(2006年1月17日)(下ッ道 橿原市)
橿原神宮、神武天皇陵の北東、小房の町を南北に通る街道。
奈良時代には奈良那羅山から明日香檜隈へ至る下ッ道と呼ばれる古代の南北幹線道路であった。
元来、この地は「四分村」と呼ばれていたが、明和六年(1769)に分村した際に、この地に住んでいた娘「おふさ」が、この地で観音さんを祀り始めたのが後に観音寺(小房観音)となり、それが地名に使われるようになったといわれている。
(関連記事:橿原畝傍)
橿原神宮、神武天皇陵の北東、小房の町を南北に通る街道。
奈良時代には奈良那羅山から明日香檜隈へ至る下ッ道と呼ばれる古代の南北幹線道路であった。
元来、この地は「四分村」と呼ばれていたが、明和六年(1769)に分村した際に、この地に住んでいた娘「おふさ」が、この地で観音さんを祀り始めたのが後に観音寺(小房観音)となり、それが地名に使われるようになったといわれている。
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