KCF的徒然草

KouChan's Factory管理人の心の叫びor反省文

市電の史跡めぐり~パート2

2019-03-23 22:31:39 | まち歩き
 前回のつづきで、史跡めぐりのはなしです。サブタイトルには市電とありますが、ここからは京急大師線の廃線跡をたどります。

夜光の交差点を渡るとすぐ、踏切を渡る。神奈川臨海鉄道の千鳥線(貨物線)の線路。

そして見えてくるのが、

川崎貨物駅の正門。かつては塩浜操車場と呼んでいた。ここからは、貨物駅を左に見ながら歩き、工場が密集する地帯に入る。

ここで参加者の皆さんが見ているのは・・・?

地面からちょっと出ている石。よく見ると「KHK」とある。

KHKとは京浜急行ことで、京急の「境界標」がなぜか今でもここに残っている。大師線が塩浜まで走っていたころ、ここに線路があったことを示している、まさしく「痕跡」だ。
そして振り返ると、

この工場の場所に、昔の小島新田駅があったという。さらに工場わきの道路に沿って歩いていくと、

何やら不自然なカーブがあるのが、この付近の地図で確認できる。
それを貨物駅を跨ぐ橋の上から確認する。

先ほどのカーブに沿って、アパートが連なっていて、

その先を見ると・・・

現在の小島新田駅があり、鉄道柵も残っている。先ほどの旧小島新田駅、塩浜駅へ続いていた線路の跡であることがはっきりわかる。塩浜操車場の建設に伴い、休止(のちに廃止)された区間だ。

ちょうどこの時、貨物列車が貨車の入れ替え作業を行っていたようだ。

小島新田からは、大師線に乗車・・・

の前に、今回はじめて知ったことですが、現在の駅舎の手前に、


古い駅舎のときの改札跡が、アスファルトにくっきり残っていた。
小島新田駅は、昔は線路が1本しかなく、1番線しかなかったが、今は2番ホームもある。

一つ目の産業道路駅は、さる3月3日の立体交差(地下)化により、きれいな地下駅に生まれ変わっていた。

※この写真は別の日に撮影したものです。

駅を横に見つつ、川崎大師駅で下車。

ここでは、京急の発祥の地を示す記念碑を見学。


鉄道唱歌にある、「大師河原はほど近し 急げや電気の道すぐに」の「電気の道」とは、この大師線のこと。1899年(明治32年)1月に、大師電気鉄道(当時)が、川崎大師への参詣客輸送のために、六郷橋~大師間に電車を走らせた。

ふたたび大師線に乗車する。駅の川崎方の踏切の先に、かつてあった食品工場会社への貨物引込線の、門が残っている。

今回のゴールとなる、終点の京急川崎で下車。
この1番線側の線路には、開業120周年を記念して造られた特製の0キロポスト(距離票)がある。

大師線の起点を示すものだが、じつは川崎市電の起点でもあった。川崎市電と京急大師線との、幻に終わった、環状運転構想の名残でもあるのでは、と思うのだが。

 今回の市電、大師線の史跡めぐりは、参加された方々にも好評のようで、楽しかった、とか、地元なのに知らなかったことが多く、大変勉強になった、などのお言葉をいただきました。朝心配していた雨や強風も、後半には好天に恵まれ、やや暑いくらいでしたが、怪我もなく、まずは無事に終了できてホッとしたのが正直なところです。
 今回教える側になったとはいえ、一夜漬けのようで、曖昧な知識があったり、勉強したけど説明しきれなかったことも・・・!(でもほかのメンバーの素晴らしい知識たちに救われました(^^;)

次回があるならば、それに向けて再勉強が必要なのかなとも、思ってみたり。

(注)今回も、一部は別の日および下見時に撮影した写真があります。
コメント
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