することにした。

後半戦はご存知の成り行きで、スエーデン・ゴールの前で競り合っているなと思った時 、絶妙のタイミングで沢選手がヘッディングでボールを押し込み、待望の勝ち越しの1点をあげた。そして川澄選手の芸術的なロングシュートで3:1と点差を拡げ、なおも果敢に攻撃中に試合終了のホイッスル、いよいよ決勝戦に駒を進めることになった。スエーデンに試合をさせないように封じ込める試合運びがとても印象的であった。それにしても2得点をあげた川澄選手の先発起用を決めた佐々木監督の判断、神がかりのようにすら感じた。

決勝戦の対戦相手は米国、日米決戦である。いまだ一勝もしたことがない相手で、私なんかはかっての日米開戦前両国の国力の違いがちらっと頭をかすめるが、「なでしこジャパン」には不沈巡洋艦のような抜群の行動力に支えられた力強さがある。優勝を心から期待する。

この「なでしこジャパン」の勝利に力づけられて明日の手術に臨む。しばしお休みをいただくこととする。

「市民運動」に熱中している菅首相

2011-07-08 15:43:01 | Weblog
浜岡原発の操業停止の時もそうであったが、今回の「ストレステスト」導入に際してはますますその思いを強くした。菅首相は総理大臣の職責をそっちのけに「市民運動」に熱中しているなと言うことである。

海江田通産相が原発の再稼働を巡り経産省原子力・保安員の判断に基づき「安全宣言」を出して玄海原発を訪れ、地元の了解を得た。菅首相の原発「安全宣言」の容認があってのことである。ところが突如菅首相がストレステストの実施を打ち出したものだから、運転再開の予定がおじゃんになってしまった。この一事を見るだけで内閣が内閣の体をなしていないことが一目瞭然である。またもや国民は唖然としてしまった。常軌を逸した菅首相の行動ではあるが、総理大臣として最高権力を握った菅さんが、その力を背景にかっての市民運動家として思い描いたいくつかの社会改造プランを今実行に移しつつあると思えば、それなりに納得がいくような気がし始めたのである。おそらく菅さんは心の底から満足感を味わっているのであろう。

最高権力をわが手に握っていることを実感するにつれて、今度はそれをとことんまで使いこなそうという気になったとしても不思議ではない。ではそれを押しとどめるにはどうすれば良いのか。閣内不一致とか大臣の任命責任とかそんなことで責め立てられても痛くも痒くもない。その場その場を適当な言葉で切り抜ければ良いだけである。総理大臣ならぬ「市民運動家」としての菅首相をおいつめるには政治家自身の発想の大転換が必要であろう。若く頭脳が柔軟な政治家に期待するしかないような気がする。

しかし当面手っ取り早いのは前にも提案した事であるが、閣僚全員が一斉に辞表を提出することである。政治家にとってそれが国民の側に立つことになる。







病室でのくらし

2011-07-07 08:41:27 | Weblog
検査入院が2週間をすぎた。一応検査はすべて終わり、やがて手術の日取りが決まり、腸の一部を切り取ることになりそうである。あとはうまく行くことを祈るのみである。

ところでこの度改めて思ったことであるが、私てなんてずぼらな人間だろうということである。ハンドルネームのlazybones、まさに体を表している。たとえばこういうことである。すでに多くの検査を受け、それぞれの説明を聞いた来たが、検査の種類を始め手元にメモ一つすらのこしていない。そのような気が起こらないのである。よく医療訴訟などで患者側が残した綿密な記録がその主張を裏付けたなんて話があるが、すごく几帳面な人がいるものだと感心してしまう。でももしかするとそれが普通で
、私がおかしいのかもしれない。必要があれば主治医に聞いたりカルテを閲覧させてもらえば済むことである。

あっという間に今の病院に入院させられたので選択の余地がなかったが、しっかりした説明を聞かせていただき、選択を求められた時は意見を述べ、私自身まあこの病院に任せてみようという気になったので、心当たりに意見を求めることはあえてしなかった。となると後はあれこれ考えることもない。お任せするのみである。

私の入っている病室は鍵型のフロアの短いウイングにある個室で、周辺は病院関係者の宿直室とか休憩室とか倉庫で、ほかからほとんど孤立している。それを良いことにして最近はほどほどの声で歌を歌っている。姿勢もよくなるし運動がわりにもなる。それよりなにより気分がいい。これで一弦琴を持ち込めればいうことがないがあまり贅沢は言わないことにしよう。まずは手術が節目なのである。



村井宮城県知事はなぜ松本龍大臣を待たせたのだろう

2011-07-05 08:06:54 | Weblog
病室では嫌になるほど時間がたっぷりある。普段なら考えないことまで考えてしまう。今度の松本復興相の被災地での放言と報じられる一連のできごとについてもそうである。

「客」とは《そこえたずねて(招かれて)来る人》と「新明解」にあるようにそのままの意味で使うが、客を迎えるのにいろんな出迎え方がある。かってクリントン米国国務長官が皇居を訪問されたときは天皇・皇后両陛下が玄関先でお迎えになった。今回は儀礼でもないので知事が大臣を県庁玄関先まで出迎える必要はないと思うが、普通なら大臣を知事室まで案内して、そこから大臣を応接室までお連れするとか、または応接室で待ち受ける知事の元に直接お連れするのではなかろうか。客を応接室まで案内し、間もなく主人が参りますからしばらくお待ちくださいと伝え、待つ間もなく主人が現れるという迎え方もあるだろう。客を待たせるのは失礼であるとの常識が根底にあるのは言うまでもない。

松本復興相は「僕は呼ばれて(応接間に)入ったのに、3、4分は出てこなかった」と言っている。彼の感覚的時間であったとしても、遠来の、それも同じ公務での客を迎えるにしては村井知事のほうが礼を失しているのではないかと私は思った。待たされた松本大臣が予定の時間より早く到着したのであれば仕方のない面もあるだろうが、この辺りの事情はわからないので、私の想像のままに話をすすめる。テレビでその場面を見たが、遅れて部屋に入って来た村井知事が無言のまま握手を求めて松本大臣に近づいたが、当たり前なら「どうもお待たせしました」の挨拶はあってしかるべきだろうと思った。

それからテレビで繰り返し放映される「長幼の序」発言が出て来る。確かに松本大臣のあの「もののいいよう」は知事を叱りつけているようなもので、これで省と県をそれぞれ代表する公人同士のの話し合いがうまく行くのだろうか危惧の念を抱くと同時に、松本大臣の人間としての資質に疑問を抱いた。国民の多くも同じ思いであったと見えて、だからこそマスメディアも格好のゴシップとして取り上げたのであろう。

しかし肝心の会談の内容は、カメラマン達が退席してからあったはずである。その中身がゴシップに覆い隠されてほとんど伝わってこない。マスメディアが元来伝えるべき内容を伝えずにゴシップだけでまた世間を煽り立てている。国会議員までもそれに乗って松本発言を国会で追求すると意気込んでいる。なんのために国会会期を延長したことやら。

それにしても松本復興大臣の経綸はいかばかりのものだろうか。


紙の新聞で日常を取り戻す

2011-07-02 19:42:12 | Weblog
かねてからの計画だからと友達と黒部方面に出かけていた妻が、4日ぶりに新聞を病室にとどけてくれた。新聞に目を通すと、不思議なことに食事もなし新聞もなしの生活がなんだかピリッとしてきた。脳が刺激されてきたのである。ふだんは新聞を鵜呑みにしないのが私の流儀であるが、記事を読んでいて引っかかるところがあればあるほど脳が活発に働き始めるのである。これまで意識した事がなかったが、これは面白いと思った。

大学の教養で中村幸四郎先生という風貌も歌舞伎役者のような先生の数学の講義を聴講していた。説明がとても流暢でむつかしいはずである内容が抵抗もなく頭に入ってくるまさに名講義であった。ほとんど完全に理解できたつもりで、定期試験にも意気揚々と臨んだのであるが、結果は惨憺たるものだった。話を聞いて分かったような気になったから、それで理解できたつもりで、自分の頭で考え直す事をしなかった報いであった、

新聞記事には読んですぐわかるというような記事はほとんどない。これまでおりに触れて私もそのような記事に苦情を呈してきた。読んで素直に分からないものだから自分の頭であれこれ考えざるを得ない。実はそれが脳を刺激するのだと思う。私にとっては不完全な記事が刺激となって、これまでもブログに取り上げるきっかけになったのであろう。これからちょっとした事をあまりあげつらうのはよそうかという気になった。もちろん新聞は正確な事実を伝えるべきではあろう。「新聞はは事実を伝えるものではない」との言い回しを今読んでいるKen Follettの小説で見つけた。これでは新聞社に気の毒な気もするが私も少しは鷹揚になってみよう。

新聞紙で脳も刺激されたが日常性も取り戻す事ができた。考えて見たら国民学校の頃、植民地朝鮮の京城で発行されていた「京城日報」を読み始めて現在に至るまで、新聞紙を開くことで一日が始まったようなものである。習慣性とは大きなもので、朝食の代わりに新聞紙に目を通すだけで生活にメリハリができたのである。iPhoneで無料の産經新聞は毎朝見ているが、長年慣れ親しんだ紙の新聞とは比べるべきもない。習慣としてはまだまだ定着するには早いのである。それに記事全体を見渡せないのが思考の連続性を妨げているように思う。私は新聞にせよ本にせよ、紙の媒体から離れられそうにもない。

生体臓器移植の盲点?

2011-06-29 19:44:22 | Weblog
以前の万波誠医師に関する私のブログへのアクセスが急増したのは、生体腎移植のための臓器売買という臓器移植法違反事件が起こり、それに執刀医として万波医師が関わっていたことによることが分かった。医師でもある患者が臓器提供者を暴力団関係者を通じて探し求めて該当者と養子縁組を結び、臓器の提供を受けたが、その際に金銭のやりとりがあったとの事である。

養子縁組がどの様ないきさつで結ばれたのか、また金銭が介在しているのか、そこまでを医師を含む医療関係者に解明を求めるのは過重な負担ではないかと思い、直感的に養子は臓器提供者にはなり得ないと法律で定めるのがこういう事例を防止する早道ではないかと思った。ところが考えて見ると生体臓器移植は脳死臓器移植のように法律でいろいろと規制されているわけではなく、その始まりから医療機関内の医療行為で、大学病院ならせいぜい学内に設けられた「倫理委員会」で審議され承認されればそれで良かったのである。もちろんドナーとレシピエントの関係は各医療機関で定められているので、今回も養父と養子との条件を満たしたのであろうが、それなら親子関係の場合でも養子縁組の場合は認めないようにすれば良いのではなかろうか。かねてから取り沙汰されているこのような偽計が実際に起こった以上、親族の定義をより明確にすべきであろう。それより問題なのは姻族の場合で、偽装結婚による偽計を見破る手だては容易なことではあるまい。

ご飯のない生活

2011-06-25 15:03:18 | Weblog
一日朝昼晩、三度の食事を摂る生活から、食事抜きの点滴生活への瞬時にしての転換は、まるでタイムマシンで未知のワールドへ連れてこられた感覚であった。今日で四日目に入るが、おかげでメリハリのない生活になってしまった。朝、コーヒー豆からパーコレーターで珈琲を入れるところから一日が始まり、最後は食器などの後片付けなどで終わるが、食事の支度が始まるともうご飯だな、と一日の時の流れを実感する。点滴液は24時間流れっぱなしで何の刺激もない、ということは時間が止まっているのと同じである。点滴液が勝手に体内に入っていくのだからものを摂取したという感覚がなく、考えようでは霞で生きている仙人と変わりない。しかしそれほど格好の良いものではない。






急転直下病院ぐらし

2011-06-23 22:10:17 | Weblog
昨日の朝、今回お世話になっている医院へ紹介状を貰いに行った。先日の血液検査の結果から本格的な検査をした方がよいということで、総合病院へ行くように指示を受けたのである。直ぐに行ったほうがよいと言われ、その足で直行した。

軽い気持ちでレントゲンやCTを受けたが、さらには腸の内視鏡検査も受けさされて、挙げ句の果て入院して貰いますと言われてしまった。直腸に狭窄があり普通の食事を続けているといずれ通らなくなるので、早く処置をした方が良く、そのために点滴で栄養補給を行いながら検査を続行するというのである。抵抗する理由が見つからなかったので観念せざるを得なかった。

そして入院した。今朝は胃カメラに始まり病院の持てる装置を総動員するような勢いであれこれと調べて下さる。話には聞いていたが、医療機器の進歩ぶりには正直驚かされた。測定が終わったかとおもうと、その結果を画像で説明して下さる。そしてさらには造影剤を使って詳細に調べるとのことである。技術の到達点を見せてもらえるのは楽しいが、これでは医療費の高騰に歯止めをかけるのは容易でないことを実感した。

私にとって食事抜きの生活は始めてのことで、おそらく手術をするまでかなり続くことであろう。食べることを忘れてしまってはおおごとである。何とかしなければと余計な心配が増えた。その一方、手術後とにかく一度は元の生活に戻りたいとのささやかな人生目標が生まれたのも事実である。上にぶら下がっている点滴液の袋一つでこれまでとはまた異なる世界が拡がりそうである。



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菅首相とカダフィ大佐 生き残りをかけて

2011-06-18 17:27:03 | Weblog
菅首相はリビアのカダフィ大佐に負けず劣らずタフである。東日本大震災が発生してから間もないころ、米英仏などの多国籍軍がリビアに対して軍事介入を開始した。当初のうちは多国籍軍の派手な軍事行動が注目を引き、カダフィ大佐が亡命かとの憶測も早々と流れた。しかしほぼ三ヶ月たった今、国際社会から見限られてもなんのその、カダフィ大佐は依然として(反乱軍に)徹底抗戦を続け再び攻勢に転じるなど、多国籍軍も打つ手がなく事態は膠着状態に陥っている。菅首相とカダフィ大佐、表面的な比較ではあるが置かれている状況がよく似ている。

政治の世界で言った言わないは不毛の論議になる。テレビを見ていると「菅さんが辞意を表明した」と野党に加えて一部の与党の面々が既定事実のように声高に叫んでいるが、私は既に狐と狸の化かし合いは狐の勝ちだったが・・・でも述べたように、必ずしもそのようには受け取っていない。

私が理解できなかった「若い世代の皆さんにいろいろな責任を引き継いでいただきたい」という菅さんの言葉が、鳩山さんには辞意表明と理解できたということなのであろう。しかしこれでは第三者に対して説得力はゼロである。その後伝わってきた話では上の三つの目標として挙げられた確認事項の書面には、首相退陣を約束または示唆する文言はどこにも無い。さらに言質として取られかねない署名文書は、首相の「同じ党の人間だから、信用してください」の一言に躱されてしまったと伝えられている。信じられない詰めの甘さであるが「Trust me」を乱発した鳩山さんの自縄自縛であろう。

すなわち私は菅さんが辞意表明をどこかでしたとは思っていないのである。

民主党は既に国会で内閣不信任決議案に反対投票をした。菅内閣を信任したのである。菅さんが「辞意を表明した」からその内閣を信任した、とまともな顔つきで断言できる民主党議員は一人も(いや、一人を除いては)居ないはずである。民主党代議士会での菅さんの発言は、あくまでも内閣の信任への支持を訴えたのであり、それに民主党議員が、だから国会が応えた、でなければ筋が通らない。

特例公債法案成立の代償に野田財務大臣が「首を差し出す」と言ったとか、しかし、野党がそれに対して非協力的な態度を貫くことはおそらく出来ないだろう。予算が動かなければ国民生活がもろに影響を受けることは誰にも分かること、政略の具としては今や諸刃の刃なのである。チキンレースとなれば、野党が腰砕けになることは目に見えている。民主党じっくりと構えれば良いだけである。

ここにきて菅さんは長期政権の基盤を固めるのにとても強力な武器を手にしたように見受けられる。「再生可能エネルギー促進」運動である。浜岡原発全原子炉停止は数々の問題があるにせよ、菅さんだから出来たことは衆目の一致するところであろう。菅さんが辞めると必ずや再稼働の動きが息を吹き返すことは間違いない。このことも含めて、「再生可能エネルギー促進」は今や国民の多くが関心を寄せまた支持することだろうから、国民運動としては小泉さんの郵政改革よりもはるかに分かりやすい大きな行動目標となる。となると市民運動家出身の菅首相はまさに水を得た魚で、改めて国民の大きな支持を集める可能性が極めて高い。そこまで見越したら衆議院解散は何時でも打って出ることができるし、それが早ければ早いほど、国民の支持が期待できると言うものだ。

それにしてもカダフィ大佐とわが菅首相、どちらがしぶとさに勝ることだろう。