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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年7月6日 水曜日 夏のフェイバリッツ・9 土屋昌巳「夜かもめ」'83.5

2011-07-06 22:30:35 | 音楽帳
土屋昌巳(一風堂)さんは、1981年のアルバム「レディオ・ファンタジー」発売と、日本で初の本格的MTV「コズミック・サイクル」で、ロンドンのリスナーにも聴かれるようになる。
YMOの日本・東京ブームは、当然ロンドンにも波及していた。

YMOが好きでたまらなかったヴィサージのスティーヴ・ストレンジも、ロンドンの「カムデン・パレス」という自ら経営するディスコで、多くの日本の音楽を流しており、その中には一風堂もあった。

そういう1981年を経て、1982年化粧品のキャンペーン・ソングに竜真知子作詞の「すみれ September Love」というシングルを7月21日に発売する。

これが、日本のいわゆる歌謡曲・アイドルソングだけで染まったチャートに入り、最終的にはオリコン2位まで上り詰める。
それに伴い過去3枚のオリジナル・アルバムを集約したアルバムが2枚発売されて、日本のチャートでもかなり上の方に行き売れる。

その一方で、デヴィッド・シルヴィアン率いるJAPANが解散を公言した中、過去居たギタリスト、ロブ・ディーンはすでに脱退しており、解散コンサートのギタリストを探す中、JAPANが指名したのが、土屋昌巳だった。


【イギリスの番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」出演時のJAPAN&土屋昌巳】

JAPANに一番近かった坂本龍一にとってはなんとも言えない状態になる。

その前の1982年5月段階では、初のソロ・アルバム「ライス・ミュージック」の『カフカ』で教授が曲を提供していたが、その後。。。。

「すみれ」を契機としたのか?
坂本龍一と土屋昌巳が絶縁状態となった。

1982年、すさまじいメンバーで、幸宏は「YENレーベル」第一弾の「ぼく、大丈夫。(What Me Worry?)」発売に伴う国内ツアーを敢行する。

キーボードに細野さん・ドラムにスティーヴ・ジャンスン、サックスに立花ハジメ・そして、ギタリストに土屋昌巳。

ゲストで、坂本龍一、デヴィッド・シルヴィアン、加藤和彦、鈴木慶一!

同じステージに居ながら絶縁。
また、JAPANを挟んでも、解散コンサートでも一緒になっている。

そういう微妙な関係図が当時あった。
一風堂、土屋昌巳は、1982年の活動で世界的に有名なギタリストになる。

***

JAPANが一足早く1982年で解散した翌年の1983年。

坂本龍一----JAPANメンバー----土屋昌巳の引っ張り合いという関係は続いていた。

そういう中、1983年5月にあの鋤田正義さんが撮影したモノクロームの写真で出来た「ALONE」という写真集を土屋昌巳は発表する。



そして、この写真集には3枚のソノシートがついており、インストゥルメンタルの曲が収まっていた。
イーノ、坂本龍一の影響が強い曲。

その曲たちは、7月に発売されることになるアルバム「ナイト・ミラージュ」の制作の中で生まれた前段の曲。

下記は、「夜かもめ(NIGHT GULL)」というソノシートの曲だが、音色(おんしょく)といい、途中でうねり盛り上がる部分といい、明白なる坂本龍一のサウンドトラック『戦場のメリークリスマス』の影響(というよりパクリ?)がうかがえる。

【埋め込み禁止のため、Wクリックして見て下さい】


夏というなら、もっと陽気な音楽を・・・、と言われるかもしれないが、そういう人はほかに行って貰って結構。

竹中直人の1994年の深夜番組「恋のバカンス」の『流しな2人』で、井の頭公園で流しを演じるボブ彦(竹中)が、若者に「もっとビートの効いた明るい曲やってよお~」と言われた際に、「そんな曲なんか出来ないんだよ!」と激怒する場面を、自分にダブらせて急に思い出した。



そうです。
「明るい曲」は、何かそれに至る重い道のりの果て。

「明るい?・・・ビート?・・・そんな言葉をやすやすと口にすんな!」
そういうボブ彦的要素が、つい出てしまう。

夏の朝や昼間にかけたい曲はあるが、ほぼ「拘束状態」の自分が音楽を聴くのは夜。
夏の夜には、海には似合わない私であっても、この曲を毎年聴いて、誰も居ない夜の海を「創」像する。
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2011年7月5日 火曜日 夏のフェイバリッツ・8 Felt「ニューイングランドの説教師」'84.1

2011-07-05 22:20:23 | 音楽帳


「フィルハーモニー」「What Me Worry?」「H」「改造への躍動」「Avalon」「On Land」・・等々を聴いていた1982年夏から、たかが2年離れただけの1984年の夏には、すでにYMOは跡形も無くなっていた。
「坂本龍一のサウンドストリート」も「YENレーベル」も続いていては居たが、YMO無き世界に、私自身の方がバランスを崩し・座標軸を失い途方に暮れていた気がする。

そうは言えども「何か、新しいものをください。。。」と、日々、ニュー・ウエィヴの進む水の流れを追いかけ、まみれていた。
必死だった。

フェルトが、今までのシングルを集めた形で「毛氈」というアルバムを国内発売したのが、1984年1月。
アルバムを買ったのは、それから少し時間を置いてだった気がする。
買うと、そのアルバム・レビューを幸宏が書いていた。

1984年・高校2年生の夏。
日に日に文武両道でやせ細っていく心身の中、土曜日にエアコンが効いた部屋で、夏雲が流れていくのをイスに座って、日が沈むまでの「空のショー」を見ながら、ひたすらイーノの一連のアンビエント・ミュージック、フェルト、ドゥルティ・コラム、ミカド、トンプソンツインズを聴く時間を大事にしていた。
骨に染みるとはこのことか?というくらいに、疲労困憊した身心は、彼らに癒された。

フェルトの「毛氈」の中でも、カセットテープに落として、一番聴いた曲が「ニューイングランドの説教師」。

チェリーレッドレーベルのフェルト。

片方で、金をたんまり投入したカス音楽が世間を席巻する中、そういう音楽に「NO」を言いながら、数人で寄り集まってバンドを創り、静かな、本当に静かなギター・ソングを仲間で創っていた彼らの方が断然、自分のココロに響き、癒してくれた。

この曲も、私にとっては、数十年来の夏の定番となっている。
本当は、日の差す日中にかけるべき曲。

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2011年7月4日 月曜日 夏のフェイバリッツ・7 King Crimson「Two Hands」'82.7

2011-07-04 22:01:05 | 音楽帳
2011年7月4日 月曜日。
ここで、私は、三島さんが45歳で自決したのと同じ歳を迎えてしまった。
多くの文学者が、意識をせざるを得ない45という数字は、三島さんの自死ゆえ。



「私」は昭和41年7月4日、元浅草にあった永寿病院で、この世に「放り出された」。
戸籍謄本には、その元浅草の住所にて「私」がこの世の側に現れた記録が刻印されている。



その永寿病院は、昭和レトロの匂いのする素晴らしい建物だったが、再開発の波に飲まれて、今では取り壊されてしまい、移転した場所に、ハイパーな建物が建っている。
私は、私の生まれた地までをも失ってしまった。
自分が生まれ育った家も他人に盗られ、自分の通った幼稚園も小学校も既に無い。

***

幼い頃は、細野さんの曲にあるような「お誕生会」などもあったが、この歳になると、誕生日などに何の感も無い。
通過点に過ぎない。
そして、運の悪いことに今日は月曜日の「ディープ・ブルー・デイ」でもある。。。

自分の誕生日が、血塗られたアメリカ独立記念日と同じ日であるというのも、実に皮肉。
私がこの世に「放り出された」1週間前に、ビートルズが日本を意識したハッピを着て、羽田空港に降り立ち、来日公演を行っている。

こういう日に、何を聴こうか。
何をかけるかは迷ったが、結果は「別段、何が起きる訳では無い365分の1に過ぎない」と今日思いつく、かつての「あの夏」に聴いていた音楽を普通にかけてみることにした。

***

1981年7月にキング・クリムソンは復活・再結成した。
それは、過去のクリムソン信者からは駄目出しされ、当時のリスナーからは時代錯誤と言われたりしたが、私はそういうどちらにも属すことなく「御大ロバート・フリップが決断したこと」とただ思った。
私の6つ上の兄は、キング・クリムソン命の人だが、彼がこの世を貫くチューンを聴いた過去のクリムソンを私はろくに知らずに、私は再結成の「ディシプリン」を聴いて、そのテクニックと独自のグルーヴ感に驚いた。
ロバート・フリップは、確かに神的な存在ではあったが、だからと言って時代とまったく無縁である訳が無かった。
ちゃんと1981年に再度出現するに足る、時代の趨勢を反映した新しい密度濃い、他人では真似ようが無い独自の音が鳴り出した。



明らかにそこには、トーキングヘッズ&ブライアン・イーノ、パブリック・イメージ・リミテッドなどが焦点としていた「リズム」への着目があり、その流れと同期していた。
パンク~ニュー・ウェイヴの流れの中で、ロックは解体され、他のアフリカ等の音楽との融合、革新的リズムやグルーヴ感の発見に「より新しい明日」を見い出そうと、みんなが躍起になっていた。

坂本龍一の「左うでの夢」も、YMOの「テクノデリック」も、この軌道上にあった。

***

1982年、ニュー・ウェイヴが次第に革新的でありながらマイナーな位置にあった音楽から、チャートを揺るがすまでに音楽世界を侵食し始める。



新生キング・クリムソンの2枚目は、1982年7月に「ビート」というアルバムとして発売されている。
「リズム」に着目したニュー・ウェイヴの流れは、既にエレクトリック・ポップの流れへと移行していたさなか。

6月にロキシー・ミュージックの「アヴァロン」が発売され、ブライアン・イーノが、大地の音をリズム、メロディ=ゼロでパッケージした「オン・ランド」の横で。

***

基本、新生キング・クリムソンは、ロバート・フリップが、エイドリアン・ブリューというギターの鬼才をバンドに懐柔することで成立していた。

私は、エイドリアン・ブリューの唯一無二のギターが当然好きだったが、この人のヴォーカルというのも捨てがたかった。
訴求力を持っていて、静かな曲に於ける声の伸びの良さ・メランコリックな歌い方が好きだ。

1枚目「ディシプリン」での「待ってください」。
そして、この2枚目に於ける「2つの手」。

ロバート・フリップの注釈多き難解さよりも、このアルバム「ビート」においてもエイドリアン・ブリューが歌う「2つの手」の方に、自分の情動は動いていた。

ヴォーカルの流麗な美しさと、陰鬱なメロディ、ロバート・フリップ独特のトーンのギターが相まったダークな曲調でありながらポップなこの曲を当時、クロスオーヴァー・イレブンで初めて聴き、録音した。
この夜、クロスオーヴァー・イレブンの選曲は優れていて、ジャパン『ブリキの太鼓』収録の「ゴースツ」、デヴィッド・ボウイー&ジョルジオ・モロダーの映画『キャット・ピープル』のサントラの曲(アイリーナのテーマ、実地検証、ポールのテーマ・・・)が、「2つの手」と共に、夜の闇世界だけの時間の流れを作っていた。

このカセットテープをよく夜に聴いた。

そんな記憶をこの暑い夜に思い出す。
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2011年7月3日 日曜日 写真日和 6月13~30日

2011-07-03 08:27:50 | 写真日和
6月13日 月曜日


ご飯にお刺身を乗せ、ほうれん草と刻んだタクワンを乗せ、ダシしょうゆをかけてかきこむ夜。
食べ物というのは「ねこまんま」ではないが、おしゃれなバーや料理店で原価数十円の見てくれだけの食べ物を数千円で雰囲気で喰らう連中は放置して、こういう本当に旨くて実になるものがイイ。

6月14日 火曜日


つくばでの朝の一服とコーヒー。

6月15日 水曜日


朝、汗をかく目玉焼き。

6月16日 木曜日


帰り道。夜の雨。

6月17日 金曜日


つくばから都内へのUターンへ。
南千住からのスカイ・ツリー。
梅雨の雲がツリーに絡んでいる。


帰り道。中華屋の匂いある風情。

6月18日 土曜日


雨の中の花。


雨の中のスカイ・ツリー。


矢車草(ではなく、森下礼さんに教えてもらったとおり「トケイソウ」でした。修正します。)


小さいけれども、キレイにけなげに咲くかわいい花。


放射能雨の水たまり。


父の日の宴。

6月19日 日曜日


実は大好物の雪印の6Pチーズ。
これまた好きなピングーイラスト入り。
雪印乳業は、過去問題を起こし、メディアの張ったキャンペーンにやりこめられた。
しかし、要因は、働く人たちでは無く、経営陣。
そんなことで大好きな6Pチーズを食べるのはやめない。
対して、東京電力は逆、経営陣のみの話ではない。
えらそうに電力独占にあぐらをかき、そのカネがたかる場所に一緒にグルとなっていた社員全員、その家族全員射殺されても已む無いのかもしれない。
国内の問題で済むならまだしも、地球レベルでの問題に加担したのだから。

ということで売国奴への反感丸出しで、大好きな6PチーズのバックにEP-4のジャケットを配置。

6月20日 月曜日


平日の夕食は、疲れから食べるにも一苦労。
お刺身と大好きなタラコでご飯を平らげる。
肝機能がおかしくなって以来、食がすっかり細くなり、最低限の量で満腹に至る。

6月21日 火曜日


朝は、今日も曇天。

6月22日 水曜日



もうすぐ朝日新聞も地上波テレビも潰れてこの世から消える運命だが、珍しく地上波テレビでふいに点けた際に出ていたお笑いの2人組に、本当に久しぶりに大爆笑した。
2人の男女司会の番組を揶揄した内容。
二者択一の誰でも回答が分かるクイズに答えれば、モノが貰えるが、ことごとく電話する人が裏切り、誰も言う事をきかないで、イラ立つ司会者の生放送。

6月23日 木曜日


YMOの「テクノドン」ライブを久々に見る。
3人とも「だまされた」と永遠に「テクノドン」収録曲は封印されたが、こんなカッコイイ100点満点のアルバムとライヴは無い。
勘違いした音楽を聴く耳を持たない連中が、中古屋BOに平気で売ったがために250円コーナーに「テクノドン」がある屈辱。
要は、誰も音楽の「芯」をちゃんと聴いていない証拠そのもの。
他のガラクタCDと250円コーナーに「テクノドン」があるのは、実に耐え難い。

6月24日 金曜日


この日は、すっかり美人シャラポワの魅力に取り付かれてしまい、水着写真を穴が開くほど眺めて感嘆していた。
こんな美しい写真はそうそう無いと。

6月26日 日曜日


毎年見る・とある公園の・とある場所で、今年も同じ花が咲いた。
アラーキーの影響から、花を撮ることに取り付かれて十数年が経つ。

6月27日 月曜日


ディープ・ブルー・デイの月曜日遅い夜、茅場町の橋を渡る。

6月28日 火曜日


この花を見るたびに、スネークマンショーのアルバムジャケットを思い出す。

6月29日 水曜日


さっさと仕事、やるべきことを終え、秋葉原に。
夕暮れ時、和泉橋から須田町方面を見る。


夜、実家に泊まる。
コチャコがいつも食べるカリカリのえさのお皿。

6月30日 木曜日


第一四半期が終わったとのことで、已む無く飲みに付き合い、日本橋へ。
「氷点下のスーパードライを出す店」ということで期待したが、出てきたビールはそのへんで売っているものと変わらない。
期待と裏切り。
おまけに店内の内装のキレイさ・デザインで誤魔化して、馬鹿高い店だった。
もう二度と行かない。
ダマシに誤魔化されて、ぬるいビールとレンジでチンした食べ物を、高価な値段で飲み食いするほど、こちらもアホじゃない。
コメント (2)
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2011年7月1日 金曜日 夏のフェイバリッツ・6 Roxy Music 「Avalon」'82.6.

2011-07-01 23:35:25 | 音楽帳
今日は、実は仕事場に行っていない。
周囲の勧めもあり、1日かけて病院へ。
左側の首から鎖骨・肩にかけて、単なるコリを通り越して、痛みに変わっていたこの数ヶ月。
盛んにストレッチやマッサージをするが、それも5分と持たず。
首は左に回らないし、回すと激痛が走るのを我慢してきた。

ということで、元々別で肝機能障害&抑鬱で予約していた順天堂病院に、朝から1日様々な科を回って過ごした。



→ペインクリニック科→診察→前回帯状疱疹でお世話になった若い先生と話す
→再度、神経ブロック注射を決断→今日は、ノドから十数センチの針を刺し、神経ブロック。
さすがに、背骨に激痛が走り、涙をこらえる。
→続いて、胸郭出口で血管が止まっている可能性あり整形外科に回される
→頭部・肩・頸のレントゲン→診察→胸郭出口症候群の可能性は低いという
→昼食を挟み→肝機能障害&抑鬱診察→会計→薬をもらうと17:00.
仕事場に電話して、休む事にした。

***

こんな日。
来週月曜日には、いずれは来るとはわかっていながら恐れていた7月4日が来る。
三島由紀夫さんが自決した45歳になってしまう。

金曜日の晩ということで、嫌な「この世」を離れるためにロキシー・ミュージックのラスト・アルバムかつ最高傑作となった「アヴァロン」(=桃源郷)を聴く。

ロキシーで唯一、女性が出てこないジャケット。
遠くを見やると、そこには、もう手が届く距離に、永遠の地がある。。。。



1982年6月。
初めて耳にしたのは「渋谷陽一のサウンドストリート」での特集。

そこから29年目。
色あせることのない永遠が続く。
永遠に。



こないだ兄と話したが、この「アヴァロン」というアルバムはブライアン・フェリーのものでも、アンディ・マッケイ、フィル・マンザネラ、ライヴでボコボコに下手くそだったドラムのアンディ・ニューマークのものでもなく、ロキシー・ミュージックのものでもない。
ある意味、ボブ・クリアマウンテンと関わったエンジニアたちとロキシー・ミュージックが融合して科学反応を起こした「奇跡」。

誰のモノと言う所有・所属を離れた孤高の位置に、永遠の音楽として行ってしまっているという事実。
「言語」=概念を必要としない、カンペキに昇華された「音楽」。

「これ以上の、これを超えるモノはない。全て無い。」と永遠を歌う「モア・ザン・ディス」で、『アヴァロン』は始まる。

■MORE THAN THIS■


「ミュージック・マガジン」1982年7月号で、ムーンライダーズの鈴木博文さんは、こう切り出す。

『これは、魔術に違いない。
どの音も、溶け合って、大きなうねりを造っている。』

***

この、『アヴァロン』はトータル・コンセプト・アルバムを完遂し、全ての曲が素晴らしい。
そして、A面、B面それぞれ各5曲の配置も、極めて自然な流れの魔術の中、カンペキになっている。

■AVALON■


私がめげる時によく聴く、B面の最後の盛り上がりに位置する「トゥルー・トゥ・ライフ」という曲。

鈴木博文さんは、こう語る。

『・・・「トゥルー・トゥ・ライフ」のマンザネラのギターなど、朝、明るくなるのが早いきょうこの頃の、午前4時ぐらいに、聴こうものなら、もう、明日なんか無くてもいいなんて思ってしまうだろう。

・・・今日(こんにち)のニュー・ウェイヴが暗がりから抜け出たのとは、また少し違うロマンティックな薄ら明かりを発光して、ロキシーは、素敵にうねっている。』

■TRUE TO LIFE■


この『アヴァロン』というアルバムに、どれだけの人が29年の人生の場面場面で癒されてきたことだろう。

たぶん、このアルバムだけは、私ごとき一介の凡人が死のうと、ロキシー・ミュージックの3人が死のうと、関係者が死のうと、人類が亡くなるまでの間、キズや妨害や批判を受けることもなく、永遠に輝き続けるのだろう。

そういう確信が、音に満ち溢れている。
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2011年7月1日 金曜日 写真日和 6月6~12日

2011-07-01 20:17:56 | 写真日和
6月6日 月曜日 夜のクロちゃん



6月7日 月に一回の定期通院で御茶ノ水へ


いつもどおり御茶ノ水橋を渡る際に1枚シャッターを切る。


アイスコーヒー。2つもシロップを入れて甘くして飲む。


居酒屋の看板とあじさい。


下着ショップのディスプレイ。


仕事場の近くのがくあじさい。


夜、秋葉原のマッサージへ。とあるビルの壁画。


過去、市場があった秋葉原。その空き地。


もう営業時間を終えて静まりかえったスーツ・ショップ。


御徒町。夜の水道工事。


地下に繋がるバーの明るい電飾。


地面の工事前描かれたカットする配置。


書道塾のディスプレイ。


夜の山手線高架下。



御徒町のフォーク居酒屋。

6月8日 水曜日 茨城へ


向かう電車の中からは曇天。


朝の濃いコーヒー。


タリーズの看板。


ひなびたローカル線と駅。


夜のうつろなコチャコさん。

6月9日 木曜日


今夜の電力量メーター。


秋葉原のヨドバシへ。「Hosonova」を求めて。
スカイツリーのミニチュアが売っている。


タワーレコード。平沢進さんのコーナーがあるのは偉いが、「Hosonova」は売っていない。


夜に住まう人々。


「Hosonova」が買えなかった代わりに、中古屋BOで購入した収穫物。

6月10日 金曜日


朝のバラ。

6月11日 土曜日 細野さんに会いに日比谷野音へ


朝のクロちゃん。


朝のCD。


日比谷駅の壁画。


日比谷野音。開演前。


細野さん、眠たげに登場。
1曲目「悲しみのラッキースター」でいきなり歌詞を忘れて途中で中断。
「さっきまで眠ってたから・・・」というコトバが細野さんらしくて、好きなファンは爆笑。




トリのPUPA。


【PUPA「ANYWHERE」(2008年11月30日)】


野音の帰り道。


浅草駅地下のバー。

6月12日 日曜日


小さな可愛い花。


夜の野菜カレー。
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