鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの一人旅   高岡市内を歴史散歩  

2014-12-14 15:26:21 | 旅行
高岡市と云うのは富山県の北西部に在り人口約17万人で
富山県下では富山市に次ぐ第二位の都市なんですよ。

この町は律令時代には越中の国府が置かれ奈良時代には
大伴家持が国司として赴任した事が記録にも見られますね。

万葉線だとか万葉ロードなど現在もイメージ付けで
高岡市内では万葉の言葉があちこちで見かけますかな。

下の画像は2013年(平成23年)完成の駅舎です。

(JR北陸本線 高岡駅舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

でも現在の高岡市を発展させた功労者は「前田利長」で
この方を中心にして今回はお話しをさせて頂きまひょ。

「前田利長=まえだとしなが」って知らないけど?

おそらく日本歴史に詳しい人しかご存知ないでしょうな。

豊臣家の五大老として徳川家康と共に活躍した前田利家なら
少しは分かって貰えるかもしれませんね。

その前田利家と正室まつ、との間に生まれた長男です。

加賀百万石は前田利家が初代と考えて居られるようですが
厳密には関ヶ原の戦いの後に前田利長公が加増されて初めて
100万石に達したというのが正しい答えなんですよ。

歴史のお話しが続きますので興味の無い方は
画像だけを見られてスルーしてくださいね。

(金沢城 石川門) (2011年4月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1598年(慶長3年)4月に前田利家公は家督を長男・前田利長に譲り
前田利長は越中の守山城から金沢城へ入城されたと記録が残ってますね。

豊臣秀吉の命で権中納言に任官し晴れて加賀・前田家の当主と成った訳です。

同年8月に豊臣秀吉は亡くなられるので、ご存知のとおり前田利家公は
隠居できず五大老の一人として豊臣秀頼の傳役を秀吉から遺言で託され
大坂城へ入城し徳川家康公は伏見城へ入られることになりますよね。

当時、前田利長公は加賀・越中で約75万石ぐらいのお殿様で
同じく同腹の弟・前田利政は能登七尾で21万石のお殿様でした。

共に豊臣秀吉から拝領した領地と云うことになりますかな。

(現在の 大阪城天守閣)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1599年(慶長4年)の新年は大坂城に於いて
前田利家公に抱かれた豊臣秀頼に向かって諸大名は平伏し
あの徳川家康公も新年の挨拶を述べたことになっていますね。

前田利家公は太閤秀吉と同い歳の生まれと記録されています。

徳川家康公としても一目置かざるを得ない先輩になりますかな。

その直後である閏3月前田利家公は大坂で亡くなってしまいます。

死の直前に前田利長公を枕元に呼び寄せこう命じたそうです。

「三年間は加賀に戻る事なく秀頼様をお守りせよ」

「万が一に戦いが生じるならば利長・利政の二人で
  兵を分けて加賀・越中・能登三国と大坂城を守れ」

歴史には「たら~ れば~」ば禁物なんですが
もし前田利家公が5年~10年ぐらい長生きしておれば
徳川家康公の天下は無かったかも知れないとされてますね。

何せ、前田利家公の正室まつ殿と豊臣秀吉の正室である北政所とは
尾張弁で話をする仲でもあり、尾張出身の豊臣秀吉傘下の武将も
ほとんどが、同じ尾張出身の前田利家公に肩入れをしたと考えます。

(大阪城を 京橋口から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

前田利長公は親父の死後は入れ替わって五大老の職に就かれました。

でも徳川家康公とは年齢が20歳ぐらい下ですから親父の時代とは
貫録もちがい主導権は徳川家康公に移るのは致し方がなかったのかも。

徳川家康公から一度、金沢へ戻られたら如何と云われ軽く承知し
金沢へ帰国したら国元で謀反を企んでいると訴えられます。

徳川家康公と一戦もと考え金沢城を修理し豊臣家に援軍を求めるも
とうとう無しのツブテだったとの説。

母親の芳春院(まつ)も関東で255万石もの太守である家康公とは
戦っても100万石を切る前田家だけでは勝ち目はなし。

徳川家康公の策略に嵌ってしまったと云うべきですかな。

ここは芳春院(まつ)が江戸へ人質として下向し徳川家康公に
詫びを入れて前田家を存続させることを最優先にしたようですね。

その際に前田利長公が隠居する代わりに異腹弟・前田利常に将来
家康公の孫娘を嫁がせることを条件に家督も譲ると決められたとか。

当時は前田利常は6歳で徳川秀忠の娘も3歳だったそうですね。

徳川家康公も前田家2万超の兵力を味方にしたかったようですな。

こんな交渉が成立して関ヶ原の戦いの前哨戦には前田利長公は
東軍側に付き、西軍の大聖寺城の山口宗永を攻めていますね。

続いて越前の福井まで出陣し西軍の青木一矩を降伏させています。

ここまでは弟の前田利政も同行しているんですが、西軍の敦賀勢が
海岸から金沢へ上陸するとの情報で軍を返してしまうんですよね。

(関ヶ原の 戦場址) (2010年8月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1600年(慶長5年)9月が有名な関ヶ原の戦いになりますね。

結論を先に述べますと前田利長公は関ヶ原の戦場へ向かおうとしますが
加賀の国で西軍だった丹羽長重の小松城を開城させるのみで終わりました。

これは前哨戦で同行した同腹弟の前田利政が西軍に廻り出陣を拒否。

前田家でも豊臣家よりの家臣が前田利政に走ったとの事のようです。

丹羽長重も織田信長の娘を共に嫁にする義兄弟と微妙な関係に有ります。

前田利長公は織田信長の四女である永姫を正室にされていたとか。

関ヶ原の戦いが終わった後は弟の前田利政の能登の領地は前田利長公に
丹羽長重や山口宗長の領国だった加賀の国の南部二郡も
前田家に加増されて初めて120万石の大大名に成った訳ですね。

前田利長公も弟の前田利政を隠居させて京都へ追放したけど殺さず。

義兄弟の丹羽長重も国外に退去させるも、後に江戸幕府に働きかけて
東北で小大名として復活させるような道も残したようですよ。

前田利政は親父の遺言を守り豊臣側に義を尽くしたとも兄弟で談合し
前田家が勝っても負けても家名が残るようにしたとの説もおますな。

隠居中の前田利政は大坂冬・夏の陣で豊臣側と徳川側から共に
誘われるも大野修理ごときの指図を受ける気はないし
徳川家康公に義理立てする気も無いと丁重にことわったとの事。

前田利政の長男が後に前田土佐守家として加賀前田家に復帰して
芳春院の化粧領を含む1万1千石で家名を保っているそうです。

(JR高岡駅 古城公園口)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

その前田利長が親子ほど歳の差が有る弟の前田利常に家督を譲り
隠居することになり富山城に入られるのが1605年(慶長10年)

前田利常は京都で元服し晴れて徳川2代将軍秀忠公の娘で千姫の妹
家光の姉である珠姫と結婚され加賀の国で三男五女をもうけておられます。

この前田利常というお方は生母が側室の(ちよ)寿福院で
おそらく京都辺りでお生れに成った前田利家公の晩年の
お子供さまで四男とされていますね。

前田利長公は徳川の娘が前田家の嫁として迎えたことを見届けて
富山城に入り養老分として越中22万石で隠居をされましたよ。

その富山城が1609年(慶長14年)に大火で焼失してしまい
徳川家康公の許可を得て新しく城を築いたのが現在の高岡城址で
建設中の同年9月に高岡城へ入られたと記録されてますね。

それじゃ現在は古城公園と呼ばれている高岡城址を紹介しまひょ。

(高岡城址 古城公園)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

加賀前田家第2代目藩主・前田利長公は母親のまつ(芳春院)を
江戸幕府に人質に出してまで謀反の疑いを晴らして隠忍自重し
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、晴れて加賀百万石を成し遂げた
名君なんですが、世間の評判はあまり芳しくないようですな。

実は親父の前田利家公が死に際し「三年間は加賀に戻るな」との
遺言を残し秀頼様を守れとの命令を無視して大坂城から帰国した事。

だらしなく徳川家康公の軍門に下ったからでしょうかな。

(古城公園内 本丸広場)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

母親の芳春院とも相談して豊臣家を守るより前田家を守る事を
最優先にしようと考えた結果だと云われていますけど。

もはや天下は徳川様で決まりだと芳春院も前田利長公も肌で感じ
加賀百万石を如何にして存続させるかに努めたんだと思いますね。

(前田利長の銅像  本丸広場)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この方は親父の前田利家公と一緒に何度も戦場に出て居られて
けして軟弱な武将じゃないんですが、歴史上では加賀百万石を
守り抜いた名君としての評価のみが記録されていますね。

年齢は加藤清正や福島正則と同じ年齢で2代将軍徳川秀忠とは
17歳も年齢が上になるという歴史上の人物になりますよ。

彼が豊臣秀吉により初めて領地を与えられたのが越中の三郡で
現在の高岡市を含む23万石だったと云われています。

そんな縁もあって隠居の地も養老の所領も越中の国に纏めて
加賀の本国は全て弟の前田利常に譲り渡したようですな。

(古城公園の お堀端)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

大坂冬の陣直前の1614年(慶長19年)5月に
前田利長公は、ここ高岡城で亡くなってしまいました。

まだ53歳という年齢から毒殺との噂もあるようですな。

大坂夏の陣(1915年)が終り完成し高岡城だったのに
翌年に出された元和の一国一城令により高岡城は取り壊し。

だけど弟の前田利常は城郭やお堀は兄の遺産として全て残し
城下町の住民も金沢に移動を禁止する法令を出してますんや。

恩人である兄が残した高岡を加賀前田家の本領に加えるも
街並みや産業は維持したかったようですな。

だから現在も昔の姿を残している古城公園なんですよ。

本来は側室の子である前田利常は藩主に成れない身分
それを四男の自分に家督を譲った兄の恩を終生忘れずに
高岡市内に立派な墓所や菩提寺を造らせているんですよ。

それでは菩提寺の瑞龍寺(ずいりゅうじ)へ行きまひょ。

(曹洞宗 瑞龍寺=ずいりゅうじ 総門)(重要文化財に指定)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

画像の説明書きでこのお寺の由来はお分かりになりますよね。

鉄ちゃん爺やは平成4年頃の12月に悪友4人とこのお寺を
訪れてますんや、今回は単独で二度目の参詣となりました。

大きなお寺がこんな地方都市にとしか当時は考えませんでした。

でも加賀百万石をスタートさせた前田利長公がお祀りされていて
建立したのが異母弟の前田利常だと云う処に興味がおました。

(曹洞宗 高岡山・瑞龍寺の山門)(国宝に指定されています)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(国宝 瑞龍寺 伽藍の配置図)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

鉄ちゃん爺やが前回に訪れた時には国宝にはなってませんでした。

1997年(平成9年)に山門・仏殿・法堂の三つが
富山県では初めての国宝に指定されたそうですよ。

重要文化財の総門から国宝の山門・仏殿・法堂を一直線に配置し
左右に禅堂と大庫裏を置き周囲を回廊で結ぶという厳粛で整然とした
伽藍構造の江戸時代初期の禅宗のお寺を代表する建物だそうです。

(国宝の仏殿を これも国宝の山門から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このお寺を建立した加賀前田家第3代藩主・前田利常さんは
世間では「馬鹿殿さま」とされていますよね。

鼻毛を伸ばすやら小便を垂らしたりの馬鹿殿さまぶりを示す事によって
徳川幕府には謀反を起こすような器じゃないとの名演技ぶりですかな。

早々と徳川秀忠の娘との間に生まれた前田光高に家督を譲ることまで。

苦労して加賀百万石を守り通した兄・利長公を見習ったような仕草。

江戸幕府から睨まれないように苦労した外様大名筆頭の前田家が
明治維新まで生き残ったのは前田利長公を模範にしたような感じ。

(重要文化財 瑞龍寺 大庫裏)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(国宝 瑞龍寺・仏殿を これも国宝の法堂から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この国宝・仏殿は1659年(万治2年)に建立された総欅造りで
屋根は鉛板で葺かれた全国でも珍しい形式の建物だそうですよ。

金沢の石川門とこの仏殿の他には見れない建造物なんだって。

堂内には中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊が祀られているそうです。

お城などを変に修復すると江戸幕府に謀反の疑いを掛けられるけど
先代の菩提寺ならいくら立派に造っても文句などは言えないだろう。

加賀百万石の粋を結集した見事な文化財なんだと思いましたね。

徳川幕府に半分ぐらい意地と加賀藩の生きざまを示しているのかも。

この建造物を見たら前田利常さんはとてもじゃないが馬鹿殿さま
だとの俗説は間違っていると鉄ちゃん爺やは感じましたね。

(国宝 瑞龍寺 法堂の内部)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

法堂は瑞龍寺の建造物の中で一番大きな建物だそうです。

中央には大きな前田利長公のお位牌が置かれていますよ。

「瑞龍院殿聖山英賢大居士」と書かれていますね。

お寺の瑞龍寺はこの戒名の最初の文字を拝借しているんですな。

1650年代は江戸時代明暦年間に竣工の建物だそうです。

側に座禅を組む場所が有りますが禅僧が修業中なのでデジカメの
撮影はお断りと書かれてますので遠慮しましたよ。

(瑞龍寺 回廊の内部)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

瑞龍寺の境内はこのような回廊で囲まれていて見学者は
山門から右回りか左回りで自由に一周することになりますね。

昔はお寺の敷地は3万6千坪もある広大なお寺だったそうです。

周囲には壕を巡らし城郭のような姿だったと書かれていますね。

(瑞龍寺の回廊と 大庫裏の屋根を外から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

現在でも5000坪は超える敷地がある名刹でしょうな。

それでは次の前田利長公の墓所の方へ歩いて行きまひょ。

(八丁道 瑞龍寺と墓所への参道)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この八丁道とは前田利長公の墓所と菩提寺の瑞龍寺を結ぶ参道ですね。

この参道は瑞龍寺に向かってその先は金沢のお城の方角になるんだそうです。

逆に前田利長公の墓所は南向きでその方角は彼の出身地であると共に
元の主君である織田信長の領国である尾張の国に向いているんだそうです。

前田利長公の墓所から瑞龍寺までの距離が昔の8丁ぐらいなので高岡市は
八丁道と名付けて観光用の参道として管理しているようでした。

(前田利長公の墓所)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

前田利長公は豊臣秀吉時代の末期に権中納言に任命されています。

死後には正二位大納言の位を追贈されてますので「公」の名前で
鉄ちゃん爺やのブログには書き込ませて頂きました。

前田利長公も前田利常も徳川家に頭を下げることには仕方がないが
加賀百万石は大半が織田信長や豊臣秀吉から拝領した土地である。

だから他の外様大名とは違うんだとの意識があったようですね。

瑞龍寺の敷地内には元の主家である織田信長と織田信忠の親子
それに織田信長の正室正覚院が前田利家公と前田利長公の親子
と並んで五つの石廟が分骨されてお祀りされていますよ。

豊臣秀吉廟だけは徳川幕府に遠慮して置かれてないのを考えれば
織田家では前田利家公と秀吉公は同僚だとの意識が有ったのかも。

前田利長公は織田信長を終生の主君として敬っていたようですね。

(自動販売機にも 前田利長公)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

高岡市内には自動販売機にも前田利長公のデザインが目立ちますね。

前田利長公が高岡城で亡くなられた時に母親の芳春院は江戸でまだ
人質生活をされ、翌月になりやっと金沢に帰る事が許されたそうです。

勿論、入れ替わりに前田利常の生母である寿福院が今度は江戸に
人質として送られたという事は厳しい外様大名の統制だったんだね。

前田利常さんは徳川幕府も4代将軍で徳川家綱公の時代である
1658年(万治元年)まで生きて、息子である前田光高の子で
前田家5代目藩主前田綱紀の時代までも後見しながら永眠。

この前田綱紀という方も79年間の長期に渡り加賀前田家の
藩主として有名な兼六園の元を築いた方でもありますよ。

加賀前田家もここに盤石の時代を迎えたように思われますね。

恩人である兄前田利長公に天国で加賀前田家を守り抜いたことを
報告されたことでしょうな。

蛇足ながら富山藩10万石は前田利常さんの次男坊で前田利次が
分家として初めて入られたので前田利長公との関連はありません。

この富山藩10万石と同時に加賀大聖寺藩7万石が三男が分家し
以降は明治維新まで加賀前田家は102万5千石の本領で
世に加賀百万石と現在まで呼ばれ続けてることになりますよ。

長々と加賀前田家のお話しを続けましたがこれでお仕舞い。

次回は鉄ちゃん爺やの一人旅、総集編として
書き忘れた事や画像などを紹介して終了したいと存じます。

それじゃ、今日はこれで、さいなら~

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする