前書き
小生年代ごとに素敵な友人を持つことが出来た上に、今でもその友人達と会合を持っており
有難いと思っています。今日其の会の一つである旧制中学の同級会幹事から
「今回最後の会を持ちたいので出席するように」との趣旨の案内状を頂きました。
そこで思ったことは、小生が幹事役をしている会もあるので、一度現在出席している会を整理し
終活の一つとして、今後その会にどう対応するかを考えてみる必要があるかと思うようになりました。
そこでまず幼い頃からの友人とその友人に関連した会について、年代順に書き出してみることにしました。
若しご興味があればご覧頂ければ幸いです。
なお友人の写真が少ないので、小生の各時期の写真を掲載させて頂きます。
母に抱かれた赤子の小生
1 幼年期
小生が生まれて終戦の旧制中学2年まで育った場所は長野県の諏訪市で
最幼年期は大手町に、次にブログによく登場する湖柳町に住みました。
今湖柳町は「湖岸通4町目」に変わり、交差点の名称としてのみ残っているようです。
一方大手町はそのまま残ってているようです。
湖柳町と大手町の地図。赤丸が住んでいた家の位置
1.1 最初の友人である大手町の友人
多分5歳位迄大手町に住んでいましたが、大手町の家の前の通りは小学校や中学に通う時にも通りましたので
比較的記憶に残っています。その家は十字路の角地にあり、道路添いに塀があり、中央に入り口
塀から先に結構広い庭、その奥に家があり、家の右隣には共同風呂があったという事までは思い出せるのですが
家がどんな間取りであったかは全く思い出せません。
この家の前の家は確か「白鳥さん」で、そこには小生と同年の子供さんがおり
二人で棒を持って通る人に悪戯をした様です。この方が人生の最初の友人ともいえる人でしたが
残念ながら湖柳町に移ってからは没交渉になってしまいました。
この頃の写真が次の一枚だけありましたが、お名前が分かりません。多分この中の一人が白鳥君だと思います。
ktempleは右端
1.2 次の友人である湖柳町の友人
大手町から移った隣町湖柳町は、諏訪湖の湖畔にあった小さな町でしたが
小学校、旧制中学、旧制高等女学校の校長官舎もあり、当時はお店も一軒もないというサラリーマンの住宅街でした。
先生が沢山住んでおられた下宿もあり、小生の中学の主任も我が家から3分の所に住んでおられ
小生の父も旧制高等女学校の教師をしていました。
この頃の我が家の家族写真
我が家は借屋でしたが、熱い湯が庭からこんこんと湧き出ており、左隣の家も同様、右隣には共同浴場がある等
あちこちで熱い湯が沸き出していた温泉にも恵まれた場所でした。
確か今は温泉が枯れてしまい、市が深い井戸を掘って汲上げた温泉を家庭に送っているようです。
諏訪湖周辺の各市町村からか旧制諏訪中学に通っていた同期生は全員で180名ほどでしたが
湖柳町には同年生が11人もいました。そしてその中の5人が近所に住んでおり
幼年期の悪戯仲間として色々の遊びを楽しみましたので、先ずその5人が幼年期の友人です。
残念ながら幼年期の友人の写真はなく、その頃よくお宅に遊びに行き可愛がって頂いたご近所の小母さん児玉さんと
近所のお姉さん守屋さん、それに名前の分からぬ小生に近い年齢の子供の下記写真だけがあります。
小生は前列左端。その上におられるのが守屋さんと児玉の小母さん
5人の幼年期の友人の中3人は既に亡くなっており残念です。
残ったもう一人の友は今八王子に住んでおり頻繁に連絡をとっています。
さて11人の友人は、諏訪市の助役を務めたA君が諏訪に残っている他は、何時頃からか皆東京近辺に住む様になり
度々ブログにも登場する湖柳会が開かれはじめ、今は気候の良い時期には毎月波多野家に夫婦で集まり
先ず麻雀をし、その後は夕食を楽しんでいます。但し残念な事に11人の中5人が既にお亡くなりになっています。
前にも書いたと思いますが、今は亡き波多野君は、学習院大学教授、国連の代表もされて活躍されました。
また奥様のミキさんは、波多野ファミリースクールの副理事長、日本家庭福祉会理事長、
東京家庭裁判所の家事調停協会副会長、日本尊厳死協会副理事長等を務められたほか
教育に関する本を多く執筆されたりと活躍されてます。
終わり