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(革手城 岐阜市正法寺町)
岐南町から境川と岐阜街道を横切り、川手城跡に差し掛かる。
美濃守護土岐頼康が、文和二年(1353)本拠を長森城から、この川手の地に移したのが、この城の始まりである。
以後、康行、頼忠、頼益、持益と続き、明応三年(1494)持益の子成頼のとき、家督争いによって船田の乱が起き、川手城は炎上。その後再建し、政房、政頼(頼武)と続くが、大永七年(1527)政頼の弟で鷺山城主であった頼芸との間に再び家督争いが起き、政頼は越前朝倉氏の一乗谷へと退散したという。
代わって頼芸が守護職に就き、川手城の城主も兼ねるが、その後廃城となった。
慶長六年(1601)川手城跡の土砂を利用して加納城を改築したという。故に遺構も残らず、現在は済美高校の一角、小公園の中に標柱が建つのみである。
岐南町から境川と岐阜街道を横切り、川手城跡に差し掛かる。
美濃守護土岐頼康が、文和二年(1353)本拠を長森城から、この川手の地に移したのが、この城の始まりである。
以後、康行、頼忠、頼益、持益と続き、明応三年(1494)持益の子成頼のとき、家督争いによって船田の乱が起き、川手城は炎上。その後再建し、政房、政頼(頼武)と続くが、大永七年(1527)政頼の弟で鷺山城主であった頼芸との間に再び家督争いが起き、政頼は越前朝倉氏の一乗谷へと退散したという。
代わって頼芸が守護職に就き、川手城の城主も兼ねるが、その後廃城となった。
慶長六年(1601)川手城跡の土砂を利用して加納城を改築したという。故に遺構も残らず、現在は済美高校の一角、小公園の中に標柱が建つのみである。
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