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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『美少女症候群』と富沢雅彦

2009年08月19日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
昨日まで、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに行ってました。自然とアートの関係、村おこしとアートの関係、田舎と都市の関係などいろいろと考えさせられるやっぱり見るべき展覧会でした。

さて、また再開して、こつこつとノート作り進めていきます。

『おたくの本』でも取り上げられていた80年代のおたく批評の重要人物といっていいだろう富沢雅彦。彼の見解を理解しようとするのに『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと 1985年)は格好の素材、相当に読み応えのあるテクストが収められている。本書は、ロリコン同人誌のなかで代表的なマンガ・イラストを富沢の編集のもとでピック・アップしたものであり、全10章で各章の冒頭には、編者・富沢のコメントが600字程度添えられている。目次は以下の通り。

第1章 ロリコンその世界
第2章 猟奇天国、少女の地獄
第3章 10万本の触手
第4章 メカフェチたちの饗宴
第5章 ラナちゃん、ラムちゃんいっぱいされちゃった
第6章 メカアニメDEカルチャー
第7章 SEXY SFXギャルズ
第8章 少女はやっぱり女の子のもの
第9章 猫耳を、もっと猫耳を!
第10章  美少女幻想は時空を越えて

「触手」、「メカ」+少女、「猫耳」など、今日のオタク的なものとして連想するイメージがすでにこの時期(1985)に存在していることに、不勉強だった僕は驚きました、まず。もうひとつ面白かったのは、第8章なんだけれど、女性の手によるロリコンマンガの存在。これは現在はどうなんでしょうか。どこか乙女チックな女の子を「可愛いものを可愛いものとして愛する方法」をもつ女性が描く。そこには性的な表現(本書に収められているのは、レズの性描写)も含まれる。ジェンダーを跨ぐものとしてロリコンの存在があることを富沢は強調している。この強調点は、富沢批評の興味深い特徴である。富沢は、三次元イコール男性的な価値の支配する社会と考えており、二次元の世界はその枷から自由になれる場として想定しているのである。これは、しばしば比較される本田透との違いをつくるところだろう。二次元に三次元の男性的な価値原理を持ち込む男、相も変わらず対象を犯すことしかできない男を憎む富沢は、それをアイデンティティとするところでおたくの外部にいるおたくである。そのスタンスが富沢を批評的な存在にしている。

富沢の文章をいくつか抜粋しながら、さらに詳細に見ていく。

第1章では、「本来の語義と切り離された”ロリコン”」(p. 8)を、富沢はこう定義している。

「マンガ・アニメファンにとってロリコンとは何なのかを自問してみると、それは自分たちを現実よりも二次元のイメージを求める存在として認識するときの称号であるとしか言いようがないのである。」(p. 8)

性欲のかたちというよりは三次元ではなく二次元に生きるひと=ロリコンだというのだ。そこで例えば、女性のロリコンの存在をこう指摘している。

「ロリコンが必ずしも少女を性的対象とすることを意味しないのは、マンガやアニメの可愛いキャラを好む女の子たちもまた往々にして自分たちをロリコン・ショタと称したがることからも明らかである」(p. 8)

二次元に生きる故に、富沢にとってはロリコンは、「ビョーキ」であるとされても責を免れた存在であることには違いない。

「ロリコンという言葉は絶対の免罪符としてあらゆる責からの解放を約束する--なぜなら、それは”ビョーキ”なのだから。」(p. 8)

ちなみに、この「ビョーキ」という語彙は、80年代前半に大流行したものであり、例えば先述した野々村文宏『新人類の主張』にも出てくる。自己アイデンティティを「ビョーキ」に求めるという点で、両者は重なり合う(では「ビョーキ」とは何か?)。

第2章には、「触手」に関して的確な論が展開されている。性的な欲望の主体(=男性的な主体)になりたくない性的欲望者の願望が「顔のない男根」としてのメカ触手を生んだ、と富沢は考える。

「マンガ・アニメ少年たちは己れの性的欲望を認めながらも、自らを凌辱の主体とすることに踏み切れないのではないかと思われるのだ。少女が何者かに犯されている姿はイメージしたい、しかし二次元の世界においてさえ自分をフィジカルな力の行使者とすることの出来ない彼らがほとんど無意識的に創り上げたのが、この顔のない男根としてのメカ触手だったのではないか、と。」(p. 48)

第4章には、共同幻想を形成する場としてロリコンを規定していて面白い。富沢のこういうところは、きわめて秀逸だと思う。

「SFをはじめ美少女とは無縁の姿勢を保つ同人誌は存在している。だがそれらは、同人誌というマイナー文化の中の更なるマイナーとして埋没しつつあるという印象なのだ。我々はロリコンと自己規定するときのみマスとなり得る。」(p. 58)


第5章は、アニパロを話題にする。アニパロの発端は、女性によるホモネタ同人誌だった、と富沢らしい女性への眼差しを元に、男性のパロディが「エロのためのエロ」に向かうのに対して、女性のそれの多様性に注目している。

「70年代のアニパロ・ブームの先陣を切ったのは「ヤマト」「ガッチャマン」ファンの女の子によるホモネタ同人誌だった。男の子によるエロ・パロはその後塵を拝する形で発展し、今では完全に形勢が逆転したという感がある。
 だが女の子のホモ・パロが本来そのキャラの画面に現れることのないプライベート・ライフを垣間見たいというパトスを中核とし、ヒワイ画を描くのも耽美趣味の一環という感じだったのに対して、男のエロ・パロは往々にしてエロのためのエロとしてより不毛度の高いものにしかなり得ていないのも否めない事実なのだ。」(p. 80)

「例えば「サザエさん」等のほのぼのマンガをエロ化して己れのセンスをひけらかしてみせるとか、メジャーな美少女をこれみよがしに冒涜して”私物化”してみせるとか。それらを見るとき、オトコというものは二次元の世界においてさえも競争原理から脱却できないということを思い知らされるようで、暗たんたる想いにかられずにはいられないのである。」(p. 80)

富沢らしい視点の真骨頂(に僕には見える)は、第8章。

「その[ロリコンブームの]膨大な群の中には、女の子による美少女同人誌というジャンルも存在しているのだ。トラディショナルなモチーフとしての可愛い少女から詩的なメルヘン画、ロリコンブームにフィードバックを受けた女の子による美少女エロマンガまで、多彩なスペクトルをもってそれらは活況を呈している。だが、女の子にとってそれら全ては、美少年志向も含めて、広義の少女趣味の一環だったのだ。
 他方、少女趣味に相当する嗜好の様式--可愛いものを可愛いものとして愛する方法--を持ち得なかった男たちは、相変わらず対象を犯すこと、自分のビョーキをひけらかすことしか自己アピールの手段を得ずにいる。」(p. 128)

本書の最後には、編集後記(「世紀末美少女症候群伝説」)が付いていて、そこに富沢はまとまった分量で、自分の考えの形をより明確に披露している。前半、おたくたち自身が自嘲していさえする自分たちの外見を取り上げ、論を展開してゆく。

「このこと[おたくたちが外見に対して無頓着なこと]は、現実よりも二次元のイメージの世界に閉じ込もることを選択したマンガ少年たちの無意識的な自己表明ではないかと思えるのである」(p. 176)

そして、引き続く次の文章は、まるでおたくの側からの「新人類」(非おたく)批判のようにも映る。

「筆者自身に関しても、あるときタワムしに髪染めちゃおーかしら、ファッションもロンドンっぽっくキメちゃおーかしら、なんて思ってみたりして、そこですぐに気づいたことには、しかしそうしたならば行動もファッションに規制されて従来の生活--書店で嬉々として「コミックボンボン」を立ち読みすること……等々が非常に困難になってしまうであろう、と。で--マンガ少年にとってそういう”現実”への自己アピールが関心の外に置かれているということは、例えて言うとアメリカの生活に憧れを抱く日本人があえて着物を着たりチョンマゲを結ったりする必要を認めない、というのと同様のことと思われる。」(p. 176)

現実への自己アピールを欠いた存在がおたく。ファッションに規制されて自分たちの二次元への欲望を発揮したりや現実での無頓着な振る舞いが出来なかったりすることこそ、問題と思うのがおたく。だから始めから現実で「モテ」ることは、度外視している訳だ。非モテ=おたくというのは、ある意味では、自分たちの了解事項であるはず。というかむしろモテるモテないにかかわらず現実から逃避することこそが、おたくのおたくたる所以、おたくのアイデンティティである、というのだろう(ちなみに、富沢の文章から「おたく」という言葉は出てこない、代わりに出てくるのは「マンガ少年」)。

「三次元界と二次元界は、物心ついた時から目の前に並存していた。三次元の現実とは我々にこの社会内でのアイデンティティを確立せよ、”現実”の生活や家庭や出世、”現実”の女との恋愛やセックスに欲望を持て、それによって社会に帰属せよと迫る。ぼくらはどうしてもそれに対する齟齬感を抱かずにはいられなかった。この肉体が三次元界に存在しているのは残念ながら(!)動かしがたい事実として、観念のレベルでぼくらは各々のイメージの支えとして心を満たしてくれるものは何でも良かったのだ。……ロリコンというキーワードが登場して初めて、誰もが実感しうる”性”を媒介に美少女が唯一最大の共同幻想となり得た。」(p. 176)