flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

缶詰

2007-01-19 18:00:00 | まちの違和感
 私は北の大地に行ったことがない。
知人からの土産で、北海道の缶詰をいただいた。
最初はその内容に気がつかなかったが、よく見ると熊と鹿の缶詰であった。
今の私は、基本的に食べ物の好き嫌いはないが、ゲテモノや臓物系、珍味の類は苦手である。
よって開缶することを非常に躊躇しているのである…。
どうやら、緊急用保存食の一つとなりそうだ。
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守山 東谷古墳群

2007-01-19 00:00:24 | いにしえびとの睡

(2006年1月1日)
 初詣でも兼ねて標高約200mの名古屋市守山区東谷(とうごく)山に向かった。
 
 高蔵寺から庄内川を渡り、左に曲がると右手に白鳥1号墳がある。
円墳で両袖式の横穴式石室が開口している。直径17m、高さ3.5m、石室の奥行きは9.8mであり、大正時代に発掘された後、昭和36年に再調査され、須恵器、馬具等が出土した。古墳時代後期に属する古墳である。
 フルーツパーク北側の登山口から、東谷山へ登る。途中、古墳の石材と思われるものが時折見受けられるが、東谷山古墳群と呼ばれる35基からなる後期群集墳の封土を失った古墳のものである。

 東谷山の手前の頂きには南社古墳があり、小社殿が建てられている。
直径約30m強の円墳で、高さ4m、出土する埴輪から前期古墳と考えられている。

 南社古墳の上方には中社古墳があり、尾根地形を利用した前方後円墳、全長約60m、高さ6mで、葺石が見られ、頂きには社殿が建てられている。江戸時代に銅製品が出土したといわれ、埴輪から南社古墳よりやや古い前期古墳と考えられる。
 
 登山道では初詣でを兼ねたハイカーと多くすれ違い、山頂の尾張戸(おわりべ)神社に辿り付くと、神職を含め神社関係者と、参拝者が多くみられた。
本殿の下には尾張戸神社古墳があり、全長55mの前方後円墳とされるが、詳細は分かっていない。(東谷山記事へ

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柿田橋

2007-01-18 00:00:51 | STRUCTURE-構造物残影-
 柿田川に唯一架かる、1974年に架橋された柿田橋。
その橋から下流を見下ろすと、片側が壊れていて現在は使われていない石橋が見える。これは1909年に架けられた旧柿田橋である。
1931年に現在の柿田橋の位置に架けられるまで使用されていた。
 記録に残る柿田橋の歴史は、寛文十一年(1671)に造られたことが、橋のたもとに鎮座する日枝神社境内に立つ「石橋碑」によって確認できる。
そして、この“柿田橋”の下流で柿田川は、狩野川に合流する。
 
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忘れていた命日

2007-01-17 12:00:01 | kourei-ki-日記-
 阪神淡路大震災の前の日は父の命日。
昨年の命日は、朝方、棚から物が落下、家鳴りがし、何か気になったが、ふと時計を見ると5時28分。
父の最期の時間であった。…と同時にそのことを思い出した日であった。
 今年は忘れず墓参に出向いたところ、墓碑が倒れかかっていた。
「こんなことがあるのか…」と呟きながら、修復をし反省の心境であった。
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乗本 久間山

2007-01-17 00:00:14 | 城郭・城下町
(愛知県新城市乗本)
 乗本五砦の中で最も南に位置し、標高約130mの高さにある。
この久間山(ひさまやま)砦も長篠城包囲を目的とした陣砦であり、武田氏臣和気宗勝、大戸直光、倉賀野秀景、浪合胤成らが守将を務めていた。
 背後の吉川村から押し寄せた酒井忠次らによって襲撃され、ほかの五砦と同じ運命を辿った。

 当初「乗本五砦」として一つの記事とする予定であったが、それぞれの重みを感じ、分けて投稿することとした。
     
 久間山を守っていた和気宗勝の墓碑が、対岸有海原に立つが、この墓前にも「第二東名」は通ろうとしている。

(関連記事:鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 舟津 大通寺 医王寺山 天神山
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柿田川

2007-01-16 00:00:54 | 水のほとり
(静岡県駿東郡清水町)
 計画してから二年越しの駿東清水の地。そこを流れる柿田川を訪れた。
富士山から8500年前に噴出した三島溶岩流の浸透を経て、この地で地表に湧出する水。そして湧水地から1200mで狩野川に合流してしまう川。
湧水量が100万t/日で東洋一といわれ、清水町、沼津市、三島市、長泉町、函南町、熱海市及び初島の上水道にも使われている。
環境庁「名水百選」「二十一世紀に残したい日本の自然百選」にも認定され、長良川、四万十川と合わせ日本三大清流と称される。
水中には昭和5年、三島駅前にある湧水池、小浜ヶ池で発見されたミシマバイカモ(三島梅花藻)やアマゴが生息している。
 近年、開発により環境維持が危ぶまれたが、河岸の買取等によって現状保存するよう活動がされ、水源付近の植樹活動も行われている。そして河岸、流路及び水源地を保護するため、基本的に河川内に入ることができない。
 また、湧水付近の地形を利用し、戦国時代には北条氏が構えた泉頭城が存在していた。
       

(関連記事:柿田橋 音止滝
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乗本 君ヶ伏床

2007-01-15 00:00:19 | 城郭・城下町
(愛知県新城市乗本)
 乗本五砦の中で最も北に位置し、標高も約170mと最も高い。
宇連川、谷下川を見下ろす君ヶ伏床(君ヶ臥床 きみがふしど)砦も長篠城包囲を目的として構えられた陣砦であり、武田氏臣和田信業、和田氏臣長竹昌基、反町大膳が守将を務めたという。
 背後の吉川村から押し寄せた酒井忠次らによって襲撃され、壊滅した。
 北斜面は大正時代に開墾され段々畑となっており、長篠や乗本小川の集落が望められる。
 頂きには「富吉内 菅沼れい 菅沼てつ」と刻まれた阿弥陀石仏があり、傍らには弘法像、下方には聖観音像が立っている。
 訪れたこの日、鹿が姿を現した。自然豊かな山である。
         

(関連記事:鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山
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中街道 小房

2007-01-14 00:00:18 | 街道・宿場町
(2006年1月17日)(下ッ道 橿原市) 
 橿原神宮、神武天皇陵の北東、小房の町を南北に通る街道。
奈良時代には奈良那羅山から明日香檜隈へ至る下ッ道と呼ばれる古代の南北幹線道路であった。
元来、この地は「四分村」と呼ばれていたが、明和六年(1769)に分村した際に、この地に住んでいた娘「おふさ」が、この地で観音さんを祀り始めたのが後に観音寺(小房観音)となり、それが地名に使われるようになったといわれている。
 
(関連記事:橿原畝傍
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乗本 中山

2007-01-13 00:00:04 | 城郭・城下町
(愛知県新城市乗本)
 鳶ヶ巣山等、他の乗本五砦と同じく長篠城包囲を目的として標高約100mに構えられた陣砦。武田氏臣五味貞氏、名和重行、飯尾助友、飯尾祐国、名和田晴継が守将を務めた。然し、背後の尾根から酒井忠次らによって襲撃され、多くの戦死者を出した。
 長篠の戦いの史実を含む山であるが、第二東名建設により乗本では中山を中心に開発され、削平する予定となっている。当初は建設反対の声が高かったが、自動車依存社会の移行や、何よりも発展を重要視する過疎地域の特性が方向性を決定付けた。
 予定地は伐採する樹木にテープを巻き、変貌するその日を待っている。
        (対岸の篠原野より)
(関連記事:姥ヶ懐 君ヶ伏床 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山
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信濃往還 四ツ家

2007-01-12 00:00:23 | 街道・宿場町
(新城道 豊川市篠田町四ツ家)
 大木宿の西にある集落。
寛永元年(1624)に開拓され、四軒の入植者が居住したことに始まる。
この辺りはいわゆる「本野ケ原」の一角であり、入会地でもあったために西側の樽井村と東側の篠田村で論争が起きたところといわれている。その後土々川の旧流路を境に四ツ家の地は篠田村に編入された。
 江戸時代以前、街道は現在より北側を通っていたといわれ、大木の宿が整備されるようになって現在の道程になったようである。
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乗本 姥ヶ懐

2007-01-11 00:00:15 | 城郭・城下町

(愛知県新城市乗本)
 姥ヶ懐(うばがふところ)陣砦は鳶ヶ巣山の北東、東に谷下(やげ)川を見下ろす標高およそ100mに位置する乗本五砦の一つ。鳶ヶ巣山砦同様、天正三年(1575)長篠城を攻める目的で設けられたものである。
 この砦には三枝守友、守義、守光兄弟と、草刈隼人助、宍戸大膳らが守っていたが、同年五月二十一日朝、酒井忠次勢によって襲撃された。
 砦東側には三枝守友、守義兄弟の墓が立っている。
   

(関連記事:中山 君ヶ伏床 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山

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鷺山城 福光城

2007-01-10 00:00:35 | 城郭・城下町

 鷺山城は岐阜市の独立支丘、標高68mの鷺山に文治年間(1185~90)佐竹秀義が築いた城である。その後、美濃守護土岐氏代々の居城となるが、天文十七年(1548)斎藤氏の城となり、城は改修された。然し、弘治二年(1556)長良川の戦いで、斎藤道三は子斎藤義龍により討死し、その後鷺山城も廃城となった。
 昭和39年(1964)、新幹線や名神高速の築堤用採土によって山の南側一部が削られ、その後上方は公園、下方は住宅地となった。採土の際出土した礎石といわれる石が、斜面に建つ北野神社境内にあるが、城の礎石として考えるのは、やや難しい。
 山頂からは岐阜城が望め、北側の太子堂との間には堀切がみられる。また館跡は、東麓に痕跡を残している。
 
 福光城は永正六年(1509)美濃守護土岐政房が鷺山城北東側に築いたとされる館城。
平地であり今は何も残らないが、上土居、下土居といった地名が歴史を伝えている。
鷺山、下土居地区で行われている土地区画整理事業に伴う発掘調査によって、同時代の遺構や城下町、遺物等が検出されている。また、福光城の一角「蝉土手城館」の堀、土塁跡も検出されたが、鎌倉時代の遺構も検出され、永正六年以前から鷺山城に関連した城館が存在したことが考えられる。
   
(関連記事:東山道鷺山 川手城

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乗本 鳶ヶ巣山

2007-01-09 00:00:28 | 城郭・城下町
(愛知県新城市乗本)
 天正三年(1575)五月八日、武田勝頼は一万五千の軍で長篠城を包囲した。その時、対岸乗本に五つの陣砦を築き、守兵一千を配して包囲した。その中の一つが標高およそ150mに設けられた鳶ヶ巣山陣砦であり、主将には信玄の弟である武田(河窪)信実が務め、信実臣小宮山信近も騎を配した。
 同月二十日の夜、織田徳川軍酒井忠次は、四千の兵と五百丁の鉄砲隊を引き連れ南隣吉川の松山峠を越え五砦の背後に迫った。そして二十一日朝、酒井勢が攻め込み、信実陣は壊滅に至ったのである。
その光景を知っているだろうといわれる「天正の杉」の倒木が今も横たわっている。

 また、8月15日には戦死者の霊を弔うために始まったとされる、乗本万灯の送り火行事が、鳶ヶ巣山一角の万灯山で行われる。
        

(関連記事:姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山 設楽原竹広 柳田前
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信濃往還 東上

2007-01-08 00:00:51 | 街道・宿場町
(伊那街道 吉田往還 豊川市東上町)
 前項、柿木道下から松本川に架かっていた木橋を渡り、新江島橋の下を通って、宮出川の木橋を渡ると、御番所跡があった。
御番所は寛永二十年頃(1643)設けられた幕府の番所である。
前を流れる豊川や街道を往き来した産物に税金を課すこと、通行人を取り締まる治安維持を目的に設けられたものである。
 私の子どもの頃は、土道と小川、木橋、傍らには東上(宝飯郡の東の条)の地名の由来ともいわれる条理制遺構の田畑が広がり、往時そのままの光景が広がっていた。
平成に入り、宮出川河口付近の豊川堤防築造により河川敷内となることになったため、御番所跡の碑と籰繰(わくぐり)神社旧跡を堤防北側に移転した。そして街道は消えた。
またそれと並行して行われた圃場整備によって条理制遺構も失われ、道も区画化された。
御番所より東の東上本村地内での街道は、村の南、豊川の川縁を通っていたが、宮出川河口付近の堤防が造られるより一足早く堤防が造られ、街道は痕跡すら残っていない。
往時はシャラ川と清水川(石組みのある清水の写真)の小さな川を渡り、郡境の境川河口を渡ると、中村(新城市豊島)へと通じていたのである。
   
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一宮道標

2007-01-07 00:30:00 | 街道・宿場町
 東海道御油追分から姫街道を経て八幡村で分かれる信濃往還と、東海道吉田から小坂井間の宿を経てくる吉田往還の合流点が、この宝飯郡一宮村宝川(現豊川市一宮旭)の地であった。ここより北は、吉田往還が新城宿まで重複し、信州飯田まで通じる道筋、後の通称伊那街道である。
戦後の開拓による区画整理で、分岐する道が消えてしまったが、自然石の道標だけは今も路傍に立ち続けている。

(トップは2006年5月、ラストは1982年5月撮影)
(関連記事:大木宿 北岡
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