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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』

2009年08月12日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
香山リカの自伝的80年代論。

1960年生まれの香山は、私立医大生時代、工作舎の『遊』周辺でアルバイトをしていた。遊塾に入るか迷っていたが、遊塾出身で『HEAVEN』の編集長をしていた山崎春美に誘われて、同誌の制作に。多くは、この山崎周辺で起きたことに費やされている。

◎山崎春夫周辺で

「1979年、遊塾在籍中の春美は『遊』増刊号の責任編集に抜擢され、あまりにも鋭いセンスで活字の世界でも広く知られるようになっていた。それから左内順一郎こと高杉弾が主宰していたポルノとサブカルチャーが合体した自動販売機雑誌『Jam』、それが発展した『HEAVEN』に参加。その後、左内氏が突如、失踪したのを受けて編集長に就任することになったのだ。
 春美は同時に、音楽のインディーズシーンでも注目を集めていた。1977年にパンクバンド「ガセネタ」を結成、過激なヴォーカルと痙攣パフォーマンスで話題をさらったあと、79年には早くもガセネタを解散、"伝説の存在"となっていた。」(p. 29)

そのあたりのシーンの描写は面白い。渋谷周辺のインディーズシーンの一端が垣間見られる。「ガセネタ」の詳細は分からないけれど、痙攣的な身体パフォーマンスで知る人ぞ知る存在だったらしい。「痙攣的な身体パフォーマンス」は、この時期の音楽における身体性の重要な傾向だろう(セックス・ピストルズはもちろんのこと、ディーヴォやトーキング・ヘッズ)。

86年の春になり、国家試験の勉強をしている内に時代が変化したということについて、論の最後にこう語られている。

「新玉川線の渋谷駅から地下通路に出た私は、自分の目を疑った。そこを歩く若い女性の多くが、世にも奇妙な服装をしているのだ。年齢的には20代と思われる女性が、幼稚園児のような白いハイソックスをはいている。隣の女子大生らしき子の紺のスカートには、象のワッペンがぺたぺたついている。スカートそのものもデザインも妙に子どもっぽく、ミニスカートの上にエプロンのようなヒラヒラした生地が巻かれている。
「どうしてみんな、いっせいに幼稚園の制服のような格好をしているんだ。私が数日、街に出ないあいだに、何が起きたのだ……」
 あわててキオスクで女性ファッション雑誌を買い込み、当時はまだ高校生に占拠されていなかった渋谷109の地下の喫茶店でそれらを熟読した。そして、私は知った。これは「ハマトラ」と呼ばれる新しい女性の流行なのだ。ハマトラでは"お嬢さんらしく""かわいらしく"がキーワードで、より無垢により女の子らしく見えるのが大切らしい。
 私は、ショートカットの髪のえりあしを刈り上げにし、コム デ ギャルソンのまがいもののような黒いパンツとジャケットを着た自分が、この渋谷という街では完全に浮いていることに気づいた。
 自分の時代は終わった、テクノはもう古いんだ。」(pp. 196-197)

◎付録の中沢新一との対談 「新人類」のかたち
二つの付録が面白い。ひとつは中沢との対談(「「ニューアカ」と「新人類」の頃」もうひとつは、08年当時矢継ぎ早に出た80年代論を香山が批評していく「バブルより速く 長めのあとがき」)。「新人類」と彼らが憧れた「ニューアカ」+YMOとの関係が中沢から語られる。

「香山 後藤繁雄さんは「新人類」のフィクサーだったとも言われていますね。私なんかも「新人類」の人たちと友だちづきあいしていたんで、イベントを見に出かけたら、終わったあとに「キミも新人類に入らないか」って言われて、なんかよくわかんないけど「いや、ちょっといいです」と言って断った記憶が(笑)。
 中沢 「新人類」といえば、山口昌男さんがあの頃「なんだか知らないけど、新人の類っていうのが現れた」って言っていて、なんだなんだと思っていたら、以前から知り合いだった野々村文宏さんたちがその「新人の類」らしいというんで驚いた(笑)。でも当時は「ミュータント」という言い方が流行っていましたから、「新人類」の前からいろんなミュータントは出ていたんですよ。
……
 香山 ある種の熱狂状態みたいな感じ……。
 中沢 本人たちよりも、それこそ周りにいた「新人の類」の人たち、中森明夫さんとか野々村文宏さんとか田口賢司さんとかが、じつは熱狂の張本人たちだったと思います。ほとんどヒンズー教で言う「バクティー」に近い熱狂状態で、それを見てると、自分たちにもこれには多少責任があるぞと感じて、暗い気持ちになりました(笑)。」(pp. 175-176)

「香山 そういう熱狂状態が86~87年まで続いてく……。
 中沢 いや、85~86年にはもう翳りが出てたんじゃないですか。83年のYMOの「散開」のときに、すでにもう翳りの前兆がありましたし。「ニューアカ」の当事者でありながら、自分たちは「ニューアカ」なんていうムーブメントと関係ない、と思っていたところもある。YMOに較べたら「ニューアカ」なんて全然オリジナリティがないんだもの、途中で嫌になっちゃった」(p. 177)

「香山 80年代が「砂上の楼閣」だったというと言いすぎかもしれないけれど、実際は何も積み上げられていなかったということはないんですか?あと、私たちの責任ということで言えば、中沢さんやYMOの人たちなんかがいろいろと言ってくれて、それを私たちが読みといて、あ、これはラカンのここから来てるんだな、とか、バロウズはいいよね、とか言っていたのが、YMOが「散開」して、みんながそれぞれの場に戻ってしまったら、私たちからは何も紡ぎだせなくなってしまった。「指示待ち世代」という言葉じゃないけど、結局ずっと待っているばっかりだったんですよ。」(p. 191)

「宮崎事件のときに、大塚英志さんとか、私の世代の80年代っぽい人が、初めて社会的な発言をしたんですよ。89年に宮崎事件があって、91年に湾岸戦争があって、あの頃は一瞬、新人類が社会的な発言をしていくんじゃないかという気運があったんですよね」(p. 197)

「新人類」とは関係ないけれど、たけしについてのこの発言もおもしろい。中沢は自分や浅田が行ったモダンの破壊をたけしの振る舞いに重ねてみていたという。

「中沢 同じ頃、ビートたけしさんが「オレたちひょうきん族」をやっていた。たけしさんはあの番組で、それまでのお笑いの規則や、お笑い以外にも日本にあった作法や文法をみんな壊したんです。壊してるのを見てておもしろいと思う半面、これはこわいな、とも思っていた。そのあとにB&Bが出てきて、たけしさんが壊しすぎたところをまとめなおしたのを見てホッとして、これからは自分はB&Bみたいなこともやらないといけないんだな、って思ったこともあるくらい」(p. 181)

「あとがき」でおもしろいのは、例えば、この箇所。

「工作舎用語やニューアカ用語を駆使して禅問答のようなやり取りを際限なく繰り返す人と、「私って、戸川純聴いてギャルソンの服着てピテカントロプスに通ってて!」と限りなく固有名詞や商品名を連ねることでしか自分を語ることのできない人は、ふたつの点において本質的には同じだと考えられる。どちらも、それほど深い意味はない、という点においてと、こういったものの言いの本当の目的は「このお作法に従えない人はあっちに行って」という"排他のゲーム"にある、という点においてだ。」(p. 212)

『おたくの本』(別冊宝島104)のおたく

2009年08月10日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
『おたくの本』は、「宝島」の別冊ムック本で、1989年12月24日に出版された。前述した宮凬本と同じくJICC出版局によるもので、ほとんど同じタイミングで出版されている。宮凬本にその告知が載っている。

この本の表紙にはこうある。

「「おたく」は、'80年代が生んだ、高度消費社会を読み解くキーワードである!」
「ハッカー、ロリコン、やおい、デコチャリ、コミケ、カメラ小僧、ゲーマー、アイドリアンなどなどの知られざる生態!」

このラインナップにあがった者たちを本書ではおたくと読んでいるようだ。「コスプレ」がないことやアイドルの凋落と共に「カメラ小僧」「アイドリアン」のあり方が変わっただろうことを除けば、今日の「おたく」のひろがりはこの時点でだいたい出来上がっていたと見ることが出来そう。あ、「デコチャリ」は、ちょっと変わっていて、自転車にトラックみたいなデコレーションをするもの。これはいまどうなんだろ。「ヤンキー」的なものが「おたく」と絡まっている一例といえるだろうか(いまでいえば「痛車」にあたる?)。

◎別冊宝島編集部が語る「おたく」とは何か?

本書冒頭の「「おたく」を知らずして'90年代は語れない!」(別冊宝島編集部)というテクストは、かなり興味深いまとめをしている。

「幼女殺人事件で突然大衆メディアに浮上した「おたく族」なる言葉。大新聞や週刊誌によると、「おたく族」とは「アニメやマンガのファンで、ファッションや恋愛に興味のない暗い青少年」ということになる。これを翻訳すると、「わけのわからないことをやっている、薄気味の悪い、社会的意味のない奴ら」ということになる。あなたもきっと、そう思っているはずだ。
 だが、それは間違っている。徹底的に、間違っている。まず、
 「おたく」とは「おたく族」ではない!
 「おたく」の現場に近い人ならばけっして「おたく族」なんて言葉は使わない。「おたく族」というのは「太陽族」と同じくくだらない風俗用語にすぎない。
 この本でやろうとしているのは、「おたく族」という若者風俗のルポなんかじゃない!
 本来、「おたく」という語は、「おたく」によって作られ、「おたく」のなかだけで定着したものである。それまでのマニアとかコレクターという言葉では表現しきれない何かを自分のなかに抱えていた彼らは、それの呼び名を求めていたのだ。だから、
 「おたく」とは、マニアとかコレクターのことではない!
 現実のなかで生活するには働かなければならない。仕事をするには、価値観の違う他者とも関係しなければならない。世間の他者と接するためにはきちんとした服装をしなければ相手にされない。ましてや結婚するためには、完全に違う人類である異性ともうまくコミュニケーションしなければならない。このようにして生きている個人の趣味はただの趣味でしかない。マニアであっても、別の価値観を持つ他者と関係をもてる人は「おたく」と呼ばれたりはしない。
 「おたく」は八〇年代以前にはいなかった!
 世間の価値観を捨て、独自の世界に忠実に生きるには、かつては大変な孤独と生活の困難を背負う決意が必要だった。しかし、八〇年代の高度消費社会では、必要以上の豊かさが生きるための労力を軽くし、生活を重視する必要がなくなった。価値観は多様化し、肥大した。そうして、同じ価値観を持つ人どうしの「場」ができていった。そのなかでは他者と関係する必要はない。だから、
 「おたく」は孤独ではない!
 ……
 「おたく」は成熟しない!
 誰もがみな青春の一時期に「世界」と自分の違和感に悩む。それを乗り越えることを成熟と呼ぶ。だが、自分と同じ幻想を共有する「場」があれば、その「場」こそが本当の世界であり現実なのだと思いこめば、成熟する必要がなくなる。この本では、ロリコンと呼ばれる「おたく」特有の嗜好が実は「男になりたくない」願望の現れだったことをつきとめた。架空の美少女という共同幻想の「場」を得ることで、少年たちは生身の女性と無理につき合う必要がなくなった。成熟を不要にするこの「場」の磁力こそ「おたく」の正体なのだ!
 「おたく」とは、「場」にとらえられた状態を示す言葉だったのだ!
 こうして構造は「おたく」を培養した。現代思想家たちはなぜか誰も「おたく」に気づいていないようだが、「おたく」」こそはポスト生産社会を読む鍵に違いない。この本はそういう視点をもとに、「おたく」の記号生成と消費の現場に直接斬り込んだ日本で初めての試みである。心臓の弱い方は御遠慮下さい。」(pp.1-2)

興味深いポイントが山盛りなのだけれど、とくに、

「世間の価値観を捨て、独自の世界に忠実に生きる」ということの徹底において、おたくは「マニアとかコレクター」と一線を画すると論じられている点。「日曜~」みたいな状態ではおたくではない、というわけだ。実存を賭ける者がおたくである、と。あと、

世間の価値観-独自の世界

が永遠に交差しないと考える思考に、おたくのおたく性があるように思われる。他者との関係をもてないこと。ここでの他者とは、社会の中で了解されている規範とか「~らしさ」とかを尊重する者のことだろう。そうした人間との決別がおたくであることの証になる、というのだ。それはつまり、「成熟」を拒むことであり、「男になりたくない」という思いをまっとうすることだ。このまとめと、後にも触れる富沢雅彦と彼へ向けたエッセイは、恐らく、強い繋がりがあるだろう。

◎浅羽テクストをめぐって(「高度消費社会に浮遊する天使たち」)
浅羽のおたく論は、『天使の王国』を読んでおく必要があるようだ(目下注文中)。さしあたり、本書で展開されている論考のみから興味深いところを(ちなみに「天使」とは、当時話題となったヴェンダース『ベルリン天使の詩』の「天使」から来ているらしい。あの映画の天使のように世界から距離を置き世界を俯瞰する存在として「おたく」を同定しようとしている)。

○「新人類」と「おたく」

マーケティング業界誌『消費と流通』が86年に掲載した論文「"感的知性"が優れた『新人類』」(三浦康英、松浦一郎)に対して、浅羽通明が書いている部分は、消費の観点から「新人類/おたく」を考える上で興味深い。浅羽は、この論文で4種の若者像が整理されており、とくに感的知性派と内的モラトリアムに注目する。前者が新人類に相当し、後者がおたくに相当するからだ。感的知性派とは「新人類世代のイメージリーダー層」であり、彼らはマーケティングの見地から重要な消費者とみなされる。対して内的モラトリアムは、彼らにとってほぼ無視の対象だった。そこに、浅羽は注視する。

「新人類ブームと呼ばれる八〇年代若者論のなかで、「おたく」がほとんど注目されないできたのは、おそらくここに原因があるのだろう。すなわち新人類論は、何よりも内需拡大の巨大な市場、消費者の群としての若者をめぐって闘わされたのであったから。マーケティング業界にとって、「おたく」は市場とはなり難い若者たちとして把握されていたのである。」(p. 253)

感的知性派は、しかし、おたくに近い面があるのではないか。論文の中では、感的知性派は「あらゆるものをすべて等価値にみ」ており、「アイドル歌手、昔見たTV番組の主人公、そして難解な論を立てる思想家を同列に扱って評している」ひとたちとされているのだ。そこで、浅羽は、「おたく」の命名者・中森明夫に注目してこう述べている。

「「おたく」の語は彼ら新人類によって使われ、彼らの間でこそ流布したのである。誰よりもまず、彼らが「おたく」のネーミングにピンときたのは、彼らが「おたく」に近い場所で生きていたこと、あるいは、彼ら自身が「おたく」だったことを意味する。」(p. 253)

そして、こう議論は進んで行く。

「感的知性派=新人類と、内向的モラトリアム派=「おたく」とが、未分化だった時代があったのだ。それはおそらく七〇年代中期から八〇年代に入った直後の一時期であろう。」(p. 254)

この両者の類似性というよりは同根性は、90年代以降の展開としてみれば「オタクVSサブカル」(2005年出版『ユリイカ』の同タイトルの臨時増刊号による)へと繋がっていると言えるかも知れない。そこでも、オタクの敵(なのかは読み直してみても若干不明確なのだけれど)であるサブカルは、実はオタクと同類なのではないかと論じられている。

「つまり、結局のところ--オタクVSサブカルの対立とは内ゲバに過ぎず、オタクが二次元の美少女キャラクターを大量消費するのも、サブカルがメンヘル系女性との共依存に陥るのも、特権的な個性=アイデンティティを確立できないまま大衆と融合してしまうことへの恐怖に起因しており、大衆化を容認できないことに対する屈託を隠蔽・忘却するための理論武装に伴う「オタク」たちの差異化ゲームに過ぎないのだ」(更科修一郎「敵は遠くにありて想うもの 内ゲバしか知らない子供たち」pp. 169-170)

○相手の「人格」ではなく「知識」と話す

「おたく」が決定的に非おたくと違う点はどこか、ということを考える際に、重要なのはコミュニケーションのあり方なのだろう。浅羽は、中野収の「おたく」の定義から、彼らが話し相手の「人格」ではなく「知識」に話しかけているあり方に注目する。
「『オタクのご主人』『オタクの娘さん』『オタクの新製品』『オタクの部長』など、旧人類の用例を見ればわかるように、『オタクの○○は〈オタク〉に所属する』。目の前にいる個人よりも、その個人を支えているような、個人を超えた何かを、個人を解して会話の相手に選んでいるのが、〈オタク〉なのだ。〈オタク族〉も同様である。目の前いるパソコン少年よりは、彼のパソコンの知識そのもののほうに興味があるのだから。」(中野収『新人類語』ごま書房)p. 266

「その(「おたく」という語の)エッセンスとは、中野収が読み解いたように、相互に人間を相手にするというより、相手の知識・情報に向かって話す、ところにある」(p. 266)

「目の前の個人」ではなく、目の前の個人のもつ情報に語りかけるりがおたくだとして、新人類は、おたくと違って相互に人間を相手にしたのだろうか。相互に相手の外見と話す内容に示される情報に向かって話をしていたのであって、「人格」に話しかけていたとは言い難い。自分の外見までもコミュニケーションに用いられる情報として提供したのが新人類であって、言い換えれば、自分の外見を情報として提供することをネグレクトしているのがおたくだったのではないだろうか。

◎富沢雅彦というおたく
本書には千野光郎という筆名のライターにによる「おたくに死す」というエッセイが入っている。富沢雅彦なる同人誌ライターについてまとめたこのエッセイがおたくを考える上できわめて重要だと思うのだけれど(ネットをブラウズしてもそのことはすぐに分かる)、ただいま資料収集中にて後日ノート整理します。

宮凬勤はどう語られたか?

2009年08月09日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」の話に戻ろう。

「おたく」は言説空間の中では、「新人類」との差異によって浮き彫りにされた存在だったということを確認した。ただし、「おたく」という語が一般化していったのは、間違いなく1989年の連続幼女殺人事件で宮凬勤が逮捕されて以降ということになるだろう。当時宮凬勤=「おたく」によって議論されていたのはどんな事柄だったか。まず、次の著作を参考文献にしよう。

☆都市のフォークロアの会編(大月隆寛、オバタカズユキ)『幼女連続殺人事件を読む 全資料宮崎勤はどう語られたか?』JICC出版局、1989年。

この幼女連続殺人事件の経緯については、ネット上でおおよそのことは分かるだろう。wikiなど参照のこと。

もし宮凬勤関連のことを研究しようとするならば、これはかなり使える資料の詰まった著作です。1989年11月10日出版。宮凬が別件で逮捕されるのが1989年の7月23日、綾子ちゃん事件の自供を始めるのが8月9日、再逮捕が11日(発端となる今野真理ちゃんが行方不明になるのが88年の8月22日)。事件から三ヶ月で出版された本書は、関連資料集や事件の全貌を収めているだけでなく、この間に識者たちがどのような発言がなされたかを細かく伝えてくれる。

発言しているのは、例えば、推理作家や犯罪心理学の教授で、宮凬が逮捕される前に、この事件を推理する目的で発言を求められている。また、逮捕後には、多くの作家・心理学者のみならず、ジャーナリスト、コラムニスト、劇作家も含まれる(当時、劇作家というのは、主要なコメンテイターとして社会から認められていた、のに比べると現在はもっとそうしたニーズが演劇人に求められても良いのでは、いや真鍋かをりでコメンテイターは充分という時代に「知識人」(死語?)に別に何が求められていると言うこともないか)。例えば、別役実、唐十郎。別役はこう述べた。

宮凬の部屋を見て、すぐに連想したのが鳥の巣、冬ごもりのリスの住み家。」「宮凬はただのコレクターとも少々異なる。……つまり"モノ"それ自身をコレクトしたいのではなく、ビデオやカメラに記録した(幼女たちの)姿を集めたかった。そしてイメージの世界で楽しんでいたかったのではないだろうか」(「朝日新聞」89.8.16)pp. 26-27

この著作からいくつか興味深い発言を拾ってみる。

◎新人類がどう語ったか?

「新人類」が「おたく」の代表として祭り上げられてしまった宮凬をどう論じたかは、気になるところ。

中森明夫は、
「僕らは、メディアを親として育った、ほとんど純粋世代だと思うし、とくに彼は、メディアの申し子ですね。あの部屋も封鎖して外界から閉じこもることによって、逆に無限にメディアに対して開いていたともいえる。そこで、メディアを親として育った子供が、親の無意識の願望に応えてしまったわけです。あまりにも過剰に応えたために、親であるメディアが危うくなるほどに。つまり、それは親殺しのようにみえる。メディアを親として育った僕らにとって殺すべきは父や母ではなく、このメディア空間そのものですよ。」(「スパッ!」89.9)p. 32

なんとなく、ピントがはずれているように思うけれど、メディア殺しを中森はこの後実行しようとしたのかには興味が湧く。簡単に言えば、この後、95年以降になれば、ネット・メディアが驚異的な拡大を見せるけれども、そうしたなかで中森はどういう振る舞いをしたのか。調べたいような、とりあえず「80年代文化論」のノートなのでそこまで調べてもな、という気持ちにもなる。

泉麻人は(連載「ナウのしくみ」より)、彼が本当に「マニア」という存在なのかと、宮凬=おたく(マニア)論へ不信感をみせる。宮凬は、ビデオソフト愛好家の会報誌(タイトルが分からない)にベスト10を投稿している。「マイビデオライフ これが私のベスト10」というタイトルで1500字くらいの文章。
1 ジャッカー電撃隊
2 少年ジェット
3 ムキムキマン体操
4 刑事くん
5 電人ザボーガー
6 大鉄人17(ワンセブン)
7 円盤戦争バンキッド
8 愛と誠
9 スーパーロボット マッハバロン
10 怪獣王ターガン

各順位には、100字程度のコメントが付いている。そのコメントに対して「ああ、マニアっぽい原稿だなあ」と泉は思い、しかし、しばらく読み込んでみるとこう思ったという。「またこういう初歩的な誤りをするようでは、上級のマニアとは言えない。また、この手の吹っかけ、あるいは知ったかぶりをする癖があるとしたら、やはり、宮崎の供述内容には細心の注意を払う必要があると言えよう」(「週刊文春」89.9.7)p. 26

ここで泉が「上級のマニア」という言葉を用いながら、その外へと宮凬を排除する身振りは、気になる。「おたく」という語はなぜか出てこない。知ったかぶり、うろ憶えで、自分のベスト10について投稿してしまう宮凬は、当然、「上級のマニア」ではないだろう(では「上級のマニア」とはどんな存在だったかという点については、岡田斗司夫のテクストを読み返す必要があるだろう、、、宿題です)。

「上級のマニア」←→宮凬勤

だとして、上級のマニアになれないマニア宮凬がどう、自分をマニアとして自己同定していたかは、このベスト10のラインナップから見えてこないだろうか。このリストは、今日のぼくたちがいわゆる「おたく」について想像する趣味と随分違う。いわゆる美少女への萌えが一切見えてこない。代わりにあるのは、戦隊もの、しかもB級のマニアというイメージ。これはこれで「ライダーおたく」とか呼ばれたり、いまでも健在だと思う。本当は、ロリコンマニアなのに気取っているのか、よく分からない(逮捕後の本人は、女性に対する性的な興味をもったことがないと一貫して供述していた)。あと、興味深いのは、3位のムキムキマン体操。これはいわゆるお笑いの領域のもので、いまのなかやまきんにくんが担当している肉体芸のタレント(お笑いスター誕生!に出演していた記憶がある)。彼のコメントは「一回分所有(約5分)」。これだけ。あと、4位と8位にテレビドラマが入っていること。案外ふつうのコメントがついている。そもそもビデオに録画して所有しているということ自体が、マニアック(おたく的)なのか。「マイビデオライフ」という投稿欄なのだから、ビデオライフを自慢することじたいが自分がマニアックであることの証拠になる時代なわけだ。というか所有=マニア。いまのように、多くのソースがネット上に漂っていて、それをブラウズするだけでも「おたく」を自称する(できる)時代と、ビデオを所有していることに価値がある時代とでは随分ことが違うだろう。

あと、確認するべきは、これが当時のふつうの「おたく」(マニア)だったのだろうということ。少なくとも、上級ではないし、ふつうと呼ぶのも問題があるのかも知れないけれど、少なくとも言えるのは、こうした人物を「おたく」と(マスコミが)呼んでいたという事実。宮凬=おたく=ロリコンという単純な話ではないということ。

◎おたくとはどんな存在か

さて、ともかくも、宮凬事件を通して社会の話題の中心にされてしまった「おたく」たち。彼らはどんな存在であったか、どんな存在として社会に映っていたか。

小倉千加子は、「見る/見られる」関係を通して、こう言っている。興味深い。
「宮崎勤は、女を「見る」だけでなく、女に「見られる」視線のキャッチボール、相互的な人間関係を作り出す能力に決定的に欠けていた。彼は、自分を決して「見返す」ことのない幼女を自己の快楽の対象として選ぶことで、ダサイ自分自身の姿を直視することから逃げたのだ」(「朝日新聞」89.9.2)p. 23

ここで、小倉が「ダサイ」と宮凬を批判しているのは、これまで論じてきた「新人類」/「おたく」の話に絡んでおもしろい。「おたく」がある種の人々をいらいらさせるのは、彼が「ダサイ」からで、「ダサイ」のにもかかわらず自分のダサさを顧みないからだ。それは、換言すれば、彼らは「見る」専門家としてすましていて、自分たちが「見られる」存在であることを忘れているということに対しての苛立ちなのではないか。「視線のキャッチボール」を回避して、「相互的」な人間関係から離れてしまう存在。「ダサイ」のに、そんな特権的な立場に立っていることがゆるせないといった批判がここにはあると感じる。ダサイのレールを離れたら、当時の若者は、「ナウイ」のレールに乗らなければならなかった。「新人類」的な、記号的消費の世界に。「見る/見られる」の相互的な人間関係は、要するにそうした消費のゲームの渦中に身を置くことであって、そこで「相互的な人間関係を作り出す能力」に欠いていると批判をしても、じゃあ記号的消費はそれでいいの?という気持ちに今はなる。

あと興味深かったのは、藤田尚(評論家)の意見。
「おたくとは、非社会的かもしれないけれど反社会的ではない(反社会的になりたくたってなれない)存在なのです。フィクションと現実との間には、天地ほどの隔たりがあることを自覚しているのがおたくなのです(その天地が、たった一歩でつながりそうに見えるところに問題の複雑さがありますが)。」「問題はおたくかそうでないかではなく、世のなかには、犯罪を実行する者としない者と2種類の人がいるということです。Mについていえば、彼が幼児に声をかけた時点で、おたくから逸脱してしまったのです。Mというのは”おたくの風土にもおけない”やつなのです。おたくからいえば”アニメやスプラッターやロリコンのビデオをもってしてもMを引きとめることができなかった”ということです。」(「週刊宝石」89.9.7)p. 51

いまだったら「二次元」と「三次元」とか呼ばれる、「フィクション」と「現実」との間を問題にしている点で、興味深い。おそらく、当時の一般の人々の議論の中心は、ここにあったに違いない。「アニメやスプラッターやロリコンのビデオ」ばっかりみていたら、それが現実だと思ってしまい、その妄想を現実に実現しようとしてしまうのではないか。そうした考えは、「残酷ビデオをめぐる自治体対応」という資料(p. 74)にあるように、多くの都道府県が残酷ビデオを有害図書にし、業者も自主規制を検討するという動きを引き出した。

藤田によればそうしたビデオは、妄想を現実に実現しようとする行為を回避させる力があると「おたく」たちは思っていた。フィクションの世界に没頭する「非社会的」存在だとしても、犯罪を犯す「反社会的」存在ではない。この倫理感がおたくのひとつのアイデンティティだったのだ。現実には手を出さない。二次元と三次元を区別する。

2009年の今は、この二次元と三次元が複雑に交差している時代だろう。三次元が二次元化してきている。当たり前といえば当たり前で、二次元に没頭する人間はその身体を三次元に置いたままなのだから、二次元でえたものを三次元で反復することは大いにありうる(それが即犯罪とはならないとしても)。

二次元と三次元の関係を考えるスタートラインに宮凬事件があり、(ネガティブな仕方で始まった)「おたく」ブームがある。

まる金まるビ 『金魂巻』(渡辺和博)

2009年08月09日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「新人類」と「神々」の関係

浅田が提唱した「スキゾ/パラノ」の二元論。スキゾを徹底して生きることの過酷さは、必ずしも広く伝わらなかった(のかも知れない)。その代わりに、そこにあった「シラケ」の肯定や軽さの肯定がイージーに受容されていった。ひょっとしたら、新人類とは、そうした「スキゾ・キッズの誤解」という側面があるのではないか。

と思って、こうした二元論って当時はやったよな、と思い返す。「ネアカ/ネクラ」「ナウい/ダサい」とか。いまの例えば「アゲ嬢」とか「おばか」とかは、対立項があるわけじゃない。いけてる方といけてない方を峻別し、いけてない方を差別するというのが、80年代の明るい(いや、いまにすると何だか暗い)遊びだった。その象徴的な著作が渡辺和博の『金魂巻』(主婦の友社 1984)だろう。

本の表紙には、こんな副題が付いている。

「現代人気職業三十一の金持ちビンボー人の表層と力と構造」

反転させてますが、「力と構造」とある。ちなみにこの本が出版されたのは84年の7月。『構造と力』が出たのは83年の9月。いかに速やかに、浅田の著作が流行本なっていったかが、これだけでもよく分かる。

この本の特徴は、「現代人気職業」を取り上げ、それぞれの職業のなかに存在するいけてるひとといけてないひとを「金持ち」か「ビンボー」かで区別するというもの。身も蓋もないジャン、嫌らしーと思ってしまうけれど、そういう身も蓋もなく嫌らしー時代
だったんだろうな。「力と構造」なんて言ってみてちょっとずらすような、「なんちゃって」なセンスなのかも知れない(パロディ?)けれども、逆に「なんちゃって」な身振りで本心を言う。その振る舞い方は、繰り返すが、いまから見るとかなり暗いものに映る。

どんな職業が取り上げられているかと言えば、
女性アナウンサー/医者/イラストレーター/インテリア・デザイナー/エディター/オートバイ・レーサー/オフィス・レディ(OL)/お父さん/学者の卵/カメラマン/看護婦/銀行員/グラフィックデザイナー/コピーライター/シェフ/社長の娘/主婦/商社マン/少女マンガ家/女子大生/スタイリスト/テレビ・ディレクター/ファッション・デザイナー/フリーライター/不良少女/弁護士/放送作家/ホステス/ホモ/ミュージシャン/モデル

いまでも人気職業であるものもあれば、なぜこれが人気職業と言いたくなるものもある。これ職業なの?というものも多い。
さてここに「学者の卵」とある。なぜ「卵」か?簡単である。浅田が当時京都大学の助手だったからだ。まる金の学者の卵は、明らかに浅田、浅田そのものである。まる金の学者のプロフィールは、「身長160cm 体重48kg 年齢27才」「経歴 京都大学経済学部卒」「愛読書 ドゥルーズ・ガタリ、少女漫画、ST、「ギャルズライフ」」とある。「今思うこと」の項には「早くインタビュー攻勢から逃走してひとりの時間を獲得したい」とある。当時の人気のほどをうかがわせる。と、同時に、この程度のことなんだよな、浅田受容って、と思わされる。「逃走して」みたいな使い方。

渡辺和博は、当時の「新人類」のひとりとみなしてよいひとだろう。wikiの渡辺和博

「学者は原則としてまるビですが、まる金になるにはマスコミで売れっ子になるほかありません。」「マスコミの人たちにキャッチフレーズ、現代思想っぽく言うとキーワードを与えるのがまる金への道の第一歩です。「甘えの構造」とか「モラトリアム」とか「スキゾとパラノ」とかがそれですが、こういう覚えやすくて何にでもあてはめて現実の批判に使える言葉を作らなければ、マスコミの人はとり上げませんし本も売れません。」(p. 88)

「浅田彰、中沢新一、吉本隆明、栗本慎一郎など、私たちと青春をともに過ごし、お世話になった難解のまる金たちのご恩は一生忘れてはならないと思っています。」「「朝日ジャーナル」からラブコールを受け、CMの出演の話はまだ聞かないものの彼ら世に出たまる金たちの名声は、私たちの聞き及ぶところとなりました。」(p. 90)

と浅田はまる金の代表として描かれています。確かに本当か嘘か、プロフィールの年収は「2500万円(給料300万円+印税講演2200万円)」となっています。

浅田に関する話はこれくらいにして、まる金まるビは何を峻別しようとしたか、ということを考えてみたいと思います。まるビの学者の卵は、渡辺の筆によって、「女学生との恋」に落ちることになっています。JJギャルの学生に、中学生の頃にしたひとり旅を語ると「クラいわね」と吐き捨てられます。これを典型例にすれば、まる金=アカるい、まるビ=クラい、なのです。
80年代、イラくみえることは、ほとんど死を意味していたな、などと思い出す。「がり勉」という言葉があって、まじめに与えられた勉強に盲進するひとたちはそう呼ばれた。いかに「がり勉」と呼ばれずに勉強していけている大学に行くか、というのが、当時「受験戦争」なんて言葉に踊らされたぼく(1971年生まれ)たちの生き方だった。けれども、この矛盾こそが、いけていないのである。裏(ガリ勉)と表(ガリ勉を笑う)がある、というのは暗いのである。そこにある努力、が暗い。まる金とは努力せずして自ずとそうなっているひとのことであって、それがよく分かるのは「女子大生」の項。

「5~6年前まで女子大生のまる金とまるビは一目で見分けがつきましたが、最近ではまるビの人も外観や遊びに気をつかうのでなかなか見分けがつきにくかったりします。」(p. 188)

「まる金は「下(ルビ:はじめ)から」(付属小・中・高校出身のこと)の人ですから「途中から」の人といっしょになった大学の雰囲気にチャラチャラしたものを感じます。」(p. 189)

「まるビの女子大生はみんな似たようなワクの中で生活しているのですが、まる金の女子大生は一人一人違った型にはまらないところがあるようです。」(p. 196)

それで、まる金のプロフィールには、
「愛読書 「美術手帖」「現代詩手帖」「鳩よ!」「広告批評」といった雑誌のほか、「構造と力」(浅田彰)「東京漂流」(藤原新也)、「写真都市」(伊藤俊治)、「羊をめぐる冒険」、「チベットのモーツァルト」(中沢新一)」
とあり、まるビには、
「読書 「JJ」「ノンノ」「ef」のほか、「さよなら寺山修司」「見栄講座」「ザ・コピーライターズ」「赤眼評論」「ケーキ入門」「彼のためのニット集」」とある。

つまり、まるビは、「ワク」を一生懸命習得することで、しかるべき「女子大生らしさ」を生きるようになり、まる金は、そうした「ワク」の存在に違和感を感じて、そこから自由になろうとします。両者を分けるのは、持って生まれた家柄だったりする。まる金の家族は男性が全員医者。まるビの父は、大手鉄鋼メーカーの営業部長。

ここに、すでに成功している「神々」と何者か分からない先着順で売れっ子になっている「新人類」との違いを重ね合わせることは出来るだろうか。

スキゾ・キッズ(浅田彰)

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」を理解しようとすると「新人類」を理解せねばならず、「新人類」を理解しようとすると「神々」を理解しなければならない、どうもそうなようだ。

そして、「神々」のなかでも、その連載(筑紫哲也が「朝日ジャーナル」で行った)のトップバッター「浅田彰」が誰よりも重要だろう。そして、なかでも「スキゾ」ないし「スキゾ・キッズ」とは誰だったのか、ということを知ることは、目下このノートのもっとも興味のそそられる事柄だ。

どんなに捜しても『逃走論』(1984)が自宅の本棚から出てこないので(研究室だ!)、さしあたり『構造と力』と『若者たちの神々』を紐解いていこう。まず『構造と力』より。

「ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。」(p. 5)

と、シラケ世代と若者をくくるジャーナリズムのやり方を、あえて誤読するような仕方で、積極的に解釈してゆく。「既成の文脈」を一途に信じるよりも、そこから離れて(=それにシラケて)「一度すべてを相対化してみる方がずっといい」と浅田が思っているからだ。ここに、「パラノ」と「スキゾ」という二つの流行言葉が生成する。ただし、この「スキゾ」的な「すべてを相対化してみる」ことは、「既成の文脈」から自由になる軽さにその特徴があるのではない。むしろ過酷なまでに軽くあることこそ浅田が想定していることなのである。

「むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。」(p. 227)

「差異を差異として肯定し享受すること」は、「おれはあいつとは違う」と何かある商品の購入を通して他者と自分を差異化することなどとは相当異なる事態である。自己表現とか自己アイデンティティの確立とは似て非なるものであって、「ノマド」(遊牧)などというキーワードもここに要請されるように、定住を徹底的に拒む振る舞いこそが、浅田の想定していた「スキゾ・キッズ」像であった(はずだ)。

この「スキゾ・キッズ」でありつづけることの過酷さが『若者たちの神々』(以下ここから引用)で筑紫が浅田と議論しようとする中心的トピックである。考えてみれば、そもそもそのタイトルからして「若者たち」と「神々」との関係こそ、この連載で筑紫が問題にしようとしたことなのかも知れない。まず浅田は、「普通の」あるいは「いまの若い子」をこう同定する。

「浅田 普通のというか、いまの若い子--と、ぼくがいうのも変ですけど--なんかだったら、タテマエとしての「真理」に没入することのバカらしさがわかっていると同時に、本音まる出しでいくカッコ悪さにも耐えられない。じゃ、そこをどういうスタイルで突っ切っていけばいいのか、その方法を求めていたのとぼくの本とが、ある意味でフィットしたんだろうというのが”公式見解”ですね」(p. 9-10)

その上で、「タテマエとしての「真理」」にも「本音まる出し」にも「どこにも足を着けるな」と呼びかける浅田のように生きることは、若者にとって「大変シンドイ」ことなのではないかと筑紫は問うている。

「筑紫 その[軽薄短小と重厚長大の]まんなかに、相当イタズラっぽくあなたが出てきたわけね。
 浅田 一言でいって、ぼくは、どこにも足を着けるなといっているわけです。
 筑紫 しかし、それは大変シンドイね。
 浅田 そうなんです。だからね、ぼくに対するある種の批判はよくわかるんですよ。つまり、ぼくのいう「どこにも足を着けるな」というのは自己の複数の可能性を常に開いておけということだけど、あえてシステムへの没入を選び取るしかないんだという現実主義的な立場の人からは当然批判が来るし、それとは逆に、システムに背を向けて密室の中で自分自身を見つめるんだという主体主義的な立場の人からも当然批判はくる。どっちもよくわかるんです。だけど、それはある意味でものすごく怠惰だと思うんですね。どこにも足を着けないで逃げ道を用意するというのは、膨大なコストがかかるわけで、それを全然払ってないんだから。」(p. 110-11)

ぼくが、「神々」としての浅田を理解することで「新人類」を理解してみようとしているのは、過酷な「スキゾ・キッズ」を誤解した存在として「新人類」を考えてみることは出来ないかと、予想を立てているから。例えば、浅田は、自分の本を誤解する若者たちをこう表現している。

「ぼくの本を変に褒めるやつというのはもっと気持ち悪いんですよ。矮小なモラトリアム空間内に囲いこまれた「ひよわなボクちゃん」たちが、自分たちのミーイズムを正当化する理論が出てきたというので、ぼくの本を歓迎するという現象があって、それこそ冗談じゃないぜと思う。確かにぼくは、モラトリアムでいいんだ、それで突っ切れとはいってるけど、それはいずれ外に出ることを前提として内にこもっているというのとはまるで違うんで、そのためには、常に間にいるための下部構造をきちっとつくれといってるわけ。」(p. 12)

「ひよわなボクちゃん」たちの「ミーイズム」とは、なにやら宮台が整理した新人類の「商品が語りかける「これがあなたです」という〈物語〉に、「これってあたし!」と反応した世代」のあり方に重なり合う気がする。「モラトリアムでいいんだ」ではなくモラトリアムしかないんじゃないかという逃げ道なき逃走(逃走以外に生きる道のない逃走)こそ浅田=スキゾ・キッズの実存なわけだ。
故に浅田は、「ヤケクソのがんばり」こそが生きる道と言っている。これと「新人類」との落差には考えるべきところがある気がする。

「ブラックユーモアの極限で、叫んでいるのか笑っているのかわかんないようなところを出したいと思っているわけ。まあ、なかなかそうはなっていないですけれどもね。たとえば、ぼくは戦争直後の焼け跡闇市派みたいな感覚がすごく好きなのね。ああいうヤケクソのがんばり方しかないと思ってる。」(p. 13)

「おたく」と「新人類」 2

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」はその出発点において、「新人類」が自らをアイデンティファイする際に疎外する対象として価値づけられた。

ちなみに、wikiの「新人類」
この語が一般化していった際のニュアンスとしては、この解説にあるように「自分勝手」「無感覚・無感動」「物怖じしない」「クヨクヨしない」といった、人間性が希薄な人間という意味合いが強かったように思う。

として、
「おたく」はでは「新人類」とまったく異なる存在かというとそうではない、ということも大塚英志は『おたくの精神史』で指摘している。大塚は宮台真司の「新人類とオタクの世紀末を解く」というテクストを引用する。

「中森明夫の"オタク差別"記事は(中略)オタク文化のリーダーによるフォロワー部分への、自己差異化の試みがなされたというわけである。その意味で、これはオタク文化内部の差異化の運動、「おたくの階級闘争」だった」(大塚p. 28)

この説からすれば、「おたく(と後に呼ばれることになる)」領域から、ある種の者を「おたく」として批判する立場が出てきた、それが「新人類」(少なくとも中森明夫)である、ということになる。

ふむふむ。いまぼくは「おたく(と後に呼ばれることになる)」領域と書いたけれど、この領域が一体どんなものだったのか、いまだ明確ではない。「マニアック」なひとたち?「趣味」をもつ人たち?んー、漠然としている。

ということで、今度は宮台真司の「新人類」定義を見ていこうと思う。『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版1993)。

まず宮台が「新人類」を文化として捉え、その時期を三つに分けていることに注目してみよう。

「77年から82年までを、私たちは新人類文化の「上昇期」と呼びます。リーダーからフォロワーに、”記号”的消費が拡大・展開していく時期です。これに対して、83年から87年までを、新人類文化の「安定期」と呼んでいます。新人類文化というと、差異化が一巡して、少しあとのお嬢さんブームに代表される「階層的なもの」が導入される時期。単なるブランドではなく「DC」が導入され、新人類文化の行き渡りと入れ替わりに、若者アングラ文化も完全に消滅します。」(p. 22)

そして第3期は、「私たちは、88年以降を新人類文化の「下降期」と呼びます。」(p. 24)として、身体感覚に訴える「身体的なものの浮上」が、新人類の下降と反比例するように顕在化する。

第一期 新人類文化の「上昇期」 77-82年  記号的消費の拡大・展開
第二期 新人類文化の「安定期」 83-87年 「階層的なもの」の導入
第三期 新人類文化の「下降期」 88年以降  記号的消費から身体感覚へ 
                      →「”記号”死して”浮遊女”残れり」(p. 11)

宮台によれば、「新人類」とは「記号的消費」をする者だということになる。「消費」の観点から彼らを見るのは、大塚もそうだった。

「新人類とは、商品言語で語り始めた人たち、”記号”的消費を始めた人たち、どんなノリの消費をしているかで人間関係さえ選別し始めた人たちです。言い換えれば、商品が語りかける「これがあなたです」という〈物語〉に、「これってあたし!」と反応した世代なのです。」(pp. 18-19)

「これってあたし!」と積極的に商品にアイデンティファイする主体的な消費者=新人類。そこで重要なのは、世界のあり方を複数並立的に見ていく考え方があらわれたこと。

「連続幼女殺害事件(89年)をきっかけに急にオーバーグラウンド化した「オタク」や、旧世代が指摘する「新人類」云々といった社会現象には、こうした「情報による〈世界〉解釈」の複数並立が深く関連しています。単一の疑似環境から、複数の〈世界〉並立へ。単なる情報化社会から「高度」情報化社会への展開のメルクマールを、そこに見いだせます。」(p. 11)

この点に関して、「これってあたし!」と思う際の自己像の成立には、女の子であれば「少女らしさ」というものへとアイデンティファイすることと不可分であるとして、その「少女らしさ」が多様化していったのがこの時期ということに宮台は注目した。例えば、それは女性のファッションのなかで「少女らしさ」が多様化したこととつながっている。

「80年代的な「新人類文化」の中では既に、女性の「〈私〉らしさ」の内実は、多様なDCブランドの並立--文学少女風コムデ、ボディコンのジュンコシマダ、夢みる少女風のピンクハウス等--に象徴されるように、ロマンチックへの志向をはるかに越えて、拡散していた。」「「〈私〉らしい私」の内実としてのロマンチックな「かわいさ」は、多くの選択肢の一つへと転落してしまった」(p. 46)

80年代以前ならば、「ロマンチック」=「少女らしさ」であり、これ以外に「少女らしさ」と等号で結ばれるものはなかった。それが多様化したのは「新人類文化」以後なのである。

こうした「これってあたし!」の対象が多様化するという事態は、「おたく」も同様に被っていたのではないか?と「おたく」と多様性について気になるところなのだけれど、『サブカルチャー神話解体』では、いまみたところでは「おたく」/「新人類」の細かい分析はない。この点は、浅田彰『構造と力』(1983)で流行語になったスキゾとパラノの区別と関連した事柄だろう(「新人類」=「スキゾ・キッズ」?)。ところで下記のような「マニアックなもの」との違いならば、宮台は分析している。

「「マニアックなもの/オタッキーなもの」の差異の成立にも関わっていた。実際、歌謡曲のメタ的享受の内部を見ても、……のような「クロウト視点」は次第に退潮し、代わりに、「B級アイドル礼賛」に象徴される「価値転倒」と、「仕掛け」を楽しむ「裏目読み視点」が、もっぱら拡大していくことになったのである。」(p. 75)

さて、最後に、この「新人類文化」分析が、その終わりから論じられていることは注目に値する。その際の批判の矢面に立たされているのが「アクロス」と「広告批評」などによる「煽り」である。

「「感性の終わり」という曖昧なことばを用いることには反対です。終わったのは、正確に言えば「”記号”的能力の差異の”記号”性」です。”記号”的な落差の追求が、それ自体、”記号”的に陳腐化した。」「80年代に『アクロス』『広告批評』その他の媒体が振りまいてきた「煽り」の言葉が機能しなくなったことは、むしろみなさんのほうで実感されているはずでしょう」(p. 9)

そして、宮台は、こうした表向きの80年代文化の底流に90年代に大きなうねりになるものが隠れていたことを指摘する。

「80年代は、実は二重の地平から成り立っていました。一つは、イメージ広告、DCブランドブーム、ベイエリア、ファンシーグッズなどの”記号”的消費に見られる、目に見える水準。80年代『アクロス』に代表される「煽り」の言説は、こうした水準だけを無責任に肥大化させたものです。」「そうした目に見える地平の裏で、もう一つ、目に見えにくい地平が肥大したことを、忘れることができません。それは、ある特殊なリアリティが日常的に拡散したということです。それはさまざまな「現象」の裏に、目に見えないかたちで貼りついています。それは……「浮遊感覚」の問題であり、昨今の第3次宗教ブーム(自己改造セミナーも含めて)を支える宗教的心性の問題であり、テレクラ→伝言ダイヤル→ダイヤルQ2という変則的電話コミュニケーションを支えてきたリアリティの問題です。」(p. 10)

「おたく」と「新人類」 大塚英志『「おたく」の精神史』より

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」は蔑称として生まれた。
「おたく」を蔑称としてある種の人たちを指すのに最初に用いたのは中森明夫である。「最初に」の真偽は定かではないところがあるけれど、そうだということで動いているところが重要。そうだということで動かしている一人が大塚英志であり、彼がおたくの側で論を進めるのに対して、中森明夫は大塚が編集長だった『漫画ぶりっこ』に寄稿しておたくを揶揄したのだった。その中森は、いわゆる「新人類」と呼ばれる若者のリーダー的な存在だった。

☆「おたく」はその語が生まれた当初「新人類」との差異のなかでアイデンティファイされていたのだった。

「おたく」←→「新人類」

となると、「おたく」を同定するには、「新人類」を理解しなければならない。
大塚(『「おたく」の精神史』)によれば、この「新人類」はさらに、「神々」と差異化された存在である。「神々」とは筑紫哲也が「朝日ジャーナル」誌上で連載した「若者達の神々」というインタビューに登場した者たちを指す。第1回が浅田彰。その後、糸井重里、坂本龍一、如月小春、村上春樹らが取り上げられて行く。大塚はさらに85年4月から同じ「朝日」同じ筑紫によって連載が開始される「新人類の旗手」に注目して、そこで取り上げられたのが、中森明夫、小曽根真、川西蘭、辻元清美、とんねるず、秋元康、木佐貫邦子、平田オリザらであると列挙した。「神々」と「新人類」の違いは何か。

「「神々」の登場人物はその時点での「成功者」である。」のに対して「「新人類」の顔ぶれはどうだろう。「神々」の人々のほとんど全てが今でもそれが誰か自明な人々なのに対し、こちらの顔ぶれは相当に妖しい。あるいはぼくの不勉強かもしれないが、その人物が何者であるか、あるいは今、何をしているか、咄嗟に想い出せない人が相当いる。」(p. 33)

大塚は、「いまだ何者でもなかった」(p. 35)者たちである「新人類」が自分を語る際の肩書きに注目して、彼らが「リミキサー」「環境アーティスト」「謎々プログラマー」などの「ほとんどその場ででっち上げたような肩書き」を用いているのは、要は彼らが「何者でもなかった」からであり、「新人類」として評価されるか否かは、「特別な才能や実績に基づくものでなく、いわば「先着順」であった」と考える。「先着順」であることが「送り手」と「受け手」の近さを生むと同時に、「送り手」と「受け手」の差異を生み出す。「新人類」は「置き換え可能な何者かが偶然、選ばれたに過ぎない」(p. 36)。

大塚の議論は、「新人類」と「新人類の旗手」とを分けて論じていないので、分かりにくくなっている(「先着順」の議論は、「旗手」になれるかただの「新人類」一般かの違いのように読める)。けれども、恐らく、「新人類」も「新人類の旗手」も、ひとしく、次のような特徴があったということは出来るのだろう。

「「新人類」にとって何よりも重要だったのは「何者でもない」無名の若者と「何者か」であるべき自らの差異の演出である」(p. 37)

「新人類」とは、何だったかその定義は、もう少し別のテクストを参照する必要があるだろう。その上で、「新人類」と呼ばれた者たち呼ばれたいと思っていた者たちとは、あいつらとは自分は違うという根拠なき自信とその自信を補完する「演出」にあるのではないだろうか。「せいぜい瞬間芸で目立つ程度の手続きで世に出てしまった」(p. 37)人たち。もちろん大塚は、こう定義することで、おたくを揶揄した中森を揶揄しようとしているのだから、否定的な面を強調しているのは当然である。「自己演出」をして「差異化のゲーム」に勝つ。それは彼らが優れた「消費者」であることを導く。

「「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。」(p. 41)

すでにあふれた商品や記号を選択し、自分は他人とは違うという違いに自己陶酔する(あるいはそこに、その人の能力を認める)のが「新人類」だとすると、「おたく」は、そうしたすでにある消費の現場にあるものだけでは満足出来ずに、そこにないものを自ら生み出し、自らの力で「市場」を生み出した。

「「新人類」は自らの主観では、消費を「運動」化あるいは「思想」化していた。しかし、彼らを「市場」として制しているのは、上の世代であった。これに対し「新人類」的領域には劣性な消費者であった「おたく」は、他方、自らの領域においては自給自足を始めるほどに貪欲な消費者であり、事実彼らは消費者の枠を超えてコミックマーケットがまさに象徴するように自給自足的な送り手とさえなった。」(p. 42)

『ステッチ・バイ・ステッチ』

2009年08月08日 | 極私的ベスト5
いま目黒・東京都庭園美術館で行われている展覧会のカタログがアマゾンで購入出来るようになっています。
『ステッチ・バイ・ステッチ-針と糸で描くわたし』

こちらに「ステッチが現代美術へ変容するとき」という論考を寄稿しました。展覧会はもちろんのこと、こちらもご覧下さい。最近ぼくが考えている「レディ・メイド」問題を刺繍としての現代美術作品に当てはめてみました。純粋に美術の論考です。



「タスクと相対性理論」

2009年08月07日 | 極私的ベスト5
「相対性理論、今年に入ってリリースした『ハイファイ新書』が売れに売れた4人組バンド。相対性理論にはタスクの要素が強いと感じる。というよりも前作『シフォン主義』よりも更に『ハイファイ新書』がより、相対性理論の方向性を強く示すことに成功した=タスクの要素を増した作品である。というのもまずパッと魅きつけるのはよりその声質を巧みに使い、お人形さんのようなキャラクターを定着させ、そして昨今の初音ミクやPerfumeを彷彿させるvo.やくしまるえつこの機械ボイス的甘い歌声、そして狙ったような歌詞。要するに加工/装い感が否めない程のどこかアニメ的な声なのである。
 そんな歌声のやくしまるえつこが歌う歌詞を抜粋してみると、「ああ先生 フルネームで呼ばないで 下の名前で呼んで お願い お願いよ先生」「年下じゃいけないの? 答えて 答えて 先生 先生 卒業式近づいて サヨナラも言えないで いやだな わたし まだ女子高生でいたいよ」(「地獄先生」)「愛してルンルン 恋してルーレット 恋してるんだ 愛のメッセージ」(「品川ナンバー」)…等のくすぐったくなるほどの甘い言葉である。
 そんな歌詞だからこそもちろん作詞の制作を行っているのはやくしまるえつこだろうと思ってしまいたくなるが、相対性理論で作詞作曲を手掛けるのはba.真部脩一である。相対性理論においてやくしまるえつこはお人形さんである。” 先生”や”会社員”等が登場し、彼らに対して歌われる言葉は、思春期以降の男子の”一度でいいからこのシチュエーションでこんなこと言われてみたい!”という妄想=男性の作成した歌詞に従い、甘い歌声で、男子からすればくすぐったい妄想の中のセリフ、女子にすれば今時そんな言葉なかなか言わないわよ!といいたくなってしまうような妄想内の出来事/言葉ををそのまま体現するためのお人形さんなのだ。
 ”お人形さん”という言葉は、どんなアイドルよりもどんなキャラクターよりもやくしまるえつこにぴったりである。彼女はライブではマイクに対してまっすぐに棒立ちをして、加えて無表情で男性の淡い欲望の詰まった歌詞をさらっと掬い上げるように歌い上げる。
 他のアイドルはどうだろうか。ステージ衣装はまるでお人形のようではあるが、たいていのアイドルはかわいらしい表情をくるくると変えながらダンスをし、パフォーマンスをする。これはそういった風潮や流れをひっくるめて体現化されたゲーム、アイドルマスターも然りである。男性の妄想を完全に意識したゲームの中のキャラクターであるからもちろん、彼女たちはそういったシチュエーションに身を置き、紆余曲折を経て最終的には着せ替え人形のように様々なコスチュームに着替えさせ、ダンスをさせられるのだ。アイドルマスターのキャラクターは操り人形のように男性の欲望を叶えるためにコントロールされてしまう。男性的視線はその過程の出来事に対しての対応に見ることができる相手の感情すらも妄想中で楽しむ事が可能である。そういった点で彼女たちは実に”秋葉原のメイドさん”的である。
 ところがやくしまるえつこは彼女たちとは全くの別物なのだ。彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。フィギアはパーツを自在にチェンジし、自分好みのルックスを完成させ、間接も自由に曲げ、表情すらも望まれたままに、本当に自在に操る事が可能である。
 だがしかしお人形さんはそのようにはいかない。彼女はクラシカルで表情の変化のないお人形さんとして、けれど現代のアキバ的性感覚をすくいあげる要素をしっかりと持ち合わせたお人形さんとして、観客の前に登場させられる。やくしまるえつこは彼女がお人形さんであることを望む観客の前に、アキバ的要素の前に、男性的妄想の前に、そして何よりも相対性理論の前に立たされ、それらの、言うなれば半ば思うがままに飾り付けられているのだ。彼女をがっちりと縛り付け、お人形さんに仕立て上げているのだ。やくしまるえつこを仕立て上げ、そう演じさせる相対性理論であるのだ。」

これは、ぼくが前期に行ったダンス史の講義の学期末レポートの一本。二年(20才くらい)の学生が書いた。「タスクと相対性理論」というタイトルは、「優美という問題と○○」「タスクと○○」「手塚夏子WSについて」(2回にわたって手塚さんに来ていただいたのだ)のなかからひとつ選んで論述せよという課題を出したことから。若干ダンス史における「タスク」概念とはぴったりきていないかもしれない。けれども、タスクの遂行者として「やくしまるえつこ」を考えるというのは、興味深い。タスクの指令者は誰か、ということをクールに考える機会になるからだ。そしてまた、このレポートを読んで、女性からの視点で相対性理論を考えると、例えばこういうことになるわけか、と考えさせられた。

と、採点地獄の最中に読んだこのレポートにひっかかっていて、採点が終了した後数日たってから(昨日)、メール出してレポートをデータでもらったのだった(許可は得てアップしてます)。で、しばらく机の上でほったらかしにして置いた「SV」の相対性理論特集を、ようやくぺらぺらしてみる(いま「ぺらぺら」中)。冒頭が大林宣彦へのインタビュー。なんだか、痛い。サブカル(『SV』的世界)ってオタクとは別角度とはいえ結局美少女へのコンプレックスに大きな重心のある世界だよな、、、と80年代論文献を読みながら考えていた矢先、そうか、大林と80年代とサブカル、、、痛い。大林曰く相対性理論とは「「我思うゆえにわれあり」ではなく「我あなたがいるがゆえに我あり」なんです」と。痛い。

レポートにはこうある。「彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。」この水準の議論に匹敵する文章を探そうとすると、例えば、平田俊子の「ほらほら、そっちじゃなくてこっちだよって、お兄ちゃんたちが楽器の音でやくしまるさんを優しく操っている気がする。やっぱりこのバンドは頭のいい男の子たちのバンドじゃないのかな」(『SV』2009.7 p. 35)

「天使かつアンドロイド」(p. 37)と評するリーダー真部脩一は、そうしたあり方に自覚的なのだと思う。こうしたやくしまるえつこがいま抱えることになった役割に対して、どういうことが言いうるのか。「お人形さん」=「アンドロイド」=「天使」をひとが今後どう解釈していくのか。

あっと、そもそもぼくがこの記事を書こうとした動機というのは、『SV』が休刊になったという事態を自分はどれだけまじめに考えられるのかと、最近自分に問いかけていまして。別に『SV』に連載していたような人間でもなく、以前はちょこちょこ書く機会はもらっていたものの、最近はすっかりで、ほとんど書き手として無視されていると思っていて、それで仕方ないので架空の『SV』特集を妄想したりしてひとり盛り上がっていたりしたのですが、そんなぼくとは縁遠い『SV』が、しかし休刊するとなっては大問題。大袈裟に言うといままで漠然と「サブカル」と呼んでいたものの多くについて、機能不全に陥っているということが明らかになったということなのではないでしょうか。なんとなくそうだったけれど決定的にそうなった。言いかえれば、ぼくたちが「サブカル」という世界やあり方について、信用を与えていたOSがもう使い物にならない状態になっているのかもしれない、そんな危惧を抱かせるのです。

そんで、例えば、「相対性理論」を特集することで、ここにサブカル(『SV』的なもの)健在といった感じになるだろうと、そうしようとしてたのではと思うのですが、それは一体、どんな事態なのだろうとまじめに考えたくなったわけです。考えないとまずいんじゃないかな、と。やっぱり「パフューム」でも「アイマス」でもなく、ましてや「アゲ嬢」でも「女装する女たち」でもなく、「やくしまるえつこ」に行ってしまう心性とは何か?そして、それを「サブカル」サークルの外側のひとはどう見るか?ということを、考えるべきですよね。ある時期の日本映画が誰も彼も宮凬あおいに救いを求めたような、またある時期の日本映画が薬師丸ひろ子や原田知世に救いを求めたような、そんな自分たちの自助行為に熱心でどうしたものかな、と思ってしまうのですよ。つーか、サブカルって昔も今もきわめて男の子的な世界なんですよね。(一方、レポート書いた20才頃の女性たちは大方無視されてますよね。)いやいや、心地いいですよ。相対性理論、「男の子」として魅了されます。が、そんなこと無邪気にのたまえば、しらーっと蹴り飛ばされる環境(女子大学という)に生きている身としては、「理論」で癒されててどうすんだろ(俺)、と思ってしまうのです。

80年代文化論ノート

2009年08月06日 | 80年代文化論
夏休みの宿題のつもりで、後期の講義で話す予定の「80年代文化論」に関して、講義用ノートをここにアップしていくことにします。目標は毎日更新です(あくまで目標)。「ノート」なので、きわめて暫定的な見解を書くことがあるでしょう、多くはメモ程度のものです、その点あらかじめ申しておきます、おゆるしくだい。あと、もうすでに大量の研究書が出ている分野ですので、ぼくが何か目新しいことをいえるとは、あまり思っていません。ただ、以前も書いたように、いま生きている自分のOSがどうなっているのか確認するためにやろうと思っています。

いまのところ、テーマとして考えているのは、
「アイデンティティとキャラ」
「アイドル誕生」
「お笑い」
「おたく-新人類あるいは族 「若者」について」
「音楽」
などです。

下のシャーマンや『なんとなく、クリスタル』について書いたものは、その一部です。

ポストモダニズム-キャラ-シャーマン

2009年08月06日 | 80年代文化論(アイデンティティとキャラ)
シンディ・シャーマンを80年代文化論の内部で考えるということは、どんな意味があるのだろう。彼女の最も有名な作品「アンタイトルド・フィルム・スティル」は、1977-80年にかけて撮影されたものであり、彼女のアイディアが70年代を跨いだものであるのは事実である。とはいえ、80年代的なものを考える際に、きわめて重要な存在であることは間違いない。

・シャーマンを60年代までの「アンチ」の姿勢から生まれた身体表現とは別の身体表現を行った人物として捉えてみること。
・シャーマンのそれまでとは「別の身体表現」をポストモダニズムの問題、特にキャラの問題として考えてみること。
・そうしてキャラといった問題設定を美術史と接続可能なものにしておくこと。

今触れた
Untitled Film Still
が重要なのはもちろんのこと、近年発見された
Cindy Sherman "Doll Clothes (1975)"
は、彼女のキャラ的なものへのアプローチを理解するのに大きな手がかりを与えてくれるものだろう。

ハーヴェイは、『ポストモダニティの条件』の冒頭で、こう記している。
「これらの写真が異なった身なりをした同一女性の写真であることに驚きをもって気づくまでには、少し時間を要した。写真の女性が芸術家そのものであることを教えてくれるのはカタログだけである。著者が自己を対象として自己言及的に位置づけるのと同じように、外観およびうわべの可鍛性によって人間のパーソナリティのフレキシビリティを説くラバン【『ソフト・シティ』の著者】の主張とそうした写真との類似性は人目をひく。シンディ・シャーマンはポストモダニズム運動の中心人物の一人と考えられる。」(デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』p. 18)

ハーヴェイは、シャーマンを論じた辺りでイーグルトンの次のポストモダンの定義に触れている。

「典型的なポストモダニズム的人工物は冗談好きで、自虐的で、精神分裂症的でさえあるということ、そしてそれは商業や商品の言葉を破廉恥に取り込むことで高度に進んだモダニズムの厳格な自律性に反発してするということについては、たぶんある程度の合意が得られるであろう。文化的伝統にたいするポストモダニズムの立場は、軽薄なごたまぜの立場であり、その無理をした深みのなさは、しばしば悲痛とショックからなる野蛮な美学により、あらゆる形而上学的な厳粛さを根こそぎにしてしまうのである」(イーグルトン1987)p. 21

ちなみに、美術界の1980年代をまとめた椹木野衣『シミュレーショニズム』の出版が1991年。そこには、こうある。

「初期のシャーマンは、すでに述べたように、万人が映画の細部に無意識的に欲望する典型的な場面を、彼女自身がある種の匿名性において、それも演じるのではなくなぞってみせるというものであった。」(椹木野衣『シミュレーショニズム』2001版、ちくま学芸文庫、p. 206)

2001年に書き足された1998年の「特別講義」ではこう書かれている。
「言い換えれば、写真のなかでは「唯一の私」は存在していなくて、実のところ、そこで「わたし」は誰にでもなれてしまう。いわば写真とは、この「わたし」を複数の「わたしたち」へとかき消してしまう装置なのだ」(p. 32)