「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「野に咲く鶏頭と貰い子」

2013-10-30 00:04:26 | 和歌

 街外れの空き地に、鶏頭花が咲いていた。

 野草でもないこの花が空き地に咲いていたのは、ご近所の何方かが余った苗を放置して、それが根付いて咲いたものに違いあるまい。庭園に植えられ、家人に慈しみ愛でられて咲く花と、野に放置されながらも自力でシカと根を張り、歯を食いしばって咲く花の存在を目の当たりにして、「野に咲く鶏頭」が殊更にいとおしく見えた。

 テレビでは既にフィギュア競技の映像が放映され、日本選手の活躍振りも見事だが、欧米選手の演技も素晴らしい。そんな中で、どう見ても東アジア出身と思われる少女が、欧米国籍の横文字の名前で頑張っている姿を見て、米国市民が中国系の貰い子をしていることが、想い出された。

 子供が出来ない米国の夫妻が、中国系の赤子を貰い受けて育てている事例を、数多く見てきた虚庵夫妻は、TV観戦しながら事に依ると、あの少女もそんな事情があるのかしらとの思いが、頭を掠めた。勝手な想像だが、育て親に恵まれ何不自由なくのびのびと育ち、フィギュア競技に参加して拍手喝さいを浴びている少女と、娘の現在の名前すら知らされず、娘が世界的なフィギュア競技に参加していることも知らぬ両親に思いを馳せれば、複雑な思いが胸を締め付ける。

 「野に咲く鶏頭」に、思いもよらず現代の「貰い子」の事例が頭を掠めた。
逼迫した生活に僅かな代償を得て娘を手放した両親と、子育ての喜びを得た夫妻に支えられて、花を咲かせる少女の姿が瞼に交差する虚庵夫妻だった。




           街外れの空き地に咲くかな鶏頭は

           倒れながらも大地に根を張り


           鶏頭は我が身の出自を辿るまじ

           ただひたすらに咲くぞいとしき


           思ふれば兄弟姉妹は庭園に

           何故かこの子は空き地に咲くかな


           子の今を知るまじきかも産みの親は

           ひたすら挑む娘の姿を 


           血縁を越えて娘は愛しけれ

           思ひに応えて励むをみれば


           やがて巳の出自を問ふらむその折りに

           君に捧げむ野に咲く鶏頭を