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(愛知県豊川市瀬木町)
古来、「真木」と称したこの地は、享徳年間(1452-54)に瀬木(せぎ)と改められたという。
文安四年(1447)の台風による氾濫まで、豊川本流が傍を流れていた自然堤防上のこの地は、その後も分流が流れていただろうと推測され、その立地を利用し明応二年(1493)牧野成時(古白)が城を築いた。間もなくして波多野全慶が居城する牛窪村一色城を攻略し、成時は一色城へ移り、子の成勝が瀬木城主となった。そして永正二年(1505)成時は今橋城を築き居城、後を成勝が守り、瀬木城は廃城となっている。
(北西側遠景 1982年4月撮影)
(東部土塁断面 2002年3月撮影)
(西側堀 2007年2月撮影)
(主郭北西側高土塁と堀)
現在、主郭であった場所には神明社が建ち、背後に高土塁が残っている。また、神社前方主郭入口には、虎口を成す土塁があり、当時は周囲に配していたであろう堀が、西側に残されている。昭和53年頃、私は堀内で、土鍋片、陶器片を採集したことがあった。近年、東側が宅地となり、光景が変化してきている。
(関連記事:讃岐屋敷)
古来、「真木」と称したこの地は、享徳年間(1452-54)に瀬木(せぎ)と改められたという。
文安四年(1447)の台風による氾濫まで、豊川本流が傍を流れていた自然堤防上のこの地は、その後も分流が流れていただろうと推測され、その立地を利用し明応二年(1493)牧野成時(古白)が城を築いた。間もなくして波多野全慶が居城する牛窪村一色城を攻略し、成時は一色城へ移り、子の成勝が瀬木城主となった。そして永正二年(1505)成時は今橋城を築き居城、後を成勝が守り、瀬木城は廃城となっている。
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現在、主郭であった場所には神明社が建ち、背後に高土塁が残っている。また、神社前方主郭入口には、虎口を成す土塁があり、当時は周囲に配していたであろう堀が、西側に残されている。昭和53年頃、私は堀内で、土鍋片、陶器片を採集したことがあった。近年、東側が宅地となり、光景が変化してきている。
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