緑道の玉川上水取水堰周辺の散策
今日は一日、天気良好な様子なので
いつもお世話になっている緑道(旧・玉川上水路)の出発点(玉川上水取水堰)周辺の散策に出かけました。
取水堰近くから多摩川河口までの多摩川は53Km,
取水堰から緑道を通って新宿御苑・大木戸までの玉川緑道は43Km
ところで、「多摩川」と「玉川」とはどう違うのでしょう。
今は、一級河川名は「多摩川」に統一されていますが、以前は混乱していたようです。
用水路は、玉川兄弟によって開削されたので、その名から「玉川用水」と云っています。
その他、駅名や路線名などは、自由に使い分けられているようです。
我が家の近くの緑道は、ほぼ毎日、利用させてもらっています。
その御礼参りもあって、その始点・取水堰を拝みにまいりました。
さて、今日は青梅線の羽村駅まではJRで行き、そこから歩きました。
コースは次の地図の赤線です。
先ず、駅近くの稲荷神社に寄ってみました。紅葉が始まっていました。
ところで、いつも疑問に思っているのですが、
檀家のあるお寺や、国が面倒みる神宮や大社は別にして、地方の神社の経営はどうなっているのでしょう。
特にこの少子化で、田舎の経済がうまく回っていない時に・・・。
税金以前の問題でしょう。勧請すると、親神社に結構持って行かれるようですし、
賽銭や寄付金だけでは、到底成り立たないだろうと想像しますが・・・
兼業(幼稚園、保育所、賃貸しなど)で、やっとでは。この調べは、今後の課題にしておきましょう。
次に、そのすぐ横の禅林寺に寄りました。
なにか行事があるらしく、親族一同らしい人々が喪服姿でお詣りしておりました。
その辺からして、先の神社とは違います。
この寺は、小説『大菩薩峠』でお馴染みの中里介山先生の菩提寺で、先生自身もこの近くの生まれとか。
そして、今日のメインエベントの玉川堰に着きました。
東京都教育庁のパンフレッドによりますと、
「・・・4代将軍家綱の承応2年(1653)に開削の下命があり、・・・
承応3年(1654)6月に竣工したと云われています。
玉川上水は、江戸市中への給水を目的として羽村の多摩川に取水口を設け、四谷大木戸に至る43Kmを自然流下により導水する施設として掘削された素掘りの開渠水道です。
江戸市中へは石樋(いしどい)や木樋(もくひ)による暗渠水路により配水され、飲料水のみならず、防火用水、庭園の泉水用水、江戸城内堀や外堀の堀用水等多目的な機能を有する都市給水施設でした。・・・」
その作業にあたったのが、玉川兄弟で、作業は実に8か月の短期間で成し遂げたのです。
特に分岐して、市中へ引く暗渠の部分は、
起伏があるので大分苦労されたようです。
そして、それを管理するため、陣屋が設けられました。
それが、玉川水神社に今も面影のある「玉川上水羽村陣屋跡」です。
羽村市教育委員会の掲示板には
「・・・この上水道の取締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理に関する仕事を処理するため、
ここに陣屋と称する役所がおかれた。・・・」
とありました。
また、この公園には、「堰の筏通し場」の説明板や、水勢を抑えた川倉水制の見本もありました。
特に、ここは、江戸に青梅材を運ぶ最も難渋した堰だったようです。
そこから、善福寺、一峰院を伺い、阿蘇神社を最後に Uターンして、帰路に向かいました。
念入りに見過ぎて、大分疲れましたが、
後のビールを楽しみに、向こう岸の郷土博物館まで頑張ることにしました。
途中に、多摩川の河川敷を利用した少年野球場や桜並木通りが拡がっていました。
そして先ず、玉川に架かる長い長い歩行者専用の橋を渡りました。
歩測で426歩ありました、約260mでしょうか。
そして最後に伺ったのが羽村市郷土博物館です。
かわいらしい小学生の御嬢さんに、
「大変役に立つ博物館だよ」
と勧められて入りました。きれいで立派なものでした。
話のついでに、
「羽村は市になっても、『羽村』なのは、何故?」
と聞いてみましたが、あっけにとられたような顔をして何も答えはかえってこなかったです。
私にも解りませんが・・・
展示の中には、羽村取水堰の説明が沢山ありました。
そして、最後に、昔懐かしい、父親の造っていたような犂が飾ってありました。
草臥れて、羽村駅前でビールをグビグビやりました。
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