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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

戸倉城 泉頭城

2007-01-22 00:00:17 | 城郭・城下町

(駿東郡清水町)
 柿田川の湧水地、柿田川公園を散策していると、川と地面の構造がどことなく城郭の雰囲気を感じた。
柿田川を下り、清水町公民館に寄ると、そこで公園が城跡であることがわかった。
 泉頭城は、七つの郭で構成され、自然の堀割と人工堀割により構成されている。
弘治年間(1488~1505)に築かれ、北条氏臣多目周防守、荒川清兵衛が守っていたという。
南隣の戸倉城と同じく、甲相駿同盟が結ばれていない天文二十三年(1554)以前と、永禄十二年(1569)以後は武田氏に対する城となった。
 
 徳倉橋を渡り、南側の搦手口とされる方向から戸倉城域に入る。
居館跡があったという龍泉寺を横目に河岸に立つ竪岩を過ぎ、登山口に差し掛かる。
戸倉城は狩野川が取り巻く標高76mの本城山と、それに連なる丘陵に築かれた城である。
展望台のある頂は主郭跡であり、太平洋戦争中に高射砲施設が設けられたため遺構が残らないが、富士や狩野川、舟で泉頭城と連絡していたという柿田川の合流点が望める。
西側の丘陵へ下る途中には見張台にしたという天狗岩や堀切、岩崖の下には金刀比羅神社が建つ。
下方に傾き風化した下り辛い石段を下り、西郭の麓を歩くと八幡神社に辿り着く。そして更に西側の烏帽子岳には物見の太鼓櫓があったという。
 大手門があったとされる北西側から川郭の存在した北側を歩き、元の搦手へと戻った。
        
 北条氏によって守られていた戸倉城も天正九年(1581)北条氏臣笠原範定が武田氏臣となったことにより泉頭城との争乱が起きた。然し間もなくして織田信長による甲州攻めが終わると、武田氏から北条氏のものに戻った。
そして天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原の役の後、廃城となったという。
(関連記事:三枚橋城


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