「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「野紺菊・のこんぎく」 

2006-11-02 22:30:22 | 和歌

 「野紺菊」が咲いていた。
篠竹の日陰で、野紺菊は身を寄せ合って、少しでも秋の陽射しを受けようとしている姿が、いじらしい。

 この花は何処にでも自生して咲くので、珍しくもないが、ごくありきたりの草花に対する見方は、千差万別だ。邪魔な「雑草」と決め付ける合理主義者もおれば、道端の「野紺菊」と会話する人もいる。花の持つ美しさ、可憐さなどは観る人の感性しだいだ。

 事の良し悪しを論じるべき問題ではないが、人の感性には大きな隔たりがあって、むしろそのことには興味を惹かれる。例えば本の虫と言われる程の読書家・勉強家は、えてして「誰々はこう言っていた」などとその文章を引用することが間々ある。或いは詩人の詩の一節を口ずさみ、古歌なども時宜を得て朗誦するなど、高い知性には驚かされる。一方、それらに反発するのではないが、自分の感性を大切にして、自分の言葉を紡ぎ、それを書きとどめることに愉しみを見出す人もいる。
 
 凡人は何れかに偏りがちだが、双方をキチンとこなす優れ者も時には居られる。何れにも当らない取り得のない者、それが虚庵居士ということになろうか。






             秋の陽を求めて身を寄す野紺菊の
  
             あはれ群花日陰に浮かびぬ



             雑草といみ嫌われる身にしあれど
  
             ゆく秋惜しみて野紺菊咲く
  


             草原を遠くに見やれば群花の
  
             咲きわたるかも野紺菊白く