鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  誉田八幡宮をデジカメ撮影

2016-05-14 16:51:11 | デジカメ散歩
鉄ちゃん爺やの地元では、堺市と藤井寺市との協賛で
「世界文化遺産を大阪に!」 運動をやってますんや。

百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と我が町の
古市古墳群を統括して世界文化遺産にとの運動でんな。

その一環としてGW中に開催されたのが

「グリーンフェスタはびきの」でっせ。

 ~来て・見て・学ぶ  未来へつなぐ古市古墳群

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の境内を利用して
開催され、多くの参加者で賑わいましたんや。

誉田八幡宮の北側には、面積では日本第2位で有り
体積では日本最大の古墳が、応神天皇陵なんでっせ。

(東高野街道の 石碑)



描かれているのは誉田八幡宮の9月15日の大祭で
江戸時代の絵図から拝借したものでしょうな。

東高野街道は生駒山の山麓から我が町を通過して
河内長野市内で西高野街道と合流し、最終は
高野山の金剛峯寺まで続く古い街道なんでっせ。

(東高野街道と誉田八幡宮の土塀)



(誉田八幡宮の 鳥居)





ご存じの通り、全国に在る八幡宮とは応神天皇と
母親の神功皇后をお祀りしている神社でっせ。

何でも日本で一番、数の多いのが八幡宮なんだって。

神社本庁に登録されているのが7817社だそうで
登録されていない八幡神社を合わせると約2万社とも
称されていて、実際の数は不明とのこと。

因みに、別の神様もお祀りしている八幡宮の場合は
通常は、八幡神社と呼ばれることが多いようでんな。

「宮」と付くのは天皇や皇族をお祀りした神社でっせ。

会社や個人宅に在る、お稲荷さんも神社と数えれば
稲荷大社が一番だという説もおますけどね。

(誉田八幡宮=こんだはちまんぐう 拝殿)





(誉田八幡宮の 拝殿の彫刻)





第15代応神天皇は誉田別命(ほんだわけのみこと)と
お呼びし、そのお名前を頂いた由緒ある神社でおます。

日本書紀には欽明天皇20年(559年)に応神天皇の
お墓の前に神殿を設けたと記されているそうです。

だから~ 日本最古の八幡宮なんですが、疑問符も?

実は「八幡さま」が歴史上に現れるのは奈良時代の
東大寺の大仏様を建立する際に九州からやってきた?

道鏡の陰謀を防いだことで、皇祖神に昇格されます。

そんな訳で皇祖神として京都の石清水八幡宮に鎮座。

その過程で応神天皇が八幡さまに崇められたようでっせ。

後に源氏の氏神として、武士階級や庶民にも信仰される
「八幡さま」という親しみのある神様になられたとか。

元々は応神天皇とは別の神様だったのが、平安時代に
神仏習合で「八幡大菩薩」とも呼ばれることになる。

前置きが長くなりましたが、結果論になりまっけど
応神天皇の御陵の奥に鎮座される、誉田八幡宮は
日本最古と言えるのかもしれまへんな。

(石見神楽が 島根県から来訪)









世界遺産の「石見銀山」に伝わる石見神楽の一座が
奉納と応援を兼ねて、島根県から来訪されてますんや。

この日は八岐大蛇(やまたのおろち)退治ではなくて
日本武尊(やまとたけるのみこと)の出し物だった?

それとも八幡神の出し物かは、定かじゃないでっけど。

鉄ちゃん爺やが3月に安芸高田で見損なった神楽と
同じルーツを持つ古い、民俗神楽だそうですわ。

(応神天皇陵古墳の 航空写真)



画像の一番下の辺りに誉田八幡宮がおますんや。

古市古墳群では最大の古墳で墳丘長が425mもあり
堺市の仁徳天皇陵に次ぐ大きさとされてまっせ。

実は鉄ちゃん爺やの興味は別の処にあったんですわ。

この応神天皇陵の墳丘が中世の地震で変形している
そんな話を確認したくて、係りの方との談話。

(応神天皇陵古墳と 活断層)





1枚目の画像で左側上部がいびつに広がっている
そこは、中世に大きな地震が襲い応神天皇陵の
墳丘を崩してしまった、活断層の跡なんだって。

2枚目の右側には、その活断層の一番下の部分が
鉄ちゃん爺やの、お向かいの家の下をかすめて
現在は2~3mぐらいの段丘になってますんや。

地元では誉田断層と呼んで、室町時代にM7.2
直下型の地震があったと記録にも残っているとか。

(グリーンフェスタはびきの 幟)



この日は、熊本・大分の地震による義援金募集の
イベントも兼ねて、軽トラ市と呼ばれるバザーも
ここや、近くの駒ヶ谷公園などで開催されました。

普段は見れない誉田八幡宮の国宝も有料で公開。

9月15日の八幡宮の大祭に写した画像を復元し
ここに、貼り付けて置きまひょ。

(国宝 塵地螺鈿金銅装神輿)





建久年間に源頼朝が奉納した国宝のお神輿だっせ。

源頼朝の祖先はここから南東へ約3kmほど
河内源氏の源頼義や八幡太郎・源義家でんな。

この国宝のお神輿は年に一度だけ無料で観れまつせ。

9月15日の大祭の際には拝殿の前に飾られますんや。

その画像が2枚目の画像でっせ。

(秋の大祭に 渡御するお神輿)









夕方から、神官や氏子さんに担がれるそうで。

年に一度だけ、放生橋(ほうじょうはし)を渡って
応神天皇陵内に入り、神事が行われるそうですわ。

普段は柵で立ち入りは出来ないようになってまぁ。

無断で侵入したら宮内庁や誉田八幡宮によって
逮捕されるかもしれまへんので念の為。

(国宝 金銅製透彫り蔵金具)





江戸時代に応神天皇陵の北側の陪塚から出土したそうで
現在は、誉田八幡宮の所有する国宝になってますんや。

応神天皇陵が造られた頃には、馬具などが朝鮮半島から
伝わり、馬の騎乗が始まっていたと考えられるそうでっせ。

こんな伝説も日本書紀に載っているそうですわ。

(誉田八幡宮の 神馬)





田辺某という豪族が誉田の森を馬で通過しようとしたら
境内に素晴らしい駿馬1頭が繋がれていたんだって。

自分の馬と交換して乗って帰ったところ、翌朝になり
その馬を見たら、大きな埴輪に変わって居たんだって。

改めて、誉田の森に「馬の埴輪」を持って行ったら
そこには、自分の馬が繋がれていたというお話。

5世紀ごろには馬の騎乗があり、埴輪も作られていた。

そんな事を伝える逸話のようでんな。

ついでに、9月の八幡宮の大祭の画像も載せて置きまひょ。

(誉田八幡宮 秋の大祭 9月15日)









巫女さんが日本刀を使ってお神楽を演じておられまっせ。

本当は撮影したらダメだそうですが、ご免なさいね。

(誉田の林古戦場跡の碑)





室町時代には何度もこの辺りを中心にして合戦があり
大坂夏の陣ではテレビで放映中の真田丸に登場する
真田幸村もこの辺りで、伊達政宗軍と衝突し相手に
大きな損害を与えてから、大坂城に撤退したんだって。

(誉田八幡宮の 南大門)



江戸時代まで長野山護国寺と呼ばれる神宮寺がおました。

明治の廃仏毀釈で、現在は唯一のこる、当時の山門でんな。

(古市古墳群の 航空写真)



古市古墳群を、ほぼ網羅して撮影されたような感じ。

やや右寄りの大きな緑色の森が、応神天皇陵だっせ。

中央やや左のお濠で囲まれている古墳は、日本武尊陵
(やまとたけるのみことりょう)でおます。

一番右下の小さな古墳でっけど、墳丘はこれで100m
安閑天皇陵(あんかんてんのうりょう)でおます。

その下、左寄りに鉄ちゃん爺やの自宅の屋根が写ってまぁ。

画像に写っているだけで宮内庁管理の古墳だけで12基
消滅した古墳も含めれば約4km四方に約130基もの
古墳が確認されているのが古市古墳群でおます。

世界文化遺産に登録される頃には、おそらく
鉄ちゃん爺やは、この世に生きてないでしょうな。

今日はこれにて、お仕舞にしまっさ。

これで~ さいなら~♪



コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする