末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

昨日は通産29技懇に出席

2018-09-11 10:03:21 | ブログ
通産29技懇について

「通産29技懇」と書いても、どいうものかお分かりにならないと思いますので先ず説明させて頂きます。

今はどうなっているか知りませんが、昭和29年当時中央官庁のキャリア職員になるためには

国家公務員試験6級職に合格する必要がありました。

「通産29技懇」は昭和29年度の6級職試験に合格して

現在の経済産業省である当時の通産産業省に入省した18名の技術職員達のOB会の事です。

この会の皆さんは、通産産業省や科学技術庁の課長をされ、その後地方通産局長等を歴任され

定年退職後は業界団体の理事長をされた方達です。

中には筑波万博が行われた時にその総指揮をされた方もいます。

小生も昭和29年に6級職試験に合格し、通産産業省の繊維局繊政課に配属されましたが

後述するように僅か6年間在職しただけで退職し、

日立製作所、(財)水道技術研究センター等に勤める様になりましたが

29技懇には、発足時からメンバー参加するよう呼びかけられ参加している次第です。

昨日は10人出席されました。小生は早生まれのため最年少で、3歳年上の方もおられますので

高齢者集団ですが、皆さんお元気で来年も会を開く事が決まりました。

ちょっとした自慢話

小生の今は亡き兄は、学校の成績がよく何時も級長をしていましたが

遊んでばかりしていた小生は、5番以内に入ることはなく

通信簿を持ち帰る時は何時も恥ずかしい思いをしていました。

所がどうしてか一発物には強かったのです。

先ず旧制中学の入試では5番で合格したため副級長になりましたが次の期には墜落。

大学には学部では2番で合格。ここでは比較的その状態を保てました。

そして国家公務員6級職試験では、応用化学職を受けたのですが、

多分500名以上の受験者があったと思いますが、12番で合格しました。

通産省での小生の経験と僅か6年で退職した事情

通産省に入省した当時の日本の輸出は繊維製品が大半であったことから、繊維局は活発に活動していた局でした。

繊政課では、繊維産業の長期計画の作成等の業務を行ったため、

日本全体そして世界に目を向ける習慣がつけられて、大変良い経験をしました。

3年目に通商産業省の付属機関で、JIS関連業務や民間研究の助成等を行っていた工業技術院に転籍しました。

工業技術院では助成課に配属され、民間研究への補助金を交付する際の技術審査や、

当時企業が盛んに行っていた海外の優れた技術を導入する際必要な、国への認可申請が行われた時に行われた

技術面の審査業務の化学と繊維関係を担当しました。

技術導入に当たっては、企業さんが詳細な技術説明をされるために非常に良い勉強になりました。

工業技術院在籍2年間でまた繊政課に戻り、前の仕事に加えて染色業に関する仕事も担当しました。

この時は係長になっていたため、業界の会合では中心に座らされて話をさせられるような立場になりました。

また今では大問題になるところですが、当時繊政課長さんは赤坂や新橋での夜の宴席に呼び出されることが多く

どうしてかその時に小生をよく連れて出られました。

比較的生真面目であった小生は、上記の様な生活は25歳程の若造がするものではないと悩む様になりました。

そんな時、工業技術院当時の課長さんから「東芝の副社長さんが君に化学プラント事業部に入ってもらえないかと

言ってきたがどうするか」とのお話を頂きました。

上記の状態であった小生ですので、企業でしっかり仕事をするのも良いかと考えましたが、

総合電機メーカーでの化学プラント事業部というのが何か異質に思えて気になり、

日立製作所の原子力事業部にいた兄に調べてもらいました。

すると日立にも化学プラント事業部があるので、企業に出る意思があるなら是非日立に来てもらおたいという話になり

日立にお世話になることになりました。

この様に小生は通産省には僅か6年間の勤務でしたが、

通産29技懇が発足するときに小生にも参加するようお話があり参加させて頂いている訳です。

とんだ身の上話や自慢話になってしまい恐縮です。

   終わり