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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

熊野純彦著「西洋哲学史 古代から中世へ」が何故読みづらいか

2006-05-20 09:56:49 | 読書

堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」(PHP新書)とほぼ同じ頃に岩波新書で熊野純彦著「西洋哲学史 古代から中世へ」が出た。『岩波』という名前に弱い私は岩波の本ならついついタイトルを見ただけで買うことが多い。もちろん当たりはずれがあるが、この本はどちらかといえば『はずれ』だった。

著者は「まえがき」でこのように言っている。

《この本は三つのことに気をつけて書かれています。
(中略)
第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です。
(中略)
哲学とは、人間の経験と思考をめぐって、その可能性と限界を見さだめようとするものであること、最後に、そうした思考がそれぞれに魅力的なテクストというかたちで残されているしだいを、すこしだけでも示すことができれば、と考えています。》

私はこの狙いが成功しているとは思わない。

テクストを引用するということ自体、執筆上の一つのスタイルとも言える。ところが現実に引用テクストに出会うとこれが難儀なのである。一番最初に出てくるテクストを見てみよう。少し長いが省略なしに引用する。

《哲学のはじまりをめぐる、アリストテレスの証言を引いておく。哲学の始原にかんして論じられる場合に、かならずしたじきになっている文章である。(注 熊川氏)

さて、あの始めに哲学したひとびとのうち、その大部分は素材の意味での原理だけを、いっさいの存在者の原理であると考えていた。すなわち、全ての存在者が、そのように存在するのは、それ(傍点付き)からであり、それらのすべてはそれ(傍点付き)から生成し、その終末にはそれ(傍点付き)へと消滅してゆくそれ(傍点付き)(中略)をかれらは、いっさいの存在者の構成要素であり、原理であると言っている。   (『形而上学』第一巻第三章)》 (4ページ)

さて、このテクストをまず読んで内容を正しく理解できる人がどれぐらいいるだろうか。『哲学』を職業にしている人ならともかく、一般人ではインテリを自負する人にも無理であろう。

これに続けて著者は『注釈』を加えている。

《 「素材」と訳しておいたギリシア語は「ヒュレー」であって、アリストテレスの用語としては「質料」のことである(本書、第7章参照)。ともあれアリストテレスはいま引いた文章のすぐあとに、問題の一文をしるしていた。「タレスは、かの哲学の始祖であるけれども、水がそれ(傍点付き)である、といっている」。
 文脈上「水」がそれ(傍点付き)である「それ」とは、「原理」のことである。右では原理とかりに訳しておいた語は「アルケー」であって、「はじまり」という意味をもつ。アリストテレスの時代すでに、断片的な伝承だけがのこされていたにすぎないタレスは、水こそがいっさいの存在者のはじまりであり、存在者が存在する原理であって、すべてがそこへと滅んでゆく終局であると主張していたというのが、さしあたりはアリストテレスそのひとの証言にほかならない。》

確かにこの『注釈』を読めば、アリストテレスの引用で、それ(傍点付き)を「水」と置き換えればよいことがわかって、少しは文章の通りがよくなる。しかしそれがわかったぐらいで、この引用が著者の意図している『魅力的なテクスト』にはなりえない。はやい話が、《「素材」と訳しておいたギリシア語は「ヒュレー」であって》とか《原理とかりに訳しておいた語は「アルケー」であって》なんて教えて貰っても一般読者にどういう意味をもつのだろう。それがどうした、で終わりである。

この叙述のスタイルは「エピソードで読む西洋哲学史」のところで引用した、アダム・スミスが罵倒するオックスフォード大学教師による『外書講読』を思い出させる。『何も勉強しない。だから講義ができない』オックスフォード大学の教師とは違って、著者の熊野氏この本にその学殖を傾注しておられることはわかる。しかしこの叙述スタイルが教室における講義ならともかく、不特定多数の読書人を相手とする『新書』にはそぐわないのである。

著者は『哲学』を説いている。では科学者が『科学』を説く場合を想定してみよう。
科学者が実験を行い、データを解析して結論を得る。それをある科学的な概念としてまとめて論文に発表する。この論文はアリストテレスの「形而上学」という原著に相当するものと考えていただこう。

科学者の思考のエッセンスが含まれているからといって、原著論文を一般読者を相手の著書に引用したとする。たとえば次ような文章はどうであろう。

《The novel feature of the sturcture is the manner in which the two chains are held together by the purine and pyrimidine bases. The planes of the bases are perpendicular to the fibre axis. They are joined together in pairs, a single base from one chain being hydrogen-bonded to a single base from the other chain, so that the two lie side by side with identical z-co-ordinates. One of the pair must be a purine and the other a pyrimidine for bonding to occur. The hydrogen bonds are made as follows: purine position 1 to pyrimidine position 1; purine position 6 to pyrimidine position 6.》

これはワトソンとクリックがDNA二重らせん発見を報じたNATURE論文(1953年)の主要な箇所で、この論文はその後の科学・技術の世界ははもちろん人間の生き方までも大きく変えてしまったほどのインパクトをもつものである。紺地に金泥で文章を記し、表装して欄間に掲げておきたいぐらいのものである。

しかし、このテクストを日本語に訳し、化学の初歩も含めて懇切丁寧な注釈を加えたとしても、この論文の真髄をもともと科学の素養の乏しい人に伝えることは不可能であろう。ここに科学ライターの出番があるのであって、原著論文をはじめ多くの資料に当たりながらもその内容を噛み砕き、自分の言葉でそのエッセンスを読者に語りかけることになる。読者にどのように伝わるだろうか、ということを絶えず意識して文章をまとめないことには、科学の成果を多くの人に伝えることはできない。同じことが哲学についてもいえる。

『哲学』は『科学』の『科』を『哲』で置き換えたようなもの、『哲学』を職業としていない人にとっては、原著のほんの『かけら』を目の前に示されて、ペダンチックな注釈をしてもらっても、そのようなものは豚に真珠、猫に小判であろう。その『かけら』が真に真珠であり小判であるならば、であるが。

熊野氏がご自分が咀嚼したたとえば「形而上学」の引用部分を、読者の平均的読解力をも念頭に置いて、現代語訳のような形で紹介されるスタイルを取られなかったことを私は残念に思う。私は堀川哲氏の本からは何人かの哲学者の代表作を読んでみたいという気にさせられた。ところが熊野氏の本には最初から素直に入っていけなかったので、ハイ、それまでよ、であった。

熟年にお勧め 堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」

2006-05-19 18:35:04 | 読書

私は『哲学』という文字が目にはいるとドキッとする。そして忸怩たる思いにとらわれる。生まれてこの方まともな哲学の本を一冊も読んだことがないからである。

この本の目次には二十三人の名前が出てくる。デカルト、スピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ヴォルテール、ディドロ、ルソー、スミス、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、ボーヴォワール、ウィーナー、ドーキンス、ジャック・モノー、ローティー、チョムスキー、ローズ。著作を読んだことがなくても最後の三人を除いて名前ぐらいは何故か知っているのが不思議だ。さらに言えばドーキンスの「The Seifish Gene」とモノーの「偶然と必然」は手元にあることはある。しかし読んだとは胸を張って言い切れない。

哲学の本を読まなくても定年まで仕事をしてくるのになんの支障もなかったし、読む必要も感じなかった。これからの人生にも特に必要はないかも知れない。となると『哲学』は少なくとも私にとっては無用の長物と切って捨てることもできよう。ところがそれが簡単には出来ないのである。というのも私が大学院を修了したときに頂いた学位がアメリカ流に云えばPhD、Doctor of Philosophyの略で文字通り訳すと『哲学博士』、だから困ってしまう。そういうこともあって『哲学』の本についつい目がいくのである。

私が書店で手にしたこの本は「おわりに」が決め手だった。それで買ってしまった。

《人生はある意味では時間つぶしである。》
《だれもが人生の時間つぶしを自分の流儀で遂行する。同じ人生、できれば充実したものでありたい。そこでいろいろと考える。》

三日で読了した。寝る前にベッドの中でもかなり前に進んだ。それぐらい気安く読める本だったのである。

「哲学者歴伝」のような形式になっている。著者はその時代の思想背景を簡単に解説してから哲学者それぞれの経歴を『三行記事』で紹介することから始めて、どのような生活をしていたか、その一生を面白いエピソードを交えて語ってくれる。そしてその『思想』を代表的な著作に基づいて解説して読者(私)を分かったような気にさせてくれる。最後に「読書案内」として代表的な著作を薦めてくれている。

この本は「分かったような気にさせてくれる」というのがミソである。

アダム・スミスの「国富論」にしても著者は《『国富論』という本は、要するに、自由な経済競争ができる場合にだけ、国の経済が発展し、パイが大きくなり、国民が豊になる、ということを説明するために書かれた本なのである。》と極めて要領よくまとめてくれる。「パイ」というのは一国の全ての富のこと。これなら分かる。

スミスはオックスフォード大学に六年ほど通ったが失望した。それで「国富論」に次のようなことを書くことで復讐したそうである。

《「オックスフォードの教師達は何も勉強していない。だから講義ができない。講義には準備が必要となるから、オックスフォードの教師はそれを嫌がる。しかし、いい手がある。『外書講読』という手である。ラテン語かギリシャ語の本をテキストにする。学生にそれを訳させる。語学力は学生よりもあるから、学生の訳の間違いをときどき直してやればいい。それだけしかない、これは教師が楽になるための方法である。こんなものは授業ではない。教えるふりをするだけのことである」と書いている(これは今でも真理である)。》

括弧内は著者の注釈。著者も同僚に含むところがありそうにとれるが、私は幸いにも「国富論」を読んでいないおかげで至極真面目に講義の準備をしたとも言える。でも面白そうだから「国富論」を買ってやろうという気にさせられた。

ウィトゲンシュタインという人がいる。二十五歳で書いた「論理哲学論考」という論文で、もう哲学の問題は全て最終的に解決されたとの確信を述べているそうである。そして著者は次のように解説している。

《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」。人生の意味については私たちは問うことさえもできないのだ。それは答えがありえないからであり、それについて語ることはできないからである。語りえないものについて人は沈黙しなければならない、のである。これが『論理哲学論考』の結論となる。》

これもよく分かる。国民の選良たる国会議員にエッセンスを是非会得していただき、国会での質疑応答の質を高めていただきたいものである。。

人物について私は何も知らないが、ジョン・ロールズの「正義論」(1971年)という本の紹介がまたいい。《今や(今でも)少なくともアメリカの大学では、この本は政治哲学や倫理学の学生・大学院生にとっての古典であり、必読文献である。》

《正義とは何か、というテーマがきわめて抽象的な哲学の言葉で記述される。きわめて無味乾燥な言葉で記述される。》
《これが政治哲学者や大学院生に受けた理由はわかる。これを対象にすると論文がかけるのである。理詰めであるから、論理の関係を論じることができるし、矛盾や飛躍を指摘することもできる。そうやっていくと学術論文が書ける。それがどうしたと思われるかもしれないけれど、これをやると論文が書けるかどうかは業界では大切なポイントである。ほとんど死活の問題である。》

この著者、こんなことを言って業界で生き延びられるのだろうか。

この本を読むとまともな哲学書を読まなかった私は極めて賢明であったように思う。哲学者の語っていることの多くは要するに『常識』なのである。「なるほど、なるほど」と頷く箇所が結構あった。ということは私のこれまでの人生で身に付いてきたものの見方・考え方がわたしの『哲学』になっているのである。いや、ご立派、PhDを体現していたのである。

人生体験豊富な熟年の方々は多分私と同じ思いを抱かれるだろう。この本を読むと自分はヒューム型、サルトル型、いやウィトゲンシュタイン型、etc と必ず思い当たることがあるはずだ。十分退屈しのぎになる。


走り梅雨に本がやって来た

2006-05-19 12:04:37 | 読書

雨が多い、雨が続く。こういうのを『走り梅雨』というのだろうか。
今日もお昼から神戸市立博物館の「江戸の誘惑」展を観にいくつもりだったけれど、雨脚に気後れがして迷っているところにAmazon.comから15日に注文した本が届いた。

斉藤憐著のかずかず、どれも面白そうだ。たとえば「昭和不良伝」の帯には

 永井荷風を捨てた女 藤蔭静枝
 マンハッタンからの眺め 石垣綾子
 金子光晴と巴里道中 森三千代
 シャボン玉の人生 佐藤千夜子
 モスクワの裏切り 岡田嘉子

なんて旧知?の女性が紹介されている。

旧知というと誤解を招くが、藤蔭静枝の二代目とは一つ写真に納まったことがあるし、石垣綾子の「石垣綾子日記」上下(岩波書店)はなかなか面白かったし、森三千代は金子光晴の一連の『放浪もの』でとっくにお馴染み、ソプラノの佐藤美枝子をいつも佐藤千夜子と言ってしまうし、岡田嘉子とはテレビでお目にかかっているから、と言う程度のこと。それにしても今も昔も日本女性は逞しい。

雨の音を聞きながら読んでみようと思っている矢先、外が明るくなってきた。

斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」を楽しむ

2006-05-13 12:24:19 | 読書
読書の楽しみは多様である。知らなかったことを知るだけでも楽しいのに、『なるほど』(同感)、『ふ~ん』(ほんとうかな?)、『へぇ~』(驚いた)、『ほほぅ』(感心する)と思わず口に出てくる箇所が多ければ多いほど得をした気分になる。

西条八十に対する興味から読み始めた斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」(岩波書店)もそのような本であった。「 歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるがまさにその通り、著者は歌を語ることでその歌の生まれた時代をプレイ・バックする。それに被された著者のナレーションに私が結構敏感に反応するのである。そのいくつかを取り上げてみる。

♪星はまたたき 夜ふかく
 なりわたる なりわたる
 プラットホームの別れのベルよ
 さよなら さよなら
 君いつ帰る

奥野椰子夫作詞・服部良一作曲の「夜のプラットホーム」で戦後二葉あき子が歌って大いにヒットした。実はこの曲は戦前に発売された(昭和十一年前後?)がその直後に発売禁止処分を受けていたのである。そこで著者のナレーション、
《平時だったら、なんでもない歌詞だ。しかし、作詞の奥野椰子夫は、出征兵士を見送る神戸駅のプラットホームで涙を堪えている若妻を見て、詞を書いている。この曲を聴けば、出征兵士との別れだと国民が思うだろうと、当局が考えたのは当然だった。》

つい一週間前にも表玄関に戦前の面影を残す神戸駅から電車に乗ったばかりである。出征兵士は多分この同じプラットホームから下りの汽車に乗ったのだろうなんて想像していた。しかし、である。なぜこの歌が発禁になったのか、私には分かるようで分からない。それぐらい理不尽が罷り通っていたのだろうな、と思うことは出来た。


《昭和十六(1941)年、日本は鬼畜米英との戦争をはじめ、平成十六(2004)年、日本は米英とともに天に代わりて不義を討つ戦争をはじめた。》
《日米戦がはじまると、「敵性音楽」が問題になり、日本放送協会は大晦日の「蛍の光」を追放、「埴生の里」も「故郷の空」も禁じられた。》
《思えば、日本の音楽教育はアメリカに留学した伊沢修二によってはじめられ、文部省は英米のヨナ抜き音階の曲を唱歌として全国の子どもたちに押しつけた。その八十年後、英米楽曲選曲が演奏禁止となり、これまで、西洋音階を叩き込んでいた唱歌の時間は、西洋の「敵の航空機や潜水艦の音を察知するための音感教育」の場となった。》

私はその『音感教育』を受けてきた世代なのである。


♪青い目をした お人形は
 アメリカ生まれの セルロイド
 日本の港へ ついたとき
 一杯涙を うかべてた

野口雨情作詞・本居長世作曲「青い目の人形」が発表されたのは大正十(1921)年であるが、その六年後の昭和二(1927)年に偶然であるがアメリカから一万二千余体の「友情の人形」が送られてきた。日米移民排斥運動に心を痛めたアメリカ人、ギューリック博士の呼びかけで国際親善の願を込めて贈られたものである。(以上の部分は読売文化部「唱歌・童謡ものがたり」(岩波書店)に基づいているが、斉藤氏によると《「青い目の人形」は、昭和二年、アメリカの宣教師シドニー・ギューリック博士が渋沢栄一氏とともに米国の人形を「平和の親善大使」として日本に贈ることを企画したものだ。》とある。)この人形は全国の小学校や幼稚園に贈られた。

《(翌)昭和十六年、「敵国アメリカの人形はスパイだから捨てるように」との通達が、全国の学校や幼稚園に伝えられ、青い目の人形は焼かれて「青い目の人形」も歌われなくなった。》

『へぇ~』、『ふ~ん』である。


その戦時のまっただ中、サトー・ハチローが古賀政男とのコンビで「青い牧場」を出している。

♪誰の涙か朝露か 仔山羊の角が光ってる
 どこだよ そこだよ あの丘だ
 どこだよ そこだよ あの影だ
 売られた仔山羊は 仔山羊は
 メエメエ帰ってくる

この歌が発禁処分をくらっているのだ。何故か。

《小沢昭一は、歌った杉狂児が〔メエメエ〕をあまり見事に仔山羊の真似をして歌ったから発禁になったと言うが、この説明だけじゃ、なぜ発禁になったかわからない。
 この詞をばれ唄としてみると、「角が濡れて光って」「どこだよ、そこだよ」と探るのが「丘と影」というわけだ。そして切れ切れの泣き声。それにしても昭和十八年に、恐い検閲官をこうしてからかったサトウ・ハチローは凄いが、見破って発禁にして検閲官もハチローの根性を見抜いていて天晴れ!》

私には禅問答のようでさっぱり分からないが、このようなご時世にも高見順のみならず日本の知性が健在であったことは確かなようだ。


その戦争中《昭和十六年に音楽挺身隊長に就任し、高級将校の軍服に似た衣装に拍車をつけた長靴をはき、日本刀をひっ下げて歩き廻った》山田耕筰が、戦後ふともらした言葉を山住正巴の「近代日本と音楽」から著者は引用している。

《「私は戦後になってほんとうにがっかりしたことがある。それは天皇が退任しなかったことだ。それまで天皇に対して非常な尊敬の念をもっていたが、天皇は戦争の責任をとろうとしなかった。天皇が責任をとらないのに、どうして我々がとる必要があるのか」》

『なるほど』、ここにも戦後に甦った日本の知性がある。
ここで昭和天皇の退位問題に関心を抱かれた方は「不忠の『臣・茂』?・・・」をご覧あれ。


戦後昭和二十二(1947)年にNHKの「日曜娯楽版」が始まった。私も楽しみにしていた番組である。三木鶏郎の「冗談音楽」が目玉で、小学唱歌「会津磐梯山」の次のような替え歌の流れたことがあるらしい。

♪イヤア 銀行公団は宝の山よ ハヨイト
 窓に黄金がエエ マタ成り下がる
 公団総裁何で身上つぶした
 浮気 浮酒 浮き貸し大好きで
 それで身上つぶした

《講和条約が発効し、占領体制が終わると昭和二十七(1952)年六月には「冗談音楽」が「ユーモア劇場」と改名させられ、政治風刺が圧殺された。》

ここは著者とは少し意見が異なる。『占領体制』は姿を変えて続いているし、戦争を知らない世代が牛耳る怯懦なマスメディアの『自己規制』が現在の政治風刺の不在をもたらしたのである。


斉藤憐氏は反骨の方でもある。氏に失礼を顧みずに言わせていただくと、まるで私が乗り移ったかのような言葉がボンボンと飛び出る。

《昭和二十年十二月、五歳の僕は自分の体重ほどもあろうかというリュックサックを背負って、京城(ソウル)から日本という国に引き揚げてきた。京釜線の無蓋貨車に吹き付ける風や、引き揚げ家族の戦後のひもじさは、「だれが」「いつ」「なぜ」、僕に残した負債だったのか?》

著者と私に共通の原点があったとみた。

高校生にぜひ読んで欲しい高見順著「敗戦日記」

2006-05-07 09:50:54 | 読書

書棚の整理をしていると買ったままの高見順著「敗戦日記」(中公文庫)が出て来た。ふと読み始めたら途中で止めることが出来なかった。『鎌倉文士』の一人、高見順が日本が戦争に負けた昭和二十年の元旦から大晦日に至る一年間の出来事を実に克明に記録しているのである。臨場感が強烈で今一歩家の外に出たらその世界に入り込んでいくかのような気になった。

高見順の世間を見る目がとてもまともなことに深い感銘を受けた。自分の目でものごとを見て自分の頭で考える、それが出来にくいご時世にもかかわらず、それを当たり前の如くにやり遂げた精神の強靱さに感動した。まさにここに日本男児あり、である。

日本人であるということはどういうことなのか。高見順の知性と感性に触れればいい。私はそれを特に成人前の高校生に体験させたく思った。出来る限り多くの高校生にこの「敗戦日記」を読んで貰って、世の中には見習うべき人間がちゃんと居ることの素晴らしさを味わって欲しいと思った。

引用が多くなりすぎたが、ほんとうは全部を書き写したいぐらいである。高見順が記録として書き記した資料がまた貴重である。私の主観による選択ではあるが以下の限られた引用からこの文庫本を読んでみようとする方が一人でも多くおられたらと思う。

蛇足とも言うべき■で始まる私のコメントは最小限に差し控えた。


二月十九日

敵の対日処理案が新聞に発表された。一月中旬に開催された太平洋問題調査会第九回大会で反枢軸十二カ国の民間代表が意見一致したという決議の内容
一、日本の全面的占領
一、国体の変革
一、戦争責任者の処罰
一、米政府の企図する政府の樹立
一、全面的武装解除並びに民間航空の廃止
一、軍需工場の完全破壊と経済的武装解除
一、黒龍会の如き結社の廃止
一、日本国民の再教育
一、カイロ宣言に基く日本帝国の分割
一、商品による賠償

■このような内容を新聞が報じたこと自体、政府の意向が働いているのか。


二月二十七日

 三壺堂の客の噂話を聞いていると、二十五日の猛爆で罹災者が十万人出たという。(はじめ一万人の間違いではないかと思った)

 日比谷から大塚行きの電車に乗った。神田橋へ出て驚いた。あたり一体、惨憺たる焼け野原でまだ煙のあがっているところもある。

 焼跡で何かしている罹災民たちは、恐らくそれしかないのであろう、汚れた着物を着て、いずれも青い顔をしていた。だが、男も女も、老いも若きも、何かけなげに立ち働いている。打ちのめされた感じではない。そうした日本庶民の姿は、手を合わせたいほどのけなげさ、立派さだった。しかし私は大急ぎで逃げるように焼跡をはなれた。

 家に帰ると新聞が来ている。東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた。何のための新聞か、そして、その沈黙は、そのことに関してのみではない。
 防諜関係や何かで、発表できないのであろうことはわかるが、―国民を欺かなくてもよろしい。
 国民を信用しないで、いいのだろうか。あの、焼け跡で涙ひつつ見せず雄々しくけなげに立ち働いている国民を。

■日本庶民のけだかさ、立派さ。今も失われていない。


三月十二日(三月十日の大空襲の後初めての上京)

 ○罹災民は二百万人に達しているだろうという街の噂だ。罹災家屋ぬ十五万という。


三月十九日

 国民学校初等科を除き学校の授業が全部停止となった。

■私は国民学校五年生。勉強させて貰っていたのだ。


六月二十五日

ラジオの大本営発表で沖縄の玉砕を知る。玉砕―もはやこの言葉は使わないのである。(注=「玉砕」のかわりに「最後の攻撃を実施せり」)
 牛島最高指揮官の決別の辞、心をえぐる。


七月二十二日

 新聞が二日分一度に来た。
 二十二日の投書欄に次のような言葉がある。

歯の浮く文字
 ▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であろう。かかる負け惜しみは止めてもらいたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺たちはどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもって日々やってゐる。も早俺たちを安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。

(中略)

政治家達も闘へ
 ▽日本が勝つために我々は永い間困苦に耐へてきた。これから先もどこまでも耐へていく決意をきめてゐる。それにつけても情けないのは日本の政治家が日本人らしくないことだ。食糧事情において兵器事情において誰一人として出来なかったことの責任に日本人らしく腹を切った政治家がゐないではないか。「私はかく思ふ」「切望する」「考慮している」等々、後難除けの言葉は決まってゐる。政治家も日本人らしく闘ってくれ。

■投書を装う新聞社の主張であって欲しい。政治家の責任という発想が存在したこと自体注目に値する。


八月二日

 一日の大本営発表が新聞に載っているが、発表の最初に「戦備は着々強化せられあり」とある。それについて毎日が「軍に毅然・大方針あり」と提灯記事を書いている。昨日は読売が同種の記事を掲げていたが。―ところが毎日は提灯記事の隣に社説を掲げている。「民意を伸張せしめよ」「知る者は騒がぬ」ひかえ目ながらここで注文をだしている。国民はもはや、提灯記事、気休め記事は読まぬのである。

 心、物量に勝てり 敵は狙ふ我精神
  大出血に畏怖、謀略に躍起
   崩すな国内団結力(読売新聞八月一日、記事の見出し)

■十一月十三日の読売新聞と見比べるといい。


八月十一日

 それにしては、陸相の布告は何事か。

 全軍将兵に告ぐ
 ソ聯遂に鋒を執って皇国に冠す
 名分如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり
 事ここに至る又何をか言はん、断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ
 仮令草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず
 是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり
 全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
昭和二十年八月十日 陸 軍 大 臣

「―何をか言はん」とは、全く何かを言わんやだ。国民の方で指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである

■日本人の多くが心の底にこの思いを抱き続けて日本人自身が『国家破壊者』を告発し責任者の断罪を下すべきであった。まだ行われていない。


八月十六日

 家に帰ると新聞が来ていた。阿南陸相自刃読売記事中に「支那事変勃発以来八年間に国務大臣として責任を感じて自刃した唯一の人である」と書いてある。背後に皮肉が感じられる


八月十八日

 今までの恐るべき軍万能は、ほんとうの健全なデモクラシーが将来、日本に生かされるようになった暁は、現実にあったものとしては想像もされないようなものにちがいない。かかる圧政の下に私等は生きてきたのである。
 作家が恋愛を書くことを禁じられた、そういう時代があったのである



八月十九日

 新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
 敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥

■朝日、毎日、読売など、その同じ新聞が今も数百万分の発行部数を誇っている摩訶不思議をいつも念頭に置いておこう。


八月二十九日

 東京新聞にこんな広告(注=特殊慰安施設協会の名で「職員事務員募集」の広告)が出ている。占領軍相手の「特殊慰安施設」なのだろう。今君の話では、接客婦千名を募ったところ四千名の応募者があって係員を「憤慨」させたという。今に路上で「ヘイ」とか「コム・オン」とかいう日本男女が出てくるだろう。


九月十二日

 (読売新聞)
 東条大将自決
  聯合軍側からの抑留命令直後
   昨午後自邸で拳銃で危篤

 期するところがあって今まで自決しなかったのならば、なぜ忍び難きを忍んで連行されなかったのだろう。なぜ今になって慌てて取り乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら、御詔勅のあった日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。
 醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなっている。恥の上塗り

 大本営発表が明日限り廃止される。

■全く同感。後知恵でなくその場でこう言えた高見順はやはり凄い。


九月十四日

 杉山元帥自決。夫人も殉死


九月十五日

 小泉元厚相と橋田元文相とが自殺した。橋田氏の自決はいたましい。

■それぞれの遺書にどのような心情が記されているのか・・・


九月十六日

 太平洋米軍司令部の発表になる「比島に於ける日本兵の残虐行為」が新聞に出ている。一読まことに慄然たるものがある。
 ところで、残虐ということをいったら焼夷弾による都市住民の大量虐殺も残虐極まりないものである。原子爆弾の残虐はいうをまたない。しかし、戦勝国の残虐は問題にされないで、戦敗国の残虐のみ指弾される

■そして日本人はますます去勢されてしまった。


九月十九日

 外相更迭。田中静壱大将自決


九月二十九日

 天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立っておられる写真が新聞に載っている。かかる写真はまことに古今未曾有のことである。将来は、何でもない普通のことになるかもしれないが、今は、―今までの「常識」からすると大変なことである。日本国民は挙げて驚いているであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせられるに至るであろうが、そうして古今未曾有と驚いたということを小渡ろぅで有ろうが、それ故かえって今日の驚きは特筆に値する。

■さて、この記述にあなたの反応は?


十月五日

 西川光君と同社。『ライフ』のムッソリーニの死体写真を見せてくれた。情婦と共に逆さにつるされている。見るに忍びない残虐さだ。(中略)
 日本国民の東条首相にへの憤激は、イタリア国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸からひきずり出してこうした私刑を加えようとはしない
 日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如くおとなしい。怒りを言葉や行動に積極的に現し得ない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。

■それでも昔の日本人は政治家の私邸を焼き討ちするぐらいの元気はまだ持ち合わせていた。


十月十九日

 「武蔵」「大和」の写真がはじめて公表された。消失してから初めてその正体が国民に知らされたわけである。

■そして今日五月七日で映画で使われた戦艦大和のロケ・セットの公開終了とか。


十一月七日

 ○新聞が国民に向かって、戦時中の新聞の犯した罪に対してあやまるところがなくねはならぬと感じたのは、終戦直後のことであったが、忘れた頃になって、謝罪してくれる。(朝日新聞社説)

■今も昔も同じ。だって同じ新聞社だもの。


十一月十三日

 昨日、読売の社説にローマ字採用論が出ていた。「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃討が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基づく国民知的水準の昂揚によって促進されねがならぬ。」(中略)
 「民主主義」の名の下に、バカがいろいろ踊り出る。

■新聞社は変わり身のすばしこさこそ生き残る術。


十一月十四日

 松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下にR.A.A.とある。Recreation & Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。(中略)
 世界に一体このような例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が―。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされる支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥ずかしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなしうることではないか。

■このような鋭い指摘をした人が他にいるのだろうか。『慰安婦問題』は国内問題でもある。


十二月三日

 「大変だ、大変だ」と号外売りが言っている。読売報知の号外であった。

 梨本宮、平沼、広田元首相ら
  五十九名に逮捕令下る
   戦争犯罪容疑者として


十二月七日

 近衛公、木戸侯ほか九氏に逮捕命令下る。


十二月十七日

 近衛公、荻外荘で自殺

■国民に謝罪するとの意志を明瞭に示して自決した政治家・軍人が全体で何人ぐらいいたのだろう。意志はいざ知らず、この日記に記された自決者を青文字で示したが余りにも少なすぎるのではないか。

この時代に日本全国でも一握りの存在でしかなかった『小説家』のさらにその一部に過ぎない『鎌倉文士』、そのなかでも高見順は希有の存在であったのかもしれない。「敗戦日記」を通して選り抜かれた日本人の『知性と感性』に接することができる感動を若い人々と共にしたいものである。


Ken Follettの"WHITEOUT" あら探しも少し

2006-03-30 17:39:53 | 読書

前の週末を中心に"WHITEOUT"を一気に読み上げた。息もつかせず、といったところ、もうスリルの連続だから途中で止めるわけにはいかないのである。

クリスマスイブ深夜の1時から物語が始まり、クリスマスを挟んで翌ボクシングデーの午後7時までのほぼ54時間の間の出来事がペーパーバック460ページのなかで展開する。1時間の出来事が平均8.5ページに納まっているわけだから描写が極めて細かく実に生き生きとしている。目論んだことが素直に運んでくれないからそれだけ描写に時間がかかるともいえる。そして文字通りのホワイトクリスマス、舞台となるスコットランドのこの地方ではまれに見る大雪で全てが雪の白に覆われてしまうなかで物語が進行する。

感染すると生存率が0%という毒性の強烈なウイルスに対する抗ウイルス剤の開発を行っている製薬会社で二つの事件が相継いで起こる。最初の事件はウイルスを感染させた実験動物を密かに持ち出した研究員が自宅で変死したこと。実験動物に噛まれてウイルスに感染し死亡したらしい。研究所のセキュリティ・スタッフが発見する。ところがこの事件がマスメディアに洩れてしまい下手すると会社の存亡にかかわってくる恐れがある。

物語の主人公Toniはセキュリティを担当するチャーミングな独身女性。監視カメラの記録を精査して実験動物が盗まれた経緯を手際よく明らかにする。そして二度とこのような不祥事が起こらないように監視体制を直ちに改めて判明した全ての事実をマスメディアに公表する。何事も隠さずに率直に経緯を公表したことが評価されて、会社の存亡にかかわるた危機をひとまず乗り越えることが出来た。

"We told the truth, and they(massmedia) believed us."と試練を乗り越えた彼女が誇らしげある。最近の『ガセネタメール事件』でミソをつけた民主党と永田議員の手際の悪さとは対照的である。

ところが第一の事件が解決したのも束の間、強化された監視システムをかいくぐって猛毒ウイルスが盗まれる。ウイルス奪取の手引きをしたのはこの会社のオーナーで最高責任者の不肖の息子のKitである。

実は研究所のセキュリティ・システムを主に作り上げたのがコンピュータを専門とするKitであった。ところが彼はギャンブル狂いでその負けがつもり返済のために会社の物品を持ち出していた。奪取事件の起こる9ヶ月前、この会社に雇用されたばかりのToniがその不正を突き止めてオーナー社長にその息子を解雇させていたのである。ギャンブルの負けを父親が一度は肩代わりしたがその後もKitはますますギャンブルにはまりこみ再び多額の借金を抱え込む。しかし父親は二度と甘い顔を見せなかった。二進も三進もいかなくなっていたKitに多額の報酬を餌に猛毒ウイルスを持ち出す誘いがかかったのである。セキュリティーシステムを熟知しているKitにとって、その網をかいくぐるのはいたって容易なこと、三人のギャングと一緒に猛毒ウイルスを盗み出した。

依頼者はテロリストらしい。その依頼者をKitが想像する箇所でJapanese fanatics, Muslim fundamentalists, an IRA splinter group, suicidal Palestinians,・・・、と日本人が最初に出てくるので一瞬ニタッとしたが自慢出来ることでないのが残念である。 

盗み出したウイルスと引き替えに依頼主から大金を受け取る手はずになっているものの、大雪のために車による移動もままならず、研究所に近い父親の家に入り込むがそこにはKitの姉妹とその家族がクリスマスを祝うために集まっている。そこでいろいろなハプニングがあり物語が進んで行く。巻末の一年後のクリスマスの光景で大団円で読み終えるのが勿体なく感じた。

それはいいのだが、そしてわざわざあら探しをしたわけでもないのだが、何故か今回はプロットに不自然な箇所がいくつかあるのが気になった。一番問題と思うことを一つ指摘するが、それでは本を読むに当たって興が削がれると思われる方はここから先へ進まないでいただきたい。

ウイルスを保存している場所はBSL4(Biohazard Security Level 4)で、出入りが最も厳しく制限されている。出入り口ではICカードをまず挿入口に入れてその上自分の指紋をスキャナーで読み取らせる。ICカードに収められている本人の指紋データとスキャナーのデータが一致して始めて入室できるのである。その内容を熟知しているKitが秘かに持ち出した父親のICカードを改変するのであるが何故改変が可能だったのか。犯罪行為で会社をくびになったKitの作り上げたセキュリティシステムが、解雇後9ヶ月も経っているのにそのまま使われていたからである。この状況設定はどう考えても頂けない。

ついでにもう一つ、著者が文系出身であることに由来しているのか登場人物の猛毒ウイルスの取り扱いも極めて粗雑で私には荒唐無稽に思われるシーンもあった。その点Harvard Medical Schoolを出ているMiahel Crichtonの記述の科学的正確さとは対照的である。

と、つい知ったかぶりを書いてしまったが、この作品はKen Follettの魅力そのもの、平易な英語なので大学生なら十分醍醐味を味わえるはずだ。


梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んで

2006-03-21 17:56:22 | 読書

「ウェブ進化論」(筑摩新書)が評判だと云うことで買ってみた。私もご多分に漏れずWindows XPを載っけたPCとGoogleをいろいろと検索に利用しているが、この本はWindowsやGoogleの扱い方ではなくて、人間の知的活動にPC(+OS)とGoogleがどのように関与するかを教えてくれる。

ネットの「こちら側」と「あちら側」という話が出てくる。「こちら側」は《インターネットの利用者、つまり私たち一人一人に密着したフィジカルな世界》であり、「あちら側」とは《インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも云うべきバーチャルな世界》なのである。「なるほど、なるほど」と頷く。

「こちら側」のことは分かりやすい。目の前にあるパソコンのことだから。「あちら側」もネットを介してアクセス出来る諸々の情報と受け取ればそれだけのことであるが、世の中には全世界の全情報を取り出しやすい形で組織化しようと考えた人がいるらしい。いわば人間の『脳細胞』を人工的に作り上げることに相当するのだろう。しかしどのような原理で組織化しようとするのかそれは分からない。

私のブログへのアクセス解析をたどってわれながら驚いたことがある。Googleで(green grass the old home town)をウエブ全体から検索するとなんと私のブログ記事が1010万件の検索結果の第4位に出てくるのである。



また(在朝日本人)を検索すると206万件の第1位にランクされてくる(3月21日午前10時現在)。



自分の発信した結果が人の目に触れやすい形で検索結果に出てくることは嬉しい。しかしそんなに値打ちのあることを書いたという自覚もないのに、どういう基準で百万とか千万とかいう大層な数の記事の中から私の記事が上位にランクされたのか、その理由が分からないのである意味では不気味でもある。このランク付けの裏にGoogle独特のノウハウがあり、それで情報を組織化しているのであろう。しかしその仕組みを明かさずに結果だけを示されるのでは『神のお告げ』と変わりない。

「こちら側」を築き上げた代表がマイクロソフトのビル・ゲーツで「あちら側」を作りつつあるのがグーグルのセルゲイ・プリンとラリー・ページだそうである。と、もっともらしく引用したが、私はプリンとかページいう人の名前はこの本で始めて知った。元来日常品を使用するのにそれを作っている会社の創始者の名前なんか知る必要はなにもないからである。

著者がビル・ゲーツにセルゲイ・プリンとラリー・ページの名前をわざわざ取り上げているのは余人の考えつかないものを作り出した彼らが大天才ということをただ云いたかっただけかも知れない。しかし私にはビル・ゲーツはともかく『神のお告げ』を作り上げる後の二人は大魔神のように思えてくるのである。

全ての情報を公開するとの大義名分はいいものの、公開するにあたってのたとえばランク決定法も同時に公開されないことには真の情報公開にはなっていない。「こちら側」も「あちら側」もとどのつまりビジネスがらみである以上、『オープンソース』も限界があるということだろうか。ランク付けは情報操作そのものである。利用者が納得できる原理・原則でランク付けがなされているかどうか、それを隠されては話にならない。

時代は「こちら側」から「あちら側」へと進化してきてさらには『あらぬ側』に進むのであろうが、『情報管理』を他人任せにしないことが『個』をもつ人間として生き残る最低限の条件であるように思った。著者の意図とは異なるだろうがこのことを考えさせただけでもこの本は刺激的であった。

生物学者・昭和天皇とY染色体

2006-02-06 17:45:46 | 読書

宮中の奥向きのことがどう洩れてくるのか知らないが、昭和天皇に側室をもっていただく取り沙汰のあったことがHerbert P. Bix著 "HIROHITO" に出てくる(翻訳あり)。

1924年に結婚された昭和天皇と香淳皇后との間には1931年までに四人のお子が生まれたが全て女子であった(一人は夭折)。1932年もかなり過ぎて香淳皇后が流産されたのを機に、昭和天皇に側室をもってしてでも君主としての義務を全うしていただくべしとの圧力が高まった。当時の皇室典範では嫡出庶出を問わず男系男子が皇統を継ぐものと定められていたからである。

学習院院長や宮内大臣を歴任した伯爵田中光顕が東京、京都でふさわしいお相手を探して十人の姫君を選び出した。そのなかから更に三人に絞り中でも最も美しいと云われた一人が宮中にあがり香淳皇后もおられるところで昭和天皇とカード遊びをしたが、一夫一妻を是とする昭和天皇は特に関心を払われなかったとのことである。噂話として取り上げられており出典は明らかでない(271ページ)。

原文では"ten princesses"とあるから皇族か五摂家の姫君と取るべきなのかも知れないが、でも明らかに側室候補であるからこれでは身分が重すぎる。おそらく華族の姫君であったのだろうが、昭和天皇とカード遊びをする意味をどのように説明を受けていたのだろう。また天皇・皇后もどの程度まで『隠された意図』をご承知だったのか窺い知る由もない。ただ1901年生まれの昭和天皇はまだ満31歳で皇后もお若く、まだまだ男子誕生の可能性があった。そして翌1933年12月23日に明仁親王がお生まれになることで側室問題は収まった。

昭和天皇が公務の合間に生物学の研究に勤しまれたということは良く知られている。このBixの本にも昭和天皇がどのように『生物研究』に入っていかれたのかその経緯が要領よく纏められているが、その中で丘浅次郎著の「進化論講話」でダーウィンの進化論を学ばれたり、またダーウィンの「種の起源」も翻訳でお読みになったとのことが記されている。そして書斎にはリンカーン、ナポレオンと並んでダーウィンの胸像が置かれていたそうである(60ページ)。

「進化論」を学ばれたのであれば「遺伝学」も当然学ばれたのであろうと私は想像する。『性』を決定する性染色体の存在もご存じで、X染色体とY染色体がどのようにして男性女性を決定するのかその仕組みも学ばれたであろう。科学的探求心をお持ちの昭和天皇が『万世一系の天皇』と男系男子によりY染色体を継承してきたこととの一致に気づかれて「さもありなん」と云われたかどうか、私の空想が駆けめぐる。

何故戦前の高架が残ったのだろう

2006-02-01 17:05:11 | 読書

「神戸震災、再起の鉄道」(文芸社)の著者である神戸生まれの雑喉 謙氏は大学での専攻、職業、それに趣味が重なり合って《「神戸の鉄道の震災とその復旧」に至るまでの再起の過程に人一倍関心》を持ったとのことである。

内容は帯に記載されているように《故郷・神戸をおそった震災で、鉄道は甚大な被害を受けた。その復旧の経過を現地取材を交えて克明に記したドキュメント》である。相模原市に居住する著者は震災後2月4日を皮切りに何回となく神戸を訪れて、JR、阪急電車、阪神電鉄、神戸高速鉄道、山陽電車、神戸電鉄、六甲ケーブル、ポートライナー、六甲ライナーなどの復旧の進捗状況を観察するままつぶさに記している。

当時京都に単身赴任していた私は週末には神戸の自宅に帰り後片付けに追われた。時間的余裕もなかったが、私の脳裏に刻まれている神戸の原風景を壊したくなかったので、街の惨状を見て回る気にはなれずにただ京都と神戸の間を往復するだけだった。従ってこの本は私の知らなかった、しかし知りたいと思っている震災からの復旧を鉄道に焦点を当てて纏めたものとしてなかなか重宝である。

極めて示唆に富む記述がある。

JRの住吉―六甲道間では高架が連続的に崩壊したのであるが、全面的に高架になったのは昭和53年と比較的新しい。《ところが同じJR でも、戦前の鉄道省時代に造られた灘―鷹取間の都心部を通る高架は、そりゃあ少しは損傷したものの致命的な崩壊には至らず、震災から2週間目の1月30日には神戸駅以西に列車が走っていた》とのことである。

住吉―六甲道間は灘―鷹取間の東になり場所が違うからこの結果をもって簡単に高架の強度を比較できないかも知れない。しかし戦前のJR高架と戦後に出来た高架とが並行して走っているところが三宮にある。

《戦後昭和43年にできた神戸高速鉄道は、阪急三宮駅西側で鋼管の高架支柱が真っ二つに引きちぎられる(脆性破壊)という物凄い地震力を受け、これに続く鉄筋コンクリート高架も連続崩壊したのだが、並走している戦前からのJR高架が、細かくいえば若干の補修を要する箇所はあって》も何ともないように立っていた。

JRに限らず阪急でも阪神でも戦前の旧い構造物が損傷を受けずに残っているところが目立っているのである。このように鉄道の高架に関する限り戦前が勝ち組で戦後は負け組である。両者とも『耐震構造』になっているはずであろうに何故このような違いが生じたのか、研究者、技術者による検証がなされたのであろうか。その結論を知りたいものである。まさか『戦後』の理論が間違っていたわけではなかろうに・・・。

不忠の『臣・茂』? 原彬久著「吉田 茂」を読んで

2006-01-26 11:34:16 | 読書

戦後初の国葬で葬られた大勲位吉田茂に私は何故か親近感をいだく。敗戦後の食糧難の時代にとにかく日本人を餓死ささないようにマッカーサーに掛け合い食料の確保に奮迅努力したその当時の首相としてのイメージが脳裏に焼き付いていることや、かずかずのエピソードがその親近感に手を貸している。

選挙嫌いの吉田茂がやむを得ず高知一区から代議士に立候補した時に《小学校が演説会場であれば、聴衆の選挙民を「小学生」と勘違いして「これからキミたちもよく勉強して・・・」とやる》(137ページ)なんてエピソードにはニコッとしてしまう。

この「吉田 茂」は岩波新書であるので身構えずに面白いところだけを読んでいけるところがいい。そういう読み方をして私なりに新しい発見があるのが楽しい。

《(前略)吉田はこの憲法九条に関連して、政府案が上程されたばかりの衆議院本会議(六月二十八日)で共産党野坂参三と論争している。野坂は「正シクナイ不正ノ戦争」すなわち侵略戦争と「正シイ戦争」すなわち自衛戦争とを区別し、政府案にある「戦争ノ抛棄」を「侵略戦争ノ抛棄」に変更べきことを訴える。これに対し吉田は「国家正当防衛権」を認めることが「偶々戦争ヲ誘発スル」がゆえに、「正当防衛権」自体を「有害」であると断言したのである(「第九十回帝国議会衆議院議事速記録第八号」)。》(124ページ)このくだりで共産党の『正論』に同感するのも本読みにはこたえられない楽しみである。

昭和天皇は《国民に戦争への自責と謝罪の念を表明》しようとするご意志をお持ちであったようである。ところがそれを形にする『退位』そして『謝罪詔勅』のそれぞれを吉田が握りつぶしてしまう。そして著者はこう述べる。

《天皇がその意に反してみずからの戦争責任を形にしえなかったというその歴史的含蓄は重い。》(以下153ページから155ページ)

《もし天皇が被占領時代はともかく独立を機に退位していたら、戦後日本の絵姿は大きく変わっていたであろう。天皇退位は日本が国内外に向けて少なくとも国家の道義的負債を精算していく最大かつ決定的な機会になったであろうし、ひいては独立回復後の国民にその再出発のための新たな道義的基盤を用意したであろう。》

天皇が退位をもって戦争への道義的責任を示したなら、軍部暴走と戦争にかかわった政治家、軍人、言論人等々は指導者としての出処進退を厳しく問われることになったであろう。そしてアジア諸国への賠償・補償もすべてはこの地点から始まっていたであろう。日本が占領軍による受身の懲罰ではなく、自身の意志によって戦争責任に明確活早期の決着をつけることが国家として必要であったなら、「天皇退位」は一つの重大な選択しであったに相違ない。

《過去の責任を曖昧にして道義的負い目を引きずっていく国家は、諸外国からその弱点を衝かれ、国内に無責任の風潮が瀰漫するのは当然である。》

《天皇股肱の臣吉田茂が、敗戦日本を捉えて離さなかったこの「天皇退位」という戦後史最大の難問を抱えて歴史の岐路にあったことは事実である。しかもこの歴史の分岐に立って吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという、この上なく深大な決断を下したことだけは記憶されてよい。》

『人間天皇』を宣された昭和天皇の心を慮ることを吉田茂は僭越と懼れたのかそれとも己の情念にのみ忠実な尊皇家だったのか、結果的に昭和天皇のご意志を無にした『臣・茂』こそ『不忠の臣』ではなかったのか。

昭和天皇もやはり徒人(ただびと)ではない。吉田はなぜかサンフランシスコで開かれる講和会議に出席する気持ちはなかった。ここで著者は豊下楢彦を引用するのであるが《「首相の署名」を切望するダレスの意を受けて、天皇が吉田に影響力を及ぼし講和会議「出席」を決意させたのではないか、というのである。天皇制を守るために、誰よりも早期講和と日米体制強化を熱望する天皇が、講和会議「欠席」に傾く吉田を叱り翻意させたというわけである。》(190ページ)

しかし昭和天皇の次の行動には少し首をひねりたくなる。《天皇とダレスの共同歩調》のくだり(181ページ)、《ダレスが(中略)講和・安保両条約の案文づくりにに関連して天皇との間に秘密のチャンネルを確保していたということである。豊下楢彦によれば、前年六月勃発の朝鮮戦争がもしアメリカの敗北に終われば天皇制の危機と捉えていた昭和天皇は、吉田とは全く別のルートで早くからダレスにアプローチしていたというのである。》

そして焦点は米軍の駐留に基地の提供を求めるアメリカ側と、基地不要論を唱える吉田との間に天皇が介在したことである。

《共産主義から天皇制を守るためにも「日米結合」に執念を燃やす昭和天皇が、この日米間の行き違いに不安を抱いたのは当然である。ダレスは(中略)天皇と会見の機会をもつが、このとき天皇はダレスに向かって、アメリカの条件に沿う形での基地貸与に「衷心からの同意」を表明している。》これを著者は《天皇の超憲法的行動》であった、と断じている。

実はまだまだ引用したい箇所があるのだが、この小文が切っ掛けとなってこの「吉田 茂」を読まれる方のためにもここらあたりで止めておくことにする。戦後の日本史を概観するのにも手頃な一書を纏められた著者の労を多とする。