(伊那街道 吉田往還 新城市豊島)
宝飯郡東上から境川を渡った街道は、設楽郡に入ると中村に差し掛かる。
現在、旧道の大半は豊川堤防、河川敷となってしまったが、北寄りに向きを変えるところからの道は現在でも残っている。
街道の西側は中村、東側は定池村であった。
そして道は溜池の定池横を通り、根古屋村野田城下に辿り付き、東へと向きを変える。
(※明治元年に三村は合併し、豊島村となった)
この道筋も、明治中期からの県道改修で、根古屋から段丘下を西へ伸びる道が造られた。
安元元年(1175)信濃往還が設置されてから、永正年間に野田城が築城されるまで、街道は定池村から東進、中市場村、石田村と豊川に近いところを通っていたという。
宝飯郡東上から境川を渡った街道は、設楽郡に入ると中村に差し掛かる。
現在、旧道の大半は豊川堤防、河川敷となってしまったが、北寄りに向きを変えるところからの道は現在でも残っている。
街道の西側は中村、東側は定池村であった。
そして道は溜池の定池横を通り、根古屋村野田城下に辿り付き、東へと向きを変える。
(※明治元年に三村は合併し、豊島村となった)
この道筋も、明治中期からの県道改修で、根古屋から段丘下を西へ伸びる道が造られた。
安元元年(1175)信濃往還が設置されてから、永正年間に野田城が築城されるまで、街道は定池村から東進、中市場村、石田村と豊川に近いところを通っていたという。
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