(今浜城 2004年1月3日訪)
天正元年(1573)羽柴秀吉が浅井氏攻めの功により織田信長から浅井氏の領地を拝領した際に、今浜と呼ばれていた琵琶湖畔のこの地を長浜に改名し、浅井氏小谷城で使用していた材料を基に築いた。
天正十年(1582)には柴田勝豊が入城。然し、間もなくして羽柴秀吉は後の賤ヶ岳の拠点とするべく城を奪った。
その後天正十三年(1585)には山内一豊、慶長十一年(1606)からは駿府から内藤(松平)信成、そして信正が城主となったが、元和元年(1615)に廃城となり、廃材は彦根城の建設材料に利用された。
昭和58年に天守が建設されたが、往時の天守を再現したものではない。

(関連記事:北国街道長浜宿)
天正元年(1573)羽柴秀吉が浅井氏攻めの功により織田信長から浅井氏の領地を拝領した際に、今浜と呼ばれていた琵琶湖畔のこの地を長浜に改名し、浅井氏小谷城で使用していた材料を基に築いた。
天正十年(1582)には柴田勝豊が入城。然し、間もなくして羽柴秀吉は後の賤ヶ岳の拠点とするべく城を奪った。
その後天正十三年(1585)には山内一豊、慶長十一年(1606)からは駿府から内藤(松平)信成、そして信正が城主となったが、元和元年(1615)に廃城となり、廃材は彦根城の建設材料に利用された。
昭和58年に天守が建設されたが、往時の天守を再現したものではない。

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