安芸高田市(あきたかたし)を紹介しまひょ。
広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。
広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。
(安芸高田市 観光ガイド)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/44/06c6c93d7133c2a854374466506c2190.jpg)
中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。
毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。
(毛利氏の 略系図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/cd/98f4fa1dcfc43a1a129a104383b8e5b1.jpg)
鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。
相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。
毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。
宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。
たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。
毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。
(郡山城・城下町 案内図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ef/264d06dcc6c1ec3fa5f1e0d909af6075.jpg)
毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。
越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。
中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。
(安芸 毛利一族 河合正治著)
そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。
親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。
前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。
(安芸高田市 歴史民俗博物館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4c/2735ced8e557145a661a853915671920.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/06/71a5cd4d50084c65b699dc1e4ced4e3e.jpg)
鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。
考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。
機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。
当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。
(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/97/97cf5f040760e95a22c82eb33e96ffd5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9a/ac14eab8f9912c53cacd4fdc4b232458.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/33/c02d9faaf0a43cc0fb019c5f7b993b67.jpg)
毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。
吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。
西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。
その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。
1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。
(展示されている 鎧兜)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/54/65f908ece8421bcf10a13c225d6f86b9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/69/bd31abe6e94fa873645e8419b64bb171.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8d/bd88cfad923bbf1a4ad5cc33c801dd15.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/2b/d8e6e218ccf4ea3eec9d5725baa6d973.jpg)
希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。
鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。
毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。
それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。
(三矢の訓跡 石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b0/7c6eeb343e9e1a91fb899ab8c3d4b372.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/41/af765d0a720be81092393fb64d1709ed.jpg)
「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」
死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。
江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。
長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。
世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。
(郡山城址の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/6b/328caea57acd327c4fdbfc21d21dcb47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/39/fe38314b674a3d1f1bbcc57282e4a6bc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/45/34506d34a8d952e669b472ff96ac22d8.jpg)
毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。
この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。
(清神社=すえじんじゃ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b5/8742df1388c36527461224b5d61ab445.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/04/4d39ad351e215001a3ccaf070f7f221f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/78/fe7f855c7c910b711cedbd713bbad2e1.jpg)
この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。
因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。
ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。
(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/98/66c89e2db0da0130809199d06ec9c223.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/36/ad048292bc32776c2ede475e8ac6e1cd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/50/2a52b1c8a98cb1ab0da30cf29bd92abe.jpg)
この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。
(清神社 境内の杉の大木)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/aa908ba3949fae8d65a8db6392b83907.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/bf/6275600256b8893b87cb75f0f3a35c47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/20/9e72532d9a8ffe242e3f275a3ed60d2e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/82/c1e7d328b23ebef263ec05d658e77d53.jpg)
(安芸高田市の マンホールの蓋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1f/310c102adf2a5022a759bf0c0a1e7ba2.jpg)
この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。
百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで
皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。
毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。
(安芸高田市 市民ホール前)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/50/4f5b6595ac1e7bdbd2abf6fce7f86e56.jpg)
国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。
頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。
残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。
(安芸高田市 郡山城址を望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/4d/9df07978f852860fa17198b281d032dd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/e8/59db51f584a38d3f3ff04657c6e6a656.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/2c/fcdf967a143c2ea51b6c37586fb6d89c.jpg)
山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。
それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。
娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。
(広電バス 吉田線)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/7c/4d1c6a00f084b2464cad92d0a6673332.jpg)
(広電バス 車中より撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/c3/96c1008dcfbffb0b18d5cea9260bbdb3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/c7/8d9b8f36cb87b434ea1e173021183111.jpg)
道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。
明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。
模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。
毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。
蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。
(江の川 支流の可愛川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/95/c78c576258b09da795051384109f356c.jpg)
中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。
ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。
広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。
逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?
標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。
途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。
(安芸高田市 上根の分水嶺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/0b/bc071d725e49a3bad5d5d10c79f5eec4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ac/5f2cfd391209bc0e0c874847edce05a1.jpg)
二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。
あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。
片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。
向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。
上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。
(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/94/ff6e0a34c242850e599edec5061dde3b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/a2/cc9448a53b462de02ff85c1d511c50f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/f6/13d5e481ccabb49a0cf424e2bb9e239c.jpg)
最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。
(安芸高田市の お神楽)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/ad/8ef7422a2514b19c5529f4f642bbeb8c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6a/a29736b8733c4eae4f814da7ef05d53c.jpg)
(安芸高田市の 子供歌舞伎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/a4/028197476064db8bc4d4bda4d3069f29.jpg)
次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。
長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪
広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。
広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。
(安芸高田市 観光ガイド)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/44/06c6c93d7133c2a854374466506c2190.jpg)
中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。
毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。
(毛利氏の 略系図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/cd/98f4fa1dcfc43a1a129a104383b8e5b1.jpg)
鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。
相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。
毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。
宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。
たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。
毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。
(郡山城・城下町 案内図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ef/264d06dcc6c1ec3fa5f1e0d909af6075.jpg)
毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。
越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。
中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。
(安芸 毛利一族 河合正治著)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/86/8d026dc16a29fb5bad9ae9b6d76c00ed.jpg)
そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。
親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。
前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。
(安芸高田市 歴史民俗博物館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4c/2735ced8e557145a661a853915671920.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/06/71a5cd4d50084c65b699dc1e4ced4e3e.jpg)
鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。
考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。
機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。
当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。
(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/97/97cf5f040760e95a22c82eb33e96ffd5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9a/ac14eab8f9912c53cacd4fdc4b232458.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/33/c02d9faaf0a43cc0fb019c5f7b993b67.jpg)
毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。
吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。
西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。
その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。
1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。
(展示されている 鎧兜)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/54/65f908ece8421bcf10a13c225d6f86b9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/69/bd31abe6e94fa873645e8419b64bb171.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8d/bd88cfad923bbf1a4ad5cc33c801dd15.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/2b/d8e6e218ccf4ea3eec9d5725baa6d973.jpg)
希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。
鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。
毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。
それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。
(三矢の訓跡 石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b0/7c6eeb343e9e1a91fb899ab8c3d4b372.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/41/af765d0a720be81092393fb64d1709ed.jpg)
「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」
死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。
江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。
長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。
世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。
(郡山城址の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/6b/328caea57acd327c4fdbfc21d21dcb47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/39/fe38314b674a3d1f1bbcc57282e4a6bc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/45/34506d34a8d952e669b472ff96ac22d8.jpg)
毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。
この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。
(清神社=すえじんじゃ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b5/8742df1388c36527461224b5d61ab445.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/04/4d39ad351e215001a3ccaf070f7f221f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/78/fe7f855c7c910b711cedbd713bbad2e1.jpg)
この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。
因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。
ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。
(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/98/66c89e2db0da0130809199d06ec9c223.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/36/ad048292bc32776c2ede475e8ac6e1cd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/50/2a52b1c8a98cb1ab0da30cf29bd92abe.jpg)
この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。
(清神社 境内の杉の大木)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/aa908ba3949fae8d65a8db6392b83907.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/bf/6275600256b8893b87cb75f0f3a35c47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/20/9e72532d9a8ffe242e3f275a3ed60d2e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/82/c1e7d328b23ebef263ec05d658e77d53.jpg)
(安芸高田市の マンホールの蓋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1f/310c102adf2a5022a759bf0c0a1e7ba2.jpg)
この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。
百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで
皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。
毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。
(安芸高田市 市民ホール前)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/50/4f5b6595ac1e7bdbd2abf6fce7f86e56.jpg)
国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。
頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。
残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。
(安芸高田市 郡山城址を望む)
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山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。
それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。
娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。
(広電バス 吉田線)
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(広電バス 車中より撮影)
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道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。
明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。
模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。
毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。
蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。
(江の川 支流の可愛川)
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中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。
ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。
広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。
逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?
標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。
途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。
(安芸高田市 上根の分水嶺)
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二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。
あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。
片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。
向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。
上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。
(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)
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最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。
(安芸高田市の お神楽)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6a/a29736b8733c4eae4f814da7ef05d53c.jpg)
(安芸高田市の 子供歌舞伎)
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次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。
長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪