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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「おたく」と「新人類」 大塚英志『「おたく」の精神史』より

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」は蔑称として生まれた。
「おたく」を蔑称としてある種の人たちを指すのに最初に用いたのは中森明夫である。「最初に」の真偽は定かではないところがあるけれど、そうだということで動いているところが重要。そうだということで動かしている一人が大塚英志であり、彼がおたくの側で論を進めるのに対して、中森明夫は大塚が編集長だった『漫画ぶりっこ』に寄稿しておたくを揶揄したのだった。その中森は、いわゆる「新人類」と呼ばれる若者のリーダー的な存在だった。

☆「おたく」はその語が生まれた当初「新人類」との差異のなかでアイデンティファイされていたのだった。

「おたく」←→「新人類」

となると、「おたく」を同定するには、「新人類」を理解しなければならない。
大塚(『「おたく」の精神史』)によれば、この「新人類」はさらに、「神々」と差異化された存在である。「神々」とは筑紫哲也が「朝日ジャーナル」誌上で連載した「若者達の神々」というインタビューに登場した者たちを指す。第1回が浅田彰。その後、糸井重里、坂本龍一、如月小春、村上春樹らが取り上げられて行く。大塚はさらに85年4月から同じ「朝日」同じ筑紫によって連載が開始される「新人類の旗手」に注目して、そこで取り上げられたのが、中森明夫、小曽根真、川西蘭、辻元清美、とんねるず、秋元康、木佐貫邦子、平田オリザらであると列挙した。「神々」と「新人類」の違いは何か。

「「神々」の登場人物はその時点での「成功者」である。」のに対して「「新人類」の顔ぶれはどうだろう。「神々」の人々のほとんど全てが今でもそれが誰か自明な人々なのに対し、こちらの顔ぶれは相当に妖しい。あるいはぼくの不勉強かもしれないが、その人物が何者であるか、あるいは今、何をしているか、咄嗟に想い出せない人が相当いる。」(p. 33)

大塚は、「いまだ何者でもなかった」(p. 35)者たちである「新人類」が自分を語る際の肩書きに注目して、彼らが「リミキサー」「環境アーティスト」「謎々プログラマー」などの「ほとんどその場ででっち上げたような肩書き」を用いているのは、要は彼らが「何者でもなかった」からであり、「新人類」として評価されるか否かは、「特別な才能や実績に基づくものでなく、いわば「先着順」であった」と考える。「先着順」であることが「送り手」と「受け手」の近さを生むと同時に、「送り手」と「受け手」の差異を生み出す。「新人類」は「置き換え可能な何者かが偶然、選ばれたに過ぎない」(p. 36)。

大塚の議論は、「新人類」と「新人類の旗手」とを分けて論じていないので、分かりにくくなっている(「先着順」の議論は、「旗手」になれるかただの「新人類」一般かの違いのように読める)。けれども、恐らく、「新人類」も「新人類の旗手」も、ひとしく、次のような特徴があったということは出来るのだろう。

「「新人類」にとって何よりも重要だったのは「何者でもない」無名の若者と「何者か」であるべき自らの差異の演出である」(p. 37)

「新人類」とは、何だったかその定義は、もう少し別のテクストを参照する必要があるだろう。その上で、「新人類」と呼ばれた者たち呼ばれたいと思っていた者たちとは、あいつらとは自分は違うという根拠なき自信とその自信を補完する「演出」にあるのではないだろうか。「せいぜい瞬間芸で目立つ程度の手続きで世に出てしまった」(p. 37)人たち。もちろん大塚は、こう定義することで、おたくを揶揄した中森を揶揄しようとしているのだから、否定的な面を強調しているのは当然である。「自己演出」をして「差異化のゲーム」に勝つ。それは彼らが優れた「消費者」であることを導く。

「「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。」(p. 41)

すでにあふれた商品や記号を選択し、自分は他人とは違うという違いに自己陶酔する(あるいはそこに、その人の能力を認める)のが「新人類」だとすると、「おたく」は、そうしたすでにある消費の現場にあるものだけでは満足出来ずに、そこにないものを自ら生み出し、自らの力で「市場」を生み出した。

「「新人類」は自らの主観では、消費を「運動」化あるいは「思想」化していた。しかし、彼らを「市場」として制しているのは、上の世代であった。これに対し「新人類」的領域には劣性な消費者であった「おたく」は、他方、自らの領域においては自給自足を始めるほどに貪欲な消費者であり、事実彼らは消費者の枠を超えてコミックマーケットがまさに象徴するように自給自足的な送り手とさえなった。」(p. 42)

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