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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

佐藤 優著「獄中記」を読んで

2006-12-27 18:19:28 | 読書

著者が東京拘置所の独房で書いたノートはB五判六十二冊で、四百字詰め原稿用紙にして五千二百枚分になる。これを五分の一に圧縮して四六判の本、約五百ページに収めたのがこの「獄中記」である。

タイトルは「獄中記」であるが、読書録でもある。512日間に読んだ書籍のリストが巻尾にあるので数えると134タイトルに上る。『岩波講座 世界史』などは全31巻で、ほかにも全集ものがあるから、冊数にすると200冊ぐらいになるのだろうか。なかには『広辞苑』のような辞書も含まれているので、正確に読書の対象になったのかどうか分からないが、なかには何回も読み返したものもあり、いずれにせよ大した読書量である。しかし私の好みと重なるところはほとんどないのが面白い。それにしても厳めしいタイトルが多い。さすが同志社大神学部出身のクリスチャンである。

たとえばユンゲル『神の存在』については《獄中で三回読んだことになる。毎回、何か新しい発見がある。神学的な訓練を受けたことがない人が読んでも、何のことかさっぱりわからない本であるが、二0世紀半ばのプロテスタント神学書の名著といってよい。》(346ページ)と書かれている。たしかに神学に無縁の私には、この著書の一部が十五行にわたり引用されていてもチンプンカンプンで、素通りせざるをえない。そして佐藤氏の次の要約に辿り着く。

《要するにキリスト教であるとか、神であるとかについては全く言及しなくても、キリスト教の言うところの真理は他の形で言い表すことができるということだが、僕はこの考えに基づいて外交官という仕事をしていたし、様々な学術研究をしてきた。》(347ページ)
それならそうと、最初から引用などなしにそう云ってくれ、と思うのだが、私が即物的すぎるのだろうか。

同じような筋立ては随所に見られる。たとえばフーコー『監獄の誕生』についてもこうである。

《客観的な証拠調べによって犯罪を証明することができるとする近代刑事訴訟法において、本来自白は必要ない。しかし、捜査機関のみならず、裁判所までもが自白を重視し、必要とするのはなぜか?フーコーは二つの要因があると考える。
 第一は、自白は裁量の証拠で、矛盾する証拠を整理し、弁護側の反証に対して、有罪をもくるむ立場に立つ人びとの作業を軽減するからである。要するに自白は経済的なものである。
 第二は(そしてこの第二の要因の方がフーコーにとっては寄り重要であるが)、被告人自身に自らの犯罪を断罪させ反省の意を公開の法廷で述べさせることによって、社会に対する教育的効果を上げる。(『監獄の誕生』42頁)
 以上は私なりの言葉でまとめたものだ(フーコー自身の言葉はわかりにくい)。》

昨日(12月26日)の夕刊に「再審決定取り消し 名張毒ブドウ酒事件 自白信用性高い」の見出しがトップに大きく出ていたが、上の第一の要因は、高裁の決定の舞台裏を解説しているように思えるではないか。

それはさておき、佐藤氏のこの部分でも私はちょっと引っかかった。

佐藤氏はフーコーを自分なりの言葉でまとめたとのことであるが、この第一、第二とも、稀代の知識人である佐藤氏にとっては、自らの体験・思索を通じて容易に自得することではないのだろうか。フーコーを箔漬けに用いなくても、とふと思ったのである。

佐藤氏はこうも述べている。《以前から何度も述べているように僕は時代と共に進むことはやめた。しかし、人生を投げ出してしまったわけではない。アカデミズムでそれなりの努力を積み重ね、インテリの世界では一定の発言力を確保したいと考えている。他者に全く理解されない文章は「インクのしみ」にすぎないので、理解される文章を綴るということは一定の発言力を持つこととほぼ同義である。》(441ぺーじ)

他者に理解されるためには、第三者を援用するのではなく、自分の言葉で語れば十分であろうと私は思うのだが、『文系』の人はそれでは頼りないと感じるのだろうか。それとも自分の頭に浮かんだある『考え』を、先人の言説と関連づけて整理しないことには、公にしかねるのだろうか。

そういう私なりの引っかかりは別として、「なるほど」と共感を覚えた箇所を思いつくまま列記してみる。・・・に続く部分は私の反応である。

《『現代独和辞典』をとりあえず通読し、神学・哲学用語を抜き出しておこう。辞典を読むなどという優雅なことができるのも拘置所にいる特権である。》(25頁)・・・なるほど!

《小説や実用書籍の遊び本を全然読みたくならない私の心理状態もちょっと不思議です。おそらく、『拘置所は学習と鍛錬の場』と自分で決めてしまったからでしょう。》(69頁)・・・できてる!

《ドイツ語、ラテン語に加えてロシア語の勉強もしているので毎日がとても充実しています。チェーホフの『結婚申し込み』(大学書林)を暗記してしまおうと思っています。》(93頁)・・・『冬の旅』の全曲、ドイツ語で覚えるぞ!

《私がどうしても理解できないのは、なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、簡単に誤ったり、反省するのかということです。一〇〇年ほど前、夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で、猫に「日本人はなぜすぐに謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、謝れば許してもらえると甘えているからだ」と言わせています。》(100頁)・・・ヒヤヒヤ!

《神学論争を他の学問上の論争と比較した場合、私が見るところ、キリスト教神学には二つの特徴があります。
 まず第一に、理論的に正しいグループが負ける傾向が強いです。そして、勝ち組は政治力は警察力を行使し、本来は理論的問題である神学論争に介入します。ここで、人間の地には合理的要素と非合理的要素の双方があると考えるならば、これdバランスがとれるのです。論争に政治力を使って勝った正統派には「理論的には正しくない」という弱さが残ります。破れて異端の烙印を押されたグループは、「自分たちの方が真理を担っている」という認識をもつので、キリスト教世界が、一つの見解のみに塊自己硬直化を起こすことを防ぐ作用があります。》(132頁)・・・なんたる絶妙な、そして大人のバランス感覚であることよ!

《帝王学では、あえて責任感の欠如した人物を作ります。金正日に対してわれわれが違和感を覚えるのも金正日の拉致問題に対する責任感が極めて希薄だからと思います。しかし、北朝鮮のこのシステムが、日本の近代天皇制のコピーであることに気付いている日本の知識人がどれくらいいるかということです。》・・・ちょっと見では同感しかかったが、日本の近代天皇制は天皇の責任を免除することを目指して作られてきた、というのが私の認識なので、個人の資質に帰する佐藤氏の見解とは相容れない。

こういう調子で抜き書きをしていくと、止めどがない。共感するところが結構ある反面、これは違うな、と感じるところも出てくる。しかし佐藤氏と向かい合って対話感覚で読んでいけるのがはなはだ快い。

佐藤氏は《キリスト教徒が圧倒的少数者(カトリック、プロテスタント、正教合わせて人口の一%以下)であり、かつ一神教が何であるかを理解できない日本の風土の中で、僕たちがキリスト教徒であるということはどういう意味を持っているのか・・・》と自分に問いかける。自らを少数者と認識する佐藤氏のバックボーンをなすのは『自由な精神』に『ユーモア』である。この取り合わせに興味を持たれる方はまず「序章」に目を通すべきであろう。

ところで私には解けない謎が少なくとも一つ残った。

《今は書物の世界が面白くて仕方ありません。洋書が読めないのが残念ですが、与えられた条件の中で、日々の生活を最大限に楽しむとともに有効に活用したいと思っています。》(96ページ)

拘置所では検閲を通らないことには差し入れの書物が手元に届かないそうである。とすると英語はともかく、佐藤氏のようにドイツ語、ロシア語、チェコ語にラテン語の本を読みたいと思っても、それを検閲できるような語学に堪能な係官がいないから、洋書の差し入れが適わないのかと思っていた。ところが439ページに次のような文章が出てくる。

《もっとも戦前は外国語の図書の差し入れが認められていたので、勉強は相当できたようである。東京拘置所でも外国人被収容者は外国語図書をかなり自由に読めるようなので、羨ましく思う。》

佐藤氏に洋書の差し入れが認められなかったのは、どういう理由によるのだろうか。また佐藤氏は戦前より窮屈な規則になぜ抗議しなかったのだろうか。


祝 塩野七生著「ローマ人の物語」全十五巻の完結

2006-12-15 21:14:55 | 読書

塩野七生著「ローマ世界の終焉」が刊行され、これで「ローマ人の物語」全十五巻が目出度く完結した。1992年7月7日に第一巻「ローマは一日にして成らず」が出版され、その後正確に毎年一冊ずつ刊行された。第十巻以降は12月中旬以降に出るのが慣例になり、手にすると年賀状つくりに拍車がかかったものである。最終巻は本日12月15日に刊行された(実際に買ったのは昨14日)。年表、地図、引用文献を除いて総ページがほぼ5450ページにおよぶ大作を、よくもま無事にそして見事に完結させた著者のパワーと精進にただただ頭が下がる。心からお祝いを申し上げる次第である。

著者との出会いは1968年に遡る。そのころ勤務していたカリフォルニア大学サンタバーバラ校の図書館に日本語書籍・雑誌のコーナーがあった。月遅れで目にする中央公論に「ルネサンスの女たち」の連載が始まったのである。これを読み始めてぐいぐいと話しに引きずり込まれたことを覚えている。その後刊行された単行本の第一章に「イザベッラ・デステ」が収められているので、多分彼女の伝記を目にしたのであろう。

私はシュテファン・ツワイクの「ジョセフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」を愛読していた。緊張感のある彫心鏤骨の一言一言を追っていくと、世界が次から次へと広がっていく、その彼の文体に魅せられたのである。ところがそれと同じような興奮を彼女の作品から味わって、いっぺんに虜になってしまった。それ以来ファンとして彼女の作品は出るたびに手元に置いている。あるサイン会で「ローマ人の物語」の第一巻に彼女のサインを頂き、短い言葉を交わした貴重な思い出もある。

「ローマ人の物語」がどれほど大掛かりな著作なのかは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」とくらべてみるとよく分かる。エドワード・ギボンが1776年から1788年の12年余りを費やしてこの大著を完成させたが、「ローマ人の物語」は上にも述べたように前後15年かかって仕上げられている。その「ローマ帝国衰亡史」の翻訳が筑摩書房から出版されたが、それは「ローマ人の物語」と同じサイズのA5版で全十一巻になり、総ページ数は3230ページである。これは「ローマ人の物語」のちょうど60%にあたる。

英文学者の中野好夫氏が「ローマ帝国衰亡史」の翻訳を始めて第一巻を出版したのが1976年11月20日、最終巻が出版されたのが1993年9月25日だから、足かけ18年かかって翻訳が完成したことになる。その間、中野好夫氏が第四巻を完成させ81歳で逝去、その後を継いだ朱牟田夏雄氏も第五、第六巻の翻訳を終えて中野氏と同じく81歳で亡くなられた。その後を継いだのが中野氏の子息好之氏である。このように三人の翻訳者の協力でようやく翻訳の大業が終わったのである。

「ローマ人の物語」の中身とはかかわりのない話しになったが、塩野七生さんの大著完成がいかに超弩級の壮大なものであるかを強調したかったのである。

一つ楽しみに考えていることがある。「ローマ人の物語」の第十五巻を読み終えたら、今度は第一巻まで逆に読み返していこうと思うのだ。著者は「終わりに」でローマ史を書いた動機を「素朴な疑問」に置いている。「なぜこうなったのだろう」と素朴な疑問が生じたら、解答を見付けるには時代を遡らざるを得ないではないか。私の考えている読み方が案外歴史書のまともな読み方なのではあるまいか。と思ったら、現代から古代へ遡った日本の歴史物語を塩野七生さんにおねだりしたくなった。

妻との八年戦争の終焉

2006-10-02 21:30:56 | 読書

私は本が大好き人間である。学生時代に本をとるか食事をとるかで、本を選択したことも珍しくはない。本を買うのが唯一の道楽であったといえる。

結婚するに際して、本を買うのに妻から口出しされてはかなわないと思った。それで付き合っている頃からデートコースはまず本屋、それも古本屋が多かったが、とにかく気に入った本ならお金があれば買い込むという私の行動に慣れてもらうことにした。もちろん嫁さんを質に入れてまで本を買うようなことはしないと、約束した上でのことである。

有難いことに妻の父は大酒飲みだった。だから酒を飲んで時には大荒れされるより、本を大人しく読んでいる亭主の方が、遙かに高尚だと思い込んでくれたようだった。

結婚してからも同業者のなかに大酒飲みもおり、その奥方が「飲み代で消えて月給袋が空っぽて珍しくなかった」なんて妻に話しているときなどは、「ボーナス袋も空だった」とついでに云ってくれたらいいのに、と思ったりした。いずれにせよ、飲み助の酒代などに比べたら本代なんて蚊の涙のようなものだと妻に思い込ませることには成功した。

私の手元にある本はわずかの頂き物を除いては、すべて私の手を触れてきたものばかりである。それを思うと簡単に手放せない。阪神大震災の時にやむを得ず処分した本はあるが、神戸の家、京都の家、それに勤め先と三カ所でとにかく本が増えていった。

定年で神戸に引き揚げることになった。家は震災で半壊の認定を受けたぐらいで、大改修するよりはとその家を処分して隠居所を建てることにした。私の最大の関心事は本の収納で、とにかく壁面で本棚が置けそうなところはすべて床を補強してもらった。

勤務先に置いていた本でシリーズものの実験書の類などは、同業者の後輩に引き取ってもらったが、それでも結構残っている。それに京都と神戸の家からの本が一カ所に集まったが、その時になって本の収納スペースが徹底的に不足していることに気付いたのである。

リビングの壁面の一面は作りつけの本棚とした。書斎にはこれまでの本棚を持ち込んだ。寝室にはこれまでの本棚に加えて、作りつけ本棚で10畳の部屋を二分した。この本棚は新書本・文庫本専用で幅がやく1.8メートルで高さが2.4メートル。奥行きが24センチメートルなので本を二重に置ける。棚は前後ろオープンにしているので両側から本を出し入れできる。この書棚と限らず、可能な限り本は棚の前後に収納した。

まずダイニングの壁面を巡って妻とのバトルが始まった。いくら何でも全壁面の独占は悪いと思って、百科事典の棚だけは確保して妻に譲った。ところがこの私の譲歩が妻を強気にさせたのである。寝室の作りつけ本棚の横には私のベッドを入れたので、ベッドの反対の壁面は当然私の権利の及ぶところである。私は新たに本棚を買って置くつもりであったのに、それを妻が認めないのである。掃除機を動かしにくいとか、私はスカッとしたのが好きとか、訳の分からないことを云ってとにかく我を張る。引っ越しの時以来の本入りの段ボール箱をそこに置いたまま、にらみ合いに入った。

  交戦中 


  戦後  


このにらみ合いがなんと八年間続いたのである。この限られたスペースがわが家の『竹島』となった。段ボール箱を置いて実効支配しているのは私、いわば韓国政府である。ところが現状変更をしようとするとそれに抵抗して座り込みをしかねないのが妻、これは日本国政府より強腰である。ただ現実の両国政府と違うのは二人とも大人であるということ。『竹島』に関してはお互いが譲ることはないが、それを種に日常生活の平安を損ねるようなことはなくまったく普通の夫婦、「Good morning!」と朝の挨拶はにこやかに交わし続けてきた。

それがどうした心情の変化なのか、ある日妻が生協のチラシを示して「これはどう?」と云うのである。組み立て本棚の広告だった。せっかく八年間も続けたのだからここで戦争を終結するのはもったいなかったけれど、段ボール箱が出っ張っているせいで、ベッドとの間が狭くなり、私はよく足をベッド枠にぶつけては痛い目をしていた。それから解放されるのはいいなと思い、私も同意したのであった。

この機会に本棚の全長を計算してみた。本を立てて並べたら何メートルになるかということである。それが161メートル。二重駐車のように一段の棚の前後に本を置いているところが多いので、実際の長さはこれより短くなる。一冊平均3センチとすると5300冊、2センチとすると8000冊。多分その中間だろう。しかし実はどうしても本棚に収まらないので、段ボール箱のまま、裸もあるが、ガレージに格納しているのがある。そのアングルの棚の総延長が32メートル。冊数は数えようがない。ところがこのスペースを妻が狙っていたのであった。

母が亡くなりその居室に妻が早々に移っていった。寝室の反対側は妻の領分、ところが横と頭のほうが天井まで本が詰まっているものだから、もう一度地震があったら本で圧死するとか何とかいって逃げ出したのである。ところが母は私に輪をかけて物持ちがいいものだから、部屋はもので充ち満ちていた。私が口出しするとことが進まないので、妻に整理をまかせていたところ、三年ほどかかってようやく不要のものの処分が終わったようなのである。それでも最終的に私がチェックしないといけない文書類をはじめ、今すぐに捨てられないものがまだかなり残っている。妻はそれをガレージに移したかったのである。

  新戦場 


私も基本的には反対ではないけれど、そうなると私の分身を処分しなくてはならなくなる。後の役はふつう前の役よりは短いと云うから、まだ三年ぐらいかかっても不思議ではない。またしばらく持久戦に入りそうである。


山口仲美著「日本語の歴史」に興奮した

2006-09-14 17:23:06 | 読書

本の帯に「こんな面白いドラマだったのか」と岩波らしからぬ文句が踊っていて違和感を誘う。ところが読み終わってみると、この程度の表現では物足りない。せめて「ドキドキ、ワクワク、スリル満点」ぐらいの言葉は入れて欲しいと思ったぐらいである。

著者はこの本で何を目指したのか。

《①日本語の歴史に関する専門的な知識を分かりやすく魅力的に語ること、②出来る限り、日本語の変化を生み出す原因にまで思いを及ぼし、「なるほど」と思ってもらえること、③現代語の背後にある長い歴史の営みを知ってもらうことによって、日本語の将来を考える手がかりにしうること、の三点を、できるだけ実現できるようにという思いで全編を執筆しました。》

この本は120%私の期待に応えてもらったように感じる。学ぶことがそれほど多かったからだ。

万葉仮名がどのようなものか、学校で習った程度の知識はあるが、それは序の口に過ぎない。

     若草の 新手枕(にひたまくら)を まきそめて
       夜をや隔てむ 二八十一あらなくに

「二八十一」の万葉仮名読みをいくら考えても出てこない。それも当然、著者は
《「二八十一」をなんと読みましたか。「にくく(憎く)」です。「八十一」を「くく」と読みます。》と説く。びっくり仰天、奈良時代の人がすでに「九九」を知っていたなんて!そしてこの素晴らしい万葉人のウイット!

嬉しくなる。そしてこのような例がいくつも紹介されているのだ。

「漢式和文」というのも始めて知った。万葉仮名文は別として、漢字だけを連ねた文章を私は単純に漢文、いわゆる中国語文と思っていた。ところがこの「漢式和文」とは漢文様式で書いた日本語の文章を云うのである。そう云われてみると、漢字の出てくる順番が確かに日本語の流れに適っていて、何となく読み下し易い。ということは逆に、中国人には読めないのであろう。これから碑文などの漢文を見るのが楽しくなりそうだ。

平安時代を過ぎて鎌倉時代にはいると、主語を示す格助詞「が」が発達し、さらに文と文との関係を「しかれども」とか「されば」のような接続詞を使って明示する方向で文章が書かれるようになったとのこと。
《日本語も、鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示する言語に変化してきています。接続詞もつかって、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いています。(中略)日本語は決して非論理的ではありません。論理的に話を進める訓練がなされていないだけです。》と著者は言い切る。

文字は記録として残るからいいけれど、なんと昔はこう発音していたという話が出てくるから驚く。録音機もないのに、である。「は へ ほ」をわれわれは「ha he ho」と発音する。これは江戸時代にそうなったので、それまでは「ファ フェ フォ」と唇を上下で合わせて、その隙間から息をすうっと摩擦させて出すような「両唇音」と呼ばれる子音が使われていたという。なぜそのようなことが分かったかというと・・・・、というわけで、先はどうかこの本で読んでいただきたい。

明治時代に入って話し言葉の統一が大問題であった。コミュニケーションを成り立たせるための最低条件であるからだ。大正二年になってようやく公にされた『口語法』がこう述べている。
《今日、話し言葉は地方によってまちまちで一致していない。そこで、この書は、主として東京で教育ある人びとの間で使われる話し言葉を標準とすることにした。地方の話し言葉であっても、広く一般に用いられているものは、許容範囲とした。》
「標準語」は現在「共通語」と言い回しを変えている。

さらに言文一致のために苦労した先人たちの話がでてくる。
《言文一致運動のお蔭で、文章に個性が出て来たのです。一人一人呼吸のリズムが違うように、文章もひとりひとり異なった呼吸をしているのです。》

実は私はこの著者山口仲美さんに、奥付を見るまですっかり騙されていた。私の岳父が卓美(たくみ)というものだから、この方も男性だと勝手に思っていたのである。この本を読んでいて、『女性』的な文章のニュアンスとか言葉遣いを感じなかったことも、その思いこみに手を貸していたようだ。これも言文一致を自ら実践された結果だとすると、学問の世界では言葉に関する男女の性差別が、いち早く取り外されたということだろうか。

カタカナ語の扱いについても提言を怠らない。1956年には、外来語が日本語に占める割合は、一割未満であったのに、1994年には外来語が日本語の三割強を占めるに至ったと云うから、この扱いは大問題である。しかし著者は拙速を好まない。
《カタカナ語のままにしておいて、意味の定着を待つという方法は、いかがでしょうか》と提言する。
《不必要なカタカナ語は、時代の波に洗われてドンドン消えていきます。必要なカタカナ語だけを意味をはっきりさせながら定着させていくのです。》とみるからである。

一言が目を引いた。
《日本は、長い間、言い訳や弁解を潔しとせず、沈黙を重んじる文化でした。》
この伝統を時流に流されまいと必死に守り続けるのが、どうも一部の大学であるようだ。

ところで、名前の読み方の手助けというつもりだろうか、著者名がローマ字で表紙に記されているが、日本語の「山口仲美」に対して「Nakami Yamaguchi」と語順が逆転している。このねじれ現象についても、著者ならではの明快なご意見を伺いたいものである。

「教育のある人」なら、この本を読んで興奮すること間違いなし、と太鼓判を押す。

長谷川眞理子著「ダーウィンの足跡を訪ねて」を読んで

2006-09-03 16:47:49 | 読書

著者を羨ましく思いながらこの本を読んだ。著者の専門は「動物行動学・行動生態学」とのこと、ご本人もさぞかし行動的な方なのだろう。著書から伝わってくる。その長谷川氏が《ダーウィンの生まれたところから亡くなったところまで、その足跡をなるべく詳しくたどって》みたくなり、1987年9月、《ブリティッシュ・カウンシルの奨学金を得て、ケンブリッジ大学で研究生活を送ることになった》のをきっかけに探訪を始めたというのである。

『青春と読書』2004年1月号から2005年4月号に連載された記事がもとになっているようである。著者が自分の足で訪れ自分の目で眺め観察した見聞記で写真も豊富であり、大人の絵本的味わいがある。いろいろの挿話を楽しみながらあっというまに読み終えた。

ケンブリッジでは、ダーウィンの次男ジョージ・ダーウィンが住んでいた家、それがダーウィン・カレッジとなっているのであるが、その家に著者が滞在する幸運にも恵まれているのである。二度に及ぶ英国での研究生活の合間に、ダーウィンゆかりの場所を丹念に訪れているのであるから、研究者冥利と云えよう。ただそれだけに止まらず、「ビーグル号航海記」で有名になったガラパゴスの島々にまで足を伸ばしているのだから、著者の意気込みが中途半端でないことが伝わってくる。

私がなぜ著者を羨ましく思ったか。私も著者と同じくダーウィンにゆかりの場所を、特にダウン・ハウスを訪ねてみたいとかねがね思っていて、まだその思いを達していない。それなのに、著者がいとも軽々とダウン・ハウスのみか、ダーウィンの地上に於ける全足跡を追ってしまっているからである。

長谷川さんは《ケンブリッジに行く前、私がダーウィン自身について読んでいたものといえば、アラン・ムーアヘッドが書いた『ダーウィンとビーグル号』という、きれいな挿絵がふんだんにはいった伝記と、ギャヴィン・ド・ビアによる『ダーウィンの生涯』のみであった。》述べている。長谷川さんは『ダーウィンとビーグル号』を古本屋から買ったと記しているが、私は出版早々7000円なりで購入している。目にしたのは私の方が先であるのに、なんて益体もないことを思ってしまう。




             裏から見たダウン・ハウス(アラン・ムーアヘッド著『ダーウィンとビーグル号』より)

このなかにダウン・ハウスの挿画が2ページ見開きで収められているが、ここはダーウィンが生涯の殆どを過ごしたところである。ムーアヘッドによると、ダーウィンは毎日午前8時から9時半までと10時半から正午までを研究に当てていたそうである。長谷川本では《午前中の二時間ほどを研究と執筆にあて》となっている。残りの時間が散歩、乗馬、休息、思索、手紙の返事書き、長い読書に費やされていた。研究者にとって理想的な場所のようなところを私がまだ訪れていないのに、行動力のある著者がすでに訪れている、それが羨ましいのである。著書の表紙カバーに写真が何駒かあって、その一つがこのダウン・ハウスである。細かいところに変化はあるものの、明らかに当時の面影を残している。

ダウン・ハウスで書斎をもじっくりと拝見したいと思っていた。ムーアヘッドの本に、この図も出ているのである。なんとも心地よさそうな、どんな知的作業でも出来そうな雰囲気の場所である。


              ダウン・ハウスの新しい書斎(アラン・ムーアヘッド著『ダーウィンとビーグル号』より)

長谷川さんの著書にもダウン・ハウスの書斎の写真が書庫の写真と並べられているが、どうも同じ書斎とは思えない。ところが手元のあるダーウィンの伝記に記載されている書斎の写真とは似ているようである。こちらにはDarwin's old studyと説明されているので、多分長谷川さんは古い方の書斎の写真を撮られたのだろうか。そう言えば長谷川さんも《一階部分は、これらの部屋や新旧二つのダーウィンの書斎など、当時使われていたままの様子を再現してある。》と記している。


                From 「Darwin」 by Adrian Desmond & James Moore

この書庫で長谷川さんは素晴らしい経験をした。著者が書庫の本を眺めていると手に何冊かの古書を抱えた男性がやってきて、本を棚にもどそうとする。少し長いが引用させていただく。

《私があまりにも物欲しそうにみつめていたからだろう。30歳ぐらい、金髪でひげ面のその男性は、持っていた本の一冊を私のほうに差し出し、「嗅いでみる?」と言ったのだ。私は、上の空で「イエス」と言って、差し出された本のページの間を嗅いでみた。古い本に特有の「黄色い」匂いがした。かさかさと乾いて、ちょっと酸っぱいような、脆い匂いである。五秒ぐらいだったろうか?「いい匂いだよね」と言って、彼は本を書庫にもどし、鍵をかけて出て行ってしまった。ダーウィンの蔵書を差し出して、臭いを嗅いでみる?なんて言うのは、本が好きな人間でなければ絶対にしないことだ。そして、私も本が好きな人間であることが、彼にもわかったのだろう。それは、ちょっとないくらい意外で幸せな五秒間であった。》

《私の最初のダウン・ハウス訪問のハイライトは、ダーウィン自身が何度も手にとったにちがいない、あの本の「黄色い」匂いだった。》

ああ、羨ましい!

小谷野敦著「谷崎潤一郎伝」を読んで

2006-08-31 17:18:11 | 読書

久しぶりに睡眠不足をもたらした本を読んだ。著者いうところの『ゴシップ風』「谷崎潤一郎伝」である。

私の読書の楽しみの一つはゴシップに触れること。日本国語大辞典(第一版)には《②(特に有名人の)個人的な事柄についての、興味本位のうわさ話。また、それを記事にしたもの》とあり、だから読む方は気楽にただただ面白がればいいのである。

ところが、ゴシップ=『ゴシップ風』ではないのである。アカデミズムの世界に片足を踏み入れている小谷野敦氏は、週刊誌のライター宜しく『ゴシップ=うわさ話』を書き散らすわけにはいかない。それでは学問的業績にならず、昇進の足場になるどころか足を引っ張られる恐れがある。そこで面白おかしいうわさ話がネタであっても、自分なりに実証していますよとの思いが、「ゴシップ風にみえるだろう」と言わしめているのだろう。

私が何回も読み返した最右翼の小説が「細雪」である。アメリカに滞在しているときだけでも二三回は読み返している。外国の友人になにか面白い小説をと聞かれると、「Makioka Sisters」を紹介するのが常だった。「細雪」は船場の旧家蒔岡家の四人姉妹の生活を次女幸子の夫、貞之助の目を通して描いたものである。ところが私にはこの小説を最初に映画化した「細雪」の印象がとても強くて、長女鶴子といえば花井蘭子、次女幸子は轟夕起子、三女雪子が山根寿子で四女妙子が高峰秀子というように、四人姉妹が女優の顔になって現れるのである。その「細雪」を取り巻いてはゴシップが実に豊富でなかにはスキャンダラスのものもある。この本では小谷野氏も事実との関わりを丹念に解き明かしており、それだけでも私にはこの本は値打ちものであった。

谷崎潤一郎の三人目の妻である松子夫人の生家である森田家がモデルとのことで、森田家には上から朝子、松子、重子、信子の四人姉妹がいた。長女の朝子が森田家を継ぎ婿を迎えたが、下の二人は松子の婚家である根津家に一緒に住んでいたと云う。この四女の信子がなんと松子の夫根津清太郎と駆け落ちする事件があり、これが「細雪」では四女妙子の駆け落ちの下敷きになっているのであろうか。私には初耳であった。

ところが谷崎にしてからも、最初の妻千代の妹で当時十六歳のせい子と出来ていたというから、これが当時の風潮かと思えてくるところが恐ろしい。いや、面白い。

貞之助・幸子一家の住まいのモデルが現存している。住吉川のほとりに移築された倚松庵(いしょうあん)である。私もここを訪れたときにこれがあの「細雪」の舞台かと感慨を覚えた記憶がある。ここに谷崎が、松子夫人やその妹たちと7年間暮らしたのである。小谷野氏も《建物が妙に小ぢんまりしており、谷崎夫妻に子供二人、重子と女中らがいたのではさぞ狭かっただろう》と書いているように、人の気配を極度に気にするあの谷崎が「細雪」と執筆をすすめたと云うから、家族は息を詰めたような生活だったのかもしれない。

それはともかく、この倚松庵の名の起こりがゴシップ好きには嬉しいのである。住吉の松とは関係がないようなのだ。谷崎が二人目の妻丁味子と暮らしているときに、「倚松庵主人」と名のり始めているのである。著者は《「松に倚(よ)る」ということで、あからさまに松子への慕情を示し始めたのだ》とみている。これでは二番目の奥さん、居場所がなくなってしまうではないか、と思うのだが、当時の人の神経は飛び抜け丈夫だったのだろうか。

谷崎潤一郎といえばなにはともあれ佐藤春夫への夫人譲渡事件で有名である。これもこの小谷野氏の本で始めて知ったのであるが、なんともややこしい経緯がある。まず谷崎が千代夫人と別れて松子夫人と結婚したのかと思っていたら、そのあいだに丁味子夫人が2年ほど挟まれていたし、千代に長い間思いを寄せていた筈の佐藤にしても、いったん赤坂の芸者と結婚していたりする。しかしスキャンダラスなゴシップ風事実の極めつけは、千代夫人の不倫・妊娠である。

谷崎が唆したとも言われるが、千代夫人が八歳年下の男性と仲が良くなり、ついには身ごもってしまったのである。中絶させられたらしいが、その事実を谷崎はもちろん佐藤も知っていて後年の譲渡事件に繋がるというのであるから、ただただ戦前の人間のスケールの大きさに圧倒されるだけである。

それにしても、関係者が沢山いるだろうから、たとえ死後でも隠しておきたいこと(凡人からみて)まで、後世の人につまびらかにされる『有名人』の宿命て一体何だろうとちょっと考え込んでしまった。

その反動でもないが、私が著者に喝采をおくってもいいかな、と思ったのは、『松子神話』に対する挑戦である。私は不案内であるが、谷崎の一連の名作群が、理想の女性たる松子との出会いによって生まれたとの『神話』が流布したいたそうである。著者は《死後、谷崎から松子に宛てた、下僕として使ってください式の手紙を松子が公表して、神話化が始まった》と述べている。そして《松子への、今や有名な恋文群も、「佐助ごっこ」と言われているとおり、実社会においてもはや谷崎の地位に揺るぎがなく、谷崎から放り出されたら松子は二人の子供を抱えて路頭に迷うほかないこと、即ち自分の側の絶対的優位を信じるところから来た遊びであることは明らかだ》と断じている。

私もこの打倒『松子神話』には素直に同調できる。あのような手紙をとくとくと公開するとは、なんてデリカシーの欠けた女性だろう、とかねて思っていたからだ。

以上紹介したことは『ゴシップ風』物語のほんの断片に過ぎない。なかには個人的に楽しい発見もあった。昭和21年の5月のこと、20日に上京区寺町通り今出川上ル五丁目鶴山町三番地の中塚せい方に(谷崎が)間借りした、との記事にアレッと思ったのである。私が京都に住んでいたところが上京区寺町通り今出川上ル二丁目鶴山町一の十二、同志社女子大寮あとのマンションであったからだ。地図で見ると100メートルも離れていないところである。妙な偶然が嬉しかった。

谷崎という人物、もしくはその作品に傾倒する人にはゴシップ風挿話の宝庫、ぜひ一読をおすすめする。

【蛇足】94ページ、左から8行目: 精二は「わざわざ有難うございました」とを述べたという。
の誤植?


子育てに悩めるお母さんにお勧め 藤原てい著「流れる星は生きている」

2006-07-19 19:18:22 | 読書

著者の藤原ていさんは、「国家の品格」などの警世の書で、今、時めいている藤原正彦氏のお母さんである。私も北朝鮮からの引き揚げ者なので、引き揚げに関する書物には深い関心があり、もちろんこの本も出版間もない頃に読んでいると思う。先日立ち寄った三宮のジュンク堂に藤原正彦氏のコーナーがあり、そこで目にとまったこの文庫本をもう一度読みたくなって買った。1976年2月10日初版発行、2006年6月5日改版9刷発行と奥付にある。

昭和20年8月10日の早朝、満州国新京の観象台の官舎をていさんは三人の子供を連れて後にした。上から数え年で六歳、三歳、そして一ヶ月である。最初の連絡があって3時間の余裕しかなかった。これが昭和21年9月12日に博多港に上陸するまでの、一年あまりになる『引揚げ行』の始まりである。

藤原ていさんの連れ合いは作家の新田次郎氏、でもそのころは観象台の勤務で、公の仕事に携わっているいたことなどが妨げとなって、かなり長い間、家族から離ればなれになっていた。だからていさん一人が三人の幼い子供の面倒を見なければならなかった。そして数多の紆余曲折を経ながら過酷な状況をくぐり抜けて、三人の子供を無事日本に連れて帰ったという、まことに奇蹟の物語である。

この本を再読して、何百万人もの引揚げ者がいるなかで、このような記録を残した藤原ていさんは希有の存在なんだと改めて思った。私の両親は引き揚げにまつわる話はほとんどしなかった。私が聞いた覚えがあるのは、鉄原から京城に逃げ帰ったときにアメリカ軍の戦車に乗せて貰ったこと(私にはこの記憶はぜんぜんない)と釜山の埠頭でDDTを吹っ掛けられたことぐらいである。

文庫本の「あとがき」で《いつの間にか、私共夫婦の間には「引揚げの話」は、禁句になってしまった。》と書かれているので、「引揚げの話」を封印してしまった引揚げ者が多いことは容易に考えられる。話をするだけでもそうであるのに、それを本にまとめたのだから、ていさんにはよほど強固な動機があったのだろう。

著者はこのように述べている。

《引揚げてきてから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立ったとき、また、苦しみのどん底に落ちたとき、お前たちのお母さんは、そのような苦難の中を、歯をくいしばって生き抜いたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた。
 しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。》

「国家の品格」もいいけれど(実は私はそれなりの理由があって読んでいないが)、その著者正彦氏を生み育んだ母親ていさんの土性骨を、子育て真っ盛りの悩み多き若いお母さん方にぜひこの本から学び取ってい頂けたらと思う。

ここで因縁話を一つすると、私の弟が正彦氏と同じ昭和18年生まれで、私は弟を背負って引揚げて来たのである。その頃は『母』のみならず『少年』も強かったと思う。正彦氏につい『弟』を感じてしまい「負うた子に教えられる」にはまだ早いとばかりに、「国家の品格」も遠ざけているのかもしれない。

米窪明美著「明治天皇の一日」を読んで

2006-06-23 17:30:58 | 読書

天皇の一日の生活を起床から就寝まで描くとは実によい着想だと思った。もちろん『週刊誌』にありがちの覗き趣味ではない。

著者は《明治宮廷の一日を事細かに再構成するために、本文中では明治天皇に直接仕えた人びとの回想録や手記から沢山引用》しているが、その核となっているのが『臨時帝室編修局史料「明治天皇紀」談話記録集成』である。堀口修監修・編集・解説でゆまに書房からこの本が刊行されたのは2003年だからごく最近のことである。全九巻で144,000円。専門家にとっても出費を強いられる大冊であるが、その『いいところ』を一般読者にさっそく紹介していただけるとは有難いことである。

平安の御代もかくやとばかりに雅な世界が広がる。ちぐはぐなのは明治天皇の『奥』での和服に『表』での軍服、それに女官の洋装ぐらいだろうか。

《宮廷の願は、現在が過去と同様に素晴らしいものであり続けることである。だからこそ、過去の理想世界を作り上げた制度は変えてはならない。身分は固定され、先祖と同じ役職につき、過去をなぞりながら生活することが求められる。効率性や合理性は、変化を求めない生活にはまったく必要ない。「改革」は、むしろ連綿と続く生活をゆるがしかねない危険なものですらあるのだ。》と述べる著者の眼力は確かである。

この本に紹介されている数々の挿話を読むと、著者の言っていることが素直に納得できるのだ。そして大正、昭和を経て平成の時代となった今、『宮廷人の常識』が守り伝えてきた日本の世界に誇れる『無形文化遺産』の根幹が『平民の理屈』の前に崩れいった喪失感は大きい。守らなければならないものがまだ残っているのだろうか。

さる火曜日(6月20日)の朝、新聞広告でこの本のことを知り、用事で出かけた京都四条の本屋で買い求めようとしたところ、同時に出版された新潮新書はかなり山積みされているのに、この本だけが見あたらない。店員に確かめたら入荷したけれど売り切れてしまったとのことであった。三宮に帰ってきて最寄りの書店に寄ってみるとちゃんとある。京都人の天皇に対する特別の思いを私は感じたが、これは思い過ごしだろうか。

海野弘著「海野弘 本を旅する」を買った理由

2006-06-05 18:48:26 | 読書

神戸元町風月堂の地下二階のホールで午後二時半からコンサートが始まる。少し早めに着いたので元町通りを少しくだり海文堂に入った。この書店は私が学生時代からよく立ち寄るところである。もう半世紀以上になろうか、神戸の目抜きにある書店で生き残っている唯一の書店であると思う。その間経営者が変わったと聞くが、営業方針などがそのまま引き継がれているせいであろうか、本の品揃えにも細かい心配りが感じられる。

海野弘著「海野弘 本を旅する」がカウンター横の台に山積みされている。掲示が出ていて著者のサイン会が午後二時(六月四日)からとある。もう時間だと思って横手を見るとテーブルの後ろに著者がお座りになっている。本屋を訪れるのは私の生き甲斐の一つのようなもの、だから海野弘という名前は記憶にあるが、彼の著書をいまだに買ったことはない。

本を手に取ってみた。第一部は「百冊の本の再訪」ということで、著者がかって出会い、影響を受けた本について語っているとのことである。そして百冊の本のカラー写真が四ページにわたって掲載されている。この写真を見て「さもありなん」と思った。どれ一冊も読んだことのない本なのである。それぐらい好みが離れている、だからこの著者の本を私は一冊も読んでいないのだ。

この本の見開きに著者の写真が一ページ大に出ている。まずこれが気に入った。帽子をかぶっているのだが、まさに私が当日もかぶっていた帽子にとてもよく似ている。それに私より五歳はお若いのだが、写真を拝見する限り私よりも五歳は年長に見える。それだけでなんだか嬉しくなった。

百冊の本を最初から少し挙げると、エウヘーニオ・ドールス「バロック論」、ウラジミル・ウエイドレ「芸術の運命」、ジャン・カスー「近代芸術の状況」・・・・と続き、ようやく七冊目に日本人が顔をだす。瀧口修造「近代芸術」である。このような本のどこが面白くてこの著者は読んだのだろう、と急に好奇心が湧いてきて、一冊でも面白い本に出会えば儲けものとこの本を求め、サインをしていただいた。挨拶を交わす、一期一会であった。


半藤一利著「昭和史 戦後篇」雑感

2006-05-28 14:05:23 | 読書

昭和の戦後史だけで約560ページを費やしている大著であるが、読みやすい。「あとがき」によると、毎回1時間半の『講義』を文章にまとめたものとのこと、読みやすい理由が分かった。全15章にまとめの章をベッドで横になりながら一週間ぐらいで読み上げた。それくらい気軽に読めた、と云ったつもりであるが、中味は実に濃厚、その上自分の実体験と重ね合わせられる場面が多々あって、著者の姿勢に共感することが多かった。

どのような共感があるのか。先日私が高校生にぜひ読んで欲しい高見順著「敗戦日記」で引用したまったく同じ箇所を、著者も引用しているのである。東条元首相の自殺未遂のニュースに接しての感想、新聞の敗戦を境に急変した姿勢への批判、そして読売新聞が提案する「ローマ字採用論」の引用などである。ご用とお急ぎのない方は私の引用した原文をご覧あれ。九月二十日、八月十九日、十一月十四日の分である。

とにかく私自身が生きてきた時代のことである。読むにつれ、あの時あのことなどが甦ってきたりした。その一つが第二次岸信介内閣の時に推し進められた「安全保障条約改定」に対する反対運動である。

私は大学院生だったが、とにかく反対ということで、連日の如く集会やデモに参加した。なんせ教授連が先頭にたってデモ行進するものだから天下御免の勢いである。その反対運動が盛り上がっている最中に、どうしてそうなったのか記憶にないが、確か読売新聞主催の安保問題に関する座談会に出席するようにお声がかかったのである。その座談会の内容が全面ぐらいの大きな紙面に報じられたと思う。ふとそんなことを思い出して、一度図書館で古い新聞を調べてみようという気になったりするのである。

《各地から多くの人びとが上京してきて、五月から六月にかけて毎日数万の請願デモが国会に押し寄せました。そしてそのクライマックスは六月十五日夜でした。デモ隊が議事堂のモンを突き破って中に突入したことから、警官隊がデモ隊に襲いかかり、それこそ数万人同士の大乱闘になりました。それで午後七時頃、東京大学文学部の学生だった樺(かんば)美智子さんが、南門でしたか、大混乱のなか転んで踏みつけられて死亡したのです。(中略)後の東京消防庁の発表では、重傷四十三人を含む五百八十九人が負傷したということですが、もっと多かったのではないでしょうか。》(440ページ)

昭和も遠くになりにけり、である。

半藤一利氏は雑誌社勤務のジャーナリストであった。その立場からであろうか、《暴力のもとにジャーナリズムは必ずしも強くないのです。戦前、軍の暴力のもとにジャーナリズムがまったく弱かったのと同様で、それは残念ながら、しっかりと認識しておかなくてはいけません。表現の自由を断固たる態度で守らねばならないというのはその通りですが、断固たる態度を必ずしもとれないところがジャーナリズムにはある、それは反省と言いますか、情けない暗いの私の現実認識でもあるのです。》と述べている。

この言葉は重い。そして己を知る謙虚な姿勢に裏打ちされたこの著書は、多くの人の共感を呼び寄せることと思う。