わての家から北へ約3kmぐらいの処に国府遺跡(こういせき)がおます。
大和川と石川が合流する手前の西側で低い丘陵地となってますんや。
ここは旧石器時代から中世までの複合遺跡として国の史跡に指定されてまんねん。
(国府遺跡) (こういせきと読みま~)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
(国府遺跡の 説明板)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
1916年(大正5年)に京都帝国大学の喜田先生が
旧石器のような物を発見されましたんや。
翌年から大阪毎日新聞と京都帝国大学が本格的な発掘調査をされたとか。
でも当時は日本に旧石器時代の遺跡の存在が否定される見解が主流でしたんやそうな。
縄文時代の石器だと簡単に片づけられてしまったのが残念ですわ。
近畿地方では珍しく人骨も70体ばかり出土したそうでっせ。
でも太平洋戦争を挟んでそんな話は忘れられた時代だったようでんな。
1949年(昭和24年)に群馬県岩宿遺跡で旧石器が発見されてから
ここも旧石器時代の遺跡かもしれないとクローズアップされたようですわ。
今なら人骨もDNA検査や放射線分析で詳しくわかるんでしょうが
当時は縄文時代の人骨だとの推定で終わったようです。
(国府遺跡)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
戦後も調査が続けられ旧石器時代・縄文時代・弥生時代・飛鳥時代の
土器や石器や建物跡などが確認されてますんや。
日本で2万年近い複合遺跡としてその道の方には有名だそうな。
現在は関西大学の博物館に出土品が保管されてるそうですわ。
奈良時代に河内の国の国府がここに置かれたのもほぼ確実との説がおます。
でも住宅が遺跡の周辺に点在し国府の建物はまだ発見されてないそうですわ。
これ以上に発掘調査をできないのが残念な事になってしまいましたんや
ここから出土した石器が「国府型ナイフ石器」と名付けられて
旧石器時代から縄文時代まで使われた代表的な物だそうでっせ。
京都から生駒山麓を南下して「東高野街道」がここ国府遺跡を
通過してまんねん、当時の国道ちゅうことでんな。
(大和川を撮影)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
この辺りに「河内大橋」があったと古い記録には載っているんですわ。
これが奈良から来た「龍田道」と「東高野街道」が交差する
この付近じゃないかと、わては想像してまんねんけど。
画像の鉄橋の辺りからこちら側は以前にお話しした江戸時代に
付け替えられた大和川でんねんわ。
昔は大和川が画像の左側奥へ流れていたことになりまんな。
縄文時代には大和川の近くまで海が侵入していたので国府遺跡は
海岸近くの丘ちゅう訳で生活に適した場所だったんですわ。
(東高野街道 & 国府遺跡の 道標)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
東高野街道は我が町を通って和歌山県の高野山までの古い道ですわ。
次回はその東高野街道を我が町から南へ通過してみまひょ。
大和川と石川が合流する手前の西側で低い丘陵地となってますんや。
ここは旧石器時代から中世までの複合遺跡として国の史跡に指定されてまんねん。
(国府遺跡) (こういせきと読みま~)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
(国府遺跡の 説明板)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
1916年(大正5年)に京都帝国大学の喜田先生が
旧石器のような物を発見されましたんや。
翌年から大阪毎日新聞と京都帝国大学が本格的な発掘調査をされたとか。
でも当時は日本に旧石器時代の遺跡の存在が否定される見解が主流でしたんやそうな。
縄文時代の石器だと簡単に片づけられてしまったのが残念ですわ。
近畿地方では珍しく人骨も70体ばかり出土したそうでっせ。
でも太平洋戦争を挟んでそんな話は忘れられた時代だったようでんな。
1949年(昭和24年)に群馬県岩宿遺跡で旧石器が発見されてから
ここも旧石器時代の遺跡かもしれないとクローズアップされたようですわ。
今なら人骨もDNA検査や放射線分析で詳しくわかるんでしょうが
当時は縄文時代の人骨だとの推定で終わったようです。
(国府遺跡)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
戦後も調査が続けられ旧石器時代・縄文時代・弥生時代・飛鳥時代の
土器や石器や建物跡などが確認されてますんや。
日本で2万年近い複合遺跡としてその道の方には有名だそうな。
現在は関西大学の博物館に出土品が保管されてるそうですわ。
奈良時代に河内の国の国府がここに置かれたのもほぼ確実との説がおます。
でも住宅が遺跡の周辺に点在し国府の建物はまだ発見されてないそうですわ。
これ以上に発掘調査をできないのが残念な事になってしまいましたんや
ここから出土した石器が「国府型ナイフ石器」と名付けられて
旧石器時代から縄文時代まで使われた代表的な物だそうでっせ。
京都から生駒山麓を南下して「東高野街道」がここ国府遺跡を
通過してまんねん、当時の国道ちゅうことでんな。
(大和川を撮影)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
この辺りに「河内大橋」があったと古い記録には載っているんですわ。
これが奈良から来た「龍田道」と「東高野街道」が交差する
この付近じゃないかと、わては想像してまんねんけど。
画像の鉄橋の辺りからこちら側は以前にお話しした江戸時代に
付け替えられた大和川でんねんわ。
昔は大和川が画像の左側奥へ流れていたことになりまんな。
縄文時代には大和川の近くまで海が侵入していたので国府遺跡は
海岸近くの丘ちゅう訳で生活に適した場所だったんですわ。
(東高野街道 & 国府遺跡の 道標)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
東高野街道は我が町を通って和歌山県の高野山までの古い道ですわ。
次回はその東高野街道を我が町から南へ通過してみまひょ。