第7章 アメリカ大陸への拡散
1:アメリカ共産党の活動
アメリカ共産党の歴史は古く、コミンテルン結成直後の1919年に分裂状態で結党され、コミンテルンの指令による21年の組織統合後はコミンテルンと密接に連携し、分派闘争を繰り返しながらも主流派はソ連共産党に忠実な党として活動した。
しかし当初海外出身党員の多かったアメリカ共産党は結党直後から政府の一斉検挙・強制退去処分を受け、地下活動を余儀なくされたが、29年の大恐慌が転機となる。共産党はにわかに活気づいた労働運動や反資本主義運動の中で支持者を増やし、大衆運動にも浸透していく。
さらに30年代になると、コミンテルンの反ファッショ人民戦線方針に沿って、リベラル左派とも連携した。スペイン内戦に際しても、人民戦線政府を支援するため、国際旅団エイブラハム・リンカーン大隊を結成し、戦闘に参加した。
アメリカ共産党は草創期の黒人解放運動とも連携しており、リンカーン部隊は黒人指揮官も擁するなど、人種平等に配慮されていた。ちなみにこの部隊には函館出身の日系移民ジャック・白井も参加し、戦死している。
第二次大戦では、反ファシズムの観点から連合国を主導するローズベルト政権に協力姿勢を示すが、戦後冷戦期には親ソ路線から政府によって敵視されるようになり、49年の幹部一斉検挙以降、数次にわたり大量検挙を受け、党は打撃を受けた。こうした政府の執拗な検挙作戦で弱体化していく過程は、戦前期の日本共産党の状況にも似ていた。
54年には共産主義者統制法によって党は非合法化されたが、文言があいまいな同法は憲法上の問題性から実際には適用されず、党は解体を免れた。しかし度重なる摘発とFBIによる内部スパイ工作が功を奏し、最盛期には8万人に達した党員は激減していった。
1991年のソ連邦解体は長くモスクワに忠実であった同党にとってとどめとなり、党勢縮退を決定的づけた。近年は遅ればせながら、女性の権利や性的少数者の擁護などの新しい課題にも関与し、ウォール街占拠運動のような反新自由主義運動とも連帯するなど党勢挽回に取り組むが、現在実質的に活動する党員は2000人程度と見積もられている。
アメリカ共産党はその長い歴史を通じて、一人の大統領も輩出しなかったことはもちろん、議会に議席を持ったこともない、完全な議会外野党として維持されてきた。これは反共二大政党政治が徹底している―実は政党政治が未発達な―アメリカならではの事情によるところが大きいが、見方を変えれば、社会運動と直結した議会外野党という独自の形態での「成功例」と言えるかもしれない。
2:ラテンアメリカの共産党
ラテンアメリカでは、ロシア革命に先立ち1910年にメキシコ革命が勃発したが、この革命は急進的なブルジョワ民主革命の性格が強かった。革命運動内部にはエミリアーノ・サパタのような急進的な革命戦士もいたが、サパタは共産主義者というよりはアナーキストであり、メキシコ革命の中で共産主義者の影は薄い。
メキシコ共産党は革命末期の19年に結党されるも、間もなく非合法化され、再合法化された後も、ブルジョワ民主革命を確定した制度的革命党の一党支配下で革命の急進化が抑止されたメキシコ政治において、共産党が重要な役割を果たすことは決してなかった。ただ、30年代のメキシコはスペイン内戦で人民戦線政府を支援し、スターリンに追われたトロツキーの亡命を認めた。
ラテンアメリカでは、早くに革命的な農地改革が進められたメキシコを除くと、半封建的な大土地所有制が温存され、民衆の多数が貧農、差別された先住民という社会編成が見られたことから、労働者階級に基盤を置く共産党の発達はあまり見られなかった。
そうした中で、ペルー社会党(共産党前身)創設者ホセ・カルロス・マリアテギは農民や先住民の解放を重視する独自の共産主義を提示した。モスクワ主導のコミンテルンの路線と相容れない彼の思想は当初糾弾されたが、ラテンアメリカでは先住民族の運動とも結びついて影響力を持った。
一方、チリでは1932年に軍の一部も加わった社会主義革命が起きるが、これを主導したのは非共産系の社会主義者たちであり、チリ共産党は蚊帳の外にあった。そのため、共産党はこの革命に反対した。
共産党や労組にも支持されなかった社会主義革命がわずか2か月余りで挫折した後、チリ共産党は30年代から40年代にかけ、コミンテルンの人民戦線方針に沿って社会党や急進党と組んで選挙活動を行い、人民戦線系政権に参加、戦後もユーロコミュニズムに近い議会主義路線に立って、人民戦線を継承する人民連合の枠組みで政権参加する独自の展開を見せた(詳細は後述する)。