鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  鴻池新田会所を訪ねて~♪

2012-02-18 16:22:15 | 日記
1月29日のブログで江戸時代の大和川付け替え工事のお話しをしましたが
今回はその旧大和川の水路を東大阪市まで下ってみました。


(旧大和川水路の遊歩道)  (柏原市のカラータイル)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


以前に紹介しましたが旧大和川は築留で閉め切られた為に川筋は新田の開拓と
いう事になり江戸幕府は付替え工事費をこれで浮かそうと考えた次第。

市村新田も狭いながら旧大和川の水路に出来た新田だった訳です。

江戸幕府は初期に検地で確認した田畑以外の新しく開発した土地は
全て「新田」と呼ぶように決めたそうです。


(旧大和川水路とJR大和路線)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


現在は農業用水路で役目を終えた感じがする小川ですが
江戸時代までの旧の大和川の名残りなんですよ。


(鴻池新田と旧大和川の水路)


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現在の大阪府の中河内と呼ばれる柏原市・八尾市・東大阪市にまたがる
旧大和川の流域が新田として開発されました。

100円硬貨が見える辺りが当時の大坂城と考えてください。

地図の旧大和川流域を40分割で町人に開発の権利を売り付けたということですね。

約1170町歩でお米に換算して総石高11000石になったそうです。

元々が大和川付替え工事代を浮かす魂胆だから高く売り付けられたんでしょうな。


(鴻池新田会所のパンフレット)


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大坂の今橋で両替商を営んでいた鴻池善右衛門が権利を買い取って約200町歩の
広大な新田経営の運営拠点として建てたのが鴻池新田会所なんですよ。

今の方には知られていませんが江戸時代には大坂で一番の豪商だったそうです。

三井や三菱などはまだ中小企業の時代、大坂で天下の台所を担ったのが
鴻池家と住友家で大坂の豪商で双璧の時代が幕末まで続いたんですよ。

幕末には「鴻善(鴻池善右衛門)ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」
とまでの力を誇っていた話が伝えられていますね。

江戸幕府を始め諸国の100以上の藩が鴻池家から借金を
していたそうで明治維新では殆んどが踏み倒されたそうですな。


(JR片町線 鴻池新田駅舎)


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このJR鴻池新田駅も明治時代に国鉄片町線が開通した折りに
11代目鴻池善右衛門が
ほとんどの費用を負担して造られたと言われています。

明治維新には大名の借金の踏み倒しにも耐えて明治時代でも財閥としてまだ
大阪の経済界に隠然たる影響力を保っていました。

鴻池銀行(三和銀行から現在の三菱UFJ銀行)を設立したり
日本生命保険の初代社長にも就任していますね。

当時は怪しげな商売と言われた「保険」が世間に認められたのも
鴻池善右衛門を本家とする
鴻池家の力が有っての事だと伝えられていますよ。


(鴻池新田会所の 本屋正面)(重要文化財に指定)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


鴻池家は本業を大事にして変な事業に手を出さないことが災いとなり
三井や三菱や住友の財閥に追い抜かれてしまったようですね。

最後は太平洋戦争の終了後の財閥解体と農地解放によって没落してしまいます。

現在は鴻池合資会社が美術館や鴻池家の財産を管理しているそうですけど。


(鴻池新田会所 入口の冠木門)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


本屋に行くのには冠木門と長屋門の二つを潜り抜けなければ入れません。

ここの本屋で新田の年貢から裁判や物資の調達、あるいは幕府の通達なども
鴻池新田会所を通して住民への自治が行われていたそうです。


(鴻池新田会所 長屋門)


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ここ鴻池新田会所が役目を終えたのが1950年(昭和25年)ですから
古老の方なら鴻池新田会所を記憶している方がまだ生存しておられるようですね。

1977年(昭和52年)に鴻池家から東大阪市に建物一式が寄付され
重要文化財の指定を受けて東大阪市が管理運営をしているそうです。


(鴻池新田会所 本屋内の台所)


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昔なら何処にでも有った「竈かまど」や井戸やつるべなどを見れば
タイムスリップした雰囲気を味わえると思いますけど。


(鴻池新田会所  本屋内の井戸とつるべ)


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(鴻池新田会所  文書蔵と米蔵) (重要文化財に指定)


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(鴻池新田会所 裏門の川船)


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昔は鴻池新田会所の周囲は掘割で囲われていたそうで、画像の川船で
物資の搬入や運搬が行われていたようです。

鴻池新田会所の北側に今も流れている寝屋川を経由して大坂との
つながりが船で行われたようですな。

江戸時代から明治時代までは米も生産されましたが河内木綿と言われる
綿がこの辺りの特産品でした。

旧大和川の川床は米の生産には適さずもつぱら綿が栽培されたようです。

明治時代に大阪周辺に紡績工場が出来たのも元をただせば河内木綿でした。


(鴻池新田会所 本屋を裏手から撮影)


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鴻池新田会所は建と敷地で約2000坪(6500㎡)も有ります。

昔は庭園な生駒山を眺める事が出来たそうですが現在は高層マンションで
遠くは見えなくなっていますね。


(鴻池新田会所の 庭園)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド



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広大な敷地には鴻池家の神社まで祀られていますね。

ここは鴻池家の氏神さんだから入場は出来ないようでした。


(鴻池新田会所内  朝日社)


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(鴻池新田会所  本屋前にて撮影)


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(鴻池新田会所  本屋側にクスノキの巨木)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


昔の掘割の一部が今でも半分以上は残っているようですね。

もっと幅が広く川船が往来できる水路だったんでしょうな。


(鴻池新田会所 昔の掘割の跡)


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(JR片町線 鴻池新田駅 駅名標)


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最後に余談ですが江戸幕府から開発を請け負った大坂の豪商はほとんどが
経営に行き詰まり、明治維新まで最初から最後まで持ち続けたのは
この鴻池新田会所だけだったとの話です。

流石は鴻池善右衛門家だけあって困難な経営を昭和の時代まで
維持できたとは感心させられましたね。
コメント (24)
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