最初にお断りをして置きます。
昔の画像から机上で編集した旅行ですので悪しからず。
今は引退した鉄道車両など懐かしく再現した物なので宜しくね。
2015年(平成27年)3月に北陸新幹線が金沢駅まで延伸。
多くの線区が第三セクターに移管され列車も大きく変わりましたんや。
(683系 特急はくたか) (北越急行の車両)(2014年10月撮影)
北陸新幹線が金沢駅まで開通する前は関東から北陸へ向かう優等生でした。
上越新幹線で越後湯沢駅で乗り換えて「はくたか」で金沢駅まで
最速で4時間ぐらいで東京駅から金沢市へ行けるようでしたかな。
お役ご免でこの車両はJR西日本へ譲渡され塗装を変えて金沢駅から
名古屋駅へ向かう特急「しらさぎ」に使用されているとのこと。
(JR富山駅 駅名標)(2014年10月撮影)
(あいの風とやま鉄道 PR表示板)
ご承知の通り昔の北陸本線は新潟県の直江津駅までJR西日本の管轄。
それが北陸新幹線が出来たために金沢駅から先が細切れに分割されて
石川県内が IRいしかわ鉄道 金沢駅 ~ 倶利伽羅駅
富山県内が あいの風とやま鉄道 倶利伽羅駅 ~ 市振駅
新潟県内が えちごトキメキ鉄道 市振駅 ~ 直江津駅
金沢駅から東へは北陸新幹線をご利用くださいだって、悲しいね。
鉄ちゃん爺やのように普通列車の旅を楽しむことが難しくなりましたんや。
(JR富山駅構内の 立ち食いそば屋さん)(2014年10月撮影)
現役時代はここで、そばを食べて得意先へ向かったことがおます。
当時は地上のホームでしたので、北陸新幹線が開通後には
在来線も高架式のホームに変わり、今は営業をしているのかしら?
(455系 JR西日本 交流型郊外電車)(2014年10月撮影)
この455系の電車も国鉄時代からのロートルなので引退したはず。
糸魚川駅から直江津駅方面へ向かいまひょ、出発! 進行!
画像の2014年(平成26年)ならこんな感じでしたな。
現在は途中の泊駅で乗りかえて直江津駅まで約2時間チヨイの旅になりまぁ。
(北陸新幹線 上越妙高駅 駅名標) (2016年7月撮影)
富山駅から新幹線に乗り上越妙高駅まで各駅停車で40分でした。
ここで、えちごトキメキ鉄道はねうまラインで高田駅へ向かいまひょ。
(JR高田駅舎=現在は えちごトキメキ鉄道)(2011年4月撮影)
(JR時代の 高田駅 駅名標) (2011年4月撮影)
(新潟県上越市の マンホールの蓋)(2014年4月撮影)
新潟県上越市は1971年(昭和46年)に直江津市と高田市が合併して
新潟県では新潟市・長岡市に次ぐ三番目の大都市に成るようですわ。
人口が約18万8千人で冬場は新潟県でも豪雪地帯に含まれますんや。
(新潟県上越市 JR高田駅前の商店街) (2011年4月撮影)
こんな雪除けの街並みが高田城址まで続いているようでした。
訪れたのは4月4日で関西では桜が満開を迎えるような時期でしたかな。
高田城址は桜の名所ですが、とてもじゃないが寒くてまだ冬の季節でしたよ。
(JR高田駅構内の ステンドグラス)(2011年4月撮影)
JR東日本から、えちごトキメキ鉄道に変わったけど高田駅舎は
そのまま使用されていると思いまんねんで。
素晴らしい駅舎でこのまま受け継がれて残ることを希望しますね。
それでは、当時のJR信越本線・高田駅からJR長野駅へ向かいまひょ。
(189系 JR東日本 普通電車 妙高号)(2011年4月撮影)
JRの普通電車や快速電車には愛称がつかないんですが、例外がおました。
当時のJR信越本線で長野駅から直江津駅までを一日4往復だけしていた
普通電車「妙高号」はグリーン車まで連結した例外の電車でしたんや。
元は国鉄の信越本線で特急「あさま」として走っていた特急列車で
普通電車なので指定券なしで乗れるマニアには良く知られた電車でしたかな。
(189系 妙高号の車内)(2011年4月撮影)
特急列車で利用されただけに座席はリクライニングの素敵な雰囲気ですかな。
それでは、残雪の信越国境を越えてJR黒姫駅へ向かうことにしまっせ。
(建設中の北陸新幹線 上越妙高駅付近を通過) (2011年4月撮影)
豪雪地帯の信越国境ですから街を離れると周りは雪景色に変わりましたよ。
実は東日本大震災の直後で関東へ向かうのを止めて信州旅行をした画像です。
(名峰 妙高山の遠景) (2011年4月撮影)
新潟県と長野県の境に独立峰で聳える日本百名山の一つですよね。
標高が2454mもあり信越国境ため積雪も多いようですよ。
この妙高の中腹に現れる雪形が馬が跳ねる姿に見えるので地元では
「はねうま」と呼び、「えちごトキメキ鉄道はねうま線」と呼ぶ
第三セクターの鉄道の名前としてのルーツに成っていますよ。
(JR二本木駅で 妙高号とすれ違い)
ここは現在でもスイッチバックが残る珍しい駅なんですよ。
妙高山の麓をJR信越本線は高度を上げながら長野方面へ進みます。
(JR妙高高原駅を通過) (2011年4月撮影)
ここまでが新潟県で「えちごトキメキ鉄道」は現在は乗り換えになり
長野県の「しなの鉄道・北しなの線」と変わるようでんな。
(JR妙高号の 車中より撮影) (2014年4月撮影)
(上信越自動車道路も 並行しているのかも) (2014年4月撮影)
この辺りが地図上で長野県と新潟県の県境を通過しているんだそうです。
次のJR黒姫駅で途中下車してみようと思います。
(JR黒姫駅 プラットホームにて撮影)(2014年4月撮影)
(JR信越本線 黒姫駅舎の全景)(2014年4月撮影)
(JR黒姫駅にて 撮影) (2014年4月撮影)
タクシーの女性ドライバーさんが駅名標を入れて写してくれました。
冬の時期は野尻湖畔には行かない方が良いかなとのコメント。
ナウマン象の骨が出土し、その博物館が有るんだけどね。
(長野県信濃町の マンホールの蓋)(2014年4月撮影)
(小林一茶の句碑)
(江戸時代から続く 宿場の旅館)(2014年4月撮影)
やはり標高が高いので昼間でも気温が3度ぐらい凄く寒い散策でした。
まだ奥信濃路は4月上旬と言えども、冬の気温に近いですよね。
デジカメ撮影をほどほどにして再びJR黒姫駅へ向へ戻りましたんや。
(189系+183系 JR信越本線 妙高号)
この電車も2019年に運行を停止して除籍されたとフアンのコメント。
最後は臨時の特急「あずさ」や「おはようライナー」などで活躍し
どうやら2020年中にも解体されるとのコメントがありますね。
(JR信越本線 車中から撮影) (2014年4月撮影)
(JR信越本線 豊野駅を通過)(2014年4月撮影)
ここまで下がってきたら積雪はゼロ、間もなくJR長野駅に到着するようです。
長野市は人口36万8千人で長野県の県庁所在地ですよね。
勿論、長野県では人口が一番多く、善光寺さんの門前町でもありまぁ。
(長野市の マンホールの蓋) (2011年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅舎 善光寺口)(2011年4月撮影)
(JR長野駅 連絡通路)(2014年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅 駅名標) (2014年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅 新幹線口)(2014年4月撮影)
善光寺に今回は参拝を遠慮して松代に路線バスで向かうことにしました。
松代は現在は長野市内になりますが江戸時代は真田藩10万石の城下町。
(松代の真田藩邸)(2014年4月撮影)
(長野市松代の 武家屋敷)
(観光用に再建された 松代城内)(2014年4月撮影)
(松代の蕎麦屋さんで 昼食) (2014年4月撮影)
とろろそば定食と地ビール1本だった記憶だけど定かじゃおまへん。
(長野電鉄 松代駅舎) (2014年4月撮影)
なんでも長野電鉄のこの支線が来年にも廃止に成ると蕎麦屋のおばさんお話。
それじゃ今回乗って見るかと立ち寄ったら次の電車まで30分待ち。
この古い駅舎も取り壊されて今は存在しないはずですよ。
(長野電鉄 屋代線の電車)(2014年4月撮影)
(しなの鉄道 屋代駅舎)(2014年4月撮影)
(長野県千曲市の マンホールの蓋)
(長野県更埴市の マンホールの蓋)
実は更埴市と千曲市は2003年(平成15年)に合併したんだそうです。
だから更埴市のマンホールの蓋は昔の物が残っていると言う訳ですな。
(あんずの里) (2011年4月撮影)
(あんずの花 一輪だけ) (2011年4月撮影)
(あんずの里から 戸隠方向の雪山を撮影) (2011年4月撮影)
あんずの花祭りが始まったと聞いて路線バスでやって来たんだけど
あんずの花は一輪だけ咲いているだけで、時間の無駄をしました。
(あんずの里で 路線バスと撮影)(2011年4月撮影)
路線バスのドライバーさんに慰められて写真を一枚だけお願いしました。
しなの鉄道の屋代駅に戻り長野県の上田駅の方へ動くことにしました。
(169系 しなの鉄道)(2014年4月撮影)
JR東日本から一編成だけ譲渡の電車だけど2016年に引退したとのこと。
しなの鉄道はこのようにJRの古い電車を利用して黒字を出しているとか?
そろそろ新型電車を製造して入れ替える時期には来ているようだけど。
(長野県上田市の マンホールの蓋)
ご存じ真田家の六文銭を描いている真田家の発祥の地ではあるけど。
真田家は1622年(元和8年)にここ上田城から松代へ領地替えを命じられ
明治維新まで長野市の松代の時代の方が長いんだけどね。
上田市が先に六文銭の家紋を採用したから本家のように思っているのかも?
まあ~ 同じ真田家の領地として観光では仲良く並立しいるのかも。
(しなの鉄道 信濃国分寺駅舎)(2014年4月撮影)
上田市は現在は人口15万3千3人と長野市や松本市に次ぐ県下第三位の都市。
だけど、奈良時代から平安時代には国分寺が置かれ国府も在ったとの説。
当時は長野市や松本市よりも大きな信濃の国の中心地だったようでっせ。
(信濃国分寺跡)
この信濃国分寺は平将門が平貞盛を関東から追ってきて戦闘に成り
国分寺はその際に兵火により焼失したとのことらしい。
平将門が信濃の国までやって来たとは信じられないけどね。
(長野県小諸市 鉄ちゃん爺やの定宿)
信州から昔の会社である埼玉へ、逆に埼玉から信州へ、鉄ちゃん爺やの
一人旅をする際の定宿に成った感がしますんや。
(長野県小諸市の マンホールの蓋) (2009年4月撮影)
(しなの鉄道 小諸駅舎)(JRと併用の駅舎)
新幹線がお隣の佐久平に駅が出来た関係で少し寂しいかな?
でも東信濃路では現在も重要な街の一つでは有りますけど。
人口が4万1千人と、こじんまりした街ですが趣のある観光地で
江戸時代の宿場町の雰囲気も残して居るように思いますな。
(小諸城址 懐古園・三之門)(2010年3月撮影)
(長野新幹線 軽井沢駅前にて 自撮り)
(浅間山の夕暮れ)
長くなりましたので今回はこれにて中断いたします。
次回は日本三大車窓のJR姨捨駅や松本城などを巡ります。
ほな~ これで、さいなら~♪
昔の画像から机上で編集した旅行ですので悪しからず。
今は引退した鉄道車両など懐かしく再現した物なので宜しくね。
2015年(平成27年)3月に北陸新幹線が金沢駅まで延伸。
多くの線区が第三セクターに移管され列車も大きく変わりましたんや。
(683系 特急はくたか) (北越急行の車両)(2014年10月撮影)
北陸新幹線が金沢駅まで開通する前は関東から北陸へ向かう優等生でした。
上越新幹線で越後湯沢駅で乗り換えて「はくたか」で金沢駅まで
最速で4時間ぐらいで東京駅から金沢市へ行けるようでしたかな。
お役ご免でこの車両はJR西日本へ譲渡され塗装を変えて金沢駅から
名古屋駅へ向かう特急「しらさぎ」に使用されているとのこと。
(JR富山駅 駅名標)(2014年10月撮影)
(あいの風とやま鉄道 PR表示板)
ご承知の通り昔の北陸本線は新潟県の直江津駅までJR西日本の管轄。
それが北陸新幹線が出来たために金沢駅から先が細切れに分割されて
石川県内が IRいしかわ鉄道 金沢駅 ~ 倶利伽羅駅
富山県内が あいの風とやま鉄道 倶利伽羅駅 ~ 市振駅
新潟県内が えちごトキメキ鉄道 市振駅 ~ 直江津駅
金沢駅から東へは北陸新幹線をご利用くださいだって、悲しいね。
鉄ちゃん爺やのように普通列車の旅を楽しむことが難しくなりましたんや。
(JR富山駅構内の 立ち食いそば屋さん)(2014年10月撮影)
現役時代はここで、そばを食べて得意先へ向かったことがおます。
当時は地上のホームでしたので、北陸新幹線が開通後には
在来線も高架式のホームに変わり、今は営業をしているのかしら?
(455系 JR西日本 交流型郊外電車)(2014年10月撮影)
この455系の電車も国鉄時代からのロートルなので引退したはず。
糸魚川駅から直江津駅方面へ向かいまひょ、出発! 進行!
画像の2014年(平成26年)ならこんな感じでしたな。
現在は途中の泊駅で乗りかえて直江津駅まで約2時間チヨイの旅になりまぁ。
(北陸新幹線 上越妙高駅 駅名標) (2016年7月撮影)
富山駅から新幹線に乗り上越妙高駅まで各駅停車で40分でした。
ここで、えちごトキメキ鉄道はねうまラインで高田駅へ向かいまひょ。
(JR高田駅舎=現在は えちごトキメキ鉄道)(2011年4月撮影)
(JR時代の 高田駅 駅名標) (2011年4月撮影)
(新潟県上越市の マンホールの蓋)(2014年4月撮影)
新潟県上越市は1971年(昭和46年)に直江津市と高田市が合併して
新潟県では新潟市・長岡市に次ぐ三番目の大都市に成るようですわ。
人口が約18万8千人で冬場は新潟県でも豪雪地帯に含まれますんや。
(新潟県上越市 JR高田駅前の商店街) (2011年4月撮影)
こんな雪除けの街並みが高田城址まで続いているようでした。
訪れたのは4月4日で関西では桜が満開を迎えるような時期でしたかな。
高田城址は桜の名所ですが、とてもじゃないが寒くてまだ冬の季節でしたよ。
(JR高田駅構内の ステンドグラス)(2011年4月撮影)
JR東日本から、えちごトキメキ鉄道に変わったけど高田駅舎は
そのまま使用されていると思いまんねんで。
素晴らしい駅舎でこのまま受け継がれて残ることを希望しますね。
それでは、当時のJR信越本線・高田駅からJR長野駅へ向かいまひょ。
(189系 JR東日本 普通電車 妙高号)(2011年4月撮影)
JRの普通電車や快速電車には愛称がつかないんですが、例外がおました。
当時のJR信越本線で長野駅から直江津駅までを一日4往復だけしていた
普通電車「妙高号」はグリーン車まで連結した例外の電車でしたんや。
元は国鉄の信越本線で特急「あさま」として走っていた特急列車で
普通電車なので指定券なしで乗れるマニアには良く知られた電車でしたかな。
(189系 妙高号の車内)(2011年4月撮影)
特急列車で利用されただけに座席はリクライニングの素敵な雰囲気ですかな。
それでは、残雪の信越国境を越えてJR黒姫駅へ向かうことにしまっせ。
(建設中の北陸新幹線 上越妙高駅付近を通過) (2011年4月撮影)
豪雪地帯の信越国境ですから街を離れると周りは雪景色に変わりましたよ。
実は東日本大震災の直後で関東へ向かうのを止めて信州旅行をした画像です。
(名峰 妙高山の遠景) (2011年4月撮影)
新潟県と長野県の境に独立峰で聳える日本百名山の一つですよね。
標高が2454mもあり信越国境ため積雪も多いようですよ。
この妙高の中腹に現れる雪形が馬が跳ねる姿に見えるので地元では
「はねうま」と呼び、「えちごトキメキ鉄道はねうま線」と呼ぶ
第三セクターの鉄道の名前としてのルーツに成っていますよ。
(JR二本木駅で 妙高号とすれ違い)
ここは現在でもスイッチバックが残る珍しい駅なんですよ。
妙高山の麓をJR信越本線は高度を上げながら長野方面へ進みます。
(JR妙高高原駅を通過) (2011年4月撮影)
ここまでが新潟県で「えちごトキメキ鉄道」は現在は乗り換えになり
長野県の「しなの鉄道・北しなの線」と変わるようでんな。
(JR妙高号の 車中より撮影) (2014年4月撮影)
(上信越自動車道路も 並行しているのかも) (2014年4月撮影)
この辺りが地図上で長野県と新潟県の県境を通過しているんだそうです。
次のJR黒姫駅で途中下車してみようと思います。
(JR黒姫駅 プラットホームにて撮影)(2014年4月撮影)
(JR信越本線 黒姫駅舎の全景)(2014年4月撮影)
(JR黒姫駅にて 撮影) (2014年4月撮影)
タクシーの女性ドライバーさんが駅名標を入れて写してくれました。
冬の時期は野尻湖畔には行かない方が良いかなとのコメント。
ナウマン象の骨が出土し、その博物館が有るんだけどね。
(長野県信濃町の マンホールの蓋)(2014年4月撮影)
(小林一茶の句碑)
(江戸時代から続く 宿場の旅館)(2014年4月撮影)
やはり標高が高いので昼間でも気温が3度ぐらい凄く寒い散策でした。
まだ奥信濃路は4月上旬と言えども、冬の気温に近いですよね。
デジカメ撮影をほどほどにして再びJR黒姫駅へ向へ戻りましたんや。
(189系+183系 JR信越本線 妙高号)
この電車も2019年に運行を停止して除籍されたとフアンのコメント。
最後は臨時の特急「あずさ」や「おはようライナー」などで活躍し
どうやら2020年中にも解体されるとのコメントがありますね。
(JR信越本線 車中から撮影) (2014年4月撮影)
(JR信越本線 豊野駅を通過)(2014年4月撮影)
ここまで下がってきたら積雪はゼロ、間もなくJR長野駅に到着するようです。
長野市は人口36万8千人で長野県の県庁所在地ですよね。
勿論、長野県では人口が一番多く、善光寺さんの門前町でもありまぁ。
(長野市の マンホールの蓋) (2011年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅舎 善光寺口)(2011年4月撮影)
(JR長野駅 連絡通路)(2014年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅 駅名標) (2014年4月撮影)
(JR信越本線 長野駅 新幹線口)(2014年4月撮影)
善光寺に今回は参拝を遠慮して松代に路線バスで向かうことにしました。
松代は現在は長野市内になりますが江戸時代は真田藩10万石の城下町。
(松代の真田藩邸)(2014年4月撮影)
(長野市松代の 武家屋敷)
(観光用に再建された 松代城内)(2014年4月撮影)
(松代の蕎麦屋さんで 昼食) (2014年4月撮影)
とろろそば定食と地ビール1本だった記憶だけど定かじゃおまへん。
(長野電鉄 松代駅舎) (2014年4月撮影)
なんでも長野電鉄のこの支線が来年にも廃止に成ると蕎麦屋のおばさんお話。
それじゃ今回乗って見るかと立ち寄ったら次の電車まで30分待ち。
この古い駅舎も取り壊されて今は存在しないはずですよ。
(長野電鉄 屋代線の電車)(2014年4月撮影)
(しなの鉄道 屋代駅舎)(2014年4月撮影)
(長野県千曲市の マンホールの蓋)
(長野県更埴市の マンホールの蓋)
実は更埴市と千曲市は2003年(平成15年)に合併したんだそうです。
だから更埴市のマンホールの蓋は昔の物が残っていると言う訳ですな。
(あんずの里) (2011年4月撮影)
(あんずの花 一輪だけ) (2011年4月撮影)
(あんずの里から 戸隠方向の雪山を撮影) (2011年4月撮影)
あんずの花祭りが始まったと聞いて路線バスでやって来たんだけど
あんずの花は一輪だけ咲いているだけで、時間の無駄をしました。
(あんずの里で 路線バスと撮影)(2011年4月撮影)
路線バスのドライバーさんに慰められて写真を一枚だけお願いしました。
しなの鉄道の屋代駅に戻り長野県の上田駅の方へ動くことにしました。
(169系 しなの鉄道)(2014年4月撮影)
JR東日本から一編成だけ譲渡の電車だけど2016年に引退したとのこと。
しなの鉄道はこのようにJRの古い電車を利用して黒字を出しているとか?
そろそろ新型電車を製造して入れ替える時期には来ているようだけど。
(長野県上田市の マンホールの蓋)
ご存じ真田家の六文銭を描いている真田家の発祥の地ではあるけど。
真田家は1622年(元和8年)にここ上田城から松代へ領地替えを命じられ
明治維新まで長野市の松代の時代の方が長いんだけどね。
上田市が先に六文銭の家紋を採用したから本家のように思っているのかも?
まあ~ 同じ真田家の領地として観光では仲良く並立しいるのかも。
(しなの鉄道 信濃国分寺駅舎)(2014年4月撮影)
上田市は現在は人口15万3千3人と長野市や松本市に次ぐ県下第三位の都市。
だけど、奈良時代から平安時代には国分寺が置かれ国府も在ったとの説。
当時は長野市や松本市よりも大きな信濃の国の中心地だったようでっせ。
(信濃国分寺跡)
この信濃国分寺は平将門が平貞盛を関東から追ってきて戦闘に成り
国分寺はその際に兵火により焼失したとのことらしい。
平将門が信濃の国までやって来たとは信じられないけどね。
(長野県小諸市 鉄ちゃん爺やの定宿)
信州から昔の会社である埼玉へ、逆に埼玉から信州へ、鉄ちゃん爺やの
一人旅をする際の定宿に成った感がしますんや。
(長野県小諸市の マンホールの蓋) (2009年4月撮影)
(しなの鉄道 小諸駅舎)(JRと併用の駅舎)
新幹線がお隣の佐久平に駅が出来た関係で少し寂しいかな?
でも東信濃路では現在も重要な街の一つでは有りますけど。
人口が4万1千人と、こじんまりした街ですが趣のある観光地で
江戸時代の宿場町の雰囲気も残して居るように思いますな。
(小諸城址 懐古園・三之門)(2010年3月撮影)
(長野新幹線 軽井沢駅前にて 自撮り)
(浅間山の夕暮れ)
長くなりましたので今回はこれにて中断いたします。
次回は日本三大車窓のJR姨捨駅や松本城などを巡ります。
ほな~ これで、さいなら~♪
善光寺や松代はすこし遠いですし
駅の側にある長野電鉄のビルぐらいでしょうな。
姨捨駅は行かれたんですね、私も機会があれば一度ぐらい田毎の月を見ながら歩いて
千曲川から屋代駅へ下ってみたいと思います。
逆は登りがきついので自信がおまへんけど。
銀河で2回ぐらい東京駅まで乗りました。
普通電車での大阪駅から東京駅までは
現役時代に1往復と引退後に大阪駅から上りだけ
2回乗りましたよ、確かに電車に乗るのが
好きでないと腰と背中が痛くなりますよね。
そして篠ノ井駅から長野駅まで加えて
直江津駅から新潟駅までと
分断されて変な路線に変わってしまいました。
しなの鉄道もJRが篠ノ井駅から長野駅までを手放さないのでこちらも分断ですね。
しなの鉄道は昨年まで黒字で頑張っているのが面白いのと
JRが意地悪している気もしますけど。
入場して2時間ぐらい散策しました。
蕎麦屋さんがありましたね、そこだったか
ホテルの中だったか忘れましたが
大盛りの蕎麦を食べたように記憶します。
小諸のホテルにはここ15年ぐらいで
5回ぐらい宿泊しました。
小さい街ですが昔の趣が残る良い街だと
私はそのように考えていますけど。
ユックリ見させて貰っています。
懐かしいところもあります
長野駅です、時間が余ってしまい
予定より早めの新幹線に乗って帰って来ました。
次回は姨捨駅ですか?私らも行ったところです。
「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンが鉄道に興味を持つきっかけだったとは。
そんな催しがあったことも知りませんし、息子さんと挑戦、50線区の表彰を受けられたというコメントにはびっくりしました。
相当な金額を国鉄に貢がれましたね。
私が挑戦したと言えるのは、大阪ー東京間の普通列車が廃止されることを知って、半年前にその夜行列車に乗ったことです。
東京駅に着いたのは午後何時だったでしょうか、腰が痛かったのを覚えています。
20代の頃でしたから、まだ国鉄の時代でしたね。
激しいですね。市町村の
合併も。歴史も詳しいですね。
真田氏のこともよかったです。
各駅停車の汽車に乗って、次の汽車までの時間を、タクシーで駆けずり回りました。
小諸は娘夫婦とドライブした記憶、懐古園の門前の蕎麦屋で信州そばが美味しかったことと、メニューにもり蕎麦、中もりそば、大もり蕎麦があったのを不思議に思って、
大盛の大きさを聞いたら1kgあると言うので、
もり蕎麦にしたら、東京の大もり蕎麦くらいの量だった記憶です。
藤村記念館があって、「まだあげそめし前髪の」の
自筆の「初恋」の詩集が展示してありました。
それからシマヘビが赤カエルを飲み込む途中に出合い、
孫息子に蛇がカエルを食べている現場を見せました。