5月3日(祝)10時から信長公記を読む会がありました。出席者は24名でした。
前回から「信長公記を読む会会報」の『信長公記』余録が配布されていますが、今回も先生の故郷の戦国大名亀井新十郎茲矩のお話し・・・。開講前の砂川先生のお話は亀井茲矩の話から「処遇」の難しさ、人間を突き動かす原点は「処遇」+「感情」だと喝破されます。
30分間の前置きの後テキストへ・・・。朝倉攻めも佳境に入っています。
信長方の原野賀左衛門に生け捕られた朝倉家家臣で府中の奉行印牧(かねまき)弥六左衛門が切腹した件について太田牛一は勇者として褒めている。このことはレジュメの朝倉記にも書かれているが、太田牛一(信長公記)が書いたように「朝倉に対し日ごろ遺恨深重」とは書かれていない。先生は両書の性格から考えると、信長公記の方が事実だったのだろうと仰る。
同じように太田牛一は敵将中村新兵衛を討ち取った金松又四郎の武勇と、信長が腰に下げていた足半を与えた逸話についても記しているが、このことも印牧氏の逸話同様、敵味方を問わず勇者には無関心でいられなかった太田牛一の筆の特徴だろう(信長が与えたこの足半は清正記念館に現存しているのだそうだ)。
朝倉義景は一乗谷から内山田庄へ退去する段についてレジュメの「朝倉始末記」には、まさしく平家物語の太宰府落ちと同様の「道行文」で書かれている。道行文は地名を辿りながら主人公の心情を明らかにするもので、現代語すると原文のテンポが出ないと先生は仰る。