(東京都渋谷区渋谷)
元々は鎌倉時代に渋谷城主渋谷高重によって創建されたと伝わる。渋谷城の堀(渋谷川)の外側に鎮座したため、江戸時代までは「堀ノ外稲荷」と呼ばれ、その後は「川端稲荷」や「田中稲荷」と呼ばれた。昭和36年(1961)道玄坂の「豊澤稲荷」と合祀し、金王八幡宮に隣接する現在地に遷座した。境内には庚申塔が13基あり、その中には武門失脚後の渋谷氏とみられる建立記銘がある。
(東京都渋谷区渋谷)
渋谷の街を見下ろす東側の高台には神社がある。寛治六年(1092)この地に渋谷城を築いた河崎基家(後に渋谷重家と改める)によって「渋谷八幡」を創建したのが始まりという。その基家は秩父重綱の弟であり、武蔵国橘樹郡河崎(川崎市)を領したことにより河崎姓を名乗った。基家が源義家に従い京の御所を訪れていた際、宮中で盗賊を退治し、その功績によって堀河天皇から相模国高座郡渋谷庄(神奈川県藤沢市・大和市)を賜り、渋谷姓と名乗った。その後渋谷氏が谷盛庄(後の渋谷)に移り城を築いたため、地名が渋谷になったとされる。(諸説あり) 重家の子の金王丸(渋谷常光:土佐坊昌俊と同一説あり)は、長らく子のなかった重家が八幡宮に祈願したところ、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見て男子を授かったことから幼名を金王丸と名付けたという。然し、大永四年(1524)北条氏綱の武蔵攻めの際、北条氏の別働隊によって城は焼き討ちされ渋谷氏は滅亡した。江戸時代に入ると、徳川家光の乳母春日局は、八幡宮の神門、社殿を造営している。また、隣接する渋谷山東福寺は、明治維新の神仏判然令以前は八幡宮の神宮寺(別当寺)であった。
東福寺
渋谷城と金王八幡宮
旧渋谷城石垣とされる石材
堀の役目を成した渋谷川
(愛知県宝飯郡一宮町東上字柿木平 1992年11月5日)
本宮山より発する松本川によって形成された洪積層新期扇状地堆積層(柿木平)の縁端に位置するのが弥生時代の柿木平遺跡である。今回その一角が台地上と下の町道21号滝ノ入北岡線を結ぶ町道121号柿木2号線が築造されていたため踏査した。遺物は見受けられなかったが、黒ボクや礫の地層を見ることができた。
(近隣の古墳:丸塚1号墳)
(川崎市麻生区)
「しんゆり」と称され、川崎市の中でも別格地とされるこの辺り。文字通り、隣接する百合ヶ丘の後に開発されたことによる。新百合ヶ丘駅の乗降客は日に12万人と多いが、駅周辺の商業地は、田園都市線たまプラーザ等と比べると些か狭い。昭和49年(1974)小田急小田原線と多摩線の分岐点として開設された新百合ヶ丘駅を利用する形で、川崎市都市計画新百合丘駅周辺特定土地区画整理事業が開始され、山林から宅地化及び市街地化された地区である。元々多摩区であったが、昭和57年(1982)の分区を機に、この地が麻生(あさお)区の中心地に設定された。
(東京都世田谷区若林 旧府社)
世田谷の旧態を残すこの辺り。松陰神社創建以前には長州藩毛利家抱屋敷(別邸)があり、吉田松陰が安政の大獄によって三十歳で刑死した後、文久三年(1863)伊藤博文、高杉晋作ら松陰の門人によって小塚原(南千住)の回向院にあった松陰の墓がこの地に改葬された。その後、明治15年(1882)墓に隣接して松陰を祀る神社が創建され現在に至っている。 旧一の鳥居神額 明治41年
松陰神社通り松栄会商店街
世田谷線松陰神社前
(愛知県宝飯郡御津町御馬 町指定史跡 1992年10月23日)
三河湾御馬(おんま)湊は、寛永年間(1624-43)には三河五港(犬飼湊(蒲郡市竹谷町)・大浜湊、鷲塚湊(碧南市)・平坂湊(西尾市))の一つに数えられ、漁船の出入り及び天領から上納される年貢米を江戸に送る積出港となり繁栄したが、現在は漁港として採貝藻漁業、浅海養殖業に利用されている。明治25年頃、現在の西防波堤を築造し港内の整備を行った。昭和28年(1953)13号台風と昭和34年(1959)伊勢湾台風によって大きな被害を受けたが、昭和36年度までに災害復旧事業により工事が完成した。現在は重要港湾三河港の港域内となっている。
(島田陣屋遺跡 愛知県新城市野田字西郷 1992年10月20日)
昭和53年、島田陣屋跡を訪れていた私は、畑の隅から寄道式(豊橋市瓜郷遺跡出土のこの地方の弥生式土器編年式)の高坏基部片を採集した。豊川(とよがわ)に面する緩斜面であるこの地は、遺跡として認識されていなかったが、環境から考えて遺跡が存在することは何ら不思議ではないと考えていた。今回訪れると、島田陣屋跡が都市計画道路(野田城大橋線)築造に伴い発掘調査されていた。同月31日に再び訪れると、弥生土器や土師器及び遺構が検出され、弥生時代の遺跡であることが裏付けられた。 土塁
1992年10月31日
1993年3月5日 調査終了とよがわ方面を望む
1995年10月22日
市道西郷南田線工事
1995年11月19日
1996年2月4日
(愛知県新城市富岡字東門沢 1992年6月16日)
不動平とは宇利峠に向かう県道の北側に広がる丘陵地である。かつてこの辺りには10基の古墳があったが、末期は直径10m,高さ2m,横穴式石室の2基のみとなり、その2基も近年果樹園となり滅失した。