12:30以降記載:
再度の地震にびびったが、ラジオ「永六輔その新世界 土曜ラジオワイドTOKYO」で、言問団子の娘外山恵理ちゃん・永さん・そして永さんの相棒:精神科医のきたやまおさむさんのえがくゆる~い世界ところころ笑う恵理ちゃん・突き抜けるような高笑いのきたやまさんたちの会話になごんだ。
きたやまさん「こういう有事には、日本人は、戦争(太平洋戦争と)戦後もあったが、自分がそこに居ないことに罪の意識を覚えてしまう人が出ます。
亡くなった人への罪の意識から自分が頑張らなくちゃ・・・と身を削りボロボロになってしまう人がいます。
そうなってはいけない。
そういう精神の持ち方は、ひとそれぞれだから、心のケアはそれぞれ違う。
例えば、モノが見当たらないときに、それをあれあれ・・・と思う人と、あいつが盗んだと思う人が居るように・・。」
永さん・恵理ちゃん・きたやまさんの愉しい会話は、ボクの大事な時間。
同世代Aさんにもお話ししたが、愛するチャイナ・クライシスの「ワーキング・ウィズ・ファイア&スティール」に入っている「ヒア・カムズ・ア・レインクラウド」(雨雲がやってくる)を、何が起きようと春爛漫の自然が満ち満ちる今、聴きたい。
13:25以降記載:
昨夜、TBSラジオ番組「DIG」に、なんと砂原良徳さんが登場した。
2001年の名作「ラヴ・ビート」からなんと10年を経て発表された4月6日発売の新作「リミナル」。
なぜ、10年もかかってしまったのか?という問いに砂原さんは、以下のように答えていた。
「表現したいものが無かった。
別に、表現したい音色が見つからなかった訳では無いのだが。
どんどんと圧倒的にシステムが発展するのと・世界が傾いていく中、人が制御できないところまで来ている危機感は、常底流を流れてはいたが。
まるで、この(震災+放射能)件は関係ないはずなのだが、結果論としてシンクロしてしまった。
震災後、動揺する中、ああそうだ、オレ、もうすぐアルバム出るんだ。
と思って、それを3・11以降、自ら聴きなおしたら、オレこんなものをつくっちゃったんだ、と自分が作ったクセに全然違うように聴こえた。
単なる偶然の一致ではあるけれども、幾分かのところは時代とはシンクロしていたのかもしれない。」
ボクは、まだアルバムを購入していない。
だが、ラジオで聴いた2曲は、今までの砂原さんの作品とは全く異なる響き。
まさに「サブリミナル(無意識)」で、浮遊する音の配列は、関係性を拒むようにして、形を形成することを拒否している。
エレクトロというのは多面的で、その時の水面下の動き、アッパーな気も、ダウナーな気も、そのとき・そのときをもろに表現に反映される。
2001年に9・11が起き、2011年の3・11への10年。
というかバブル崩壊後、1989年以降、ひたすら20年近く、日本は低落の一途を辿り、今後は見えない。
砂原さんのような優れたナイーヴな音師が感ずる意識も、本人が感ぜれない無意識も、時代とは無縁では当然無い。
13:57以降記載:
最近、この比較的新しい家でも、四六時中、ミシッ・・というラップ音がする。
常どこかを震源とした地震が起きていることなのだろうが。
地殻・大地の変動が起きていることを、地球の上に仮住まいしていることを、改めて認識する。
14:10以降記載:
砂原良徳さんの愛聴盤「ラヴ・ビート」は夏の夜に聴くことにしているだが、今日はまだ春だが1曲目の「アース・ビート」をYOUTUBEで聴いてみる。
14:20以降記載:
11:30ごろ大きな揺れがあってから、外に出てみた。
高い気温とあふれる花々と新緑。
なにごともなく普通に過ごす人々のウィークエンド。
自分の胎内温度とのギャップを感じる。
自分が過剰に反応し過ぎているのかもしれない。
シャッターを切り続ける。
14:43以降記載:
ボクは今回の地震について、ずっとナゾだったことを想っていた。
弘原海清(わだつみきよし)先生が阪神淡路大震災の後発表した研究成果の著書「前兆証言1519」にも記載されているが、阪神淡路大震災には多くの前兆が存在した。
この地震では、地震前に磁力が大きく目に見えるカタチとなって現れていた。
レントゲン写真に写りこむ電磁波の飛ぶ姿。
解決し得なかった電波障害。
磁力で月の光の放射が本来月の周囲に放たれるのが、地面に向かって垂直に光のスジとなっていたこと。
地面に向かって螺旋を描きながら、姫路辺りに向かって降下していく奇妙な地震雲。
動物たちの動き。
大移動を始めたアリの軍団、犬やネコ、鳥たち・・・の異変を察知した動き。
人々の夢に出てきた奇妙な夢。
何も無かった訳では無かろう。
先生の研究が、今回の地震前の警告としてなぜ生きなかったのか。
それがナゾである。
16:50以降記載:
間が持たず、スーパーまでビールを買いに散歩。
スーパーに「純水?」なるものを求める人が多いのだろう。
奇妙な案内書きを見て思った。
初めて聞いた「純水?」。
では、今まで過去歴史の中で「みんなが飲んでた水」と「純水」とは違うのか?
ボクは、こういうものは「宗教」だと思う。
根拠が無い。
根拠無く「純水」にすがるのは、いかがなものかと思う。
この花にシャッターを切っていたら、クルマに轢かれかけた。
そのクルマが墨田区の「老人介護ホーム」のバス。
実に皮肉である。
死にかけたあと、公園に行った。
桜がはらはらと散る公園は、とても静かで、イオンが発生しているのだろう。
気持ちが良くなった。
その公園に、灯篭を発見したが、風景に違和感或る「安全第一」の囲い。
実家の灯篭も、今回の地震で倒壊したが、そうかと思う。
確かに崩れて怪我をする可能性は否定出来ないが、1mもしない高さの灯篭が崩れたところで大したことではない。
囲いは風景を乱している。
とりあえず、クルマに轢かれずに家にたどり着き、ビールを呑み、精神を緩ませる。
17:50以降記載:
本当のことを伝えようという学者、京都大学原子炉実験所の小出裕章先生の4月10日の動画を発見したので、これから見ていく。
18:20以降記載:
「CDジャーナル」に砂原良徳さんの新譜「リミナル」に対する3月10日に、震災直前段階でのロング・インタビューが掲載されている。
引用させていただく。
ボクにとり、なぜ10年というロングタームの沈黙が必要だったのか?が、新譜そのものより今気になっている。
というか、ずっと気になっていたことだったので。
以下引用する。
【インタビューのイントロ】
ソリッドな電子音の骨格は生々しく、力強く歩を進める。
純然たるソロ・アルバムとしては『LOVEBEAT』以来、実に10年ぶりともなる砂原良徳のアルバム『liminal』。
堂々とした音像は風格すら漂わせている。
『LOVEBEAT』の延長線上にある音ではあるが、ひとつ大きく違うのはあのアルバムに渦巻いていたメランコリックな感覚が後退している点だ。
当時のさまざまなインタビューにもあるように『LOVEBEAT』は彼の音楽と世界の向き合い方を示したものであった。
あれから10年、砂原良徳は、今、何を見て音楽と対峙しているのか。
そしてこのインタビューが行なわれたのは奇しくも未曾有の大震災となったあの日の前日である。
***
【インタビュー】
聞き手 : ニュー・アルバム『liminal』は2010年7月に発表されたシングル「subliminal」との連作になっていますが、これは『subliminal』制作時から念頭にあったことなんですか?
砂原さん : もともと「subliminal」のタイミングでアルバムを出すはずだった。
だけど、いしわたり淳治と僕(いしわたり淳治&砂原良徳)というコラボがあってアルバムを作るほどの作業時間がなくて。
で、アルバムじゃなくて、まずはシングルを出そうという話になって、それで「subliminal」を先に出して。
実際に『liminal』はその流れで作業をやっていこうと思ってたんですが・・・
『liminal』を作ってる最中に“コレ、次のことをやりはじめている気配があるな”と思うようになって。
『liminal』の片足は「subliminal」なんですが、片足はその次のことという感じになってしまってるんですよね。
聞き手 : 『LOVEBEAT』の頃のインタビューには、あのアルバム自体が世の中の出来事に対する反応だという発言がよく出てきてました。
そこからさらに10年経って、ぶっちゃけ世の中は良くなっているわけではないと思うんですが、そのへんのことで『liminal』を作るにあたって考えていたことはありますか?
砂原さん : 世の中、良くなってないし、どんどん酷くなってるなって。
日本においては本当にそう思う。
でも違うところ、例えば途上国なんかは景気が良くて部分的に見たら良い部分もあるかもしれない。
だけど地球全体をみたらやっぱり厳しいなって感じはしていて。
そういうものを見た感覚を、今までよりも自分の作品にダイレクトに反映させていくというやり方は『LOVEBEAT』の頃と基本的には同じですね。
あのときは勢いがあったと思うけど、いまは勢いがない(笑)
聞き手 : そうですか?
音的にはより力強さを感じたんですが。
砂原さん : そこに意識的なところはあまりないんだけど、ヤバいなっていう警告的なものというか、
どんどん迫ってきている感じが自分の中であると思うんですよね。
それがテンポとか、そういうところに出てるのかもしれない。
もちろん理由は自分で分かってないだけで、何かあると思うんですけどね。
聞き手 : 今作の制作に関して、具体的な問題意識って何か念頭にありましたか?
社会と向き合う起点になった事柄とか。
砂原さん : あまりにも問題が多すぎて・・・
それが、どんどん増えていっているというところかな。
それがやっぱり気になりますね。
問題が山積している状況が。
聞き手 : 冒頭で『liminal』を作っている最中に、「subliminal」とは違うものになりつつと感じられたそうですが、『liminal』を聴いたあとで、改めて「subliminal」を聴くと、音数が多いというかポップにすら聴こえる部分があって。
砂原さん : そうかもしれませんね(笑)。
聞き手 : 対して『liminal』はシンプルな骨格だけの強さみたいなところにフォーカスしているような気がして。
砂原さん : 「subliminal」のときと、とにかく違ったのは、和音を“ジャン”と弾いたときに、この“ジャン”と弾くことが、まず面白くないと思うようになったことで。
そもそも和音を弾くこと自体がルールに則ったことじゃないですか?
世の中にあるギターのフレーズもドラムのフィルも、全部聴いたことのある引用でしかないし、それってなんか白々しいなと思ってしまったんです。
そして世の中にある曲のほとんどが、人から人へ向けて作られているものなんですよね。
これがね、音楽のすべてかって言うとそうじゃないと思うんですよ。
最近、インタビューの現場で逆に訊いてることなんですけど、そもそも“音楽のはじまり”ってどういうものだったと思いますか?
聞き手 : 自然の中から何か楽しい音が聞こえてきたところですかね。
砂原さん : うん。
まったくそれが正解だと思うんですよ。
例えば僕が原始人だとして、海に行って、砂浜で寝てたとする。
なんで行くのかというとそこが気持ちいいからだと思うんです。
そこでは波の音が聞こえると思うんですけど、はじめはその波の音が気持ちいいということ自体には気づいてない。
だけど、波の音をそこで心地良いと思ったことが、すなわち人が音楽を感じた瞬間だと思うんですね。
そういうことが音楽の最初なんじゃないかと思った途端に、人から人に意識的に音を出すということ自体どうなのかなと思ったんですよ。
そうすると、自分が作る音がどんどんノイズ化していくという。
聞き手 : 音楽以前の音楽という感じですかね。
砂原さん : そうですね。
いつの間にか音楽が“人から人へ”になってしまった。
それで、世の中にはツマらない音楽作るヤツって、たくさんいるわけじゃないですか?
聞き手 : アハハハ(笑)。
砂原さん : 音楽は、音楽を作った人間に結局集約されると思うんです。
でも風の音とか波の音って何に集約されるのか、全然分からないじゃないですか?
“所詮この曲って、これを作ったコイツでしかないんだよな”って思っちゃうとなんかツマらないなと。
聞き手 : そこからは自由でありたいと。
砂原さん : そのへんが曖昧というかハッキリしてないものをやってみたいというのあって。
それは今後の課題でもありますね。
聞き手 : でも、砂原さんの音楽はファンが聴けばすぐに分かる。
“砂原良徳さんの音”っていう確固たる個性があるじゃないですか。
砂原さん : そうなんです。
そこから脱却できないんですよ(笑)。
それが今の悩みなんです。
基本的に大体、ものを作ってるときはもがいてますよ。
ただ、クリアできるか分からないながらも、具体的な課題がある方が自分的には作業にとっつき易いので。
聞き手 : 音楽の定型からも自由でありたいというところに関係があるのかも知れませんが、ヴォーカルというか『LOVEBEAT』にはまだ言葉があったと思うんです。
でも今回は、言葉に関して言えば、「Capacity」という曲で人数を連呼するのみになっていますね。
砂原さん : 自分の表現したいことが、言葉とか具体的なメロディになりにくくなったんですね。
“このメロディって、他の誰かが、すでに作ったものじゃないか”とか思っちゃって。
メロディって、まさに“人から人”への代表というか。
そういう音楽がすべてダメだというわけではないんですけど。
聞き手 : 自分がやるものではないと。
砂原さん : そう。
自分のソロ・プロジェクトにおいては、かなりいろいろな制限をかけているので。
制限かけない方がいいという意見もありますけど、音楽なんて制限かけなきゃ作れないですよ。
聞き手 : 音楽以前の音の快楽という話がさっき出てきました。
そこに関連するかもしれませんが、砂原さんの作品にはビートがあるじゃないですか。
ビートレスなアンビエントみたいなものって興味がないですか?
砂原さん : いや、アンビエントとかビートレスみたいなものは面白いと思うし好きですよ。
だけど、今はメロディとかコードよりもビートというものが共通言語になるんじゃないかなと思うんです。
メロディとか歌詞がハッキリした曲を、そういうものに対して免疫のない原始的な生活をしている人のところに持っていっても理解できないと思うんですよ。
だけどビートは違うんじゃないかと思うんです。
ビートは人じゃなくて、自然の中からも生まれてくるし。
こだわりじゃないですけど、音楽を作る上で、ビートというものは今後も使っていきたいと思いますね。
聞き手 : サンプリングではなく、電子音であるというのも、そういった制限や決めごとなんでしょうか?
砂原さん : 音に関してはコンピューターから出てくる音である必要は必ずしもなくて。
自然の音を取り込むとか、そういうこともやりたいとは思ってるんですけどね。
ただ僕は楽器の演奏ができなくて、今後する気もないですし。
だからコンピューターで作るというのはひとつの前提ですね。
でも、世の中には面白いと思えるような音というのは、どこにでもある。
車の音や電車の音、ブレーキの音。それらの音って、出そうと思って出てる音ではないですよね。
そういう意味では不都合な音なんだけど、それが面白く聴こえるところが僕にはある。
人の意識とは関係なく出てる音。
そういう音を取り込んでいきたいという気持ちは強くあります。
聞き手 : 初回盤にはDVDの映像も付いていて、その制作にもご自身で携われていますが。
砂原さん : ライヴをやるときはどの曲にも映像を付けてるんで、どうしても作らなきゃいけないんですね。
だから映像のことは、いつも考えてます。
ただし、今回は映像になりにくかったり、映像に変換しにくかったりする要素がいつもより多かったんで苦労しました。
聞き手 : 『LOVEBEAT』に辿りついたというのは、本当に大きかったということなんですね。
砂原さん : 本当にでかかったですね。
自分の戻る家ぐらい作っとかなきゃいけないと思ってて、そういうものに『LOVEBEAT』は、自分の中でなったのかな。
でも、それも時間が経たないと分からなかったですね。
やっと最近、聴けるぐらいの感じかな。
聞き手 : 逆に、それ以前の作品って聴きます?
砂原さん : 最近、聴きはじめました。
『Take Off & Landing』とか最近自分で聴いたりしてますね。
“あ、これやってたんだ、すでに”とか思うこともありますよ。
意外に頑張ってたんだなって。
聞き手 : あの頃の作品はいま聴くとファンタジックというか、コンセプトをがっちりと決めてという感じだと思うんですが。
今の砂原さんの作品からは、より肉感的というか生々しい印象を感じるんですね。
砂原さん : やっぱり『LOVEBEAT』以降はリアリズムかな。
それがソロ・プロジェクトの前提になりましたね。
聞き手 : ある意味、サンプリングを排したことで、無機質な電子音だけになったと思うんですが、逆に僕は今の『LOVEBEAT』以降の音の方が色気というか、そういうものを感じるですよね。
あのとき、コンセプトで彩られた部分で隠されていた部分が出て来ていると思って。
エロティックな部分を感じます。
砂原さん : 僕の音楽をエロティックと言う人はなかなかいませんよ(笑)。
聞き手 : たまにインタビューの中に、さっきのビートの強度みたいな部分でファンクという言葉が出てくるじゃないですか?
ブラック・ミュージックの型通りのトレースじゃないファンクというか、ある意味でオリジナルなこの国で生まれたファンクというのが、こうなって来るのかなと。
砂原さん : 僕のビートとか変なところで止まったりするじゃん、あの感じがファンクだと思うんだよね。
小山田くんのコーネリアスの曲とかも、変なつっかかり方するでしょ?
あのつっかかりこそがファンクだと思うんだよね。