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(愛知県宝飯地域)
鎌倉時代、足利義氏が三河国守護となり、一族の足利義季(よしすえ)が額田郡細川に住し、姓を細川に改めたことに始まる。
義季から四代後の頼有のとき、この地方に勢力を伸ばし、応安二年(1369)先ず御馬城を築いた。そして永徳二年(1382)の細川信氏寄進状には、宝飯郡市田に所領があったことが確認できる。その市田付近には頼有の曾孫、教春が永享の頃(1429-40)野口城、市田城を築城し、頼有の弟満之の曾孫、勝久が茂松城に居城した。
御馬城 (御津町御馬)
細川頼有が築城した後、永享・享徳の頃(1429-54)には細川正信及び外戚である酒部時重が居城したという。
文明年間(1469-86)同じ足利の流れを汲む今川義忠により攻略され、細川氏は城を捨てた。その後徳川幕府となった寛永年間(1624-43)には長沢松平家一族の松平浄感が住したが、宝永元年(1701)に廃城となった。
野口城 (豊川市野口町) (堀切)
(本丸土塁)
細川氏の後、今川氏臣の板倉主水、印宮甚蔵らが居城した。
標高約70mの「城山」には、本丸、二の丸及び曲輪、堀、土塁、堀切等が残るが、西側はゴルフ練習場により一部滅失している。
元豊川市教委の長谷川高雄氏が、幼少の頃城跡にて刀の鍔を発見したという。
市田城 (豊川市市田町)
野口城と同様、細川氏の築いた城である。同家臣、笹尾氏が居城したという。
その後、牧野氏一族の居城となった。
松永寺を中心とする付近に、城が存在したという。
茂松(高坂)城 (御津町広石)
平安末期、三河守護源範頼が居城したのが始まりという。
室町時代には細川勝久が居城したが、御馬城と同様、今川義忠により功略された。
その日が小正月の「もちい」(餅でつくった花)で祝う日であったことから、村ではその後もちい飾りをしなくなったといわれている。その後、牧主計、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正十八年(1590)廃城となった。南側の竹本(新宮)城も関連の城であったようである。
城跡は御津高校の東側、標高60mに位置し、堀、土塁、曲輪、井戸が残る。
南側の山裾は、都市計画道国府駅前赤根線によって削られたが、遺構としては、ほぼ当時の姿を残している。
本宮長山城・松原城
細川高頼が居城したという説がある。(関連記事へ)