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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「若い研究者にチャンスを与えよ」は「正論」ではあるが・・・

2010-04-05 13:00:44 | 学問・教育・研究
iPhone 3GSで産経新聞をただ読みは今も続いている。この新聞、反民主党政権色がかなり強いような気がしたが、その印象は間違っていなかったようである。では自民党を支持するのか、といえばそのような感じもしない。しかし今週、平沼赳夫氏と与謝野馨氏が新党を立ち上げることになり、その応援団を自認する石原慎太郎都知事の「日本よ 日本は、立ち上がれるか」という記事を今日の朝刊第一面から二面にわたって掲載するぐらいだから、平沼・与謝野新党支持を打ち出すのかもしれない。海のものとも山のものとも分からないこの新党を、政権の座にまで引っ張り上げるチャンスが肩入れ次第ではあり得ると産経が踏ん切ったら面白いな、と思ったりする。

石原氏の記事と同じく私の注目したのが「正論」として掲載された国際日本文化研究センター所長・猪木武徳氏の「若い研究者にチャンスを与えよ」という主張である。一部(というよりほとんどか)を抜粋する。

 しかし時は経つものだ。最近は、自分がそうした集まりで、一番の年寄りになっているのに驚くことが多い。と同時に、自分は若い人の成長の機会を奪って邪魔をしているだけではないかと自省することがある。若い人達が、実地経験のチャンスを与えられず、力を発揮できないケースが、日本で目に付くようになったからだ。

 例えばオリンピックでも、「何回目の出場」が強調されると、本当に褒められるべきなのか複雑な気分になる。決められた出場枠では、若い人が本番を経験する機会が奪われることになるからだ。

 この点、学術の世界では米国と日本は対照的だ。例えば研究助成金の配分について、アメリカ国立科学財団(NSF)のグラント(補助金)と日本の文科省科学研究費助成金を比べると、その力点の違いがわかる。

 NSFのグラントは、科学、工学、社会科学をカバーする、年間60億ドル(約6千億円)という膨大な額の研究費である(医学系統は別枠)。額の大きさもたいしたものだが、その配分方法に、若手研究者を育てようという強い意識が読み取れる。

 博士号を取得した若手研究者は、米国では多くの場合、主任研究員(PI)のグラントで助成される。一人前の独立した研究者として、かなり大きな研究プロジェクトの助成対象者となるのである。ボス教授の研究テーマの研究費を一部「頂戴(ちょうだい)する」というような形は主流ではない。(中略)

 若手を何とか経済的に、そして人格面でも独立させようというスタイルが、米国では「大学院教育への意欲」ともうまく結びついている。将来性のある学生を見つけ出し、自分の(研究テーマではなく)研究分野に引き込み、力を発揮させると、自分の研究テーマの質自体も高まるということを先生は知っているのだ。

 米国方式が、優れた独立心の強い若手研究者を生みだし、科学研究を促進させる力があることは疑い得ない。米国の優れた若い研究者は自分の責任のもとでの、成功と失敗のチャンスを与えられているのである。

 日本の偉い学者のなかには、自分の方法がベストだと過信し、若い人にそれを「押し付け」ようとするケースが目立つといわれる。行き過ぎた「徒弟制度」は学問の進歩を阻害する。すべての学問知が、その時、その時代、という相対性を持っている以上、若い研究者に自分の研究テーマや方法を「押し付け」てはならない。

 既存の知識の教育は徒弟制度で体系的に行える部分が多い。しかし新たな概念や思考を生み出すための教育、人間や社会の問題を解決しようとする力を養う教育は、年長者が「押し付ける」ことでは成功しない。(中略)

 科学の世界では、年長者の下で既存知識の「系」をほじくるだけでは革新は起こらない。人間を対象とする学問や社会を改良するための学問にも、結論だけを「押し付け」ることなく、人間の批判精神を高め、解決を求める意欲と粘り強さを養うことが重要なのだ。

 一部の日本の教育現場にまだ残存する政治イデオロギー、既存の知識の詰め込み、年長者支配といった旧体制を少しでも和らげることこそ、若者に機会を与え、その力を引き出すために必要な第一歩なのだ。(強調は私)

理科系の私がまったくその通り、と共感する主張が、文科系の方からも出されているのが新鮮に感じる。ただ編集部のつけたタイトルかもしれないが、「若い研究者にチャンスを与えよ」という年長者的物言いが引っかかる。自戒をこめて年長者仲間に呼びかけているのだろうか。しかし本当に必要なのは、ここで説かれた全てを若い研究者自らが勝ち取ろうという意欲とそれを行動に移すことなのである。



科学者も人の子

2009-12-19 10:15:07 | 学問・教育・研究
まだ若かった頃、アムステルダム大学を訪れたときに向こうの研究者の家に招待されて、奥さん手作りの料理をご馳走になったことがある。すでに知り合いの間柄でもあり、奥さん共々楽しい歓談のひとときを過ごした。そういうことがあったものだから、その後またなにかでk彼と一緒になった折りに、いつもの感覚で奥さんにどうぞよろしくと声をかけたところ、いや、彼女とは離婚したのでと返されて、戸惑ったことがあった。アラブ人なら、奥さんによろしくと言ったばっかりに、その仲を疑われて殺されたなんて話があるぐらいだから用心しただろうが、そこまでは気が回らなかった。もっともそれ以来、そんな挨拶は口にしないことにした。その後も何人かにご本人(といっても外国でのこと)の口から別れたとという聞かされることとなったが、私もあまり気にすることもなくなった。しばらくすると必ずなにか艶っぽい話が伝わってくるからである。

そう思ってみると、会議を離れての雑談では外国人研究者も結構そのような話が好きだとみえていろんなゴシップが出てくる。話題の一つは彼の連れてくる彼女がまた替わったというような他愛もないものから、どんな修羅場があったとか、本当かうそか分からないような話まで飛び交う。しかし一方では現実的な話も出てくる。あそこのポスドクがこぼしていたけれど、ボス(一応は独身)が身の回りの世話をどうも研究室の女の子にさせているようで、ある日ボスの家に電話したら彼女が出てきたから分かって、それ以来あれやこれや研究室で喋りにくい雰囲気になってしまった、などの類である。

元気な話も出てくる。あるノーベル賞級学者は今度は若い日本人女性と一緒になるために、灯籠のある日本庭園や畳敷きの部屋まで作ったとか。日本流に言えばとっくに後期高齢者に入る方なのである。さらにこのような話は訳知り顔の女性科学者が加わるとますますエスカレートしてかつリアリティが増してくる。正真正銘のノーベル賞学者で、その成果が分子生物学教科書の必須項目になっているような大御所が、いかに老いてますますご発展なさったか、なんせその研究室にいた友人からの直情報である、と語られたりするのである。科学者も人の子のあかしとも言えよう。

なぜこのような話をはじめたのか。実はビッグ・ニュースが飛び込んできたからである。私の大学時代からの友人が42才年下の日本人女性と結婚したというのである。電話だけでは騙されているかも知れないので詳しく知らせといったら婚礼の記念写真を送ってきた。どう見ても友人は花嫁の父のような風情であるが、その相手は私も知っている彼の娘さんではないので話を信じることにした。離婚歴のある彼であるが、このたび新に人生の伴侶を得てまだまだ研究活動への意欲をたぎらせているようである。これまで欧米人の研究者仲間のみが幅をきかせていたこの分野?で、世界に誇りうる年齢差結婚の記録を打ち立てた快挙にひたすら驚嘆した。勇気ある二人にただただ幸多かれと祈る。

ちなみに、彼は学究生活のほとんどをアメリカで送っており、現在もグラントを二つ三つかかえて現役の研究生活を送っている。最近わが国では若手研究者、とくにポスドクの行く手に暗雲が立ちこめているようであるが、世界は広い。狭くしているのは心の垣根であると考えをあらため、大いに世界に羽ばたいてはいかがであろう。チャレンジングな世界が広がっているではないか。


日本分子生物学会にもの申すで思い出した岡崎フラグメントのこと

2009-12-08 23:15:23 | 学問・教育・研究
日本分子生物学会が「事業仕分けから日本の未来の科学を考える」とのタイトルで研究者からのアンケートをまとめた文書を154ページのPDFファイルで公開した。現役の方々の反応を知りたくて目を通そうとしたところ、『掲載されているすべての文章の転載を禁じます』との厳めしい断り書きにが引っかかってしまった。そこでちょっと意見を述べたが、分子生物ということである挿話を思い出したので書き留めておこうと思う。

私が大学院生か無給ポスドクの頃であるが、ある日恩師のOK先生が珍しくDNAの話をされた。昼食をわれわれが一緒に摂っていた時のことだったと思うが、名古屋大学の岡崎令治さんが発見された岡崎フラグメントのことだった。二本鎖DNAが複製される際に、二本鎖がほどける方向に一方のDNAを鋳型にして連続的に合成されていくDNAと、もう一方のDNAを鋳型にしながらも、ほどける方向とは反対に合成されるDNAがある。この場合は二本鎖DNAがある程度ほどけたらその分、合成がすすむ。その間さらにほどけるからまたその分だけ合成が進む。すなわちもう一方は最初から連続したDNA複製が進むのではなく、ある大きさのDNA断片が複製されていき、それが順序よくつなぎ合わされて1本の複製DNAが出来ることになる。このように二本鎖DNAの複製に際して親のDNA鎖をそれぞれ鋳型にしながら、連続的に合成されるDNA鎖と不連続的に合成されるDNA鎖があることになる。この不連続複製機構を明らかにしたのが岡崎令治博士でこの業績で博士の名前が全世界に轟きわたったのである。この一時的に生じるDNAの断片が岡崎フラグメントと呼ばれることになり、分子生物学・生化学の教科書には必ず載っている。それほど素晴らしい発見であった。その一例を挙げる(Lehninger Principle of Biochemistry Third Editionより)。


私の所属していた研究室はもっぱら蛋白質をいじくっていたので核酸にはうとかったが、それでも岡崎博士の業績の素晴らしさは口コミで私たちにも伝わっていた。しかし恩師のOK先生が力をこめて話されたのは岡崎博士の研究姿勢だったのである。岡崎フラグメントの重要性を証明するためには大量の岡崎フラグメントを精製して実験を重ねないといけない。一般に実験試料が大量にいる場合にはまず小規模な実験で最適条件を見つけ、つぎに大量調製に移すのが普通である。しかし小規模実験での最適条件が大規模調製にそのまま当てはまるかと言えばそうではない。小規模実験での最適条件を参考にしつつも、さらに条件を検討して大量調製の最適条件を見つけなければならない。それには時間もかかるし実験材料の無駄も馬鹿にならない。「岡崎さんはどうしたと思う? 試験管実験で良い条件を見つけたらそれと同じ条件で実験を何回も何回も繰り返して欲しい試料を集めたということだ」と先生は言われたのである。何回も繰り返す、と口で言うのは簡単である。しかし現実に試験管の数を増やし回数を重ねるのは多大の肉体的労働を要求する。実験にのめり込むと教員としての本職である講義をすることすら時間が惜しく感じられるだろうし、ましてや研究室を空けて講演とか会議に出かけるような遊山気分とはまったく無縁の道を岡崎博士は歩まれたことだろう。この実験科学者根性にOK先生はいたく感動され、それをわれわれに教え諭してくださったのであった。

私は岡崎令治博士とは一面識もない。しかし直ぐ上の先輩が岡崎博士と同じ研究室に一時身を寄せたことがあり、研究姿勢の厳しさを聞かされたことがあった。ここで紹介した話も私なりの受け取り方で、事実を必ずしも正しく伝えていないかも知れない。それを一番よく御存知なのは共同研究者の岡崎恒子名古屋大学名誉教授でいらっしゃるので、ひょっとするとその辺りのことをどこかで述べておられるのかも知れない。私としても思い違いがあれば正したいと思う。

ではなぜ岡崎令治博士が肉体労働を苦にすることなく結果を出すことを急がれたのか。これはよく知られたことであったが、博士は広島で中学2年生の時、原子爆弾を被爆されそれが原因で慢性骨髄性白血病を患っておられた。一番乗りを目指すのではなく自らの天寿との戦いを意識されたのではなかろうか。岡崎フラグメントの発見後、10年を経ずして亡くなられた。

そういえば今日、12月8日は日米開戦の日、いろんな思いが走馬燈の如く駆け巡る。

追記(12月9日)
岡崎恒子博士は回想記、「岡崎フラグメントと私」を出しておられた。それによると岡崎令治博士が白血病を発病されたのは1972年なので、岡崎フラグメントは発病前のお仕事だったことになる。


日本分子生物学会のおかしな断り書きの真意は?

2009-12-08 18:05:54 | 学問・教育・研究
日本分子生物学会が科学技術予算に関する緊急フォーラム「事業仕分けから日本の未来の科学を考える」―全アンケート記録―を公開した。ところがまず最初に『掲載されているすべての文章の転載を禁じます』の断り書きがあるのに違和感を覚えた。真意が掴みにくいのである。一見この文章全体を誰かがそのまま自分のブログに転載するようなことは禁止すると言っているようにも見える。私も自分のブログ記事が丸ごと第三者のブログに転載されたことがあって抗議をした覚えもあるので、そうかなとも思う。ところが見方を変えると、たとえ一部といえどもこの文章の引用・転載を禁じます、と言っているようにも受け取られる。真意はどうなんだろう。もし後者なら掲載意見を引用して自分の意見を論じることができない。これでは言論封じである。やや異様とも思われるこの断り書きがどのような意図でなされたものか、納得のいく説明を日本分子生物学会から頂きたいものである。著作権の所有を宣言するのは大いによし、しかし、断り書きは(敢えて必要とするのなら)『転載は常識の範囲内にお願いします』にとどめるべきではなかろうか。

文章の転載を禁じている一方で、この報告書は149ページから152ページにわたって、櫻井よしこ氏の週刊誌記事、古森義久氏の新聞記事をながながと(引用と言うよりは)転載している。矛盾も甚だしい。

国民的議論をかき立てるべき重要な問題なのに、これでは自由にものが言えない。関係者の善処を期待する。

「科学者は謙虚、かつ毅然たれ」の余波

2009-12-06 11:26:26 | 学問・教育・研究
12月3日に投稿した科学者は謙虚、かつ毅然たれに思いがけなく多数の方のアクセスを頂いた。どのように受け取っていただいたのか私にも判断がつきかねるが、Googleで「科学者は謙虚、かつ毅然たれ」を検索した結果を一瞥すると、目立ったのが「評判良かった岡野先生たちの声明を批判してる」とのコメントであった。評判良かった声明というのは『慶應義塾大学グローバルCOEプログラム2拠点、「幹細胞医学のための教育研究拠点」拠点リーダー岡野栄之と、「In vivo ヒト代謝システム生物学拠点」拠点リーダー末松誠からの共同声明』のことである。

この声明が世間でどのように評判が良かったのか私は迂闊にも知らなかったが、私自身『現在進行中のプロジェクトを支える予算が削減されれば大打撃なので、プロジェクトリーダーがこのように反応するのは当然のことであろう。素早い反応はプロジェクトリーダーの真摯な責任感のあらわれとして評価するのに吝かではない』と一定の評価をした上で批判的な感想を述べたのである。それが若手研究者を始めとする一部の現役科学者の反発を呼び起こした可能性はありうると思う。その上、科学者のモチベーションとして知識欲を強調したものだから、『霞を食って生きていけるのか』との反発を引き起こした面もある。私はまず理念の面を述べ、その上に立って考えられる現実的な動きを述べるつもりであったので、それを昨日の「グローバルCOEプログラム」予算が削られても若手研究者の雇用を維持すべきだで記した。声明が若手研究者の役割・処遇をここまで強調する以上、かりに予算が削減されてもそれは人件費以外の削減で対処し、若手研究者の首切りを一切しないだろうと声明の「有言実行」を期待する一方で、それを確実なものとすべく若手研究者を鼓舞し奮起を促したのである。

ところが今朝、嬉しいことに私のこれまでのブログ記事を丹念に拾い、私の一貫した考えの要点を的確に理解してくださっている方の存在を知った。若い学者さんたちのチャンスなのにねえである。私が日頃から主張している研究費の分け方についても私の記事をまず紹介してくださっている。

一言で云えば「グローバルCOEプログラム」は高度な研究能力を有する人材育成には迂遠なものである。と云うより、『人材育成』が大砲巨艦の建造、陣地の構築の口実になっているようにも見える。これを本末転倒という。

高度な研究能力を有する人材育成を本気で目指すのなら、またそうであるべきだが、若い能力のある研究者に思う存分自分の発想で研究をさせる、それが最も望まれることである。若手研究者とはポストドクと30歳代前半の助教クラスを主体に、特例として博士課程の大学院生とするのが妥当であろう。彼ら自身が研究リーダーになるのである。「ポストドク募集」に群がるようなシステムではない。自ら研究費と生活費を獲得するのである。

その上で

ようは、中抜きしてる連中もボスの教授も全部すっ飛ばして、若手に金をまけと言ってるんで、実現可能性はともかく、話としてはずっと分かりやすいし、一般にも納得をさせやすい話だと思う。

と要領よくまとめてくださっている。ここまで丹念に読み取っていただけるとはまさにブロガー冥利に尽きるもの、と紹介させていただく。

若手研究者の奮起を心から期待する。


「グローバルCOEプログラム」予算が削られても若手研究者の雇用を維持すべきだ

2009-12-05 10:04:12 | 学問・教育・研究
私はもともとから「グローバルCOEプログラム」には批判的で、不要だと思っている。しかし現実には全国140ヵ所にCOE拠点が出来上がってそこでは多数の若手研究者(大学院生、ポストどくなど)が雇用されている。

前回取り上げた『慶應義塾大学グローバルCOEプログラム2拠点、「幹細胞医学のための教育研究拠点」拠点リーダー岡野栄之と、「In vivo ヒト代謝システム生物学拠点」拠点リーダー末松誠からの共同声明』も見方によると、若手研究者を人質にして予算復活を要求しているようなものである。すなわち、グローバルCOEプログラム予算が削減されると彼らが切り捨てられるからこれは大ごとだという論法である。その後で出された全140のグローバルCOE拠点リーダーによる行政刷新会議「事業仕分け」第3WG によるグローバル COE プログラム評価に対する声明でも同じようなことが強調されている。少し長くなるが引用する。

【グローバルCOEとポスドクの重要性】 大学における研究活動は、大学院生と博士研究員(ポスドク)が中心的な担い手となっています。世界最先端の分野で現在活躍する研究者や大学教員の多くも、ポスドクを経験することで鍛えられ、広い視野で研究を進める力を磨いてきたのです。こうした仕組みは、最先端の研究を担う世界中の大学や研究機関では当然のこととされています。国際的な標準では、博士課程の学生は研究資金によりリサーチ・アシスタント(RA)として雇用され、その給与で生活が可能です。これに対して我が国では、大学予算や科学研究費補助金のうち、「ポスドクやRAを採用」するための予算は微々たる現状が続いています。こうした現状を打開するために、世界を相手に最先端研究で競っている研究組織の中からグローバルCOE拠点が選考され、国際的な最先端研究の舞台で活躍できる研究者を輩出することを目標に、「大学院生やポスドクを含む若手研究者の育成事業と最先端研究を行う現場とが有機的に連携」して、人材育成と教育研究活動を推進しています。

グローバルCOE拠点などは要らないが、若手研究者を育てる重要性には私もまったく同感である。そしてこのようにも言っている。

日本の将来を担うことになる大学院学生への支援に非常に大きな役割を果たしています。大学院学生への経済的な支援は、他の先進国では当然のこととされています。世界的に競争の厳しい科学技術分野では、一度遅れを取ったら、もう取り返しがつかないことになります。(中略)経済状況が厳しい今こそ、国家として将来を担う人材への投資を怠ることがあってはならないと考えます。

「一度遅れを取ったら、もう取り返しがつかないことになります」とは私は思わないが、人材育成への姿勢にはまったく同感である。

となると、たとえ予算が削減されたとしても、全グローバルCOE拠点リーダーのとるべき道はただ一つ、研究直接費経費・旅費・会議費をはじめとするもろもろの雑費は削減しても、若手研究者の雇用は継続すべきなのである。予算削減で人減らしを行うのは営利事業ではままあることだが、人材育成が根幹でもあるこのようなプログラムでは予算削減を若手研究者の解雇で決するべきではない。

一方、若手研究者も今こそ力をあわせてたとえ予算削減があろうとも、若手研究者を雇用する当初プランを継続させてぜったいに自分たちを解雇することがないように拠点リーダーなどに要求すべきである。万が一にも、あれこれ言を弄して逃げるような拠点リーダーがいるとは私は思いたくない。研究者を雇用・被雇用の立場に分けることに私はもともと反対である。若手研究者が自ら日本学術振興会に直接科学研究費を申請し、それを持って指導を仰ぎたいと思うシニア研究者の研究室に入れてもらうとか、また若手同士共同研究をするのが本来のあるべき姿だと思っているからである。だからこそグローバルCOEにも反対なのであるが、現実にグローバルCOEが出来上がったのだから、予算削減に雇用・被雇用の関係が大きくクローズアップされてくるのである。

若手研究者が自らの活路を切り開く第一歩が、実は拠点リーダーへの雇用維持の要求であること若手自身が認識し行動しなければならない。いたずらに草を食んでいるときではない。乳母日傘は鳩山由紀夫首相だけで十分である。




科学者は謙虚、かつ毅然たれ

2009-12-03 21:38:24 | 学問・教育・研究
「事業仕分け」このかた、科学者の「物申す」が世間の目に触れるようになった。『慶應義塾大学グローバルCOEプログラム2拠点、「幹細胞医学のための教育研究拠点」拠点リーダー岡野栄之と、「In vivo ヒト代謝システム生物学拠点」拠点リーダー末松誠からの共同声明』もその一つで、私が以前から不要と断じている『グローバルCOEプログラム』(G-COE)の予算削減に対しての見解表明である。現在進行中のプロジェクトを支える予算が削減されれば大打撃なので、プロジェクトリーダーがこのように反応するのは当然のことであろう。素早い反応はプロジェクトリーダーの真摯な責任感のあらわれとして評価するのに吝かではないが、誰に何を言おうとしているのか、もう一つピンと来ない。どのような文脈で述べられているかは原文で確認していただくとして、まず使われている文言を一通り取り上げて、強調部分について私の感想を述べてみる。

今回の事業仕分け作業が、研究者コミュニティにおいては基礎科学を切り捨て、日本において純粋科学研究はもはや必要とされない、というメッセージと受け取られ、深い失望を生んでいます。私たちは、こうした現状に深い憂慮を抱いています。科学研究に必要な原動力は、その研究資金であるのはもちろんのこと、現場における研究者のモチベーションであるからです。(強調は私、以下同じ)

これではまるで頭空っぽの女の子がコケットリーだけを武器に拗ねているようなもので、まともに応えようがない。毅然として欲しい。

今回の一連の仕分け作業において、若手研究者に対する研究費支援もその対象となり、削減という結論が示されました。とりわけ、G-COEに関する予算も大幅に削減するという厳しい見解が示されています。G-COEは優秀な大学院生に最先端の研究機会を与え、近い将来に教育を施す重要な役割を担っています。現に、G-COE施行後の若手研究者世界的な論文誌への掲載率は向上しているにもかかわらず、この結論です。こうした行為自体が若手研究者のモチベーションを低下させていることを強調しなければなりません。

金があるから湧き、金がなくなると萎れるようなモチベーションは科学研究にそぐわない。

若者を冷遇し切り捨てていくことは、わが国の科学的伝統を放棄することにほかならないのです。
また勝手に拡大解釈して見当はずれなイチャモンをつけている。

現在日本の国家予算が逼迫していることは事実です。ただ、日本と同様に潤沢でない予算で国家を運営せざるを得ないインドと比較した場合、わが国の若手支援が手薄になっていることは明らかです。

それがどうした?よその国はよその国、日本は日本。

『真理はわれらを自由にする』という言葉があります。基礎科学は、単純な利益だけではなく、人の来し方を明らかにしたり、宇宙の法則性を示すなどの成果によって、人間を『超自然的』な存在への隷属から開放し、王権神授説のような蒙昧のくびきから解き放つことで、人は本質的に平等であることを示してきました。言い換えれば、科学は人類にとっての夢でもあり、希望でもあったのです。

難しすぎる。これでは尊大と受け取られかねない。また科学は人類にとって・・・、とは脳天気すぎる。

つい隠居の目線で突っ込みを入れてしまったが、それはともかく、声明のここまでの要点は二つある。一つはG-COEの予算削減が若手研究者、具体的には優秀な大学院生の研究に対するモチベーションを低下させることになる、と強調し、もう一つは基礎科学が人類にとての夢でもあり希望でもあった、と「王権神授説」という言葉が示唆する時代で科学の果たした成果を説いている。

まず大事なことは科学を国民に理解して貰うことである。「王権神授説」は唐突すぎるので深入りしないが、そもそも(基礎)科学を世間の人はどう理解しているのだろうか。新明解国語辞典(第五版)には『一定の対象を独自の目的・方法で体系的に研究する学問。雑然たる知識の集成ではなく、同じ条件を満足する幾つかの例から帰納した普遍妥当な知識の積み重ねから成る』とけっこう難しい言葉で説明している。科学者は『専門に(自然)科学を研究する人』と説明されており、間違いではないがもう少し噛み砕くと、科学者は研究により自然についての新しい知識を付け加えていく人といえそうである。新しい知識を得る喜びが知的興奮をかき立て、科学者を研究に駆り立てるのである。

これが少なくとも私を科学研究に駆り立てるモチベーションであった。科学研究は心の底から沸々と湧き上がってくる知識への欲求を満たすもので、きわめて個人的な動機が原動力となっている。いわば我欲を満たすようなもので、それを露わにすることには気恥ずかしさもあって研究しているとは吹聴するようなことではなかった。また私たちの世代は科学研究の有用性を声高に触れ回る風潮は皆無に近く、それよりは科学の成果が社会に悪用される事への恐れを強烈に意識していた。核爆弾を産んだのが科学者・技術者であったからである。今、地球規模で問題にしている「地球温暖化」も「環境汚染」もすべて産業革命に端を達しているのではないか。

個人的なモチベーションがいかに強烈なものであっても、それだけでは科学者として社会には認知されない。まずは食うていく必要がある。ところが科学は、他のすべての職業と異なり、一般的にいってその営業が直接の経済的価値を持たないという特質がある。私が以前にタンパク3000とPerutz博士で少し触れたBernalはその著書「歴史における科学」(みすず書房刊)で次のようなことを述べている。

どうして食ってゆくかという問題が、従来から科学者の第一の関心事だった。そして、それを解決することのむずかしさが、これまでの科学の進歩をはばんだ第一の原因であったし、現在なおそれは、程度こそへったがやはり科学の進歩をはばんでいる。

この著書が執筆されたのは1950年頃だから半世紀以上も前になるが、この問題はいぜんとして続いている。遙か昔は科学は大体において、金と暇のある人々の片手間ないしは余暇の仕事であった。さもなければ上層階級または彼らに忠実に仕えることによって彼らに受け入れられる地位を獲得した少数の有能な個人のみに限られた職業であった。時代が下ると富裕な個人、会社、大学、政府機関が現実的にパトロンの役割を果たすようになったが、科学者が上層階級と結びついていることに対する下層階級からの反感・反抗を引き起こした一面もある。産業革命がその一つの契機であった。そしてBernalは次のようにも述べている。

学者の尊大と無知と下層階級の疑惑と恨みの影響が相合して、文明の全過程を通じ、科学の自由な進歩に対する主な障碍をなしてきた。

さらに

人間は、原子爆弾や生物学兵器による破壊の恐怖と、農業や医学における科学の応用による生活の向上の希望との中で生きている。

そして

今日言うところの文明は、その物質面においては、科学なしにはありえないことであろう。知的及び道徳的な面においても、科学はやはり深い関係をもってきた。

ことは確実なのである。その意味では歴史は科学が「無用の用」でもあることを証明しているといえる。科学が「無用の用」であることをいかにスポンサーである国民に理解して貰えるのか、これこそ謙虚に地道な努力を重ねるしか術はないように思う。当面はこの最後の引用を繰り返すしか仕方がないのかもしれない。

最初の問題点に関して、Bernalはまたこのようにもいっている。

科学は数万或いは数十万の人々に職場を与えている一つの制度である

G-COEは若い研究者の職場でもある。たとえ職場が縮小されようとも知識への欲求がモチベーションである若い研究者は必ず活路を見出すものと信じる。上での突っ込みではないが「金」がモチベーションの勤め人とを選別するまたとない機会になることだろう。

長くなったので最後に一言、この声明には検討に値する前向きの提言がある。

科学研究費の削減が不可避であるというのであれば、単純に研究資金の削減だけではなく、削減した費用を活用することで、前記のような新しい研究ガバナンス構築を行うための研究への支援をご検討いただくよう提言します。

G-COEの存続も含めて、というより私の考え方になるが、廃止を前提とした研究・教育制度の改変に前向きで取り組むその案を自ら提言すべきであろうと思う。




次世代スーパーコンピュータはそれでも必要?

2009-11-27 22:21:54 | 学問・教育・研究
「事業仕分け」で次世代スーパーコンピュータが「来年度の予算計上の見送りに限りなく近い縮減」と結論された(11月13日)が、20日には菅副総理の復活を示唆する言葉が報じられた。

 菅直人副総理・国家戦略担当相は20日の衆院内閣委員会で、行政刷新会議のワーキンググループ(WG)による事業仕分けで「凍結」と判定された次世代スーパーコンピューター開発について「スパコンは極めて重要であり、もう一度考えなければならない」と述べた。WGの判定を覆し、平成22年度予算の概算要求額(約267億円)に沿った予算措置を前向きに検討する考えを表明したものとみられる。
(産経新聞 11月20日18時23分配信)

また仙谷由人行政刷新担当相の似たような発言も報じられた。

 仙谷由人行政刷新担当相は23日、政府の行政刷新会議による「事業仕分け」で「予算縮減」と判定された次世代スーパーコンピューター(スパコン)の開発予算について「そうなるかどうかはこれからの検討次第だ」と述べ、政治的判断による復活があり得るとの見方を示した。視察先の島根県隠岐の島町で記者団に語った。
(毎日新聞 2009年11月24日 東京朝刊)

私はスーパーコンピュータについては門外漢であるが、「事業仕分け」での論議で浮かび上がった問題点を自分なりに整理して、行政刷新会議「事業仕分け」雑感 「次世代スーパーコンピューティング技術の推進」の場合では、

科学者仕分け人が主計官の手先と言われたくないのであれば、この仕分け会議において予算の削減に手を貸すのではなく、立ち止まり考えるための時間を与えるべくまずは凍結の意思表示をすべきなのではなかろうか。結果的には、来年度の予算計上の見送りに限りなく近い縮減となった。

と意見を述べた。そして専門家から数々の疑問に答える説明を期待したが、計算基礎科学コンソーシアムが出した緊急声明なるものにまったく失望したものだから、「次世代スーパーコンピュータ開発に関する緊急声明」に目を通して問題点(私)のいくつかを指摘した。ところが疑問に答えるようなご意見(by 能澤 徹氏)計算基礎科学コンソーシアムの声明はお門違いで見出したので、それを紹介する。少々煩雑かも知れないが、お目通しいただけると幸甚である。引用は能澤 徹氏の論旨展開の順に行った。

なぜ当初このプロジェクトに参加していた日本の三大コンピュータメーカーのNEC、日立、富士通のうち,NECと日立の2社が今年の5月になって逃げ出したのだろう。

 国家基幹科学技術に指定された次世代スパコンのヴェクタ・スカラ両輪論が民間企業の撤退で片輪になってしまっても、「影響は無い」などといってプロジェクトを継続しているほど、メロメロな日本のスパコン戦略である。このいい加減な戦略に基づいて作られる次世代スパコンの完成が1年遅れたからといって、日本の科学技術にインパクトがあるなどということはありえないことである。

ここで当初の計画からNECと日立の2社が逃げ出したことの軽い対応が糾弾されている。さらに具体的な指摘が続く。

財務省の論点は、文科省が国家基幹科学技術に指定した次世代スパコンのグランドデザインであるヴェクタ・スララ両輪論の、片方の車輪であるヴェクタ部が途中で脱落・消滅してしまったにも関わらず、影響はほとんど無いと主張し、ヴェクタ部を無視して、スカラ片輪でプランを強行するといった「いい加減な点」にあるのである。

この「いい加減な点」に包括される具体的な内訳は、

第1に、無くなっても影響が無いようなヴェクタ部の設計に何故大金を支払わねばならなかったのかという「グランドデザインのいい加減さ」に対する技術的なクレデビィリティの問題、

第2に、そのいい加減な設計のために数百億円もの多額な税金が浪費されてしまったのに、何のペナルティも責任追及もなされないと言う無責任体制の問題、

第3に、その無責任体制による杜撰な片肺の計画のまま、来年以降も総額約700億円という巨額な税金が要求され、完成後も年間80億円超といわれている巨額な維持経費が要求されるといった、費用対効果無視のバブル・プロジェクト運営に対するクレディビリティの問題
などである。

なるほど、 私もまったく同感する。次世代スーパーコンピュータ問題の本質をこのような形で明らかにした上で、次のような話が続く。

声明の始めの部分に、今回の事業仕分けの結論が「我が国の科学技術の進歩を著しく阻害し、国益を大きく損なうものである」との主張があるが、「無くなっても影響が無いようなヴェクタ部を国家基幹科学技術などに指定し、その意味の無いヴェクタ部の設計に巨額な税金を投入した事が」が「我が国の科学技術の<進歩を著しく推進し>、<国益を大きく増進した>」などとは到底思えないし、事実は全くその逆で、NECの撤退で、結局、税金投入が無駄になってしまったわけで、「国民に多大な損害を与えた」事は明白であろう。

これは私が次のように「なるほど」としか反応できなかったことを、問題の本質を突く形で真正面から論破したのである。

『今回の事業仕分け作業における唐突な結論は、我が国の科学技術の進歩を著しく阻害し国益を大きく損なうものであり、不適切であると言わざるを得ない。我々、計算基礎科学コンソーシアムは、次世代スーパーコンピュータプロジェクトの遅延無き継続を強く求める』とアピールしている。しかしこの強調部分(私、以下同じ)にしても具体的な指摘が無いものだから、「なるほど」としか反応できない。

そしてスーパーコンピュータ発の最先端技術が数年後に広く社会に応用されるという「緊急声明」の説明に関連して、私は次のような問題点を指摘した。

世界最高性能を目指すことは、新たな革新的技術を開拓する原動力も確かにそうなんだろうが、それよりもインテルを凌駕する一大ITメーカーが生まれること疑いなし、と言って方がパソコンに馴染んだ国民には遙かに説得力がある。スーパーコンピュータどころかパソコンも無い時代に昔の人は東大寺大仏殿や姫路城を築造してきた。この歴史的事実を一つ取り上げるだけでも、スーパーコンピュータが世界最高性能を目指すことは、新たな革新的技術を開拓する原動力とはなんと烏滸がましい決めつけなのだろうと思ってしまう。

この点でも半導体のテクノロジーの流れは「スパコンから民生」ではなく、「民生からスパコンへ」であることをきわめて具体的な例で示している。

その後、この高額なCrayのVector方式の後継に対し、廉価な民生で対抗したのが、今日のスカラ・クラスタ型スパコンで、1994年頃にNASAの研究員が作ったBeowulfが始まりである。UNIXの走るパソコンをTCP/IPのLANで結合し、並列計算を可能にしたものである。つまり、スカラ型スパコンは、廉価な既存の民生テクノロジを使って組み立てるという哲学で始まったものであり、その思想は今日でも連綿と受け継がれている。

OpteronやXeonはパソコン用のCPUからのものであり、PowerXcellもゲーム機用のCellからのものである。計算科学に関係の深いBlue Geneの源流は、コロンビア大学のQCDSPで、この機械は廉価な民生用のDSPを演算器として並列に並べて作ったスパコンであり、次のQCDOCとBG/LはIBMの産業組み込み用CPUであるPPC440を用いたものである。どれをとっても、「民生からスパコンへ」の流れである。

そして

 従って、声明文中の「その基盤にあるのがスーパーコンピュータなどで用いられる最先端の技術であり、それは数年後に広く社会で応用される」などというのは認識不足もはなはだしく、この声明のいい加減さを全国民に示す明確な証明なのである。

と述べている。これで私のモヤモヤは雲散霧消である。そしてこの能澤 徹氏のご意見を裏付けるビッグニュースが実にタイミングよく飛び込んできた。

<スパコン>長崎大の浜田助教、3800万円で日本一の速度達成 安くても作れ、事業仕分けにも一石?

 東京・秋葉原でも売っている安価な材料を使ってスーパーコンピューター(スパコン)を製作、演算速度日本一を達成した長崎大学の浜田剛(つよし)助教(35)らが、米国電気電子学会の「ゴードン・ベル賞」を受賞した。政府の「事業仕分け」で次世代スパコンの事実上凍結方針が物議を醸しているが、受賞は安い予算でもスパコンを作れることを示した形で、議論に一石を投じそうだ。

【関連記事】事業仕分け:スパコン「事実上凍結」…世界一でなくていい

 同賞は、コンピューターについて世界で最も優れた性能を記録した研究者に与えられ「スパコンのノーベル賞」とも呼ばれる。浜田助教は、横田理央・英ブリストル大研究員、似鳥(にたどり)啓吾・理化学研究所特別研究員との共同研究で受賞。日本の研究機関の受賞は06年の理化学研究所以来3年ぶりという快挙だ。

 浜田助教らは「スパコンは高額をかけて構築するのが主流。全く逆の発想で挑戦しよう」と、ゲーム機などに使われ、秋葉原の電気街でも売られている、コンピューターグラフィックス向け中央演算処理装置(GPU)を組み合わせたスパコン製作に挑戦した。

 「何度もあきらめかけた」というが、3年かけてGPU380基を並列に作動させることに成功。メーカーからの購入分だけでは足りず、実際に秋葉原でGPUを調達した。開発費は約3800万円。一般的には10億~100億円ほどかかるというから、破格の安さだ。そしてこのスパコンで、毎秒158兆回の計算ができる「演算速度日本一」を達成した。

 26日の記者会見で事業仕分けについて問われた浜田助教は「計算機資源は科学技術の生命線。スパコンをたくさん持っているかどうかは国力にもつながる」と指摘。一方「高額をかける現在のやり方がいいとは言えない。このスパコンなら、同じ金額で10~100倍の計算機資源を得られる」と胸を張った。【錦織祐一】
(11月27日10時50分配信 毎日新聞)

菅副総理、仙谷行政刷新担当相が次世代スーパーコンピュータ問題に政治的介入を云々されるのもよいが、それよりもこのプロジェクト推進者からの国民も納得させる本質に立ち入った説明があるべきだと思う。

追加 次のような記事に気付いた。
■元麻布春男の週刊PCホットライン■NECがスパコンでIntelを選んだ理由



「次世代スーパーコンピュータ開発に関する緊急声明」に目を通して

2009-11-20 11:03:42 | 学問・教育・研究
次世代スーパーコンピュータプロジェクトが、今回の「事業仕分け」で、「来年度の予算計上の見送りに限りなく近い縮減」と結論された。それをうけて、計算基礎科学コンソーシアムがタイトルのような声明を出して、『今回の事業仕分け作業における唐突な結論は、我が国の科学技術の進歩を著しく阻害し国益を大きく損なうものであり、不適切であると言わざるを得ない。我々、計算基礎科学コンソーシアムは、次世代スーパーコンピュータプロジェクトの遅延無き継続を強く求める』とアピールしている。しかしこの強調部分(私、以下同じ)にしても具体的な指摘が無いものだから、「なるほど」としか反応できない。そう思ってこの緊急声明に目を通すと、きわめて限られた仲間内で交わされる符牒のような言葉が世間にも通用すると思い込んでいる科学者の夜郎自大ぶりが浮かび上がってくる。たとえば次のような所である。

基礎科学の研究においても、スーパーコンピュータの重要性はますます拡大しつつある。なかでも自然界に対する人類の知識を深める物理学においては、20世紀を通じて明らかになってきた素粒子の基本法則に基づいて、宇宙の誕生から物質の創生、そして銀河や星の形成にいたる宇宙の歴史全体をも理解することが可能になりつつある。 特に、実験や観測で調べることのできない領域を探索するための唯一の方法はスーパーコンピュータを使ったシミュレーションであり、国際的にもこのような認識のもとでスーパーコンピュータの整備強化が進められている。

宇宙の歴史全体をも理解することが可能になりつつあるとは大きく出たものである。でも私の動物的直感はこれが全くの絵空事であると告げている。そんなことよりスーパーコンピュータを使うと日本全国で天気予報を百発百中当てることが出来るようになる、とでも言ってくれた方が遙かに分かりやすい。現状では天気予報はよほど出来の悪いコンピュータを使っているせいなのか、結構外れてくれる。天気予報のはずれは誰の目にも直ぐに分かるから誤魔化しようがない。だからこそスーパーコンピュータを使ったシミュレーションが百発百中の天気予報を可能にしますと見えを切ることが(できれば)、説得力をいや増すというものだ。それがこともあろうに検証不可能であることをいいことにして、宇宙の歴史全体をも理解することが可能とは吹きも吹いたな、としか言いようがない。かりに今回のスーパーコンピュータシステムが完成したとしても、たちまち世界最高性能の座を他に譲らざるを得ないだろう。その時にまた世界最高性能のスーパーコンピュータの必要な理由として宇宙の歴史全体をも理解することが可能といううたい文句が再登場すること間違いなしである。未来永劫使用可能なうたい文句としては秀逸としか言いようがない。

これまで理化学研究所が進めてきた次世代スーパーコンピュータ開発は、世界最高性能をもつ汎用スーパーコンピュータの実現を大きな目標の一つとしてきた。世界最高性能を目指すことは、新たな革新的技術を開拓する原動力であり、そこから幅広い科学と技術における世界をリードする成果が出てくることが期待される。さらに、この次世代スーパーコンピュータ施設は、関連する国内の大学・研究機関・企業等の相互交流や、将来を担う研究者や技術者の人材育成など、ソフト面の強化を通じて科学技術の進歩をさらに加速する拠点としての役割も期待されている。

これほど輝かしい展望が広がっているのに、なぜ当初このプロジェクトに参加していた日本の三大コンピュータメーカーのNEC、日立、富士通のうち,NECと日立の2社が今年の5月になって逃げ出したのだろう。どういう言葉で言い繕うと、NECと日立の2社が脱落した事実は誰の目からも隠すことは出来ない。この厳然たる事実を目の前にすると国内の大学・研究機関・企業等の相互交流や、将来を担う研究者や技術者の人材育成のくだりの空々しさがこの声明の白々さを印象づける。世界最高性能を目指すことは、新たな革新的技術を開拓する原動力も確かにそうなんだろうが、それよりもインテルを凌駕する一大ITメーカーが生まれること疑いなし、と言って方がパソコンに馴染んだ国民には遙かに説得力がある。スーパーコンピュータどころかパソコンも無い時代に昔の人は東大寺大仏殿や姫路城を築造してきた。この歴史的事実を一つ取り上げるだけでも、スーパーコンピュータが世界最高性能を目指すことは、新たな革新的技術を開拓する原動力とはなんと烏滸がましい決めつけなのだろうと思ってしまう。

ところでこのような私の批判と一見矛盾するようであるが、国民の誰もが分かるようなことにしか国家予算を注ぎ込むべきでないとしたら、基礎科学研究などにお金が廻ってくることはまず無いだろうし、また時代を大きく先取りした巨大事業が生まれることもなかろうと私は思う。だからこそ何事であれ専門家の目線で戦略的決断を下すことの重要性を私は一方では否定しない。その場合に決断を下した側に説明責任が生じることは当然である。その意味では「次世代スーパーコンピュータ開発に関する緊急声明」に私は説明責任を期待したのであるが、それがあまりにも期待はずれであったのでつい突っ込みを入れてしまった。この緊急声明に名を連ねた科学者の方々の紋切り型でない胸の思いを披瀝して国民の理解を得る一層の努力を期待したいのであるがいかがなものだろう。


文科省での日本学術振興会と科学技術振興機構の共存が基礎科学の発展を邪魔する

2009-11-18 14:42:46 | 学問・教育・研究
行政刷新会議「事業仕分け」三日目(11月13日)、第三WG競争的資金(先端研究)の録音記録を3回も聞いてしまった。何遍聞いても何が問題の焦点なのか分かりにくいが「事業仕分け」の評決結果が次のように下された。

 競争的資金(先端研究) [予算] 科学技術振興調整費 予算は整理して縮減
             [制度] 一元化も含めてシンプル化

仕分け人の評決結果は[予算]については見送りが3、縮減(10~50%)が5、要求通りが5、[制度]は一元化が7に対してシンプル化は4をまとめたものである。[制度]ではなぜかまとめ役の蓮舫議員がシンプル化に軸足を置いた結論に持っていってしまった。私は科学者仕分け人が財務省主計官の手先のようなことはして欲しくないな、とその動きが気になっていたが、少なくともこの競争的資金の制度について、一元化・シンプル化に積極的な役割を果たしたように思うので、その点では胸をなで下ろした。私は現行の競争的資金制度こそ基礎科学の発展を妨げる諸悪の根源であると思うので、それにメスを入れることが焦眉の急であると思っていたからである。

「事業仕分け」の冒頭でまず競争的資金について文科省の局長から説明があった。それによると、国や法人などの研究資金の配分主体が広く研究課題を集めて、提案されたものを専門家を含めた複数の評価・審査委員が科学的・技術的観点を中心とした評価に基づいて審査をして、その中から実施すべき課題を採択して研究者等に配分する、と言うのである。ただ現実には競争的資金は文科省関係だけで24もあり、政府全体では47もあって、そのすべてが「広く研究課題を集めて」から出発するものではないことを銘記しておく必要がある。そこで24もある文科省の管轄下にある競争的資金制度のなかから必要な部分を抜粋してみる。


このなかで私に馴染みがあるのは一番上の科学研究費補助金である。私が大学院を修了して学位を取得した昭和38年の直後、昭和40年度に始まったと言うから、その恩恵を全研究生活を通じて受けてきたことになる。これを科研費と呼び習わしているが、平成21年度予算額は1970億円で文部科学省・日本学術振興会が所管している。科研費こそ「研究者の自由な発想に基づく研究を支援」するもので、いわゆるボトムアップで研究課題が決定される。個人の独創性を十二分に生かすには欠かすことの出来ない制度である。創設以来歴史的にも練り上げられてきた制度であり、文科省の競争的資金は科研費一つで十分であるのに、いつの間にか雨後の竹の子のようにいろんな制度が生まれて現在は24も出来上がっているのである。ただ抜粋を見ても分かることであるが制度名などはただの作文に過ぎず、科研費以外の23制度は特定の政策目的のために作られたものと言ってよい。そしてその担い手として科学技術振興機構という独立行政法人が顔を出していて、平成21年度では498億円もの競争的資金を扱っている。なぜ文科省内で研究費の出所を一つに絞らないのだろう、とは誰しも抱く疑問であるが、答えは簡単、かって科学技術行政全般を所掌していた科学技術庁が2001年に文科省に統合された時に、科学技術庁独自の補助金配布制度が文科省に持ち込まれ、日本学術振興会と共存し続けているのである。

11月13日の「事業仕分け」で配布された資料には、科学技術振興機構の役割が「特定の政策目的のため基礎から応用に至る研究を推進」と記されている。戦略的創造研究推進事業と名付けられた「国が示す研究開発目標のもと、新たな可能性を拓く技術の創出に資する研究」事業が、ひいては鉱工業、運輸・建設業、医業・医薬業、農林水産業、電気通信業、情報業と多岐にわたる領域で技術を創出していく、と訴えている。これこそトップダウンの政策目的に従うものであるから、技術の創出という目標がどの程度達成されたのかの評価は行いやす。この技術の創出と基礎科学研究が科学技術研究と一括りに文部科学省の活動として仕分け人の前に出されたことが、非科学者の一部の仕分け人をまごつかせて、昭和40年度に始まった科学研究費補助金からいったい何が得られてきたのか、というような質問をさせたように私は思った。居直るわけではないがつい最近、「役に立たない科学」で私は役に立たないことが基礎科学の本質であると強調したばかりである。研究費を注ぎ込んだ効果を役に立つとか立たないかで評価出来ないのが基礎科学であることが国民に理解していただけるようになると、基礎科学研究に関して「どのような効果が」なんて聞かれることはなくなるであろう。

私の結論としては競争的資金制度に24もいらない。科学研究費補助金だけでよい。これが一元化である。「グローバルCOEプログラム」も「世界トップレベル研究拠点(WPI)プログラム」など、トップダウンのプロジェクトは要らない。科学技術振興機構の498億円は科学研究費補助金に入れてしまえばよい。もちろん科学技術振興機構なんて独立行政法人も不要になってしまう。必要とあれば最小限の職員を日本学術振興会に移してもよいが理事長など役員は不要、行政改革のさきがけとすればよい。では技術の創出はどうなるのかと聞かれそうであるが、技術創出に活かせそうな情報を外に向かってどんどん発信すればよい。お金の流れを情報の流れに切り替えるのである。それを必要とする現場でこそ真に役立つ技術が生まれてくることであろう。