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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『蒼い時』と『聖子』

2009年08月25日 | 80年代文化論(音楽)
山口百恵著『蒼い時』は1981年に、神田法子著『聖子』は1986年に、それぞれ出版された。

2人は、言うまでもなく70年代と80年代を代表する歌謡曲歌手である。この2冊には、時代を代表する歌手が結婚を契機に書かれたものであるという共通点がある。
『聖子』は『蒼い時』を強く意識しているように思われる。

『蒼い時』の目次は、「出生/性/裁判/結婚/引退/随想/今、蒼い時」で、
『聖子』は、「結婚/歌手/料理/醜聞/看病/求愛/最後/夫婦/赤ちゃん」である。

自分が女として生まれた存在であることが、山口の場合「結婚」というゴールへ向けて、松田の場合「結婚」と「赤ちゃん」への期待として書かれている。

◎女性の身体とアイドル歌手としての存在
ちょっと驚くのは、女としての自分を描く一環なのだろうが、初潮の瞬間を2人とも丁寧に描写しているのである。『蒼い時』では、

「十一歳になろうとしていた一月五日、私は、初潮をみた。まだ家々が建てられる前の平らな土地が広々と見える道端に、ポツンと立てられた時刻表、そこはバスの停留所だった。年始に行った帰り道、私は母と並んでバスを待っていた。肌寒い、もう夕暮れ間近だった。何の話をするわけでもなく、待つ時間のもどかしさと風の強さに負けて、私はその周囲を歩き回っていた。その時一瞬、下腹部にチクッとさされたような痛みを感じた。次の瞬間、身内の熱が固まってころがり落ちた。「整理だ」漠然とそう思った。確かめるために近くの繁みにかがみ込んだ。両の足の間に小さな朱色を発見した私は、すぐに母に告げた。母は、淡々と、それでも嬉しそうに笑って、「お赤飯をたかなきゃね」と囁いた。」(山口 集英社文庫 pp. 36-37)

「テニス部に入った。父がラケットをわざわざ福岡市まで買いに行ってくれた。そんなに上手ではなかったが、好きだった。二年生でレギュラーになる日を夢みて、練習に励んでいた。
 スコートがどうやら板に付いてきた夏のある日、白いショーツに小さな赤いしみを見つけた。赤いというよりはむしろ茶色に近かった。けがをしたのかと思った。だが、どこにも傷はない」(松田 p. 11)「たしかに私は女としての新しい一歩を踏み出した。その夜、母はやさしかった。夕食がお赤飯になることもなく、いつもと変わらなかったのが、私にはかえってうれしかった。おかげで私もとまどうことがなかった。それまで、男性である父に、私はどんな顔を見せながら食事をしたらいいものか、ひそかに悩んでいたのだ。」(松田 p. 12)

何故、ここまで克明に書く必要があるのだろうと思ってしまう。山口に関しては、日付まで記されている。冬と夏の違い、父の買ってくれたラケットで部活に勤しむ松田と母子家庭で過ごしている山口の違いは、2人の個性を特徴づけているように思う。父の不在と父への戸惑い。山口に関しては、「私自身がいったい、いつ、どこで、どんなふうに生まれたのかを、私は知らない。」(山口 p. 14)とあり、その原因である父との関係について山口はこう述べている。

「私には、父はいない。
 一つの肉体としてあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」(山口 p. 18)

対して、松田聖子の場合、

「父の通勤の車のなかは、娘と父の、私とお父さんの水入らずの場所だった。朝ばかりではなくて、雨が降ったり、クラブなどで帰宅が遅くなったりするときも、父はよく学校に迎えにきてくれた。母にいわせると、「べったり」の父娘だった。」(松田 p. 55)

山口には、生理について書く必然性(必要性)があった。「性」という章は、歌手として彼女が「青い性」を歌う存在だったことを受けて、それに対して、山口本人の思いを語るものとなっている。「あなたが望むなら、私何をされてもいいわ」と始まる
『青い果実』は、今聴くと、ほとんど、当時の日本人が束になって若いひとりの女の子にセクハラをして楽しんでいたかのような暗い気持ちにさせられる。彼女自身も当初そう思ったようで、「期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。」(山口 p. 34)という。「こんな詩、歌うんですか」と思ったという。当然だろう。この「青い性」路線は、彼女のダークなイメージを規定した。このイメージに対して、では自分はどんな性への意識をもっているのかを山口は語る必要を感じたのだろう。かなり赤裸々な記述が続いていく。

「恋という感情を自分の中に確認してからしばらく、私は性に対する自分の姿勢を、きれいごとで済ませられると思っていた。体を合わせるだけが全てではない、と考えていた。しかし心が募るにしたがって、身の内に不思議な感覚が走るのを否定することはできなかった。求められると同時に、求めることを知った。心と体が、説明できない波にすっぽりと包まれてしまうのである。」(山口 p. 48)

このストレートな文章は、アイドルとしての山口百恵ではなく、きっぱりとそれを捨てたひとりの女性としての語りと理解するべきだろう。あまりにもシンプルに率直に語られている。その様にあっけにとられてしまう。書き手がアイドル像をほとんど纏う気のない振る舞いを見せてしまっている。ほとんどそれは、女性論と呼ぶべきものへと展開する。「女の歴史」に連なっていく議論を、切々と説く山口は、ひとりの女性、女性であることを強烈に、過剰といまの視線からは思ってしまう程真摯に意識している女性である。

「私は今、心身ともに健康である。愛する人に丸ごとぶつかっていける心と体をそなえた幸福な女である。これから私は、子を宿し、出産し、やがて年老いてゆくのだろう。今はまだ見えてはいない女の歴史が、何年も続いていくのだ。平和であることを願いたい。せめて皆健康で、そして和やかに生きられるように努力したい。」(山口 p. 53)

山口百恵は、21歳で結婚した。『聖子』には、松田が21歳での結婚に憧れ続けていたことが記されている。これも、山口ないし『蒼い時』を松田が意識していると思わせるポイントである。「二十一歳で結婚すると、ずっと長いこと心に決めていた。歌手になりたいという望みより、はるかに強くて大きな願望だった。」(松田 pp. 17-18)とあるので、山口の結婚を機に「21歳で」と思っていたわけではないだろう。けれども、ここにこだわって書かれていることがなんだか気になる。1981年出版の『もう一度あなたに』(ワニブックス)では、「私の"山口百恵"論」と題された章がある。そこでは、確かに

「私のそういう結婚観を聞いた人は、必ずっていいほど、「山口百恵さんに影響されたの?」って、私に問いかけます。別に百恵さんに影響されて、こういう考え方になったのではありません。何度もいうようですが、昔から考えてることなのです。たとえ歌手にならず、他の職業に就いていたとしても、結婚するときは、その仕事はやめてると思います。それほどまでに、私の中の"結婚"は、大きいのです。」(p. 185)

と語られる。山口百恵については、「私も、よく"第2の百恵"なんていい方をされましたが、とても私などちっぽけで、比較の対象にならないと思います。だから百恵さんにたちうちできるほどになるのが夢です」(p. 185)とある。ちなみに『聖子』のなかには、山口百恵に対する言及箇所は見あたらない。

『聖子』の中で結婚願望の語られる辺りを読んでいると、山口と違って(というよりも、以前に語っていたこととは違って)21歳が過ぎても仕事をしている私、と言うものに対して、ちょっとした弁明がしたいという感じもする。

ところで、いま「二十一歳で結婚する」と決めている女性は、一体どのくらいいるのだろう。この年で結婚すると決めて生きている十代のテンションは、そうではない十代のテンションとは相当異なるだろう。アイドルとは、当時、そうした短い花の時代を輝かせる存在として、あったのだろう。いま、二十一歳でアイドルが結婚しても、たいして憧れられないだろうし、ヤンキー扱いされるのがオチだろう。


◎恋愛と仕事
結婚すると山口百恵は、決してメディアに振り向くことはなかった。対照的に、松田聖子は結婚後も仕事を再開した。この違いは、両者の決定的な違いだろうし、70年代の主婦像と80年代の主婦像の違いを示してもいる気がする。恋(結婚)と仕事について松田の発言をざーっと列挙してみる。

「何よりも強烈だったはずの結婚願望を、逆に仕事が押しやっていった。自分がいちばん女として輝いているときに結婚したい。それは二十一歳のときだと信じきっていたのに、いつしか予定の日が遠のいていった。」(松田 p. 20)

「恋愛と仕事と、どちらが大切なものなのかと天秤にかけたことなど、私には一度もなかった。その前に、恋愛と仕事をそうやって比べるという発想がなかった。」(松田 p. 22)

「そんな家庭に育った娘の私は、短大か大学を出て、花嫁修業をして結婚というのが、いちばん身近な、現実的なコースだった。スチュワーデスになりたいといっても、それも非現実的な夢だった。両親にとって平凡だけれど、そのもっとも望ましい安穏な暮らしをおびやかすものが、今回のできごとなのだった。父が反対するのも無理はなかった。」(p. 50)

「撮影のときなど「鏡取って」などと、年上のスタッフに言葉を放つこともあった。彼女は仕事の最中に、いちいちていねいにいわれるほうが、むしろいやだといっていた。けれども私は怖いと思った。このまま慣れていって、それが当然のことと感じるようなときがあるのではないかと。それだけは避けたい。そんな女性にだけはなりたくない。少なくとも、自分の中でそんな懐疑心を失ったときは、女として終わりなのだと自分にいいきかせていた。」(松田 p. 157)

「食事は遠慮や気兼ねもなく、楽しくおいしく食べたい。いつのまにか、自然にそういうふうな考え方に変わっていった。そして彼はバリバリ働き、私は元気な赤ちゃんを産む。それが私にとって、いちばんの幸せなのだ。」(松田 p. 172)

「三月の十日の私の二十三回めの誕生日が過ぎて、何日かしたとき、
「誕生日のプレゼントだよ」
 と、彼が無造作に手渡してくれた、素敵な金の時計だ。
 私のスケジュールは、五月十二日を最後にすべてが終わった。その日、大阪城ホールでのコンサートを終えて楽屋へ戻ったとき、私はその時計を腕に巻き、じっと見つめたのだった。」「これが最後のコンサートになるわけではないかもしれないが、独身最後の、大きな区切りのコンサートであることは確かだった。」(松田 p. 199)

「少しずつ主婦という"職業"に慣れ親しんできたつもりだ。主婦の仕事のことを、英語では"シャドーワーク"というと、どこかで聞いたことがある。もしかしたら、無報酬のつらい仕事というような、否定的な意味でそういうのかもしれないが、"影の仕事"というのは、いい得ている表現だと思う。光と影は対をなしている。光、つまり夫がいなければ、影、妻も存在しない。私は肯定的な意味に解した。時間をかけて"いいジャドーワーカー"になりたいと思った。」(松田 p. 220)

「結婚以来、仕事は休み、何よりも家庭を優先させてきた。むろん義務などではない。そうするのが私にとって、いちばん自然だったというだけの話である。わずか半年足らずで、家庭の基盤を築けるわけはないけれど、主婦としての場所は、小さくとも占められるようになったのではないかと思う。」(松田 p. 258)

「正直にいって、結婚するとき私は「これで引退をします」といいたい気持ちもあった。」「だが、そうはしなかった自分にいま深く感謝をしている。」「話はそれるが、私が前に「結婚したら仕事はやめます」といった言葉をひとつの楯にして、結婚のとき「松田聖子は嘘つきだ、いい加減だ」というような非難を受けた。だが、変わってはいけないのだろうか。価値観が変わることが、そんなに非難されるべきことだろうか。」(松田 p. 261)

「いまの私は、まだまだうたうことと家庭とが、ギャップもなくすんなり両立するとは思えない。うたうことよりも何よりも、私はいま、彼との暮らしを大事にしたい。そして母親になりたい。」(松田 p. 262)

1986年に沙也加を出産。1987年4月には『Strawberry Time』で歌手復帰する。1997年に神田正輝と離婚。その前の文章。

「私の場合、松田聖子と神田法子は、そのありかが違います。
松田聖子にとっての幸せは、仕事を思う存分することです。歌をうたい、それを聴いていただくこと。アンコールとあたたかい拍手に包まれること。
神田法子の幸せは、愛する人が元気でいてくれることです。仕事が順調に運び、いつも健康なこと、笑顔を見せてくれること。そして子供に恵まれ、家族みんなが仲よく、健やかに暮らしていけることです。」(松田 p. 268)

松田は、この二つの自分を上手く両立させていくことを考える。対して、山口百恵の場合は、「女房」というアイデンティティに自分らしさを「百恵らしさ」を見いだそうとする。

「私はこれから女房になろうと思う。女房という語から感じるいい意味でのニュアンスを、さり気なく大切にして行きたいと思う。それが今、二十一歳の最も私らしい姿だと思うのである。年にふさわしくないと言われ続けてきた私が、女房になり、時を経る。彼のそばにいる限り、これからの私は、最も百恵らしくなれるのではないかと思っている。」(山口 p. 114)