(愛知県豊川市牛久保町 1983年撮影)
享禄二年(1529)一色城主牧野成勝の築城。 永禄四年(1561)松平元康(徳川家康)は今川勢力下の守りが手薄になっている牛久保城を攻めた。このとき三代牧野成定は、今川義元により西尾城を守っており、持城の牛久保城は臣下の稲垣重宗、真木定安が守っていた。然し、稲垣重宗は豊川対岸の八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)におり、城は真木氏一族しかおらず、同氏により戦いを持ち堪え討死しながらも、知らせを聞いた稲垣重宗が参戦し、元康勢は退散していった。このとき以降、牛久保城は重要視されるようになり、今川勢と松平勢との攻防の拠点の一つとなるが、永禄九年(1566)度重なる攻勢により松平勢の傘下となった。天正十八年(1590)四代牧野康成は徳川家康の関東移封に伴って上野国勢多郡大胡に二万石で移封した。牛久保城は吉田城の支城となり、池田輝政臣の荒尾成久が城主となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い以後は天領となり、城は縮小し代官所としての機能となったが、元禄十三年(1700)に廃城となっている。付近は飯田線及び住宅地となり、遺構は一切残っていないが、河岸段丘縁端の眺望と城跡、大手、城下の小字が往時を想像する材料である。
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