過日見学した増上寺の徳川家霊廟を御紹介したいと思っていますが
増上寺の徳川家霊廟は、大部分の建物が1945年の戦災で焼失してしまい
1958年に現在の徳川家霊廟に改葬されたという経緯があります。
そこで先ず今回は大半が焼けてしまった増上寺旧徳川家霊廟について
少し調べましたのでご紹介します。
旧徳川家霊廟関係の写真は殆どがインターネットの関連サイトから借用したものです。
調べて見て、焼失前の霊廟を見ていないので残念でなりません。
増上寺の旧徳川家霊廟
徳川家霊廟は、東京の寛永寺と増上寺、及び日光の輪王寺にありますが
寛永寺と増上寺の霊廟は、上述のように大部分の建物が焼失してしまいました。

旧増上寺の徳川家霊廟は、上図の南墓地と北墓地に示様に
増上寺の広大な墓域総てを占めていました。
増上寺の徳川家霊廟は、大部分の建物が1945年の戦災で焼失してしまい
1958年に現在の徳川家霊廟に改葬されたという経緯があります。
そこで先ず今回は大半が焼けてしまった増上寺旧徳川家霊廟について
少し調べましたのでご紹介します。
旧徳川家霊廟関係の写真は殆どがインターネットの関連サイトから借用したものです。
調べて見て、焼失前の霊廟を見ていないので残念でなりません。
増上寺の旧徳川家霊廟
徳川家霊廟は、東京の寛永寺と増上寺、及び日光の輪王寺にありますが
寛永寺と増上寺の霊廟は、上述のように大部分の建物が焼失してしまいました。

旧霊廟のあった場所
旧増上寺の徳川家霊廟は、上図の南墓地と北墓地に示様に
増上寺の広大な墓域総てを占めていました。
霊廟は、墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設の数々からなり
その当時の最高の技術が駆使された壮麗なもので
戦前全て国宝に指定されていましたが
1945年三月と五月の二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失してしまいました。
なお後述するように8代吉宗以前の将軍は立派な霊廟を造りましたが
吉宗が御霊屋建立禁止令を出したため
吉宗以降の将軍は大規模な霊廟は建築されずに
寛永寺か増上寺のいずれかの他の将軍の霊廟に合祀し
宝塔のみが建立されるようになりました。
吉宗も自身の遺言で寛永寺の綱吉の霊廟に合祀され
宝塔のみが建立されました。
焼失した霊屋は暫く荒廃にまかされていましたが
1958年から詳細なる学術調査が行なわれ
その後に土葬であった遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され
南北に配していた墓所は一か所にまとめられ
現在の本堂裏の徳川家霊廟に改葬されました。
そして旧霊域は1958年に売却され、上図に示した様に
現在西武鉄道系のホテル用地として活用されています。
以下両墓地の焼ける前の状況を先ず南墓地からご紹介します。
南墓地
本堂の南にある南墓地は二代将軍秀忠の台徳院霊廟になっていました。
崇源院霊牌
実は秀忠の正室お江与の方は、秀忠より先に亡くなり
将軍家族としては、増上寺での最初の霊牌所となった
崇源院霊牌が南墓地につくられました。
お江与の方の没後6年に秀忠が亡くなり、秀忠の台徳院霊廟が建立され
崇源院霊牌はそこに一緒に祀られました。
その際崇源院霊牌は建長寺に譲渡され、現在境内最古の建造物”仏殿”として
また崇源院霊牌所唐門も建長寺の方丈入口の唐門として移され保存されています。
次の写真は、現在の徳川家霊廟を見学した際、霊廟内に飾られていた
崇源院霊牌の写真を写したものです。



台徳院霊廟

旧霊廟の中でも随一の規模を誇ったといわれる台徳院霊廟建物の主たるもにには
霊廟の入口惣門、これを入って進むとある勅額門
勅使門を入った右方には丁子門がありました。

更に進むと、左右に1棟ずつの水盤舎があり、正面には中門がありました。
中門左右には御霊屋を囲む透塀があり
霊屋は本殿・相之間・拝殿が一体となった権現造でした。
本殿の右に渡廊が接続しており
これらの建物群の左方の小高い場所に奥院(墓所)がありました。
奥院へ向かう参道の途中には御成門があり
奥院の内側に、覆屋内に建つ宝塔(墓塔)がありました。
上の太字は全て国宝でしたから、国宝のオンパレードでした。
霊廟で焼け残ったのは、惣門、勅額門、丁子門、御成門の4棟のみで
勅額門、丁子門、御成門の3棟は1960年に埼玉県所沢市不動寺に移築され
惣門のみが芝公園ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建っています。

入母屋造八脚門の惣門は、朱塗の簡素な門です。
徳川家霊廟では、奥にある建物ほど華美な装飾が施されるようになっていた様です。



その当時の最高の技術が駆使された壮麗なもので
戦前全て国宝に指定されていましたが
1945年三月と五月の二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失してしまいました。
なお後述するように8代吉宗以前の将軍は立派な霊廟を造りましたが
吉宗が御霊屋建立禁止令を出したため
吉宗以降の将軍は大規模な霊廟は建築されずに
寛永寺か増上寺のいずれかの他の将軍の霊廟に合祀し
宝塔のみが建立されるようになりました。
吉宗も自身の遺言で寛永寺の綱吉の霊廟に合祀され
宝塔のみが建立されました。
焼失した霊屋は暫く荒廃にまかされていましたが
1958年から詳細なる学術調査が行なわれ
その後に土葬であった遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され
南北に配していた墓所は一か所にまとめられ
現在の本堂裏の徳川家霊廟に改葬されました。
そして旧霊域は1958年に売却され、上図に示した様に
現在西武鉄道系のホテル用地として活用されています。
以下両墓地の焼ける前の状況を先ず南墓地からご紹介します。
南墓地
本堂の南にある南墓地は二代将軍秀忠の台徳院霊廟になっていました。
崇源院霊牌
実は秀忠の正室お江与の方は、秀忠より先に亡くなり
将軍家族としては、増上寺での最初の霊牌所となった
崇源院霊牌が南墓地につくられました。
お江与の方の没後6年に秀忠が亡くなり、秀忠の台徳院霊廟が建立され
崇源院霊牌はそこに一緒に祀られました。
その際崇源院霊牌は建長寺に譲渡され、現在境内最古の建造物”仏殿”として
また崇源院霊牌所唐門も建長寺の方丈入口の唐門として移され保存されています。
次の写真は、現在の徳川家霊廟を見学した際、霊廟内に飾られていた
崇源院霊牌の写真を写したものです。

崇源院の宝塔?

現在の建長寺仏殿

現在の建長寺唐門
台徳院霊廟

台徳院霊廟牌の全景らしきもの。崇源院の宝塔と同じ場所で撮影したもの
旧霊廟の中でも随一の規模を誇ったといわれる台徳院霊廟建物の主たるもにには
霊廟の入口惣門、これを入って進むとある勅額門
勅使門を入った右方には丁子門がありました。

台徳院霊廟 中央門は丁子門で中には水盤舎?
更に進むと、左右に1棟ずつの水盤舎があり、正面には中門がありました。
中門左右には御霊屋を囲む透塀があり
霊屋は本殿・相之間・拝殿が一体となった権現造でした。
本殿の右に渡廊が接続しており
これらの建物群の左方の小高い場所に奥院(墓所)がありました。
奥院へ向かう参道の途中には御成門があり
奥院の内側に、覆屋内に建つ宝塔(墓塔)がありました。
上の太字は全て国宝でしたから、国宝のオンパレードでした。
霊廟で焼け残ったのは、惣門、勅額門、丁子門、御成門の4棟のみで
勅額門、丁子門、御成門の3棟は1960年に埼玉県所沢市不動寺に移築され
惣門のみが芝公園ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建っています。

惣門
入母屋造八脚門の惣門は、朱塗の簡素な門です。
徳川家霊廟では、奥にある建物ほど華美な装飾が施されるようになっていた様です。

不動寺にある御成門

不動寺にある丁子門

不動寺にある勅額門門
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この解説でよく解りました勉強になりました。
またの機会におとづれて見たく思います。
霊廟の門までです、また寛永寺も門までで
墓地は見られませんでした。
機会があれば行ってみたいと思います。
畳換えと作法非伝授が
あの殿中刃傷沙汰の原因だったとは。
素晴らしい遺産が残っていますね。
上京したら見物したいです。
周囲にはお寺も多く、当時の増上寺の力の大きさがわかりますね
天皇様も、これまでの天皇とは違った形での埋葬を、
希望しておられましたね。
庶民と同じ火葬が好ましいとか、お墓もシンプルに・・・
それにしても、増上寺は広いですね。
まさかあのホテルがある所が墓所だったとは。
台徳院霊廟の中の建物が少し分る写真を追加
しましたので、ご興味があればご覧下さい。
門まででしたか。小生も同様でした。
寛永寺墓地に残っている宝塔等も道から見えますね。
台徳院霊廟の中の建物が少し分る写真を追加
しましたので、ご興味があればご覧下さい。
結びつかないのですが、関連をお教えいただけますでしょうか?
調べて初めて知ったのですが、幾つかの建物が
残っている様ですが、あちこちに散っており
見るには少し大変です。